創世記18−20章 「目に見える物の対価」

アウトライン

1A 主の使いの訪れ 18
   1B もてなし 1−15
   2B 執り成し 16−33
2A ロトの救い 19
   1B 不義に満ちた町 1−11
   2B ためらう家族 12−29
   3B 変わらない娘たち 30−38
2A 繰り返す嘘 20
   1B 脅す神 1−7
   2B 癒す神 8−18

本文

 創世記18章を開いてください。私たちは、アブラハムが99歳の時の話しを読んでいます。彼が86歳の時に、サラがアブラハムに要求して、女奴隷ハガルによって子を宿すようにさせました。イシュマエルが生まれました。けれども、アブラハムが99歳になった時に神は、「サラによってあなたは子を得るのだ。」と言われました。神は、アブラハムの肉の努力を一切認められなかったのです。また、アブラハムとサラがもう子を生む能力の年齢を当に越えていたときに、そのように言われました。人の肉の努力ではなく、一方的な神の憐れみによって事を行なわれるためです。

1A 主の使いの訪れ 18
 そしてこの神の現われを受けて間もない時に、次の出来事が起こります。

1B もてなし 1−15
18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。

 アブラハムは遊牧民です。天幕に住んでいました。

18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」

 1節には、「主がアブラハムに現われた」とあります。けれども、やって来たのは三人の人です。続けて読んでいくと分かりますが、二人は御使いです。ヘブル人への手紙132節には、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。(ヘブル13:2」とあります。そして、残りの一人は間違いなくヤハウェの使いであり、イエス・キリストご自身です。

 アブラハムは単に旅人をもてなしていたのではありませんでした。確かに遊牧民には、旅人をもてなす慣わしがあります。彼らは野宿をしたら死んでしまうということをお互いに知っていたので、旅人は必ず受け入れなければいけないことを心得ていたのです。けれども、アブラハムはそれ以上のことを行っています。「地にひれ伏して」とありますね。彼は、何らかの形で、神から来られた方であることを感じ取っていました。

18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。18:8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

 アブラハム自身が給仕をしています。そして彼は、三セアは約22リットルで三人には多すぎる分量です。そして、もっとも良質の子牛の肉を用意しています。

 ここでは実は、アブラハムが主を礼拝している姿を見ることができます。主に仕えて、主と共に交わっている姿を見ることができます。このように不思議な形で主が現れてくださったのは初めてではありません。メルキデゼクが彼の前に来た時に、彼は財産の十分の一を彼に捧げました。

 主が通り過ぎるのではないかと思われるときに、自ら強く誘って自分の天幕に招いたことは、イエス様がよみがえられた時も同じでした。エルサレムからエマオの村に向かう二人に、復活のイエス様も歩いておられました。そして彼らに、キリストについて聖書全体から説き明かされました。そしてイエス様がエマオについても、まだ先に行かれそうになっていました。そしてルカによる福音書2429節にこうあります。「それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。(ルカ24:29

 私たちはこのようにして、たとえ主が通り過ぎ去ろうとしても、自分から食らい付くほど主との交わりを欲する、強い願望が試されます。主は私たちに、礼拝を強要されません。むしろ私たちの霊的飢え渇きから来る自発的な働きかけによって、私たちは初めて主と共に食事をするという交わりにあずかれるのです。

18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、18:10a 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」

 ここにはっきり、三人の一人が主ご自身であることが分かります。1721節で、アブラハムに対して主が全く同じ言葉をお語りになっています。

18:10bサラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

 お分かりですか、三人の一人である主は、サラが心の中で笑っていたことを全て聞いておられました。主は、私たちの心をすべて見通しておられます。そしてサラは、アブラハムが笑ったように自分も笑いました。「まさか、そんな良い話があるはずがない。」と思ったのです。それで前回読みましたように、神は、その子を「笑うちゃん」=「イサク」と名づけました。

 そして神がここで教えられていることは、「主に不可能なことがあろうか。」です。なんと大切な真理でしょうか!99歳のアブラハムに主は「全能の神」として現れました。主にできないことは何一つありません。

 イエス様は弟子たちに、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(マルコ10:25」と言われました。らくだが針の穴を通るのです!らくだは、当時の中東地域で最も大きな動物です。それで弟子たちが「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」と言ったところ、主が答えられました。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。(同27節)

 私たちは何か物事を成し遂げようとする時に、自分の能力によって査定します。けれども、神に属する事柄においては、自分の能力ではなく、神の能力によって査定しなければいけません。つまり、「神のみこころであれば、必ずそうなる。」という信仰です。

