エゼキエル書44−48章 「礼拝王国」

アウトライン

1A 君主の礼拝 44−46
   1B 祭司の務め 44
      1C 閉じられた東向きの外門 1−3
      2C 聖所に入れない者たち 4−14
      3C 奉仕の規定 15−31
   2B 主への奉納 45
      1C 奉納地 1−8
      2C 奉納物 9−17
      3C 二大祭り 18−25
   3B ささげ物 46
      1C 君主と民による礼拝 1−15
      2C 奪えない所有地 16−18
      3C 動物のいけにえの調理 19−24
2A イスラエルの相続地 47−48
   1B 広がり 47
      1C 神殿からの水 1−12
      2C 境界線 13−23
   2B 割り当て 48
      1C 十二部族 1−29
      2C 町 − 「主はここにおられる」 30−35

参照サイト
 http://www.sonstoglory.com/ThirdTempleEzekielsMillennialTemple.htm

http://bible.ag/en/enezekieltranscript.htm

本文

 エゼキエル書44章をお開きください、今日でエゼキエル書を読み終えます。44章から48章までです。私たちは前回から、エゼキエルが見た幻の最後のところを読んでいます。イスラエルが回復し、そしてその中心が神殿の再建でありました。前回はその構造の詳細の部分を読みましたが、今回はその神殿の中で行なわれる礼拝、また外の相続地について読みます。

 この箇所を読めば、単にこの幻がエゼキエル書のクライマックスのみならず、主がアブラハム、そしてモーセ、そしてダビデに示された、壮大な神の国の幻を鮮やかに見ることができます。旧約聖書をこれまで初めから学んできた方にとっては、「これこそが、主が約束してくださったことの集大成だ」ということに気づかれると思います。

 そして私はここでの箇所の主題を「礼拝王国」と付けました。二つの鍵となる言葉があります。一つは「君主」です。君主が中心人物になっていますが、彼がいったい誰なのかについてもお話したいと思います。もう一つは「礼拝」です。祭司制度の完全なる復興があり、君主が礼拝をし、祭司が主に対していけにえを捧げます。したがって、そこは「王国」でありかつ「主への礼拝」を第一に考える王国です。ということで、「礼拝王国」です。

1A 君主の礼拝 44−46
1B 祭司の務め 44
1C 閉じられた東向きの外門 1−3
44:1 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。44:2 主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。44:3 ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」

 43章で私たちは、エゼキエルが東向きの外の門に連れて行かれ、そこで主の栄光がそこから入って、至聖所まで行かれたところを読みました。エゼキエルが内庭を見ると、主の栄光が神殿を満たしていた、とあります。今、その後のことが書かれています。再び東向きの外門に戻ると、そこは閉じていました。理由は、主がお入りになられたからです。(今日でも、エルサレムの東にある黄金門と呼ばれている門は閉じていますが、もちろんその門から主が実際に入られるわけではありません。地殻変動によって、位置は変わるでしょう。)

 しかし、ここで「君主」だけが入ることが許されるとあります。後に、安息日と新月の祭りに君主がそこから入り、礼拝を捧げるときに彼が通ります。

 ところで、この「君主」は誰でしょうか?すぐに思いつくのは、もちろん「メシヤ」ご自身です。聖書の中に一貫してイスラエルの王として預言されているのがメシヤであられます。エゼキエル書の前の学びを思い出してください。主がご自分の牧者をお立てになると話された時に、3424節で「主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」とありました。ダビデの子、キリストが君主となるということです。37章にも、「わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。(25節)」とあります。

 けれども、大きな問題が生じます。それは読み進めると、この君主が第一にいけにえを捧げます。自分のための罪のいけにえまでも捧げます。これは罪なきキリストにはあり得ないことです。そして君主には息子たちがいるとあります。血縁関係のある息子です。キリストには、霊的な、信仰による子以外は存在しません。そして主なる神ご自身に礼拝をささげていますので、では至聖所におられる方が誰になるのか、という問題が生じます。

 そこで第二に、そのまま「ダビデ本人」とする見方もあります。今読んだエゼキエル書のダビデが王となる預言を、ダビデが復活してイスラエルを治める王として立てられる、ということです。エレミヤ書にも(30:9)、ホセア書にも(3:5)にも、ダビデが終わりの日に王になることが書かれているので復活したダビデだ、という見方です。

