創世記42−44章 「試される兄たち」

アウトライン

1A ヨセフとの会見 42
   1B 弟の道 1−5
   2B 夢の実現 6−25
   3B 戻される銀貨 26−38
2A 二度目の旅 43
   1B イスラエルのあきらめ 1−15
   2B ヨセフとの食事 16−34
3A ユダの執り成し 44
   1B ベニヤミン 1−17
   2B 保証人 18−34

本文

 創世記42章を開いてください。私たちは前回、ヨセフがエジプトの総理大臣になった話を読みました。監獄にいたヨセフが、パロの夢を解き明かすために呼び出されました。夢を解き明かしただけでなく、その飢饉への対策まで述べたので、パロはその知恵に驚き、彼を自分の次の権威を持つ支配者にしたのです。

 ヨセフはここで自分の人生が終わりだと思っていました。自分から生まれた子には、「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。(41:51」と名づけました。マナセです。彼は兄によって売られたこと、それからポティファルの妻によって監獄に入ったこと、これらのことを忘れることができると思いました。そしてエフライムを次に生みました。苦しみの地で私を実り多い者とされた、という意味です。エジプトの支配者になったということが、彼の人生における神のご計画だと思っていたのです。

 ところが違いました。話はその飢饉がエジプトにとどまらず世界に及んだ話に移ります。

1A ヨセフとの会見 42
1B 弟の道 1−5
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」

 ここで兄たちが顔を見合っているのは、なぜだか分かりますね。「エジプトに下っていきなさい」という言葉を父が言った時に、すぐに自分たちがヨセフに対して行ったことを思い出したからです。ヨセフは37歳以上になっていますが、当時は17歳でした。したがって既に20年以上経っているのですが、兄たちは「エジプトに下りなさい」と聞いただけで、強く反応しているのです。

42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

 ヤコブも決して、過去から立ち上がれていませんでした。愛する妻ラケルから生まれたのがヨセフとベニヤミンです。ヨセフがいなくなってからは、ヤコブはベニヤミンに対して過保護でした。彼は決して失わせてはいけないと思ったのです。

42:5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。

 興味深いですね、彼らはまさにヨセフが通った道を自分たちも歩んでいます。ヨセフは貿易商人に売られてエジプトに行きましたが、同じ道を辿っています。当然彼らは、「自分たちは自分たちがしたことの罰を受けているのではないか。」という恐れを感じていたことでしょう。

 そしてもう一つ興味深いことは、父の名前がヤコブからイスラエルに変わっていることです。ヤコブは彼の元々の名前ですが、イスラエルは神が彼に付けた新しい名です。この名前の交替に何か特別な意味があるのか分かりませんが、もしかしたら「神の導きと支配」を示唆しているのかもしれません。エジプトに降ることが、神の導きの中で行われていることかもしれません。

2B 夢の実現 6−25
42:6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。

 前回41章で読んだとおり、ヨセフはエジプトの穀物を管理する行政の担当官でした。そして、当時の儀礼として当たり前な、顔を地につけて伏し拝む行為を兄たちは行っています。

 けれども、これがまさに20年以上前にヨセフが見た夢そのものなのです。ヨセフは無邪気に兄たちにその夢を告げていました。「見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。(37:7」これで兄たちが怒り、ヨセフを殺そうと言い出したのです。

 この怒りは、イエス様が地上におられた当時のユダヤ人指導者に似ています。「イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』(ヨハネ10:32-33」ユダヤ人は、同胞のユダヤ人であるイエスが、自分だけは別格で父なる神と一つであると述べていたのです。それが彼らがイエスを殺す大きな動機付けでした。

42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。

 ヨセフはエジプト語を話し、兄たちはヘブル語を話しています。通訳がその間に入っています。そしてヨセフはエジプト人の身なりをしていました。それで兄たちはヨセフだと分かりませんでした。

 ヨセフは、感情の高まりで荒々しい言葉になっています。これは決して彼らに対して怒っているということではありません。次回45章を読んでいけば分かりますが、彼は自分に対する神のご計画を十分に悟り、彼らを心から赦しているからです。けれども、家族の絆の中にあるどうしようもない感情が荒々しさに表れました。自分の素性を隠すのに必死なのです。

42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」42:10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。42:11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」42:12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」