18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 アブラハムだけではなくサラにも人間臭い人ですね。私たちは彼女と同じように、気軽に嘘をついてしまいます。恐れたり、面子が気にしたりなど。けれども、このサラを主は祝福されました。

 ところでこの後のアブラハムとサラは、信仰に満ちあふれます。ローマ人への手紙4章によると、こう書いてあります。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。(ローマ4:19-21

 第一に、アブラハムは問題から目を離しました。サラの胎が死んでいることから目を離し、主の約束を見ました。第二に、約束から離れることがありませんでした。そこから離れると揺らいでしまいます。第三に、まだ成就していないのに彼は神に栄光を帰しています。自分が百歳で、サラがまだ妊娠していないのに、「ハレルヤ!」とすでに生まれたかのように喜んでいたのです!そして第四に、彼は神の成就する力を信じました。

 そしてサラも彼に付いて行き、従いました。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。(1ペテロ3:5-6」すばらしいですね、神を一心に信じる夫と、その夫に主に従うようにしたがう妻の姿です。

2B 執り成し 16−33
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

 二人の御使いは、先にソドムに発ちました。そして残されたのは、主ご自身です。主がアブラハムと共に歩かれて、そして「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われます。ヤコブの手紙には、アブラハムが「神の友」と呼ばれていますがこのことです(2:23、その他、2歴代20:7、イザヤ41:8)。

 私たちは、親しく近しい友であればあるほど、自分にあるものを分かち合おうとします。自分の隠れた部分も明かそうとします。アブラハムと同じように、今、見てきたように親しく食事をするような仲であるときに、彼が礼拝の態度で三人の人を迎えていた時に、主はアブラハムにご自分がこれから行なわれることを隠さないでいることはおできにならなかった、ということです。

 イエス様も同じことを語られました。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14」イエス様ご自身も、ご自分の命令を守る者たちに対してご自分のことを言わずにはおられないのです。これが礼拝の醍醐味です。主に仕え、主に捧げ、それを自分が切に願っている時に、主が友として私たちに接してくださいます。

18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

 主が再びアブラハムに、大きな国民、強い国民になることを約束し、確認してくださっています。そしてここでは、正義と公正、正しい道を彼らが歩むようになるためだということを強調されています。なぜなら、次からソドムの不義について語られるからです。

18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

 これは、ソドムで行なわれていることを神が情報として、知識として知らないということではありません。そうではなく、主はすべてのこと細かく調べて、その精査の上でこの町を滅ぼす、ということです。神は公正な方であり、その裁きはすべてのことを知られた上で行なわれる、ということです。私たち人間は、早まって判断しますね。一部の情報しか与えられないのに、すぐに断定します。それを神は行なわれないということです。

18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

 今はヘブロンにいますから、そこから死海のソドムは東側で低地にあります。

18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」

 アブラハムは執り成しをしています。ソドムに赦しを請うているのは、もちろんそこにロトがいるからです。祈りにはいろいろな形がありますが、一つは礼拝です。先にアブラハムが給仕をし、そして三人と共に食事を交えて時間を過ごしましたが、そのような祈りが必要です。もう一つは、感謝です。そしてもう一つは、願いです。さらに、罪の告白もあるでしょう。そしてここでは、他の人たちのために代わって祈ることがあり、それを執り成しの祈りと呼びます。

 執り成しの祈りには、忍耐と力、そして戦いが必要です。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18」他の人のために祈る時には、必ず邪魔が入ります。途中で電話が鳴ったり、また自分自身が他のことで気が散ったり、悪魔は何とかして私たちが祈らないように仕向けます。なぜなら、それが霊の戦いにおいて最も強力な武器であることを悪魔は知っているからです。

 そして彼の執り成しの根拠は、きわめて重要なことです。「正しい者が悪者とは一緒に滅ぼされてはならない」ということですが、これは神のご性質の中で大きな部分を占めています。神は、必ず正しい者は救われ、そうでない者は滅ぼされます。正しい者が滅んだり、悪者が救われることは決してありません。

 ここで大事なのは、正しい者というのは正しい心の態度を保っている人だということです。たとえこれまであらゆる悪を行なってきた者でも、今、悔い改めて、神に立ち返るのであれば、そのすべての悪を神が赦してくださり、清めてくださいます。そしてたとえあらゆる正しいことを行なってきたとしても、今、悪を行ない、その悪を捨てないのであれば、その人は必ず滅びるのです。これまでの正しい行ないが、神の救いを受ける担保とはならないのです。(エゼキエル18章参照)

