創世記1−4章 「拒否される神の祝福」

 


アウトライン

 

1A 創造における祝福と呪い 1−4
   1B 祝福 1−2
      1C 被造物 1
      2C 人間 2

         1D 人の創造
         2D エデンの園の設置
         3D 結婚の制定
   2B 呪い 3−4

      1C 土地 3
         1D 蛇の誘惑
         2D 人の堕落
         3D 神の宣言
            1E 蛇
            2E 女
            E 人
        4D 神の贖い
     2C 人間 4
        1D カインの殺人
        2D カインヘの、のろい
        3D  カインの子孫
        4D セツの誕生


本文

 

 それでは、今日は、創世記の1章から学んでいきたいと思います。聖書のほかの部分と同じように、創世記も一つの書物ですが、そこには主題があって、話の流れがあります。創世記の主題となっている部分は、12章の1節から3節に書かれています。それでは開いてみましょう。

 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」の言葉が繰り返されていることに気づくと思います。神がアブラムという人に祝福の約束を与えられているのです。

 

 その前の1章から11章までは、祝福の約束が与えられるまでのいきさつが書かれていています。ここでのテーマを一言で言うと、「拒否される神の祝福」となるでしょう。神が人間を豊かに祝福されたいと願われているのですが、人間が神に背いて生きるために、のろいを刈り取っていることが書がれています。神は、主に三つのことで人間を祝福されようとしました。1つめは、天と地を創造することによって、人間を祝福されようとしました。けれとも、最初の人アダムが神に背き、アダムの子のカインがその弟、アベルを殺してしまいました。そのため、土地と人間にのろいがもたらされたのです。そこで神は、2つめに、アダムから新しい子孫を造ることによって、人間を祝福されようとしました。けれども、人口が急激に増えた結果、人間は暴虐に満ちてしまいました。そこで神は、ノアという人とその家族を除いて、他の人間をすべて洪水によって消し去らなければいけなくなりました。そして、3つ目に、神は、ノアの3人の息子から民族を起こすことによって、人間を祝福されようとしました。ところが、人間はバベルという町に高い塔を建てることによって、神に背きました。それで、神は、彼らの話す言葉をばらばらにしなければなりませんでした。

 

 このように、天地創造と子孫と民族の3つの事柄によって、人間を祝福されようとしたのですが、人間は神に背き、この祝福の計画は実行されなかったのです。そこで神は、ひとりの人アブラハムを選ばれて、決してゆるぐことのない祝福の約束を、与えられたのです。

 

1A 創造における祝福と呪い 1−4

それで、1章から4章までには、天地創造における神の祝福と、人間の反抗にともなうのろいが書かれています。

 

1B 祝福 1−2

1C 被造物 1

 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 

 神は、初めに天地を創造されたとき、地には形がなく、まだ暗やみの中にありました。そこで神は光よあれ、と言われたら、光ができたのです。それを基にして神は一日を定められました。ちょうど、何の形もない粘土から、一つの形ある器を造る陶器師のように、神は何も形のない粘土から、一つの形あるものを造ろうとされています。そこでここに、「神はその光をよしと見られた。」とあることに注目してください。神は、その芸術作品が少しできあがったのを喜んでおられます。「よしと見られた」という言葉がこれから繰り返されるので、注意して読んでいきましょう。

 

 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。

 

 神は次に、大空を造られました。ここに書かれている空の様子が、少し現在私たちの見る空と異なっているのに気づくでしようか。水と水の間の空間が出来たのですが、空の下に水があるだけではなに、空の上にも水があります。もしかしたら、地球のオゾン層のように、地球のまわりに水の層があったのかもしれません。現在はその層が存在しませんが、ノアの時代にその水が地上に降り落ちてしまったからです。こうして、ただ光があるところから、空が造り出されました。少しずつ形ができていますね。

 

 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第三日。

 

