創世記453-8節 「赦しと和解」

アウトライン

1A 自分を名乗るヨセフ
    1B あいさつ
    2B 近寄り
    3B 慰め
2A 神の計画
   1B 「いのちを救うため」
   2B カナン人から離れる
   3B エジプトの支配者
3A 和解の後の交わり

本文

 創世記45章を開いてください、第二礼拝では45章から47章までを学びますが、第一礼拝では453-8節に注目してみたいと思います。

45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 ついにヨセフが自分のことを明かしました。彼は、自分のところで食事をした兄弟たちが帰る時に、銀貨を袋に戻して、自分の高価な銀の杯をベニヤミンの袋の中に入れました。そしてベニヤミンが取ったことにして、彼だけがエジプトで奴隷となればよいと提案しました。そして兄たちがどのように反応するかを試したのです。

 ユダがベニヤミンの執り成しをしました。彼がいなくなったら父が死んでしまう、だからベニヤミンの代わりに私が保証人となって生涯奴隷となります、と言いました。それでヨセフはもう我慢できなくなったのです。大声で泣いたので、パロの宮廷にその声が広がりました。そして今の言葉を兄たちに話したのです。

 私たちはヨセフの生涯を通して、「すべてのことを働かせて善としてくださる神」の働きを見ていますが、今日そして次週は、「そこにある罪の赦しと和解」について学びます。ヨセフが兄たちをどのようにして赦したのかを見ることができ、その赦しは全きものであったのを見ます。

 私たちにとって、「人を赦す」「和解する」「仲直りする」という課題がどれだけ大きいかは誰でも知っています。何が問題かと言ったら、人間関係なのです。しかも、もっとも近しい人たちとの関係が難しいのです。そして関係がこじれてきた時に必要なのは仲直りです。回復です。過去のしこりを残さないようにするような関係作りです。これは、単なるテクニックでは当然解決しません。しかし、神のご計画に対する深い理解の中で可能なのです。

1A 自分を名乗るヨセフ
1B あいさつ
 ヨセフはまず、自分がヨセフであることを告げました。「私はヨセフです。」と言っています。さらに、彼らに近寄って、「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」と言いました。ここには優しさが込められています。個人的に非常に近い人にしか分からない親愛の言葉です。

 彼はもちろん、この時点でエジプト人の格好をしています。そしてこれまでエジプトの言葉を話していました。彼の名前は、パロが与えた「ツァフェナテ・パネアハ(41:45」です。その人が突然、泣き出して、そしてヘブル語に言葉を変えて、「私はヨセフ」だと言ったのです。どれだけ兄弟たちは驚き、恐れたことでしょうか。

 イエス様も、同じように「わたしだ。恐れることはない。(マルコ6:50」と言われたことがありました。イエス様は、夜中に向かい風のために漕ぎあぐねている弟子たちの舟に、近づいていかれました。湖の上を歩いておられました。けれども弟子たちは、幽霊だと思い、怖くなって叫び声をあげました。その時にイエス様が、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたのです。その声を聞いたときに、弟子たちには安堵が心の中に入ってきたことでしょう。その声を聞いただけで、イエス様の優しさが伝わってきました。「羊は、(羊飼いの)声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネ10:4」とイエス様が言われた通り、彼らは時間をたくさん取って、交わってくださったイエス様の声にすぐに聞き従うことができたのです。

 ですから、ヨセフは個人的な親しみをもって兄弟たちに自分の名を明かしました。

2B 近寄り
 兄弟たちは、ベニヤミンを除きヨセフの兄です。ヨセフを殺そうとし、また奴隷として売った者たちです。20年以上経っても弟に対して行ったことで恐れを覚えていたのに、突如として今、ヨセフ自身が自分の目の前に現れました!