 したがって、これから神が下される患難、神の怒りを、信仰によって正しいと認められた者たちが、この世とともに受けるということはあり得ないのです。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサロニケ5:9

 この世にあっては患難はあります。けれども、それは正しく生きる者たちに対して、この世が与える迫害であり、この世、そしてその君である悪魔から来ています。けれども、神が定められた大患難は、これら迫害者、キリストを拒む者たちに対して怒りとして与えられるものです。ですから、これらの者たちとこの地上で患難に遭うことがないように、神は天から降りてこられるキリストによって、私たちを引き上げてくださることによって救ってくださいます。

18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

 主の寛容さがここから分かります。主は、わずかな正しい者たちのゆえに、その町全体を赦してくださいます。今もこの世界が神によって滅ぼされていないのは、キリストによって救われるべく神が選ばれた者たちがまだ残っているからです。罪の赦しというのは、神の真実によります。たった一つの悔い改めによって、すべての不義を赦してくださるような方です。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9

 そしてアブラハムは、その神の広い心に驚き、意表を突かれたのでしょう。五十人と言えば、それでかなり少ないと思っていたのに、あっさりすべてを赦すとおっしゃられるのです。それで、おそるおそる人数を減らしました。十人のためにも赦されると聞いて、それで彼は安心して帰りました。ロトの家族とその親戚を合わせれば十人以上になると思っていたからです。ところが、次の章を読めば十人にも満たなかったのです。

2A ロトの救い 19
1B 不義に満ちた町 1−11
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。

 18章におけるアブラハムが三人をもてなした時の場面と、とても似ています。同じようにロトは、立ち上がって彼らを迎えて、ひれ伏してもてなしました。けれども二人は、「広場で夜を過ごします」と言いました。それでロトがぜひと勧めますが、それはアブラハムの時のように親しく交わりたいと願っていることもあったでしょうが、外で寝ては危険であるということも思っていたでしょう。

 ところでロトは「門の所」に座っていました。当時の町は城壁に取り囲まれ、そして門にはいくつかの部屋がありました。そこが行政や裁判を行なう所であり、ロトは役人のような存在であったのです。ロトは初め、ソドムの近くに天幕を張りましたが、ソドムの中に住むようになり、そしてソドムの中心的存在とまでなっていたのです。私たちは、罪について「近くまでなら大丈夫だ」で済まないことを知るべきです。

19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

 この「よく知りたいのだ」というのは、新共同訳にあるとおり「なぶりものにしてやるから。」ということです。親密に知る、夫婦の関係の中で使う言葉であり、町中の男たちが御使い二人に向かって集団レイプを行なおうとしているのです。

 アブラハムが最大の敬意を払ってお迎えしたのとは対照的に、彼らは神からの御使いをこのようにあしらおうとしました。私たちの社会は、私たちの文化はいかがでしょうか?神に属すること、キリストに属することをどのように取り扱っているでしょうか?

 そして、第一礼拝でお話ししたように、ソドムというのが、神がご自分の怒りを表す、不自然な情欲を求める代表的な町として聖書に継続的に出てきます。

19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。

 「兄弟たちよ」とロトは呼んでいます。果たしてそうなのでしょうか?ロトは、悪い意味で彼らに良くしてあげていました。ロトは、自分が親切にすれば彼らが変わると信じていました。彼らを信頼していたのです。けれども、神はこう言われます。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9」そして、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14」とあります。

19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

 ロト自身も、周りの文化と習慣に影響されていました。旅人、特に御使いである彼らをどんなことをあっても守るということにおいては正しい意図を持っていました。けれども、自分の未婚の娘をレイプ集団に明け渡すなど、今の私たちには本当に信じられません。けれども、それだけ女性の尊厳が認められない文化が存在していたのです。今の女性の地位の向上は、聖書的価値観が広がったからです。

19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

 ロトはソドム人ではないので、「さばきつかさのようにふるまっている」と言われています。ソドム人ではないのに役人なんかをやっていると。私たちは悪を宥めることは決してできないのです。貪りに対して、いくら物を与えても満足はしません。ねたむ者に対して、いくら自分の身を低くしても、いつまでも敵扱いされます。