 神は、水しかなかったところを海と陸とに分け、陸の部分に植物を生えさせました。ここに、「種を生じる草」とか、「種のある実」となっていることに注目してください。神は、植物に自己繁麺する能力を備えられたのです。また、「おのおのその種類にしたがって」という言葉にも注目してください。これと全く反対のことが、学校の教科書の中や新聞の中に出てきます。進化論ですね。これは、「ひとつの種から、また別の種に進化する」と教えます。植物がなぜか魚になって、魚がいつのまにか陸に這い上がって、それがわにのような爬虫類となり、それが巡り巡って猿になって、猿が進化して人間になった、と教えます。こんなのは、科学でも理論でも何でもありません。聖書の言葉を否定するために、でっちあげられた作り話です。人間が動物になったり、動物が人間になったりする東洋思想を借りて、それを西洋式に体系化したものしか過ぎません。しかし、真理は、それぞれの種頻にしたがって植物や動物が造られたのです。ここにも、「神は見て、よしとされた。」とあります。

 

 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第四日。

 

 神は、太陽と月と星とを造られました。それが、「光る物」と表現されています。神は光そのものを第一日日に創造されましたが、その光が集められて保持しておく物を、造られたのです。また、「神は見て、それをよしとされた。」と出てきますね。神はご自分の創造を、ますます喜ばれています。

 

 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」こうして、夕があり、朝があった。第五日。

 

 神は、第五日目に、魚と鳥を造られました。神はそれを見て、よしとされましたが、その喜びは祝福へと発展しています。神はこれを祝福して、「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。」と言われました。

 

 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

 

 神は、陸上の動物を造られました。そして、神の芸術作品は、最終段階に入ってきます。

 

 

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

 神は最後に、人間を創造されました。人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。神のかたちとは、肉体的なかたちではありません。なぜなら、聖書には、「神は霊(ヨハネ4:24)」であると書かれているからです。神のかたちとは、神の性質や特徴のことを言っています。先ほと読みましたように、植物は種を持っているので、自然にどんとど繁殖していきます。けれども、動物は交尾をして繁殖し、生存するために食べていかなければなりません。そのため、本能が与えられました。そこで神は、「生めよ、ふえよ、地に満たせ」と命じられているのです。けれども、人間は、本能だけでなく、意思決定できる能力が与られています。神は、人間に、動物を支配せよ、と言われました。支配するには、自分で考えて、自分で決断して、自分でまとめあげていかなければいけません。神がご自分の意思で創造の働きをされたように、人間にも自由意志が与えられているのです。ですから、神のかたちとは、自分で決断できる神の性質のことです。

 

 神は人間を創造された後、人間と動物が生存していく方法を造り出されています。ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

 

 神が人間と動物を造られたときは、どちら草食でした。人間は動物を食べていませんでした。それでは、なぜ動物が創造されたのでしょうか。そめ理由は、後で3章に出てきますので、その時、説明します。

 

 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 

 第一日から第五日まで、神はそれぞれ造られた物を見て、よしとされました。そしてここでは、「見よ。それは非常によかった。」とあります。神の喜びが、頂点に達しました。神は、この上ない喜びに満ちあふれています。

 

 これで神の天地創造の働きは完成しました。次を見ましょう。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである

 

 神は、この完成を祝して、第七日目を聖なるものとされました。「聖なるもの」とは、他のものから分けられて、神のものになるという意味です。例えば、聖書は聖なる書物ですば、それは、他の書物とは区別された、神の書物ということです。したがって、「この日を聖であるとされた。」というのは、他の日と区別された神の日になったということです。後に、神はそれを安息日として制定されます。そして、神が「休まれた」とありますガ、これは疲れて休んだことではありません。完成したので、創造の活動を停止されたのです。先ほどの陶器のたとえを用いますと、陶器師が練り上げて、それをかまどに入れて焼き、最後に表面を塗ります。それが乾いて陶器が完成したとします。陶器師は、その陶器に何の手も加えることはありません。なぜなら、陶器が完成したからです。同じように、完成されて、完全に神を喜ばすようなものができあがったのですから、神は創造の働きを止められたのです。こうして、神は、天地の創造が完成した後、その日を祝福されました。

2C 人間 2

 ここまでが、天地創造全般の話です。先ほど、人間の創造のところで、27節ですが、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とありました。次からは、人の創造と、男と女の創造に焦点を合わせた話になっています。ここでも、私たちは、神の祝福を見ることができます。

 