 ヨセフ自身が夢を思い出しました。そこで「あなたがたは間者だ」と言っています。これは彼が考えた駆け引きです。今、そこにはベニヤミンがいません。兄たちがベニヤミンに対して何を行ったのか知りたかったのです。つまり兄たちを試しています。

 当時、エジプトはセム系の民が数多く流入していました。そのために、エジプトも敏感になっていたのです。ですから、同じセム系のヘブル人が来たので「間者だ」と疑うのは、他の人たちが聞いていても何ら変に思われなかったのでしょう。

42:13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」

 確かに兄たちは正直に答えました。ヨセフも行方不明ということで、十二人の兄弟の中に加えています。

42:14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」

 ヨセフは今にでも自分の素性を明かして、兄たちに近づきたかっただろうと思います。けれども、ベニヤミンがもっとも大きな懸念材料なのです。愛しいベニヤミンを兄たちは自分たちと同じように扱っているのか、それとも心を入れ替えたのか、これを知りたかったのです。

42:17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

 ヨセフは自分の素性は隠していますが、全てを隠し切ることはできていません。「私も神を恐れるものだから」というのは、その通りです。兄たちをずっと監禁すれば父の家族が飢えてしまいます。それは彼には決してできないことです。それで一人を除き釈放することに決めました。

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

 いかがですか?20年以上経た今でも、この出来事はヨセフに対して行った仕打ちの罰を受けていると彼らは思ったのです。人々は、「時間が解決する」と言います。いいえ、良心というのは神がご自分を啓示するのに与えられた人間の部分であり、いつまでも消えることはないのです。環境や条件が揃えばいつでも鮮明に思い起こし、自分を苦しめることになります。

 ローマ人への手紙1章で、悪いことを行っているのは、「私は神を知らないからだ」という言い訳を言っている人々の姿が出てきます。私がある神道を信じている人に、罪と良心の呵責について話したら、「そんな難しく考えなくていいじゃないですか?」と言われました。いいえ、ヨセフの兄たちの反応が人間の本来の姿です。ローマ1章の最後には、「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら」とあります。死んだら全てが無くなる、のではなく、死んだら神の裁きを受けることを、神について教えられていない人たちも知っている、というのです。

 ヨセフは、彼らの会話で、長子のルベンがこの企みに加担していないことを知りました。

42:23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

 シメオンはルベンの次の兄です。おそらく彼が、「ヨセフを殺そう」と積極的に言ったのかもしれません。

42:25 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。

 ヨセフの心は非常に揺れています。彼は既に、家族を何とかして救いたい、という思いがあります。そして彼らを養うことをすでに考え始めています。銀を返したのは、そのジェスチャーです。

3B 戻される銀貨 26−38

 けれども、これがかえって彼らには恐怖と不安の材料となりました。

42:26 彼らは穀物を自分たちのろばに背負わせて、そこを去った。42:27 さて、宿泊所で、そのうちのひとりが、自分のろばに飼料をやるために袋をあけると、自分の銀を見つけた。しかも、見よ。それは自分の袋の口にあった。42:28 彼は兄弟たちに言った。「私の銀が返されている。しかもこのとおり、私の袋の中に。」彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

 エジプトの行政官に酷い仕打ちを受けたのは、神からの罰だと理解しましたが、銀が返されているのはさっぱり分かりませんでした。けれども、こんなことが起こるのは神が何かされているからに違いない、という認識はありました。

42:29 こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った。42:30 「あの国の支配者である人が、私たちに荒々しく語り、私たちを、あの国をうかがう間者にしました。42:31 私たちはその人に、『私たちは正直者で、間者ではない。42:32 私たちは十二人兄弟で同じひとりの父の子で、ひとりはいなくなったが、末の弟は今、カナンの地に父といっしょにいる。』と申しました。42:33 すると、その国の支配者である人が、私たちに言いました。『こうすれば、あなたがたが正直者かどうか、わかる。あなたがたの兄弟のひとりを私のところに残し、飢えているあなたがたの家族に穀物を持って行け。42:34 そしてあなたがたの末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、あなたがたが間者ではなく、正直者だということが私にわかる。そのうえで、私はあなたがたの兄弟を返そう。そうしてあなたがたはこの地に出はいりができる。』」