19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。

 御使いがロトを守りました。

2B ためらう家族 12−29
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

 主は、ロトだけでなく、その家族と親戚に救いの手を伸ばしておられました。

19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。

 ご覧ください、ロトはおそらくこの娘の家族にも主については、何度となく語っていたのでしょう。けれども、ロトが声をかけても、まったく鈍い心を持っていたのです。ロトは、御使いをあのように迎える正しい心を持っていたことでしょう。そして第一礼拝でお話ししたとおり、ソドムの町で行なわれていたことに心を痛めていました。

 けれども、彼は自分が好きでこの町に来たのです。緑がたくさんあることが好きできたのです。それ自体は間違っていません。けれども、そこに罪が満ちていることを彼は知っていました。それでも、緑がたくさんある豊かなところだということでそれを選んだのです。いかがでしょうか、私たちがもし信仰によらず、ただ豊かさだけを求め、ただ見た目が良いことだけを求めたとしたらどうなるのでしょうか。それが必ずしも罪ではなくても、目に良いと見えるものを求める生活は、いずれ、その良いものすべてを失ってしまう生活へと変わってしまうのです。

 最も効果的な伝道は、自分自身が変わることです。自分自身が罪から離れて、信仰に生きることです。そこの部分において妥協があるならば、相手に対する影響力を持つことができなくなるのです。

19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

 なぜロトは、ためらったのでしょうか?それは、妻と娘二人がためらっていたからです。だから御使いは、それぞれ一人一人の手をつかみました。このような差し迫った危機において、ソドムに対する未練を残し、判断が鈍ってしまっています。イエス様は、「目を覚ましていなさい。」と言われました。見えるものを見ていることができるように祈るべきです。

19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

 滅びというのは突如として襲うものです。それは、ちょうど今回の津波のようなものです。振り返っては、もう手遅れになります。神は、その滅びを与える時を定めておられたので、その時が迫っているのを知って急がせています。

19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」

 ロトは交渉しています。小さいのだから、大きな悪影響は出てこないだろう。そこでも悪がはびこっているかもしれないが、小さいからたいしたことはないだろう、ということです。

19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。

 いかがですか、神はこのように忍耐して待っていてくださいます。もちろん、私たちはすぐにでも神に立ち返り、心を入れ替えればすばらしいです。けれども、多くの人は段階を経ます。なかなか、全うに信じることができません。少し信じるのですが、また少し疑って。けれども、それを私たちは忍耐して待ってあげるのです。それが神の憐れみだからです。

19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。19:24 そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。

 24節の「主は」というのは、アブラハムから離れられた主ご自身のことです。二人の御使いの後に来られて、このように硫黄の火を降らせました。そして、「天の主」というのは父なる神のことです。イエス・キリストが天におられる父に火を降らせたということです。

19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

 先ほど「振り返るな」と御使いが言っていたのに、彼女は振り返りました。私たちは世の楽しみに未練を持つと、世とともに自分自身を失うことになります。

 有名な話が、ココナッツを使った猿を捕らえる罠です。ココナッツの中に米を入れます。猿はそれに手をつっこみ、米を取ろうとします。けれども、掴むと手がこぶしになるのでココナッツから手が外せません。でも、米をつかまずに手を緩めればすぽっと外れます。そして人間がやってきました。猿を捕まえるためです。猿は必死でもがきます。けれども、その米ほしさに手を緩めることをしません。そのため、米を得られなかったばかりか、自分の体ごとその人間の食べ物となった、ということです。

19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。

 今の死海付近の地形は、この出来事によって成り立っています。かつては緑の生い茂っているところだったのですが、今は砂漠地帯です。硫黄の火によって燃え尽くされたからです。

19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

 アブラハムのゆえに、その執り成しのゆえにロトは救われました。これだけ執り成しの祈りの大切さが分かります。

3B 変わらない娘たち 30−38
 けれども、その後の結末がなんとも空しいです。

19:30 その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。

 小さい町と言えども、「お前のせいでこのようなひどいことが起こったのだ」とか言われかねない、あるいはソドムの時と同じように、悪事を自分たちに働くのではないかと恐れて、そこから出ました。彼はついに洞窟で住む者となりました。

19:31 そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。19:32 さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」19:33 その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。19:34 その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」19:35 その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

 彼女たちは物理的には救われましたが、思いはまだソドムだったのです!確かに、子孫を残すということは必要でしょう。けれども、まずもって自分たちしかこの地球上にいないと早まった判断をしているところに信仰がありません。そして近親相姦をしてでも子孫を残そうとするところに、先の、平気でレイプ集団に娘を渡そうとする文化と似たようなものを見ます。

 私たちは、この肉体が救われてもそれで神の恵みではないことが、ここからよく分かります。神の憐れみかもしれませんが、人の心が変わらなければこの肉体が救われても、また同じことを繰り返すのです。多くの人が、この地震と津波によってなぜ神が多くの人を滅ぼしたのか、と聞きます。むしろ私は問い返したい。「なぜ、あなたが今、このように死なずに生かされているとお思いですか?」と。これほどまでの惨事があり、その惨事から救われていても、なおのこと今の生活を変えることをしていなければ、その生活に大きな意味があるのでしょうか?