1D 人の創造

 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。

 
 1章から2章の3節まで、天と地を創造したのは、神でありましたが、ここでは、その方が「主」として招介されています。新改訳聖書には、それが太字になっています。これは神の名前であり、エホバとかヤハウェとか発音されます。ただ本当はどのように発音されたのは、知られていません。ともかく、この「主」には、人間と関係を持つことが示されています。つまり、天地を創造された神は、人間と個人的な関係を持つ方であることガ、ここで紹介されているのです。私たちに親子関係があるように、夫婦関がガあるように、また、友達関係があるように、天地を造られた神は、人間と個人的な関係を持っておられます。

 

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

 

 ここに、神が人を創造された手順が記されています。まず人間の肉体を土から造られました。土にある17の主成分はみな、人間の肉体の17の主成分と同じと言われています。次に、神は人間の鼻にご自分の息を吹き込まれました。この息が、ヘブル語では、「霊」と訳されています。つまり、神は霊であるから、人間も霊を与えられたのです。ですから、人間には、動物と違って、神に対する思いが与えられています。伝道者の書3章11節には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とあります。自分はどこから来たのか、自分が生きているのはなぜか、自分が死んでからどうなるのか、そうした思いが私たちに与えられています。それは、人間が霊的な存在だからです。

 

2D エデンの園の設置

 神は人を創造されただけでなく、人が生きるのに最適な場所も造られました。

 

 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

 

 神は、人間が食べるために必要な食物を生えさせられました。人は汗を流し、苦労して働かずして、食物を得ることができたのです。

 

 さらに、その木々が実を結びつけ続けるように、エデンに川が流れていました。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

 

 エデンの園が川によって潤されていたように、キリストが再び来られる後に立てられる神の国にも、川が流れています。預言者エゼキエルによると、その水の中にいる魚は生き生きとし、そのほとりに生えている果樹は、新しい実を結び続けます(47章参照)。したがって、ここに書かれているエデンの園は、人間が生きるために最適な場所であり、神は終わりの時に、今の地球をそれに似た状態に回復してくださるのです。

 

 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

 これは、人に対する初めての神の命令です。先ほど、私たちは、神と同じように自由意志が与えられていることを学びました。自分で選んで生きていくように造られたのです。そこで彼には、選択が与えられました。善悪め知識の木から実を食べるか、それとも食べないかの選択です。彼には、神の命令に従って、それを食べないことを選ぶことができました。神に背いてそれを食べることもできました。神は、むやみやたらに命令される方ではありません。「それを食べると、その時点で必ず死ぬ。」という注意を与えられましたが、それを食べた結果どうなるかをご存じだったので、人を死から守るために、「取って食べてはならない。」と命じられたのです。神は、私たちの最善となるために働かれる方です。でも、その命令さえも強制ではなく、人間には選択が与えられています。

 

3D 結婚の制定

 次に、神は結婚を造られることによって、人を祝福されました。

 

 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 

 神は、天と地を創造されていたとき、「それは良かった」という評価をされました。けれども、ここで「良くない」と言われています。それは、人がひとりでいるからでした。先ほど言及しなかったのですが、126節で、神が、ご自分を「われわれ」と呼ばれていることに注目してください。申明記6章4節には、「主は私たちの神。主はただひとりである。」と書かれています。それなのに、ここでは「われわれ」となっているのです。この問題は、「主はただひとりである。」の「ひとり」という言葉の意味を調べることによって解明します。複合単数と呼ばれるものです。同じひとつでも、いくつかのものによって、ひとつとなっているものがあります。例えば、手をご覧ください。ひとつの手ですが5本の指よってひとつの手になっています。これが複合単数と呼ぼれるものです。したがって、主はただひとりしかおられないのです分、複数の人格をもっておられます。それを多くの人は、「三位一体の神」と呼んでいます。父である神と、その子である神と、聖霊の神の3つの位格があるのですが、その三つでひとりの神になっているのです。ですから、神はご自分のことを「われわれ」と呼ばれたのです。

 そこで、人がひとりでいることは良くない、と神が言われた理由がわかります。人は神のかたちに造られたのですから、この人と一体となる相手が必要だったのです。それで神は、彼にふさわしい助け手を造ることに、決められました。それは、ちょうど埋められていないパズルの一片を埋めてくれるような相手です。

 

 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

 

 人は、神から託された仕事に従事していました神がご自分の造られたものに名前をつけられたのを、先ほど1章で読みましたが、この創造的な働きを人に任せられたのです。しかし、その働きの助け手が見つかりませんでした。

 