 これはかなり妥当な見方であると私は思います。けれども、それでも問題が生じます。これから読む箇所には「君主」のみならず、複数の「君主たち」も出てくるからです。そして先ほど言いました「息子たち」がいます。ダビデが復活したのならその体は復活の体のはずであり、そうすれば彼は子を生むことはないからです。

 そこで考えられる第三の見方は、「キリストの前に代表として出てくるイスラエルの君主」です。キリストご自身ではないけれども、イスラエルの民に対してキリストを代表して治める君主であると考えられます。

 ここエゼキエル書40章から48章までの流れは、「イスラエルの不義によって、めちゃくちゃになってしまった神の約束、すなわち土地、神殿、礼拝、王国など、これらのものを神が完全に回復してくださる。」というものです。(もちろんそれは、新約聖書の光に照らせば、イエス・キリストにあって実現するものであり、教会はキリストと共にこの神の国を統治します。)従って、さ迷い出てしまったイスラエル人が再び、神に命じられたことをキリストにあってやり直すことに意義があります。

2C 聖所に入れない者たち 4−14
44:4 彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。

 そうですね、主はすでに至聖所に着座されておられますから、栄光が神殿に満ちています。

44:5 すると主は私に仰せられた。「人の子よ。主の宮のすべての定めとそのすべての律法について、わたしがあなたに告げていることをことごとく心に留め、それに目を注ぎ、耳を傾けよ。宮にはいれる者と、聖所にはいれないすべての者を心に留めよ。44:6 あなたは、反逆の家、イスラエルの家にこう言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌みきらうべきわざは、もうたくさんだ。44:7 あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血とをささげたが、あなたがたのすべての忌みきらうべきわざによって、わたしとの契約を破った。44:8 あなたがたは、わたしの聖所での任務も果たさず、かえって、自分たちの代わりにわたしの聖所で任務を果たす者たちを置いた。44:9 神である主はこう仰せられる。心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所にはいってはならない。イスラエル人の中にいる外国人はみなそうだ。

 主が一度、神殿をバビロンによって滅ぼされた理由の一つがこれです。神殿の中で偶像礼拝を行ない、また偶像礼拝者を中に招き入れたことです。このことのゆえに滅ぼしたのだから、再建したこの神殿の中では二度と彼らを中に招き入れてはいけない、という厳しく訴えておられます。

44:10 レビ人でも、イスラエルが迷って自分たちの偶像を慕って、わたしから迷い出たとき、わたしを捨て去ったので、彼らは自分たちの咎を負わなければならない。44:11 彼らは宮の門で番をし、宮で奉仕をして、わたしの聖所で仕えるはずなのだ。彼らは民のために、全焼のいけにえや、ほかのいけにえをほふり、民に仕えて彼らに奉仕しなければならない。44:12 それなのにレビ人たちは、民の偶像の前で民に仕え、イスラエルの家を不義に引き込んだ。それゆえ、わたしは彼らに誓う。・・神である主の御告げ。・・彼らは自分たちの咎を負わなければならない。44:13 彼らは、祭司としてわたしに仕えるために、わたしに近づいてはならない。わたしのあらゆる聖なる物、または最も聖なる物に触れてはならない。彼らは自分たちの恥と自分たちの行なった忌みきらうべきわざの責めとを負わなければならない。44:14 わたしは彼らに、宮のあらゆる奉仕とそこで行なわれるすべての宮の任務を果たさせる。

 レビ人までが、かつて偶像を慕い求めた過ちを犯しました。それゆえ、内庭における奉仕、つまり、祭壇における動物のいけにえを捧げることなど、主に対する直接の奉仕から除外されます。その周囲の宮の奉仕を任されます。

3C 奉仕の規定 15−31
44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。・・神である主の御告げ。・・

 これは遠い昔、預言者サムエルの時代に遡ります。祭司エリの息子ホフニとピネハスは、主へのいけにえをないがしろにし、また、主の天幕で仕える女と寝たりしました。このことのゆえに、「あなたの父の腕を切り落とす(1サムエル2章)」という主の言葉がありました。

 そしてそれからずっと後に、ソロモンが王として即位する時に、ソロモンの兄アドニヤが謀反を起しました。それにダビデの部下ヨアブや祭司エブヤタルは与しました。けれども、ベナヤや祭司ツァドクは与しませんでした。それでソロモンはヨアブを死刑に処しましたが、エブヤタルは罷免するに留めました。その代わりに祭司に任命したのがツァドクです。したがって、アロンの子孫の中でもエブヤタルの家系はそこで途絶え、ツァドクの家系のみが主の祭司として数えられたのです。

