創世記15−17章 「子を与える約束」

アウトライン

1A アブラハムへの報い 15
   1B 星の数のような子孫 1−6
   2B カナン人の地 7−21
2A ハガイからの子 16
   1B お家騒動 1−6
   2B イシュマエルの誕生 7−16
3A アブラハムとの契約 17
   1B 割礼の印 1−14
   2B サラからの子 15−21
   3B 割礼を受ける家 22−27

本文

 創世記15章を開いてください。これからアブラハムの生涯でも、とても面白い部分に入っていきます。

1A アブラハムへの報い 15
1B 星の数のような子孫 1−6
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

 「これらの出来事」とは、アブラハムがロトを救出した出来事です。バビロン地方から来た四人の王からロトとその財産を奪い返しました。メルキデゼキクが来て、彼を祝福しました。そして、ソドムの王も来ました。アブラハムがロトを奪い返した時に、他のソドムの住民や財産もあったからです。ソドムの王は、「財産はあなたがたのものです。」と言ったのですが、彼は、いっさいそれを受け取りませんでした。

 その後に残っていたのは、まず恐れです。四人の王から反撃が来るかもしれないという恐れを抱いていたことでしょう。もう一つは喪失感です。神に与えられた良心にしたがって、世間では当然受け取るべきところの財産を受け取りませんでした。私たちも、霊的に大きな働きをした後に、しばしばアブラハムと同じような心境になります。そこで必要なのは、さらなる大きな神の御業ではありません。主ご自身から直接語られることです。エリヤがそうでしたね。彼は、「かすかな細い声」によって神から聞きました。

 主はまず、「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と言われました。アブラハムの恐れに対して、「わたしが盾になる、わたしがあなたを守る。」と励ましてくださいました。そして喪失感に対しては、「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われました。

15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

 アブラハムは、「報い」と聞いた時に、それは子を生むことであるとすぐに悟りました。なぜなら、創世記12章、13章ですでに神が、彼の子孫によってこの地を所有するという約束を受けていたからです。(創世記12:713:16-17

 けれども、彼には跡取りの子が一人もいません。創世記11章の最後に、サラは不妊であったことが書かれています。それで、自分の家の管理人である、ダマスコのエリエゼルが跡取りになるのでしょうか、と尋ねています。

15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

 原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神は、強い意志でアブラハムから生まれてくる者がいることを仰いました。

15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 第一礼拝で話したように、到底、自分の力ではできないこと、不可能な事を、アブラハムはそのまま信じました。その信仰が彼を義としました。信仰による義です。キリストの義が私たちに転嫁し、そして私たちの罪がキリストに転嫁しました。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21

 ここで、「子孫」には二つの意味があります。星の数のように多くなるイスラエルの子孫という意味もありますが、アブラハムに約束された子孫は単数形になっています。ガラテヤ書でパウロがこう説明しています。「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。(3:16」したがって、アブラハムは自分の子孫が無数になるということを信じただけでなく、その子孫から出てくるキリストを信じたのです。エバから始まり、ノアの父レメクが信じ、そしてイスラエル人たちが信じてきた「女の子孫」であるキリストが、自分から出てくることを信じました。

 ですから、旧約時代の聖徒はどのようにして救われるのですか?という質問に対して、こう答えることができます。「旧約時代は、後に来られるキリストを信じることによって救われる。そして新約時代は、すでに来られたキリストを信じることによって救われる。」

 イエス様は、金持ちとラザロの話をされた時に、どちらもハデス(陰府)に下ったが、ラザロはアブラハムのふところにいた、と言われました。旧約時代の聖徒たちは、死んだらすぐに天に引き上げられることはありませんでした。なぜなら、罪の贖いがまだ完成していなかったからです。けれども、ハデスのアブラハムのふところにいました。アブラハムと同じように、キリストが後に来られることを信じて死んだので、そこで慰めを受けていたのです。そしてキリストの十字架による贖いが完成した今、旧約時代の聖徒は天に引き上げられています。