 これだけでも、聞いているヤコブにとっては衝撃的だったと思います。そして次です。

42:35 それから、彼らが自分たちの袋をからにすると、見よ、めいめいの銀の包みがそれぞれの袋の中にあるではないか。彼らも父もこの銀の包みを見て、恐れた。42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

 兄息子たちをなじっています。ヨセフがいなくなっただけでなく、シメオンもいなくなりました。そしてベニヤミンまでがエジプトに行かなければならなくなります。それで彼が叫んだのが、「こんなことがみな、私に降りかかってくるのだ」です。ヤコブは、これを悪い運命であるかのように捉えました。

 もし私たちが、悪いことが続けざまに起こったときに、同じ思いが出てきたら、それは間違いであることをしっかり憶えていてください。ヨセフだって、兄に売られ、偽りの告発によって監獄に入れられ、二年間忘れられた、という三重苦を通ったのです。それで、「すべてのことが自分に悪い方に動いている。」と何で断定できるのでしょうか?第一礼拝でも学んだように、事実は、「神を愛する者には、すべてのことを神が良いことの計らいとなされる。」なのです。

42:37 ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」42:38 しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」

 ルベンは、長子として父を説得しようとしています。けれども、実に説得力がありません。ヤコブが息子がいなくなったのを悲しみ、いなくなるかもしれないと恐れているのに、孫を代わりに殺しても良いというのは、もっと悲しみを増やすだけです。自分が責任を取る、という姿勢に欠けています。

 そしてヤコブは、ベニヤミンをあなたがたと行かせない、と意地を張っています。私たちも、「これだけは手放すことはできない。」と思っている物があるでしょう。けれども、神はご自分の憐れみで、手放すことができるようにいろいろしてくださいます。ヤコブの場合は、単純で、「食糧が尽きる」ことでした。

2A 二度目の旅 43
1B イスラエルのあきらめ 1−15
43:1 さて、その地でのききんは、ひどかった。43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ。」

 飢饉が始まってから既に二年が経っています。ヤコブは、飢饉も過ぎ去っていくだろうという希望的観測を持っていたのかもしれません。けれどもまだ続きます。

43:3 しかしユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく戒めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない。』と告げました。43:4 もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは下って行って、あなたのために食糧を買って来ましょう。43:5 しかし、もしあなたが彼を行かせないなら、私たちは下って行きません。あの方が私たちに、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない。』と言ったからです。」

 ここで四番目の息子ユダが説得をしています。かつてヨセフを殺そうという話が出てきた時も、ルベンが介入してヨセフを救おうとしましたが失敗しました。けれども、ユダが「殺さないで、奴隷として売ってしまおう。」と言いました。これからユダが、リーダーシップを発揮します。

43:6 そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」43:7 彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか。』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」

 もっともですね。誰もそんなことを聞くのだろうとは思いません。そして、興味深いのは、ヨセフは「あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか」としつこく尋ねたとのことです。素性を隠しているつもりで、全然隠していません。

43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。43:9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。43:10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

 ユダはルベンと違い、「私自身が彼の保証人となります」と言いました。私たちが不動産を借りる時に保証人を立てるのが必要ですが、軽々しくなれるものではありません。その責任の重みを知っているからこそ、です。それを行ないます、とユダが申し出ました。

43:11 父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、43:12 そして、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。

 実にヤコブらしいです。かつてエサウにも贈り物をたくさん用意しましたが、エジプトの行政官に対しても用意しています。それから彼は正直者です。ラバンの下で働いていたときもそうでした。二倍の銀を返します。

43:13 そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」43:15 そこで、この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った。

 分かりますか?ヤコブは神への信仰を取り戻しました。「全能の神があなたがたをあわれませてくださるように」と祈っています。そして、「私も、失うときには、失うのだ」と言っています。ここが大事です。主の御手に、自分が掴んでいるものを手放したのです。いつまでも自分の手元にあるわけではないベニヤミンを、主に対してゆだねたのです。

 私たちがゆだねる心を持つと、平安が与えられます。状況が変わりなくても、自分自身が変わることができます。状況に左右されない不動の心を持つことができます。

2B ヨセフとの食事 16−34
43:16 ヨセフはベニヤミンが彼らといっしょにいるのを見るや、彼の家の管理者に言った。「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから。」43:17 その人はヨセフが言ったとおりにして、その人々をヨセフの家に連れて行った。