44:16 彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。

 聖所の中に、木の机があったことを思い出してください。至聖所の前にありましたね。

44:17 彼らは内庭の門にはいるときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。44:18 頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。汗の出るような物を身に着けてはならない。44:19 彼らが外庭に出て、外庭の民のところに出て行くときは、務めのときに着ていた服を脱ぎ、それを聖所の部屋にしまい、ほかの服を着なければならない。その服によって民を聖なるものとしないためである。

 主に仕える祭司に対する規定です。初めは装束です。亜麻布の服を着ることによって汗を流さないようにする必要があります。つまり、肉の行ないに頼らず清さを保つことです。

44:20 彼らは頭をそってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭は適当に刈らなければならない。

 大事なのは「適当」です。本人に注目が行かないようにしなければなりません。

44:21 祭司はだれも、内庭にはいるときには、ぶどう酒を飲んではならない。

 かつて、アロンの息子がこのことのゆえに、異なる火を主に捧げて、それから主からの火によって焼き尽くされてしまいました。これも自分の思いによる、自分に注目を引き寄せる行為です。

44:22 やもめや、離婚された女を妻にしてはならない。ただ、イスラエルの民のうちの処女をめとらなければならない。しかし、やもめでも、それが祭司のやもめであれば、めとってもよい。

 外にいる人々から非難を受けるようではいけないということです。これは教会の監督者や長老の資格の中でも大事にされていることです。

44:23 彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を教えなければならない。

 教える奉仕です。教会において牧師また教師が行なうことと同じです。

44:24 争いがあるときには、彼らは、わたしの定めに従ってさばきの座に着き、これをさばかなければならない。わたしのすべての例祭には、わたしの律法とおきてとを守り、わたしの安息日を聖別しなければならない。

 人間関係で問題が生じた時、主の御言葉にしたがって判断します。また例祭を守ります。

44:25 彼らは、死人に近づいて身を汚してはならない。ただし、自分の父、母、息子、娘、兄弟、未婚の姉妹のためには汚れてもよい。44:26 その場合、その人は、きよめられて後、さらに七日間待たなければならない。

 「死」は、罪から来る結果です。これに触れることは極力避けます。

44:27 聖所で仕えるために聖所の内庭にはいる日には、彼は罪のためのいけにえをささげなければならない。・・神である主の御告げ。・ 

 祭司は、罪ある人たちの中から選ばれ、自分自身が罪ある者として主の前に出ます。

44:28 これが彼らの相続地となる。わたしが彼らの相続地である。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有地である。44:29 彼らの食物は、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえである。イスラエルのうちのすべての献納物は彼らのものである。44:30 あらゆる種類の初物、あなたがたのあらゆる奉納物のうちの最上の奉納物は、すべて祭司たちのものであり、あなたがたの麦粉の初物も祭司に与えなければならない。あなたの家に祝福が宿るためである。44:31 祭司たちは、死んだものや裂き殺されたものはすべて、鳥であれ獣であれ、食べてはならない。

 覚えていますか、これは昔、祭司らに対して主が約束されたことと同じです。「レビ族」や「アロン氏族」に対する相続地というのは存在しません。けれども、彼らは一生涯、聖所の中で主に仕えることによって、人々が主に供えるものによって自分たちが支えられます。

2B 主への奉納 45
1C 奉納地 1−8
45:1 あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その周囲の全域は聖なる地である。45:2 このうち、縦横五百キュビトの正方形を聖所に当て、その回りを五十キュビトの空地にしなければならない。45:3 先に測った区域から、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトを測れ。そして、その中に聖なる至聖所があるようにせよ。45:4 これは国の聖なる所である。これは、聖所で仕え、主に近づいて仕える祭司たちのものとしなければならない。ここを彼らの家の敷地とし、聖所のために聖別しなければならない。

 聖所を中心として、長方形の祭司たちの土地があります。長さ二万五千キュビトは約13キロメートル、幅一万キュビトは約5.2キロメートルです。中央に、前回40章から43章までで読んだ正方形の外壁に囲まれた神殿の敷地があります。