 ここに、「兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。」とありますが、これは単なる意表を突かれた驚きではなく、それ以上に恐怖に包まれた恐れでしょう。ヨセフに仕返しされて殺されるかもしれない、ましてやエジプトの宰相である者がヨセフだったら殺されることは間違いない、という恐怖の戦慄が走ったのだと思われます。

 けれども、ヨセフは近づきました。「どうか私に近寄ってください。」とヨセフは言っています。これはおそらく、ヨセフの顔をじっくりと見てもらい、確かにヨセフであることを知ってもらうためであることもありますが、もしかしたら、エジプトの宮廷の人たちに聞こえないようにする配慮だったかもしれません。

 ヨセフは、「あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフ」と言っています。このようなあまりにも恥ずかしいことを、他の人たちに聞こえないようにする配慮があったかもしれません。確かに話している言語はヘブル語ですが、それでもエジプトの宮廷で、ヘブル語に通訳できる人もいるのですから、理解されてしまいます。

 ヨセフは、彼らが最も触れられてほしくないその恥部に触れる時に、優しく、へりくだって語りました。イエス様がそのような方でした。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:28-29

 多くの人が、「あなたは罪の赦しを受けるために、罪の告白をしなければならない。」と言います。もちろんその通りです。けれども、すべての人の前で、大声で言わせるようなこと、あらゆる罪をその人の自発的な行為を度外視して告白させることは、断じてイエス様の方法ではありません。罪の告白は、それだけでも多くの恥をともない、勇気の要る行為なのです。そのことを配慮して、柔和な心で接する雰囲気の中で行うものです。ヨハネ第一19節にも、同じ神の姿が描かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」神は真実で正しい方なのです。

3B 慰め
 そしてヨセフは、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」と言いました。兄たちは、ヨセフを売ったことについて、その罪で心を痛めたり、怒ったりしていました。初めてヨセフに会った時に、彼らはこう言い合っています。「『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』ルベンが彼らに答えて言った。『私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。』(42:21-22

 罪を悔いることは必要です。罪を悲しみ、してしまったことに対して怒り、心を痛めることは必要です。そうせずまだ笑っている、平気でいる人に対しては、神はこう言われます。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 (ヤコブ4:9」けれども既に罪に対して悲しみを覚え、怒りを覚えている人たちに対しては、神は恵みをもって臨んでくださいます。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(同4:6

 それでヨセフは、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」と言っているのです。罪を悔いる者に与えられているのは豊かな憐れみと恵みです。そして、そのような態度で罪を悔いる人たちには接するべきです。

2A 神の計画
 そしてヨセフが、なぜこのように兄たちを全き心で赦すことができたのか、その土台になっているものを明かします。

1B 「いのちを救うため」
 「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」とヨセフは言いました。7節には、「それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。」と言いました。そして8節に、「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」と言っています。ヨセフの心の中で、神が兄が自分を売ったという出来事を積極的に用いられたということが整理できていました。これを「摂理」と呼びます。神があらゆることを用いられて、相働かせて、ご自分の目的の通りに向かわせる働きのことを指します。

 創世記の学びを思い出してください。アダムが罪を犯し、それによって「女の子孫」を与えると神が約束されました。子孫から、人を神から引き離した罪を取り除くメシヤを遣わされる計画を神は立てられました。そして、その子孫の約束は、新しく神の所有の民を造られることによって実現なさることを神は決められました。呼び出されたのは、アブラハムという人です。そしてアブラハムの子イサクが、そしてイサクの子ヤコブが、その約束を受け継ぎました。

 けれども神は、飢饉が世界に広がることを知っておられました。ヤコブは、神が約束された地であるカナン人の地にいますが、このままでは死んでしまいます。これまでも、たとえばアブラハムやイサクが異教徒の王に自分の妻を引き渡す過ちを犯しましたが、その度にその危機を回避すべく介入されました。

 この時も同じです。飢饉が来ることに対して、神はヨセフをご自分の救いの器にすることを決められたのです。それでヨセフが17歳の時に、彼に夢を見せました。畑の中で自分の束が立っていて、他の兄たちの束が自分におじぎをするという夢を見せられました。それで兄がねたみ怒って、ヨセフを殺そうと企んだのです。興味深いことに、彼らがこの夢が起こらないように彼を殺そうとし、それを思いとどまってエジプトに売ったのですが、それがきっかけとなって、かえってその夢が実現するという事が起こったのです。神のご計画を阻止することは決してできません。