 ベニヤミンを見たので、兄弟たちで食事をしたいと思いました。

43:18 ところが、この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕えるためなのだ。」と彼らは言った。

 ヨセフの兄弟への親愛の行為は、もちろんその意図は知る由もありません。兄たちは、恐ろしいことが待ち受けているとしか考えられませんでした。

43:19 それで、彼らはヨセフの家の管理者に近づいて、家の入口のところで彼に話しかけて、43:20 言った。「失礼ですが、あなたさま。この前のときには、私たちは食糧を買うために下って来ただけです。43:21 ところが、宿泊所について、袋をあけました。すると、私たちの銀がそのままそれぞれの袋の口にありました。それで、私たちはそれを返しに持って来ました。43:22 また、食糧を買うためには、ほかに銀を私たちは持って来ました。袋の中にだれが私たちの銀を入れたのか、私たちにはわかりません。」

 極力、低調に、正直に申し出ています。

43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。

 すばらしいですね、おそらくこのエジプト人のヨセフの補佐官は、ヨセフから神について教えられていたのでしょう。「あなたがたの神、あなたがたの父の神」と言っています。

43:24 その人は人々をヨセフの家に連れて行き、水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えた。43:25 彼らはヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。それは自分たちがそこで食事をすることになっているのを聞いたからである。43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝んだ。

 再び、地にひれ伏しています。夢の実現です。

43:27 ヨセフは彼らの安否を問うて言った。「あなたがたが先に話していた、あなたがたの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」43:28 彼らは答えた。「あなたのしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて伏し拝んだ。

 父の安否が気になっていたので、初めに聞きました。

43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」43:30 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣いた。

 再び「神があなたを恵まれるように」と言って、自分が神を信じている者であることを明かしています。

43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけた。43:32 それでヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した。エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった。

 この習慣に、実は神の救いの大きなご計画が見え隠れしています。カナン人の地にいたとき、ユダがカナン人の妻を取ったように、カナン人と一つになる危険がありました。けれども、エジプト人は自ら外国人を嫌いました。自民族優越主義を取っていました。人種間の交わりを非常に嫌っていたので、彼らが後にエジプトに滞在するようになっても、エジプト人との結婚はなかったのです。そのため、イスラエル人はイスラエル人としてエジプトで増えることができました。これが、神がご自分の民に対する一時的な処置であったのです。

 ヨセフはヨセフにだけ、というのは、エジプト人はヨセフがヘブル人であり、セム人であることを知っていたからです。

 こうした何気のない習慣、文化、社会制度をも神は用いられることを私たちは知らなければなりません。みなさんの生い立ち、その環境、話している言語、教育、これらもすべてが神が備えてくださったものなのです。そして、神はご自分の御心にしたがって、すべてのことを働かせてその目的を果たされます。

43:33 彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。43:34 また、ヨセフの食卓から、彼らに分け前が分けられたが、ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった。

 ヨセフは、自分の素性をかなり明かしてしまっています。年長者から年下へ席次を決めました。同時に彼は、44章に出てきますが、自分にはまじないができて、力を持っているというふりをしているのかもしれません。

 またベニヤミンに五倍の分け前を与えています。これは、もちろんベニヤミンへの強い思いからのものですが、同時に兄たちが、自分に父が寵愛を受けたのを妬んだように、ベニヤミンに対しても同じ仕打ちをするのかどうか試していたのかもしれません。

3A ユダの執り成し 44
 そして次の出来事で、このベニヤミンに対する兄の態度を推し量る試みをはっきり行ないます。

1B ベニヤミン 1−17
44:1 さて、ヨセフは家の管理者に命じて言った。「あの人々の袋を彼らに運べるだけの食糧で満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。44:2 また、私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」彼はヨセフの言いつけどおりにした。

 この杯は非常に高価なものです。これをベニヤミンが盗んだことにします。

44:3 明け方、人々はろばといっしょに送り出された。44:4 彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家の管理者に言った。「さあ、あの人々のあとを追え。追いついたら彼らに、『なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか。44:5 これは、私の主人が、これで飲み、また、これでいつもまじないをしておられるのではないか。あなたがたのしたことは悪らつだ。』と言うのだ。」44:6 彼は彼らに追いついて、このことばを彼らに告げた。