45:5 また、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、宮で奉仕をするレビ人のものとし、二十の部屋を彼らの所有としなければならない。45:6 聖なる奉納地に沿って、幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトを町の所有とし、これをイスラエルの全家のものとする。45:7 君主の土地は、聖なる奉納地と町の所有地との両側にあり、聖なる奉納地と町の所有地に面し、西側は西のほうへ、東側は東のほうへ延びている。その長さは一つの部族の割り当て地と同じで、この国の西の境界線から東の境界線にまで及んでいる。45:8 これがイスラエルの中の彼の所有地である。わたしの君主たちは、二度とわたしの民をしいたげることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる。

       (図1)



 図1のようになります。「聖なる奉納地」は真ん中の青色の部分です。その上に今読んだレビ人の所有地となります。下の薄緑の部分は
48章に出てきます。これらを合わせると長さも幅も二万五千キュビトの正方形の土地になります。

 そして「君主の土地がこの左右にあります。東と西に広がり、西は地中海沿岸まで伸び、東はヨルダン川にまで伸びます。君主の地はこれだけです。8節に、「二度とわたしの民をしいたげることなく」とありますね。かつてイスラエル十二部族に主が割り当てられた地を王が奪い取ったことがあるからです。例えばアハブ王は、自分の宮殿のそばにあるナボテのぶどう園を貪り取ってしまいました。

2C 奉納物 9−17
45:9 神である主はこう仰せられる。イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。・・神である主の御告げ。・・

 主はレビ人に対する強い戒めを与えられたのと同じように、君主に対しても与えられます。

45:10 正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを使え。45:11 エパとバテとを同一量にせよ。バテはホメルの十分の一、エパもホメルの十分の一とせよ。その量はホメルを単位とせよ。45:12 一シェケルは二十ゲラである。二十シェケルと二十五シェケルと十五シェケルとで一ミナとせよ。

 「公正」というのは君主にとって、最も重要な素質の一つです。

 「エパ」は穀物の計量、「バテ」は液状のものの計量です。どちらも23リットルです。だから「ホメル」は230リットルです。「シェケル」は貴金属の重量ですが11.4グラムで、「ゲラ」は0.57グラムです。そして「ミナ」は570グラムです。

45:13 あなたがたがささげる奉納物は次のとおりである。小麦一ホメルから六分の一エパ、大麦一ホメルから六分の一エパをささげ、45:14 油の単位により、油のバテで、一コルから十分の一バテをささげよ。一コルは一ホメルと同じく十バテである。45:15 また、イスラエルの潤った地の羊の群れから二百頭ごとに一頭の羊を、ささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえのためにささげ、彼らのための贖いとせよ。・・神である主の御告げ。・・45:16 国のすべての民に、この奉納物をイスラエルの君主に納めさせよ。45:17 君主は、祭りの日、新月の祭り、安息日、すなわちイスラエルの家のあらゆる例祭に、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を供える義務がある。彼はイスラエルの家の贖いのため、罪のためのいけにえ、穀物のささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげなければならない。

 君主が代表して主の前に捧げ物をするために、イスラエル十二部族が君主に納めます。

3C 二大祭り 18−25
45:18 神である主はこう仰せられる。第一の月の第一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所をきよめなければならない。45:19 祭司は罪のためのいけにえから、血を取り、それを宮の戸口の柱や、祭壇の台座の四隅や、内庭の門の脇柱に塗らなければならない。45:20 その月の七日にも、あなたは、あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない。45:21 第一の月の十四日に、あなたがたは過越の祭りを守り、その祭りの七日間、種を入れないパンを食べなければならない。45:22 その日に君主は、自分のためと国のすべての民のために、罪のためのいけにえとして雄牛をささげなければならない。45:23 その祭りの七日間、彼は全焼のいけにえとして傷のない七頭の雄牛と七頭の雄羊を、七日間、毎日、主にささげなければならない。また一頭の雄やぎを、罪のためのいけにえとして、毎日ささげなければならない。45:24 穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一頭に一エパをささげなければならない。油は一エパごとに一ヒンとする。

 主は君主をご自分の前に立たせる代表として、過越の祭りを行なわせます。第一の月の十四日が過越の祭りですが、一日目から入念に準備をし、十四日から七日間は種なしパンの祝いです。

 けれども、キリストが既に来られている千年王国で、かつてのイスラエルの例祭を守るのか?という疑問が沸くかもしれません。前回もお話しましたように、キリストにあって、すでにキリストが行なわれた十字架の御業を思い起こしながら、これらのことを行なうのです。これから贖われるために行なうのではなく、贖われたことを記念して行なうのです。