2B カナン人の地 7−21
15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」

 アブラハムに与えられた約束は、子孫だけでなくこのカナンの地でした。これも主からの報いでありました。

15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。

 アブラハムは、その約束が確かなものであることを確認したいと思いました。それで神は、当時、行なっていた契約を取り交わそうとされています。それは動物を真っ二つに引き裂くことです。そしてその間を契約を結ぶ双方が通り抜けます。そのことによって、「もしこの契約を破るなら、私はこのようになります。」という確約を表すためでした。まさに「血の契約」だったのです。それでアブラハムは、その準備をしました。

15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」

 カナンの地をアブラハムが所有するという約束は、そのままバラ色に実現するのではありません。アブラハムの子孫はエジプトに下っていき、そこで奴隷として苦しめられ、それでそこから戻ってくることによってここを所有する、と神は宣言されました。初めに、猛禽が死体の上に降りて来たこと、眠っている間に酷い暗黒の恐怖が襲ったことも、そのエジプトの暗黒時代を表していました。

 この全ての実現は、出エジプト記で確認することができます。そしてヨシュア記において、イスラエルの民がエモリ人たちや、他のカナン人たちを打ち滅ぼしていくところを読みます。それが何のためかといいますと、「エモリ人の咎が、そのときまで満ちることはないからである」とあります。イスラエルの民がカナン人たちを殺していった時は、かわいそうな先住民を選民が追い払ったという単純なものではありません。そうではなく、彼らが忌まわしいことを行なっており、ご自分の裁きの器としてイスラエルを用いられたからです。レビ記2023節に、「あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行なったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。」とあります。

 けれども神は、忍耐をされる方です。たとえ彼らが自分たちの悪を積み上げているにしても、四百年という猶予期間を与えておられました。これが、神が裁きを行なわれる方法です。イエス様が語られた天の御国の喩えで、麦畑の中に悪魔によって毒麦の種が蒔かれました。それで麦だけでなく毒麦も現れました。マタイ1328節から読みます。「主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』(28-30節)

 神は、「麦もいっしょに抜き取るかもしれないから毒麦は抜き取るのをやめよう。」と言われる方です。そしてその実が明らかになった時に初めて刈り取りを行なわれます。私たちは早まって判断してはいけません。もちろん、真理なのか偽りなのかの判断はしなければいけませんが、だれが救われてそうではないのかという詮索をせずに、神に任せるべきです。私たちは、憐れみをかけることによって誤っても、人を裁くことによって誤ってはいけないのです。後で主が裁かれます。

 そしてこの神の寛容と忍耐深さを、自分は悪が許されているのだと勘違いする人たちが大勢います。けれども、世の終わりになればなるほど、主に自分を捧げる人はますます清められ、悪を行なう人はますます悪を行なうようになります。その中間地帯に私たちはいることができなくなります。どちらかを選ばなければならないのです。そしてはっきりと悪が見えてきたところで、神は刈り取りを行なわれるのです。

15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

 この明かりは、主ご自身が通られている光です。ここで注目したいのは、アブラハムがこの切り裂かれたものの間を通っていないことです。神が一方的にこの契約を結んでおられます。神は、アブラハム側に条件を付けなかったのです。

 これが、神の契約と約束なのです!後に神は律法を与えられますが、律法は条件付きでした。律法を守るのであれば祝福があるが、そうでなければ呪いがあるというものでした。イスラエルはことごとく律法を守り行なわなかったので、律法の呪いが彼らに降りかかりました。けれども、その呪いを十字架の死においてキリストが受けてくださったのです、律法はキリストによって成就しました。もう私たちは律法の下にはいません。ただアブラハムと同じように、神の一方的な契約と約束の下にいるのです!