 ヨセフがまじないをしていたとは思えませんので、その振りをしているだけでしょう。けれども、古代はまじないをするための杯というのはありました。

44:7 すると、彼らは言った。「あなたさまは、なぜそのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。44:8 私たちが、袋の口から見つけた銀でさえ、カナンの地からあなたのもとへ返しに来たではありませんか。どうしてあなたのご主人の家から銀や金を盗んだりいたしましょう。44:9 しもべどものうちのだれからでも、それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」44:10 彼は言った。「今度も、あなたがたの言うことはもっともだが、それが見つかった者は、私の奴隷となり、他の者は無罪としよう。」

 兄弟たちは、「見つかった者は殺してください」と言っていますが、ヨセフは「見つかった者は奴隷となりなさい」と言っています。もちろん、ベニヤミンを奴隷にするためです。彼は、ベニヤミンが自分と同じように奴隷の身分になったときに兄たちが、彼を見捨てるのか、何か救済の手を差し伸べるのか、知りたかったのです。

44:11 そこで、彼らは急いで自分の袋を地に降ろし、おのおのその袋を開いた。44:12 彼は年長の者から調べ始めて年下の者で終わった。ところがその杯はベニヤミンの袋から見つかった。44:13 そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返した。

 着物を引き裂くのは、当時、嘆きや悲しみを表す表現でした。

44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にはいって行ったとき、ヨセフはまだそこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。44:15 ヨセフは彼らに言った。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」

 「まじないをしていたから、あなたがたのうち誰が年長で、どの歳の順番なのかを知っていたのだ。」ということを暗に言っています。

44:16 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」44:17 しかし、ヨセフは言った。「そんなことはとんでもないことだ。杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい。」

 ユダは父に約束したとおり、率先して自分たちも奴隷になることを申し出ています。けれども、ヨセフは他の者は無罪だと言っています。ここからがテストです。自分は自由の身になることができるのです。けれども、他の奴隷の身分の者のために自分を犠牲にすることができるのか、という試みです。

2B 保証人 18−34
 これから長い、ユダによる「執り成し」が始まります。教会の中で「執り成し」という言葉が使われていますが、それは「他の人のために、権威者の所で赦免や和解を申し出る」ということです。

44:18 すると、ユダが彼に近づいて言った。「あなたさま。どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。そして、どうかしもべを激しくお怒りにならないでください。あなたはパロのようなお方なのですから。

 初めにユダは、「こんなぶしつけなことを言って申し訳ありません」と前置きをしています。願いを申し上げるときに、そのような資格のない者ですから、どうか憐れんでください、という意味です。自分は罰を受けて当然のことであるという認識を前提にして、あえて申し出るのです。

 多くの人が、自分の願いが神に聞かれなかったと言って、もう神を信じない、という人がいます。あたかも神が自分の願いを聞く義務があると言わんばかりに。けれども、神が主権者であられ、自分は被造物にしか過ぎないのです。そして自分は罪人であり、正しい神に願いを聞いてもらう資格など、これぽっちもないのです。

 イエス様が十字架に付けられていたときに、左右に二人の囚人も十字架につけられていました。ルカによる福音書2339節から読みます。

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 パラダイスの約束を受けた罪人(ざいにん)は、同じ刑罰を受けているのだから当然だと言った上で、あえてイエス様に対して「私を思い出してください」とお願いしています。「キリストだったら、自分と私たちを救え」と要求しているもう一人の罪人とは対照的なのです。このようなへりくだりが、私たちが主の前に出て行くときに必要です。

44:19 あなたさまは、しもべどもに、あなたがたに父や弟があるかとお尋ねになりました。44:20 それで、私たちはあなたさまに、『私たちには年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。そしてその兄は死にました。彼だけがその母に残されましたので、父は彼を愛しています。』と申し上げました。44:21 するとあなたは、しもべどもに、『彼を私のところに連れて来い。私はこの目で彼を見たい。』と言われました。44:22 それで、私たちはあなたさまに、『その子は父親と離れることはできません。父親と離れたら、父親は死ぬでしょう。』と申し上げました。44:23 しかし、あなたはしもべどもに言われました。『末の弟といっしょに下って来なければ、二度とあなたがたは私の顔を見ることはできない。』