 今でも、ユダヤ人の信者の方々によって行なわれる過越の食事には、喜びに満たされます。まだキリストを知る前は単なる儀式にしか過ぎなかったものが、キリストの受肉と十字架の御業の意味があることを知って、真の意味で喜び楽しむことができるのです。

45:25 第七の月の十五日の祭りにも、七日間、これと同じようにささげなければならない。すなわち、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、それに油を、同じようにささげなければならない。

 これは「仮庵の祭り」です。千年王国で仮庵の祭りも行なわれます。「本当?」と思われるかもしれませんが、預言者ゼカリヤが明確に、このことを預言しています。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(14:16」イスラエルだけではなく、すべての民が参加します。仮庵の祭りは元々、イスラエルの民が荒野の旅の道中、約束の地に至るまで主が守ってくださったことを祝うのですが、神の国に至るまで地上での生活を守ってくださったことを全世界の民が祝うのです!

3B ささげ物 46
1C 君主と民による礼拝 1−15
46:1 神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。46:2 君主は外側の門の玄関の間を通ってはいり、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。46:3 一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない。

 44章の初めに、東向きの外門は閉じたままにしているが、君主が玄関の間を通る時には開けることが書いてありましたね。ここ安息日と新月の祭りの日に、君主がそこを通ります。そして内庭の東向きの門も同じように、基本的に閉じていなければなりませんが、これらの日のみには開けます。君主が行き来し、そしてイスラエルの民も外庭に入ってきて、共に主を礼拝するからです。

 君主が礼拝するといっても、祭壇のある内庭まで入っていくのではありません。そこからは祭司たちが執り行います。かつて中まで入ったウジヤがこの罪のために打たれて、らい病にかかりました。そこで君主は門の敷居の柱のところで礼拝をささげます。

46:4 君主が安息日に主にささげる全焼のいけにえは、傷のない子羊六頭と、傷のない雄羊一頭である。46:5 また、穀物のささげ物は、雄羊一頭について一エパ。子羊のためには、彼が与えることのできるだけの穀物のささげ物。油は一エパごとに一ヒンである。46:6 新月の祭りの日には、傷のない若い雄牛一頭と、傷のない子羊六頭と雄羊一頭である。46:7 穀物のささげ物をするために、雄牛一頭に一エパ。雄羊一頭に一エパ。子羊のためには、手に入れることのできただけでよい。油は一エパごとに一ヒンである。

 必要な全焼のいけにえとそれぞれの動物に添える穀物の捧げ物です。

46:8 君主がはいるときには、門の玄関の間を通ってはいり、そこを通って出て行かなければならない。46:9 しかし、一般の人々が例祭の日に主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。46:10 君主は、彼らがはいるとき、いっしょにはいり、彼らが出るとき、いっしょに出なければならない。

 君主は東向きの門から出て帰りますが、一般の民は入ってきた門とは反対の方角の門から出ます。混雑と混乱を避けるためでしょう。整然と行ないます。

46:11 祭りと例祭には、穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一頭に一エパ。子羊のためには与えることのできるだけのもの。油は一エパごとに一ヒンである。46:12 また、君主が、全焼のいけにえを、進んでささげるささげ物として、あるいは和解のいけにえを、進んでささげるささげ物として主にささげるときには、彼のために東向きの門をあけなければならない。彼は安息日にささげると同じように、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。彼が出て行くなら、彼が出て行って後、その門は閉じられる。

 決められた安息日のいけにえ以外にも、進んでささげる物がある時は東向きの門は開けられるようです。

46:13 あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一頭を全焼のいけにえとして、主にささげなければならない。これを毎朝ささげなければならない。46:14 それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンをささげなければならない。これが主への穀物のささげ物であり、永遠に続く定めである。46:15 こうして、子羊や穀物のささげ物や油を、常供の全焼のいけにえとして、毎朝ささげなければならない。