 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(イシャー)と名づけよう。これは男(イシュ)から取られたのだから。」

 
 神は、人を土から造られましたが、女は男の一部分を造られました。それは、あばら骨からだとありますが、大切なのは彼のわきから取られたことです。頭からでもなく、足からでもなく、わきから取られたたです。つまり、自分のそばにいる存在が女であり、ふたりは対等な立場にいました。女は男を助ける役割を果しますが、あくまでも男と対等なのです。

 

 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 
 これが、一番最初の結婚カップルです。ここに、結婚するときの段階が書かれていますが、第一段階は、「父母を離れる」ことです。これは、日本人の家庭では大きなステップになるでしよう。なぜなら、親と子との関係がとても強いので、なかなか結婚のときに親離れができません。しかし、親は、子どもが神から一時的に預かったプレゼントであることを認識して、いつかは離れていくことを考えなければいけません。第二段階は、「妻と結び合」うことです。妻が、あるいは、夫が、最愛の親友にならなければなりません。自分の結婚相手よりも仲のよい友達がいれば、たとえ同性であっても、夫婦のきずなを壊してしまいます。そして、第三段階は、「ふたりは一体となるのである」ことです。霊的に、精神的に、そして肉体的にふたりは一体となります。ふたりの間の子どもが生まれることによって、このことばが実現します。そして、「ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」と書かれています。それは、善も悪も知らない無垢な状態にいたからです。

 

2B 呪い 3−4

 このように、神が天地創造において、人間を豊かに祝福されたことを、理解されたと思います。人間は神のかたちに造られて、自由意志が与えられていました。神の与えられていた命令に従う選択もできたし、その命令に背く選択もできました。そして、人間は神の命令に背くことを選びました。そのために、人はのろいを刈り取ってしまったのです。1章と2章では、神の祝福が書かれていましたが、3章と4章には、人間の背きにともなうのういが描かれています。

 

1C 土地 3

1D 蛇の誘惑

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

人が神の命令に背くように誘惑したのが、この蛇です。「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」と書かれていますが、現在の蛇を見ると、一番かしこい動物だとは言えません。2章14節で蛇がのろわれているので、私たちの見る蛇は、のろわれた結果の姿であることがわかります。ですから、当初、蛇は違う姿をしていました。事実、原語のヘブル語では、この「蛇」という言葉が「輝くもの」という意味を持っています。見た目に、非常に魅力的な動物だったのでしよう。

 

 そして黙示録12章9節を見ますと、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」と書かれています。悪魔がこの蛇の姿をとって、女に現われていたのです。使徒パウロは、「サタンでさえ光の御使いに変装するのです。」と言っていますから、悪魔は、私たちが想像する、真っ黒でやりを持っているような存在ではないのです。悪魔は、とても魅力的なものに働いて私たちを惑わします。この場合は、「輝くもの」という意味のあった、野の獣のうちでもっとも賢い蛇の姿をとって現われました。そして、彼は、「神は、ほんとうに言われたのですか」と女に言いました。つまり、神のことばに疑いをかけています。これが、悪魔が用いる最初の手口です。人間が神のことばに背くように、そのことばに挑みかかります。

 

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 

 女は、ここで、2つの失敗をしています。1つめは、悪魔と話を交わしていることです。悪魔は惑わす者であるから、話を交わしてはいけません。ヤコブの手紙には、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7)」とあります。けれども、女は彼と話をしはじめました。2つめの失敗は、神のことばを少し変えていることです。「それに触れてもいけない。」と神が仰せられた、と言っていますが、2章17節を読むと、そんなことは書いてありません。

 

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」

 

 蛇は、大嘘をつきました。神は、「必す死ぬ。」と言われました。イエスは悪魔のことを、「彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44」と呼ばれています。

 

 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

 

 悪魔はここで、神の性質を損なわせています。神は人間をこの上なく愛する方であるのに、人に意地悪をしているかのように話しています。神は、あなたがご自分のようになるのが恐くて、あなたにそれを食べさせないようにしている、とほのめかしているのです。

 

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

 ヨハネは、第一の手紙において、世にある欲が3つあることを教えています。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16」と言いました。「まことに食べるのに良く」とありますが、これは肉の欲です。肉体の欲望の一つである、食欲に訴えています。そして、「目に慕わしく」は目の欲です。魅力的に見えるものに、悪魔がよく働きます。そして、「賢くする」は、暮らし向きの自慢です。人々に自慢できるものとして、頭の良いことがありますね。女は、こうした欲に引き寄せられましたが、それでも木の実を食べないことを選ぶことはできました。