 ですから、今までも、またこれからもアブラハムは失敗します。それにも関わらず、神はアブラハムにますますその祝福を降り注がれます。その約束もさらに鮮明に明らかにしてくださいます。私たちも同じです。私たちが犯した罪は、キリストが負われた罪は、過去のものだけでなく、現在犯しているかもしれないもの、そして、将来、犯してしまうかもしれないものの全てを背負われたのです。ですから、神のキリストにある契約は確固としたものなのです。私たちではなく、神が一方的にキリストにあって結んでくださった契約なのです。私たちの責任は唯一、キリストを信じるということだけなのです。

15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 主はアブラハムに、はっきりと所有する地の境界線を与えられました。それは南は、エジプトの川です。これはナイル川ではなく、ナイル川の支流のもっとも東にある、スエズの当たりであると言われています。あるいは、シナイ半島にワジがあるのですが、そこかもしれません。そして北はユーフラテス川です。

 ヨシュアの時代に土地を占領しましたが、この地域には至りませんでした。ソロモンの時代にイスラエル王国は栄華を極めましたが、その時でさえ、勢力は伸ばしたものの所有するとまでは行きませんでした。彼らが不従順のために、敵にその土地が切り取られていき、最後はバビロンによって引き抜かれたのです。

 けれども、今、お話したようにこれは無条件の契約です。イスラエル人の失敗によって無効になるものではありません。聖書預言には、イエス・キリストが再び来られる時に離散しているユダヤ人が天の四方から戻ってくることが約束されています(マタイ24:31)。イエスを信じたユダヤ人が、この土地はここでアブラハムに約束してくださったとおり、所有することになります。

2A ハガイからの子 16
1B お家騒動 1−6
16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

 この16章に題名を付けるならば、一言「肉の行ない」です。主からとてつもない大きな幻をアブラハムは受けました。そして彼はそれを信じました。それを神は義とされました。けれども、ここでその約束を自分たちで何とかしなければならないとサラが思い、そしてアブラハムがそれを許しました。ちょうどエバが悪魔の誘惑を受けて、実を食べて、それをアダムに与えたのと同じです。

 当時、女奴隷を通して跡継ぎの子を得ることは慣習となっていました。ですから、ここでアブラハムが不道徳なことを行なっているということではありません。今で言うならば体外受精でしょう。けれども、表向き息子が与えられるようにして、神の約束が実現したかのようにしたのが間違いです。

 カナンの地に着いてから十年経っています。だから、これは自分たちが神を助けなければ実現したいと思ったのです。けれども、「神を助けなければ」と考えること自体が愚かです。次の章に出てきますが、神は全能な方です。あたかも神に不足があるかのように、自分たちがそれを埋めようとしました。

 私たちは、主を待つ必要があります。そして、御霊の導きに服従する必要があります。けれども、私たちは自分たちの必要をどうしても、自分自身で満たそうとします。主から与えられる祝福を、主からではなく、他の手段によって受けようとするのです。

 ところで、このハガルはエジプト人ですね。アブラハムがエジプトに下った時に得た女奴隷です。その時に犯した失敗が、今このような形で表れています。私たちは、神から恵みを受け、罪が赦され、やり直しをすることができます。けれども、自分が蒔いたものを刈り取らないということではありません。結果は残っています。その結果を受けることによって、私たちはなおさらのこと、その罪を犯してはならない、同じ過ちは繰り返してはならないことを学びます。そして自ら、その罪を憎み、その罪から離れます。それゆえ、神は、結果を私たちが刈り取ることも許されるのです。これを「懲らしめ」と呼びます(ヘブル12章参照)。

 「懲らしめ」と聞くと、私たちは頑固親父に殴られることを想像するかもしれませんが、決してそうではありません。このように静かな形で、自分が犯したことの責任を自分で負うように神がその状況を許されるのです。けれども、それが霊的成長につながります。自分が神の聖さにあずかる道です。

16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

 お分かりですか、「肉の行ない」は私たちにすぐに結果を与えてくれます。あくまでも表向きですが、自分たちが望んでいることをすぐに手に入れることができます。けれども、それは上塗りのメッキが剥がれるようなものであり、すぐに正体がばれます。

 まずハガルが女主人サラを見下しました。これは、跡継ぎの子を自分が産んだということで、女主人と同じ地位に着いたと思ったからです。すると今度は、夫婦喧嘩が始まりました。サラは、自分がハガルによって子を与えてくださいと言い出したのですが、アブラハムのせいにしています。実に女のかしらは男ですから、その通りなのです。男は、神からすべての決断について判断を仰ぐという責任があります。そして今度は、アブラハムが丸投げしました。「あなたの好きなようにしなさい。」と言っています。このように、「お家騒動」が起こったのです。