 これは祭司が行なうものです。13節「あなたは」つまり、祭司エゼキエルに対する命令です。常供つまり、日ごとのいけにえです。

 祭り、安息日、新月、そして毎日と、いつも主に対して礼拝を捧げています。礼拝中心の日常生活であり、一年通しても礼拝が中心に動いています。

2C 奪えない所有地 16−18
46:16 神である主はこう仰せられる。もし、君主が、贈り物として自分の相続地を自分の息子たちに与えるなら、それは息子たちのものとなり、それは相続地として彼らの所有地となる。46:17 しかし、もし、彼が自分の相続地の一部を贈り物として奴隷のひとりに与えるなら、それは解放の年まで彼のものであるが、その後、それは君主に返される。ただ息子たちだけが、相続地を自分のものとすることができる。46:18 君主は、民の相続地を奪って彼らをその所有地から押しのけてはならない。彼は自分の所有地から自分の息子たちに相続地を与えなければならない。それは、わたしの民がひとりでも、その所有地から散らされないためである。」

 この地は主ご自身のものであって、それを主がイスラエル人に与えられました。君主が自分の権力を乱用し、息子への相続地を他のイスラエルの民から奪い取ることのないよう強く戒めておられます。

 ところで、疑問に思われた方がいるかもしれません。「なぜ君主に息子がいるのだろうか、ならば彼は復活の体を持っていないのではないか。」ということです。そうですイエス様は、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:30」と言われました。だからこの君主は生身の肉体を持っており、復活していません。

 主が地上に再臨されて、それからお立てになる神の国は、その前の大患難を通り過ぎて生き残った人々が住んでいる所です。その人たちが子を生み、そして増え広がります。この人たちを統治されるのがキリストであり、そしてキリストと共に教会と患難時代に殉教した聖徒たちであります。彼らは復活の体を持っています。けれども、支配を受ける人たちはまだ復活していません。

 このイスラエルの君主も、また大患難の時に生き残って、御霊による主の救いを受けたイスラエル人も千年期においてはまだ生身の肉体を持っています。けれども、環境が良いので非常に長い期間生きることができます。

 そして千年期が終わる時、底知れぬ所で鎖につながれていた悪魔が解き放たれ、その戦いに乗ずることなく主に従い通した者たちは、次の新天新地に入るどこかの時点で、新しい体を与えられるはずです。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、(1コリント15:53」とあるとおりです。聖書には書いていませんが、それは私たちが生きている時代から遠く離れているためでしょう。

3C 動物のいけにえの調理 19−24
46:19 それから、彼は私を、門のわきにある出入口から、北向きになっている祭司たちの聖所の部屋に連れて行った。すると、西のほうの隅に一つの場所があった。46:20 彼は私に言った。「ここは祭司たちが、罪過のためのいけにえや、罪のためのいけにえを煮たり、穀物のささげ物を焼いたりする場所である。これらの物を外庭に持ち出して民を聖なるものとしないためである。」  (図2)
 覚えていますか、聖所である本堂の周囲に、三階建ての祭司たちのいる部屋が建てられていました。さらに、至聖所の裏、西側の建物もありました。その端にある空間に、祭司たちがいけにえを煮たり、焼いたりする所があります。ここで主にある食事を取るのです。

 理由は「外庭に持ち出して、民を聖なるものとしないため」です。主との交わりが、他のものと交じりあってはいけない聖なるものだ、ということです。私たちと主との交わりが、外にあるものとくっ付いてはいけない、ということです。「主と交われば、一つ霊となるのです。(1コリント6:17」「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(1ヨハネ1:5」「光と暗やみとに、どんな交わりがあるのでしょう。(2コリント6:15

46:21 彼は私を外庭に連れ出し、庭の四隅を通らせた。すると庭の隅には、それぞれまた、ほかの庭があった。46:22 庭の四隅に仕切られた庭があり、それは長さ四十キュビト、幅三十キュビトであって、四つともみな同じ寸法であった。46:23 その四つとも、回りは石の壁で囲まれ、石の壁の下のほうには料理場が作られていた。46:24 彼は私に言った。「これは、宮で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る料理場である。」

 外庭に出ました。そして正方形の外壁がありましたね。その周りに部屋が三十ありますが、四隅には料理場があります。これはツァドクの子孫ではないレビ人が、人々がいけにえを食べるために料理するところです。

 このように祭司にしても、民にしても、主との交わりをするために共に食事をします。イエス様は教会に対しても同じ約束を与えられました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:20

2A イスラエルの相続地 47−48
 そして47章、48章で幻は神殿の敷地から、一気にイスラエル相続地全体に広がります。

1B 広がり 47
1C 神殿からの水 1−12
47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。