 けれども、それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

 とあります。男も、妻の言うことを聞いて、神の命令に背きました。このように、神に背を向けることを、聖書では「罪を犯す」と呼んでいます。

 

2D 人の堕落

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 

 神は先に、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。彼らは、肉体的には死んでいません。けれとも、この時点で霊的に死にました。神は人に鼻から息を吹き込まれて、人は生きる霊となりましたが、この霊が死んでしまったのです。そして、その結果、彼らの中に恥が入り込みました。それを隠すために、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせていますが、これが宗教の始まりです。人間の罪から来る恥を、自分の行ないによっておおい隠そうととする試みです。お経を何方回も唱えたり、家々を巡って壷を売リ歩き回ったり、浄霊をすすめるなど、自分たちの行ないによって、自分の恥をおおいかくそうとしています。

 

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 

 彼らの努力によって、恥を取り除<ことはできなかったようです。このように、宗教は人を満足させることはありません。そして、彼らは主を避けて歩くようになりました。これが罪の結果であり、罪は人を神から引き離します。

 

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 

 これは、父なる神の悲痛な叫びです。神は人を造って、「見よ、これは非常によかった。」と言われて、こよなく人を愛されていました。それなのに、人は神から遠ざかるようになったからです。

 

 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 

 男は、禁じられた実を食べた責任を、神と女のせいにしています。「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。いいえ、人は女の誘いを断る選択もあったのです。聖書には、人間が罪を告白すると、その罪は赦されて、すべての不義から私たちをきよめてくださる(1ヨハネ1:9)と書かれています。罪を告白することは、責任を他人や状況のせいにするのではなく、まさに自分に責任があることを認めることです。けれども、女も責任転嫁をしています。「蛇が私を惑わしたのです。」と言っています。

 

D 神の宣言

 神である主は蛇に仰せられた。

 

神は、罪によってもたらされる、のろいについて話されます。神が人をのろわれるのでなく、罪による当然の成り行きを告げられるのです。神が恐しいのではなく、罪が恐ろしいのです。

 

1E 蛇

 おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 

14節の部分は、蛇そのものに対するのろいであり、15節の部分は、蛇の中で働いていた悪魔に対するのろいです。ここに書いている「女の子孫」とは、メシヤあるいはキリストのことです。聖書の系図は、例外を除いて、男しか載っていません。しかし、ここで「女の子孫」となっているのは、キリストが処女からお生まれになることを示しています。事実、イエスは処女マリヤから、ご聖霊によってお生まれになり、この預言が成就されたのです。このキリストは、悪魔の子孫の頭を踏み砕きます。悪魔の子孫とは、終わりの時に登場する反キリストのことです。この人物をキリストが滅ぼされることによって、この地に神の国が立てられます。

 

神の国は、先ほどと話しましたように、エデンの園のような、人間が住むのに最適な場所です。したがって、神は、人が罪を犯したその直後に、ご自分のもとに人間を引き戻す計画を立てられました。それを聖書では、「贖い」と呼んでいます。それは、のるいの中にいる人間を救い出して、再び祝福する神の働きです。

 

2E 女

 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

 

女にもたらされるのろいです。神は、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われて、人を祝福されましたが、その子孫を産み出す器は女性ですね。その祝福されるべき出産において、苦しみを経験します。そして、女は、男のわきか造られました。ですから、女は結婚関係に自分の存在意義を見出します。しかし、女が罪を犯したために、対等であるはすの関係が、男が女を支配する関係になってしまいました。

 

E 人

また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 

アダムは、動物などの被造物を支配する、あるいは管理する仕事をするために造られていました。そして、神の土地を耕す仕事を任されていました。ですから、男は仕事に自分の存在意義を見出します。しかし、アダムも罪を犯したために、喜ばしいはすの仕事が苦しみの種になりました。

 

土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

 

いばらが、土地がのろわれたことを表しています。先ほどの、水の潤いのあるエデンの園とは対照的です。先ほど神が仰せられた「女の子孫」つまりキリストは、人間の罪ののろいをご自分の身に引き受けて死なれることが、他の聖書個所で預言されています。事実、イエスは、十字架の死刑台につけられるときに、いばらの冠をかぶられていたのです。