 これは先ほどの話の中には出てきませんでしたが、実はありました。「父親は、ベニヤミンと離れたら死んでしまう」という言葉を既に話していました。

44:24 それで、私たちは、あなたのしもべである私の父のもとに帰ったとき、父にあなたさまのおことばを伝えました。44:25 それから私たちの父が、『また行って、われわれのために少し食糧を買って来てくれ。』と言ったので、44:26 私たちは、『私たちは下って行くことはできません。もし、末の弟が私たちといっしょなら、私たちは下って行きます。というのは、末の弟といっしょでなければあの方のお顔を見ることはできないのです。』と答えました。44:27 すると、あなたのしもべである私の父が言いました。『あなたがたも知っているように、私の妻はふたりの子を産んだ。

 ユダは、族長であるヤコブであってもエジプトの総理大臣のヨセフに対して、「あなたのしもべ」と付け加えています。

44:28 そしてひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまったのだ、と私は言った。そして、それ以来、今まで私は彼を見ない。

 ヤコブは、「確かに・・・と私は言った」と言っています。彼は実は、息子たちを疑っていたのです。息子たちが何かヨセフにしたのではないかという疑いも持っていたのです。

44:29 あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになるのだ。』

 「陰府」とは、もちろん地の下にあるところ、死者が行くところです。旧約時代には、全ての人がそこに下りました。新約にて、イエス様が十字架に付けられ、陰府に下られたことによって、旧約の聖徒は天に引き上げられました。そして今の時代は、イエスを信じて死ぬ者はパラダイスに、信じないで死ぬ者は引き続き陰府に下ります。後に復活して、最後の裁きを受けた後に、ゲヘナと呼ばれる火と硫黄の池に投げ込まれることになります 

44:30 私が今、あなたのしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちといっしょにいなかったら、父のいのちは彼のいのちにかかっているのですから、44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべであるしらが頭の私たちの父を、悲しみながら、よみに下らせることになります。

 ユダにとっての一番の懸念は父のことでした。

44:32 というのは、このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります。』と言って、あの子の保証をしているのです。44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。44:34 あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

 ついに出てきました、ユダの執り成しは「自分が身代わりに奴隷となる」ということです。奴隷とされたベニヤミンを解放するために、そして父の心を知っているがゆえに、自分自身が永久に奴隷となる、という仲裁です。この執り成しによって、ヨセフは次45章で自分のことを明かします。兄たちは確かに、ベニヤミンのことを思っていて、以前の彼らではないことが証明されました。

 いかがでしょうか?ある未信者の方が、「他の人のために犠牲となって死ぬことなんて、到底できるものではない。」と仰いましたが、本当にその通りですね。一生涯、他の人のために奴隷の身分となるのです。けれども、父を思うがために、また弟を思うがために、彼はその決断をしたのです。イエス様は、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39」と言われました。ユダの必死の執り成しは、後に来られるキリストの執り成しを表していました。

 私たちは、この麗しい話を「なんて感動するのでしょう!」というヒューマン・ドラマにしてはいけません。この話は、ユダから出てくる子、キリストご自身を指し示しています。私たちは、ベニヤミンと同じように奴隷状態でした。罪の奴隷でした。奴隷市場で売られているのを、父なる神が、キリストの血という代価を払って、買い取ってくださったのです。ですから私たちは自由人であり、神の所有の民となったのです。

 ユダが父の心を知っていて自らを奴隷の身として差し出したように、キリストはご自分の父の心を知っていて、罪の奴隷であった私たちの代わりに、その罪を十字架上で負ってくださったのです。そしてそれは一回性のものでありましたが、今、日ごとにイエス様は私たちのために執り成しをしておられます。ローマ834節をご覧ください。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ですから、過去だけでなく、たった今も、私たちを罪に定めようとする悪魔の告発に対して、キリストがご自分の犠牲を根拠にして、父なる神の前で弁護してくださっているのです。

 このキリストを私たちは仰ぎ見ましょう。キリストも十字架に至るまで、兄たちと同じように最後まで試されました。ゲッセマネの園において、もだえ苦しみましたが、その結果、「父のみこころの通りになるように」という祈りを捧げることができました。私たちも、信仰の試験の中にいる人生を歩んでいます。使徒パウロは、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5」その試験を通って出てきた真価は、とてもなく尊く、栄光に満ちたものになります。

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