19:36 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。19:37 姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。19:38 妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。

 モアブ人は死海の東に住んでいました。アモン人はその北に住んでいました。どちらも今のヨルダンの地域です。そして、この二つの民族が絶えずイスラエルを攻撃するようになります。

 これでロトの生涯の記録はなくなるのです。アブラハムの時からのことを思い出してください。初めは旅を共にしていたのに、アブラハムは神の声を聞いてそれに応答して動いたのに対して、ロトは、自分自身でも神に対面して、自ら信仰によって動いていくという決断をはっきりとしていませんでした。それで、自分の目に入るものによって動いてしまったのです。その結果、アブラハムとロトにはこんなに大きな開きが出てしまいました。大事なのは、心の中にある信仰です。同じ事をおこなっていても、あなたは信仰によって行なっていますか?ということです。

2A 繰り返す嘘 20
 それでは、次の章をざっと見ましょう。再びアブラハムが大きな過ちを犯します。

1B 脅す神 1−7
20:1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、

 ヘブロンにいたアブラハムはさらに南に行きました。そして南でも西のほう、地中海寄りのほうに行きました。

20:2 アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

 なんと、彼がかつてエジプトで犯した過ちをここでも同じように行なっています。

20:3 ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」20:4 アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。20:5 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」20:6 神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。

 エジプトの時よりもさらに大きな脅迫をもって、神はアビメレクに迫りました。もうすでにサラからイサクが生まれる時が近づいている時です。アブラハム以外の子種がサラの胎に入ることによって、アブラハムの子孫が台無しになる、つまりキリストが来なくなるという、ものすごい危機が起こりました。それで神は、かなり強い脅迫でアビメレクに臨まれたのです。

 アビメレクは何らかの病にかかって、彼女のところに入ろうとしていたけれどもできなかったようです。もし体が元気であったら、必ずや彼女と寝ていたことでしょう。

20:7 今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」

 エジプトのパロとの違いは、アブラハムがアビメレクのためには、その癒しのために祈るということです。

2B 癒す神 8−18
20:8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。20:9 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」20:10 また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」

 再び、信仰者である者が信仰を持たぬ者から叱責を受けています。

20:11 アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。

 これは事実だったのでしょう。エジプトもそうだし、ゲラルもそうだし、そしてソドムもそうでした。自分の欲望のはけ口になろうものなら、その夫を殺すことさえ辞さない文化があったのでしょう。

20:12 また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。20:13 神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」

 なぜアブラハムがこんな深刻な過ちを二回も繰り返したか、と言いますと、それは旅を始める前からそのように決めていたからです。私たちはしばしば、「私はこの罪をやめることができません。」と言います。けれども、実は自分の生活習慣の中で、「私はこのようにするのだ。」という決断を始めからしてしまっているがばかりに、止められないことが多いのです。表面的に改めようとするだけでは止められません。初めに戻って、どこで落ちたかを思い出し、やり直すのです。

20:14 そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。20:15 そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」20:16 彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」

 自分に襲った神の脅迫から、彼はアブラハムやサラに手を出すどころか、神を恐れて彼に多くの財産を与えました。「あなたを祝福する者は祝福される」という原則を肌身で体験したのです。

20:17 そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。20:18 主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。

 「あなたを呪う者は、呪われる」という神のアブラハムへの言葉が、一時期、起こっていました。サラの胎を台無しにしようとしていたので、他の女たちの胎が閉ざされるという呪いを受けていました。

 そして大事なのは、アブラハムが預言者として彼らのために祈ったということです。私たちは、主の御名によって人々に祈る特権が与えられています。信者ではない人たちのためにも、積極的に祈ってみましょう。アブラハムのように預言者としての働きをすることができるかもしれません。

 そして、祈ると癒しが与えられます。ヤコブ5章14-16節を読んでみます。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:14-16

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