 

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

 

これは、人間の肉体の死を示しています。私たちのたましいが肉体を離れるそのときに、肉体は分解しはじめて、ちりに戻ります。人間はもともと死ぬようには、定められていなかったのですが、すべての人が死ぬのはアダムが罪を犯した結果なのです。しかし、この罪と死の原則を打ち破られ方がおられました。それは、神の御子イエス・キリストです。十字架につけられて墓に葬られましたが、3日目によみがえりました。イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25」したがって、イエス・キリストを信じる者は、アダムによってもたらされたのろいから解放されて、永遠に神の国に生きる祝福が約束されています。

 

4D 神の贖い

 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

 

さあ、出てきました。神ご自身が、アダムとエバの罪をおおわれています。先ほどは、アダムとエバが自分で罪を覆おうとしましたが、彼らはそれでも恥ずかしくて神から遠ざかりました。それが宗教の正体です。しかし、神の側から救いの手を差し伸ベられて、彼らの罪をかくされています。そして、ふたりが植物を用いたのに対して、神が皮の衣を用いられていることに気づいてください。神は植物を種のあるものとして造られましたが、植物は自然にとんどん生えてきます。それを使っているなら、何の犠牲も伴っていません。しかし、皮の衣は動物のいのちという犠牲がともないました。動物が造られた目的の一つに、人間の代わりに殺されることがあったのです。こうして、罪ある人間が聖なる神に近づくときに、必ず犠牲をともなわなければなりませんでした。

 

 それでは、私たちは今でも、動物の犠牲をささげる必要があるのでしょう方。答えは、「ありません」です。それは、神はご自分@ひとり子であるキリストを、私たちの罪のいけにえとしてお与えになったからです。動物の血は、私たちの罪をおおうことはしましたが、取り除きませんでした。しかし、キリストが十字架の上で流された血は、私たちの心にある罪を完全に取り除いて下さいます。ですから、動物のいけにえをささげる必要はもうなくなり、キリストはすべての人のために、ただ一度、ご自身をおささげになったのです。

 

 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 

これは、アダムが罪をもった状態で永遠に生きることがないように、と言うことです。

 

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 

この追放は、アダムとエバに対する神のあわれみの現われです。なぜなら、もし罪をもったままの状態でいのちの木の実を食べて永遠に生きるようになったら、いつまでも彼らが苦しむことになります。その肉体はむしろ滅んだほうがよいのです。神は、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた、とありますが、ケルビムは神の御座にいる天使です。この天使を詳しく見たけれぽ、後でエゼキエル書1章をご覧ください。

 

C 人間 4

 こうして、人が犯した罪のために、人間と土地がのうわれたものとなりました。次の4章では、人間にもたらされたのろいに、焦点が当てられています。

 

1D カインの殺人

 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

 

主は悪魔に対し、「わたしは、おまえと女の子孫の間に、敵意を置く。」と言われましたが、エバは、自分から産まれる子カインから救いがもたらされると感じました。けれとも、残念なことに、そうではありませんでした。

 

 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

この記事を読んで、ほとんどすべての人が、「主はなぜ、カインではなく、アベルのささげ物に目を留められたのだろうか。」という質問を抱きます。まず、カインとアベルの職業に注目してください。カインは、土地を耕すことを職業にしていました。おそらく、父のアダムから引き継いだのでしよう。そして、アベルは羊という動物を飼うことを職業としていました。そして、カインは土地から出た作物を主にささげました。アベルは、子羊をほふって、それを神にささげました。カインは、そこら辺にある野菜や果物なとを適当に人に頼んで、主にささげたのでしょうが、アベルは最良のものを、しかも自分自身でささげました。

 

このことをまとめると、カインは人間的な方法で神に近づこうとしているのに対し、アベルは神の方法で神に近づこうとしたのです。アダムの罪によって土地はのろわれたものとなったのに、そこから出た作物が、主に受け入れられるはすがありません。けれとも、神が動物のいのちを取って、皮の衣をアダムとエバに与えられたように、アペルは子羊のいのちを取って、それを神にささげたのです。アダムとエバが、そこら辺ある、いちじくの木の葉で腰をおおいましたが、カインもそこら辺にある野菜や果物を主にささげました。そこには、犠牲がありません。しかし、アベルのささげた子羊は最良のものであり、それは尊い犠牲です。カインは、主との個人的な関係を持つことを望みませんでしたが、アベルは自分自身でささげることにより、主との個人的な関係を持つことを望みました。こうした違いがあって、神は、アベルに心を留められ、カインは留められなかったのです。