 何と神殿そのものから水が出ています。「神殿の入口」つまり、本堂の玄関の敷居のところです。私たちが今、本堂の玄関を向かいにして立っているとすると、その左側から水が出ています。それが祭壇の横を走り、さらに東向きの外門の脇からも出ています。

47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。

 なんと、この川を下流に進めば進むほど水かさが増しています。御使いは興味深いことに、エゼキエル自身に水の中に入らせて、その深さを体験させています。ところで一千キュビトは500メートル強です。

47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。

 興味深いですね、この情景は黙示録22章にある、新しいエルサレムの命の川と似ています。

47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。

 この「海」は死海のことです。「死海」は、その名のごとく生物の存在しない海です。ヨルダン川から水は入り込みますが、出て行く下流の川はありません。蒸発するだけです。けれども水に含まれる鉱物(ミネラル)は蒸発しませんから、塩を始めとするミネラルの濃度が増すのみです。そのため死海には、ちょうど私たちが温泉に浸かりに行くように世界各地から美容や療養のため来る人でいっぱいです。その「死んだ」海が、神殿からの水によって生き返ります。魚がいっぱい取れる海になります。
 (図3) そしてゼカリヤ書14章には、この川について次のような預言があります。「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。(8節)」東だけでなく、西へも流れます。エルサレムから流れるので、ツァドクの祭司たちの土地にある神殿からまず、48章に出てくる新しいエルサレムの町に流れます。それから二手に分かれて、東は死海に西は地中海に流れます(図3)。

47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 すばらしいですね、これは新しいエルサレムの命の川もそうですし、また創世記のエデンの園とも少し似ています。実が結ばれ、そこから食べることができ、また葉は人々を癒します。今、「セラピー」という言葉が流行っていますが、完全なセラピーは神の国に入って受けることができます!

 イエス様が、仮庵の祭りの終わりの日に立ち上がってこう叫ばれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:3738」そしてヨハネは、これは後に与えられる御霊のことをイエスが言われていた、と注釈を加えています。私たちは今、聖霊の宮である体の中で、御霊の満たしと、その溢れ流れる様を経験することができます。しばし、「聖霊のバプテスマ」と呼ばれます。

 けれども、千年王国においてはこれが目に見える形で、物理的にも実現します。私たちが今与えられている霊的祝福は、実は将来来るもののごくごく一部でしかありません。だから体の癒しも、癒される時もあれば、癒されない時もあります。でも癒される時もあり、それは御霊の賜物です。けれども、千年王国では完全に、100パーセントの癒しを受けます!

2C 境界線 13−23
47:13 神である主はこう仰せられる。あなたがたがイスラエルの十二の部族にこの国を相続地として与える地域は次のとおりである。ヨセフには二つの分を与える。47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、47:16 ハマテ、ベロダ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
(図4)                                                                                                                              私たちは今、主がかつてアブラハムに与えられた土地の約束、「エジプトの川から、あの大川ユーフラテス川まで。(創世記15:18」の実現の幻を見ています。今読んだところは北の国境です。図4をご覧ください。

47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。

 東の境はヨルダン川となっています。しばしば聖書預言についての本には、「ユーフラテス川まで」というアブラハムへの神の約束から、今のイラクの中心部を流れる、ユーフラテス川の下流流域までのユーフラテス川全域を東の境として描いているものがあります。けれども、ユーフラテス川上流の地域は今の北の国境付近と接しています。

 モーセがイスラエルの民を率いて来た時は、ルベン、ガド、マナセの半部族がヨルダン側の東に土地を得たいと言いましたが、主は最後に元々考えておられたとおり、ヨルダン川の西に割り当てを与えられます。

47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。・・神である主の御告げ。・・

 共に住んでいく在留異国人にもイスラエル人の中で割り当てが与えられます。

2B 割り当て 48
1C 十二部族 1−29
48:1 部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、ハマテを経て北のほうへダマスコの境界のハツァル・エナンまで・・東側から西側まで・・これがダンの分である。48:2 ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。48:3 アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。48:4 ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。48:5 マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。48:6 エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。48:7 ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。

 先の図4を見てください、北から南へ平行に部族ごとの割り当てが与えられます。

48:8 ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたのささげる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは東側から西側にかけて部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある。48:9 あなたがたが主にささげる奉納地は、長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。