 争いやねたみ、分裂は肉の行ないです。私たちはけれども、聖霊の実を待ち望んでいます。実質的な成長です。それは、私たちがキリストに与えられた約束を信じて、受け入れて、その中にとどまっていて、その中で喜び、感謝している中で、神が育んでくださるものです。外側から変えるものではなく、内側から変えられ、外に現れるものです。キリストがぶどうの木で私たちはその枝です。そのような何もない自分から、神が数多くの実を結ばせてくださいます。

2B イシュマエルの誕生 7−16
16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

 神が、この騒動に対する憐れみを示されました。「主(ヤハウェ)の使い」とは、イエス・キリストのことです。イエス様がベツレヘムで二千年前に人間の赤ちゃんとしてお生まれになる前に、すでに永遠の昔から存在しておられました。そして旧約の時代は、ヤハウェの使いとして現れることがしばしばありました。

 そして「シュルへの道」というのは、シナイ半島からエジプトにつながる道です。つまり彼女は実家エジプトに逃げ帰ろうとしていました。

16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

 すばらしいですね、アブラハムの肉の行ないによってみごもった子であるのに、神はこの失敗をも用いて新たな民族を造り、それを祝福されようとしています。そして、この民族がアラブ人です。

 そして主の使いが、「わたしが大いにふやす」とおっしゃっていますね。主の使いは自分を「主」と同列に置いています。つまりここに、父なる神と同列に置いているキリストの姿を見るのです。

16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

 「イシュマエル」は「神は聞かれる」という意味です。ハガルの苦しみを聞いてくださいました。

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

 ここにアラブ民族の始まりと特徴を見ることができます。「野生のろばのような人」というのは、荒野を徘徊する人々、という意味があります。つまり遊牧民です。アラブ人の原型は、あのシナイ半島やアラビア半島、ネゲブ等の一帯に住んでいるベドウィンです。

 そして、その手は「すべての手に逆らう」とあります。いかがでしょうか、遊牧民には絶えず部族間の戦いがあり、その部族の中から出てきたイスラム教が今の時代でも世界を不安定にさせています。

 そして、「すべての兄弟に敵対して」とあります。互いに戦い、また兄弟であるはずのイスラエル人にも敵対しています。今、アラブ人がユダヤ人に敵対しているのは、このアブラハムの肉の行ないによると言って良いでしょう。アダムの失敗によって、世界に罪と死が入ったように、神の民族の父祖となった彼の失敗は、民族間の争いを招きいれてしまったのです。

 けれども、この失敗をも憐れみによって神は祝福してくださり、アラブの人たちは非常に多くなり、また石油によって栄えています。アラブの人にも数多くのキリスト者がいます。

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

 エル・ロイは「ご覧になる神」という意味です。ハガルは、主の使いを見てそれが神ご自身であることを悟り、死んでいないことに驚いています。神が顕現されて、それがキリスト・イエスでした。

16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

 ここが後にアブラハムの子イサクの住む所となります。ネゲブとパランの荒野の辺りにあります。

16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

 ここで著者がはっきりと年齢を記しています。なぜなら、次の節でまた年齢が出てくるからです。

3A アブラハムとの契約 17
1B 割礼の印 1−14
17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

 もうアブラハムは99歳です。16章の時からすでに13年が経っています。なぜ13年も待っておられたのでしょうか?なぜ13年目になって、あえて再び神がアブラハムに対して立てておられる約束を確認しに来られたのでしょうか?