 

 アベルの、神の方法によって主に近づくことを、ヘブル書には「信仰」と定義しています。ヘブル書11章4節ですが、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とあります。カインのささげ物は、宗教でした。人間が考えつく方法で神に近づこうとする試みです。アベルのささげ物は、信仰でした。神が示してくださった方法で、神に近づいたのです。神は、この子羊のいけにけに表されている、キリストの尊い犠牲を通して、わたしに近づきなさい、と言われています。

 

 そこで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

カインは、自分のささげ方が間違っていたことに気づいていました。それでも、その過ちを認めることをしなかったのです。そのため、罪を犯しそうになっています。主は、それに支配されないで、むしろ罪を犯さないように制するべきである、と言われています。

 

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

 

彼は、アベルをねたんで殺人を犯しました。ユダヤ人の宗教指導者が、イエス・キリストを十字架につけたのも、ねたみが原因でした。

 

D カインヘの、のろい

 次に、カインの犯した罪にともなう、のろいが書かれています。

 

 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 

カイン自身が、自分の耕す地によって、のろわれたものとなりました。

 

カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

 

主は、カインにあわれみを示し、彼の申し出を受け入れて下さいました。

 

 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

 

主はカインに、「あなたは、さすらい人となるのだ。」と言われたのに、彼は住みつきました。しかも、エデンの園の東の、ノデの地に住んだのです。神がエデンの東にケルビムを置かれたのは、このためかもしれません。カインは、自分の罪を梅い改めることなく、生き続けました。その結果が次の節から書かれています。

 

D カインの子孫

 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 

 カインは、町を建て始めました。さすらい人となると言った、彼の言葉はどうなっているのでしょうか。また、町を建てることは文明の始まりでした。これをカインの子孫の中に見ることができます。

 

エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

 

つまり、畜産業が発達しました。

 

 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。

 

音楽家が現れました。

 

 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 

精錬と製鉄の技術が発達しました。これは、驚くべきことです。なぜなら、歴史をひもとくと、紀元前2千年のアプラハムの時代がおよそ青銅器時代であり、紀元前1000年頃のダビデの時代に鉄器時代が始まっているからです。ここは、ノアの洪水の前のことですから、はるか何千年も昔に起こったことなのです。私たちは進化論の悪影響を受けているので、昔はさぞかし原始的な暮らしをしているだろうと思いますが、いや、逆に、昔ほど進歩的な生活をしていたのです。

 

 ところが、これは、神なき文明であると言わなければいけません.2〜3節を見ましよう。さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

カインの子孫のレメクの息子から文明が発達しました。しかし、レメクは先祖のカインよりもさらに、邪悪になっています。殺人を犯すだけでなく、殺人したことを誇っていたのです。私たちが歴史を見るとき、その多くの文明は、神を無視したものでした。そのため人間は堕落し、必然的に頽廃していったのです。日本の経済成長の産物は、無差別テロ、人を殺すことをゲームのように考えている中学生、組織ぐるみで不正取引をする会社などです。その文明の特徴は、レメクのような自己中心、高慢、無慈悲であります。これが、神に罪を告白しないことの結末です。

 

D セツの誕生

 けれども、神はそれでも人間を祝福されようとしています。なんと神は、あわれみ深いのでしょうか。アダムとエバに、主に従うような子孫を与えられます。

 

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

 

カインの子孫とはうって変わって、セツの子孫は主に対して祈りはじめました。神である主との関わりを大切にするようになりました。神は、決して人間を見捨てず、ご自分の祝福を絶やすことはなさらなかったのです。

 

 こうして、天地創造における神の祝福と、人間の反抗によるのろいを見てきました。私たちは、ここに示されている神の恵みによりたのみ、へりくだって、主とともに歩んでいきたいものです。神は祝福の神です。とうぞ、この方に喜んで従い、多くの祝福を受けられますように。