 図1、また図3にある聖なる奉納地の説明です。ユダ族のすぐ南、イスラエル十二部族のちょうど中心部分にあります。「聖所はその中心にある」と強調されていますね。

48:10 祭司たちへの聖なる奉納地は次のとおりである。北側は二万五千キュビト、西側は一万キュビトの幅、東側は一万キュビトの幅、南側は二万五千キュビトの長さである。主の聖所はその中央にある。48:11 この区域はツァドクの子孫の聖別された祭司たちのものである。彼らは、イスラエル人が迷い出たときいっしょに迷い出たレビ人とは異なり、わたしへの任務を果たしている。48:12 彼らの地域はレビの部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。48:13 レビの部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。48:14 彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を手放してはならない。主への聖なるものだからである。

 北の部分がレビ族、そして真ん中に祭司たちの地域があります。ここでも、「売ったり取り替えたりしてはならない」と土地に対する戒めがあります。

48:15 幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトの残りの地所は、町の一般用であり、住まいと放牧地のためである。町はその中央に建てられなければならない。48:16 その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。48:17 また、町の放牧地は、北へ二百五十キュビト、南へ二百五十キュビト、東へ二百五十キュビト、西へ二百五十キュビトである。

 祭司たちの地域の南に接して、町と放牧用の地があります。町自体は、一辺四千五百キュビト(だいたい2.4キロ)の正方形です。その周りに小さな放牧地があります。

48:18 聖なる奉納地に接する残りの地所の長さは、東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。それは聖なる奉納地に接している。そこから収穫した物は町の働き人の食物となる。48:19 その町の働き人は、イスラエルの全部族から出て、これを耕す。

 図1を続けてご覧下さい、町の両側にある土地がこの地所です。エルサレムの町の住民は、イスラエル全十二部族から来た人々であり、そこ人々の食糧のためにその両側にある地所が使われます。

 つまり、全ての人々が関わっています。誰かが傍観者でいられるのではありません。今のキリストのからだと同じです。

48:20 奉納地の全体は二万五千キュビト四方であり、あなたがたは、聖なる奉納地と町の所有地とをささげることになる。

 図1にあるように、全体を見ると正方形になっています。

48:21 聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西のほうも、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。これは部族の割り当て地にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と宮の聖所とは、その中央にある。48:22 君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。

 君主の土地です。既に説明しましたように、この正方形の地の両側にあります。西は地中海まで、東はヨルダン側のほうまであります。したがって君主も、自分の統治と生活がこの聖なる奉納地とエルサレムの町を中心としており、主への礼拝が中心となっているのです。

48:23 なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。48:24 ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。48:25 シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。48:26 イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。48:27 ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。48:28 ガドの地域に接して南側、その南の境界線はタマルからメリバテ・カデシュの水、さらに川に沿って大海に至る。48:29 以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、くじで相続地として分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である。・・神である主の御告げ。・・

 残りの南の部分に割り当てられる部族です。

2C 町 − 「主はここにおられる」 30−35
 そして最後、エルサレムの町そのものについての説明です。 

48:30 町の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、48:31 町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門はルベンの門、ユダの門、レビの門である。48:32 東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。48:33 南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。48:34 西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門、アシェルの門、ナフタリの門である。

 すばらしいですね、それぞれの方角に三つの門があり、それぞれ部族の名が付けられています。かつてイスラエルが荒野で旅で宿営した時も、神の幕屋を取り囲んで東西南北、それぞれ三部族ごとに宿営し、それぞれが旗を持っていました。そして、新しいエルサレムにおいても、その都城の門にはイスラエル十二部族の名が記されています。

48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」

 最後の最後に、このエゼキエル書のテーマとも呼ぶべき言葉、「主はここにおられる」とあります。「ヤハウェ・シャマ」です。すべての中心が聖所であり、主がダビデを立てたように君主を立て、その君主も主を中心としています。イスラエルの生活はこの礼拝が中心であり、みなが自分の真ん中に主がおられることを意識しています。

 同じ幻が、詩篇第48篇にも啓示されています。「主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。(詩篇48:1-3」イスラエルだけでなく、世界の王たちも人々もこの都を見て、驚くのです(4節)。

 主を拝することが、人間が造られた第一の目的です。そして個人的に拝するだけでなく、人々がみな一緒になって拝することが、私たちが造られた目的です。いかがでしょうか、私たちはまだ約束の神の国の中に入ってはいませんが、今の生活で主を礼拝しておられるでしょうか。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25」今、これができないのなら、「かの日」つまり、このエゼキエルの幻の神の国も楽しむことはできません。

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