 それは神ご自身の言葉にあります。一つは、「わたしは全能の神である」です。ヘブル語では「エル・シェダイ」であり、原語には「乳」という意味合いもあります。母の乳に抱かれた赤ん坊のイメージです。つまり、すべての源は神にあり、あなたは完全に神に依存している存在なのだよ、ということです。アブラハムが、ハガルによって子を生むことにより、神があたかも不足しているかのように振舞いました。それに対する否定を神が行なわれています。

 つまり神は、アブラハムに「あなたの側に何ら子を生み出す力がないようにさせよう。あなたには何もできないようにさせたときに、ようやくわたしが働くことができるのだ。」ということを分からせたかったのです。私たちは窮地に立たされると、そこで神はようやくご自分が働かれる機会が与えられます。私たちが動いている間は、神はご自分で動くことができません。神ご自身だけで動くために、私たちがその自分で自分を救おうとする手を引っ込める時まで待っておられるのです。

 救命チームが、川で溺れている人を助けるために受ける訓練について、「溺れている人を少し沈ませなさい。」という指導を受けることを、しばしば聞きます。もし溺れている時にその人を救おうとすると、その人は自分にしがみついてもがくので、自分自身も沈んでしまうからだそうです。その人がもがくのをあきらめた時に、そこでようやく救命隊員が手を伸ばして、その人を岸にまで連れてくることができる、とのことです。

 神はそのようなことを私たちに行なわれます。パウロは、自分の肉に働く欲望をどうすることもできずに苦しみました。「私が憎んでいる罪を行ない、願っている善を行なっていない。」と何度も告白しています。そして最後にこう嘆きました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24」この「だれが」という叫びが重要です。彼は、自分自身でもがいていました。この叫びを行なった後に、彼はもはや「私は・・・私は・・・」ということをやめて、「神がキリストの肉において罪を処罰された」とか、神がキリストにあって行なわれたことに注目しています。神とキリストに、御霊の力の源泉があるからです。

 そこで神はもう一つ、「全き者となれ」と言われています。アブラハムは、信仰の歩みにおいて妥協してしまっていました。全き心で神に頼るのではなく、イシュマエルを自分の手で生んだからです。「あなたは、まだ目標に到達しているのではないのだよ。十全な者になるために、また走り出しなさい。」と促しておられます。

 そして「わたしの前に歩み」という言葉もありますね。これは神のご臨在にあって生きていきなさい、ということです。神がおられるところであなたは前に進んでいきなさい、ということです。

17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

 これまでは、子孫を数多く増やすという約束を与えておられましたが、ここで新しく「多くの国民の父となる」と約束しておられます。一つの国民だけでなく、複数の国民が出てくるということです。それだけでなく、王たちも出てきます。これは、後にイスラエルにもダビデ王朝ができる約束となっています。

 そしてアブラハムの名前ですが、私はこれまでアブラムをアブラハムといい続けましたが、ここにその理由があります。神がアブラハムと名前を変えてくださったからです。アブラムは「高められた父」という意味がありますが、アブラハムは「多くの者の父」という意味があります。

 そしてもう一つ、「ハ」という音が入ることによって、彼が御霊によって生きる人の意味合いがあります。「ハ」の音ですが、息の音によって神は人を生きるものとされました。もはや肉ではなく、御霊の導きによって生きていくのだよ、という意味です。

17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

 神は、これまでの約束をさらにはっきりと、そしてさらに強固にされました。永遠の契約である、そして、その目的はアブラハムの神となり、その子孫イスラエルの神となるためである。また、土地の所有も永遠である、などです。

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

 私たちは以前、神がノアと結ばれた契約において、虹という印を神が与えられたところを読みました。ちょうど契約書に私たちが判子を押すように、この契約の確かさを示すためのものです。

 アブラハムとの契約においては、それが「割礼」です。男性の性器の包皮を切り取ることです。アメリカでは衛生上の理由で赤ちゃんが生まれるとすぐにそれを行ないますが、ここではそうした意味合いはありません。アブラハムの子孫が、その男性が自分の性器を見て、確かにそこから出てくる子種、精子は神の民を生み出すためのものだということを思い出すためです。

17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。

 生まれてから八日目の割礼というのは、モーセの律法の中でも引き継がれていきます。

17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 自分の家族だけでなく、自分の家にいる男たち全員が割礼を受けます。そしてこれは、割礼を受けなければ民から断ち切られる、つまり神の民ではなくなる、という厳粛なものです。

 ユダヤ人はこれを今でも非常に大切にしています。イエス様の時代に至るまでそれはとても大切であり、パウロは教会への手紙の中で数多く割礼の問題を取り上げています。なぜなら、これを受けることによって自分は救われるとユダヤ人は信じていたからです。割礼を受けることによってはじめてユダヤ人となることができ、ユダヤ人となれば神の民になることができるのだ、というものです。

 けれどもパウロは、ローマ人への手紙4章で、アブラハムは義と認められたとき無割礼だったのだ、と論じています。そうですね割礼を受けたのはここ17章、彼が99歳の時ですが、彼が義と認められたのは15章でした。少なくても13年以上前の話です。つまり彼が無割礼だった時に彼は義と認められたのであり、割礼が彼を義としたのではないということです。むしろ、彼が神に義と認められた者となったのだという、外側の印として与えられたのです。

 これと水のバプテスマは同じ原則です。イエス様を自分の主として受け入れ、この方に従う決断をした人は、すでに御霊によって救われています。そして救われていることを公に示すために、水のバプテスマを受けます。その反対ではありません。バプテスマを受けたから救われるのではありません。バプテスマを受けていても、実際は霊の救いを受けていない人がたくさんいます。同じように、バプテスマを受けなかったけれどもイエス様を信じて死んだ人もいます。バプテスマは、イエス様が受けなさいと言われた命令ですから、信じた者は受けなければいけません。けれども、それが救われるための手段ではないのです。

2B サラからの子 15−21
17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

 主は、さらに続けてご自分の約束を明確にされました。以前、「あなたから出る子が跡継ぎになる」と言われましたが、それはもちろん妻サラとの間の子という意味でした。けれどもアブラハムは勝手に、女奴隷を通してでも私の子だという理屈で神の約束は実現したと思っていました。それを正すために、今、ここでこうやって話されています。

 「サライ」は「私の王女」という意味がありますが、「サラ」は「王女」という意味です。ここでも、アブラハムの「ハ」の音が、サラにも使われています。最後の所にHの音があり、息が入っています。

17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

 神が十三年間待っておられた理由がここにありますね。いくらアブラハムもサラも長寿だとしても、百歳と九十歳は、当時でも更年期を過ぎていた歳でした。絶対に人間側には無理なのです。けれども、神はそれを行なわれました。神のみに栄光が与えられるためです。

 そして13歳というのは、大人になる年齢です。ユダヤ人は「バル・ミツバ」という成人式を13歳の男の子に対して行ないます。神は、イシュマエルに対する期待を粉砕すべく、この時に現れたのです。これは神の憐れみです。私たちが自分の力や知恵で作り出したものを、遅すぎる前に壊してくださいます。

17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

 「イサク」という名前の意味は「笑う」です。今、アブラハムが笑ったからです。「百歳の父親と、九十歳の母親から生まれた??」とみなが、その奇跡について笑うことになるだろうと意味が含まれます。あまりにもすばらしいことなので、笑うことしかできないという意味です。神は、私たちにもその喜びを与えてくださいます。あまりにも喜ばしい話しなので、笑ってしまう程の業を行なってくださいます。

17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

 後にイスラエルには十二部族が与えられますが、イシュマエルにも同じように十二部族が与えられます。創世記25章に、その実現が記録されています。

17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

 時期まで主は決められました。来年の今ごろです。

3B 割礼を受ける家 22−27
17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。17:23 そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。17:25 その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。17:26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。

 アブラハムはすぐに神の命令に従いました。その日のうちに割礼を受けました。

 次回は、神が現れたこの出来事、間もなくして起こった出来事です。三人の旅人がアブラハムの天幕を訪れ、そこで再び、サラに来年の今頃、男の子ができていると宣言します。

 神様はこのように、とことん、ご自分の恵みで事を行なわれます。私たちに、とてつもない祝福を与えられ、それを私たちが信仰をもってしっかりと受け止める時に、その約束を実現してくださいます。私たちが立ち入る隙間がありません。私たちはただ、私たちの内で、そして私たちを通して行なわれる神の奇しい御業をほめたたえるだけです。

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