 ヨセフは、その17歳という若さもあってか無邪気に自分の夢を兄に明かしました。それがきっかけとなって兄と仲が悪くなるのです。このようなことが起こると、私たちは急に真面目になります。「ヨセフはもっと人格的に成長すべきであった。言葉をもっと慎むように。」ヨセフの行動や言葉、内面に一挙に集中して、その原因を探ります。私たちもそういうことをしますね。「あの時の一言を言わなければ良かった。自分の性格はなぜ直らないのか。」などと、過剰に自省するし、また周りの人たちも過剰に反省を促します。

 ここですべて忘れ去られているのは、神のご計画なのです。神の摂理なのです。神はヨセフを咎めることは一切されません。むしろ、神は彼がエジプトの奴隷になっているときに、常にいっしょにおられました。私たちは、私たちの不足に目を向けるのではなく、むしろその不足にも関わらず大きな事を行ってくださる神に私たちは目を向けるべきです。

 そして神は、ヨセフがエジプトの中枢に近づくようにされました。奴隷として、パロの廷臣ポティファルに売られるようにされました。そして、さらにポティファルの管轄する監獄に彼を送り込みました。なぜなら、そこにパロの側近である献酌官長が入ってくるからです。そのために神は、ポティファルの妻が偽りの告発をするのをお許しになりました。

 さらに神は、なんと献酌官長がヨセフの要請をうっかり忘れるように導かれました。それは、二年後にパロに、七年間の豊作と七年間の飢饉の夢を見せられるためです。ヨセフが直接パロに会うことができるように、神は忘れることをお許しになったのです。

 分かりますか、私たちは近視眼的になって、目の前で起こっている理不尽なことに目を留めて、その原因探しや分析を始めると、神の意図を見失うのです。神はそのような小さな方ではありません、この世をお救いになるためにご自分の御子をさえ惜しまずにお与えになったという、あまりにも気前の良い、大きな方なのです!

 もちろん、兄がヨセフを妬んだこと、ポティファルの妻がヨセフについて偽ったこと、これらすべてが、神が直接引き起こしたものではありません。それらは彼らの欲望であり、彼らの罪なのです。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15」人間には自由意志が与えられています。したがって、神でさえ人が罪を犯すのを無理やりやめさせることは行われないのです。むしろ、このような悪を人が行うことをさえ予め知っておられて、その悪をかえって良いことに計らってくださるのです。

 このようなとてつもない大きな神のご計画にヨセフは圧倒されました。ローマ11章の最後に「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36節)」とありますが、このことをヨセフは悟りました。この圧倒的な神の知恵と知識に押されて、彼は兄たちが行ったことを心の底から赦すことができたのです。

 十字架も神の知恵の結集です。誰が、十字架によって全人類が罪からの救いを得るようになると考えたでしょうか?「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』(1コリント2:8-9

 この豊かな神の知恵と知識に触れる時に、私たちはほかの人を赦すことができます。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32」キリストが十字架の上で私たちの罪を赦してくださったという知恵の中に立つときに、私たちは、「自分に対して罪を犯した」その相手と自分との間に神を置くことができるのです。

2B カナン人から離れる
 そしてヤコブの家族がエジプトに下ることについて、神はもう一つの目的を持っておられました。詩篇105篇によりますと、カナン人の中で寄留している小さな家族のことが描かれています。カナン人からの危害を受けそうになっていた時に神が守られている様子が描かれています。そして、「こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。(16節)」とあります。

 つまり、飢饉さえも神が引き起こされたものであり、それはヤコブの家族をカナン人の中から引き出し、エジプトの中で増やし、大きくされることを考えられたからです。そこでは、エジプト人ほうが外国人を嫌っていました。特に羊飼いを行う人たちを避けていました。したがって、羊飼いである彼らはエジプト人を嫁にもらうという心配もありませんでした。イスラエルを大きな民として育てるために神は、飢饉によってヤコブをエジプトに移すというご計画も持っておられたのです。

3B エジプトの支配者
 ヨセフは、このような神の深遠な計画だけでなく、神が彼に与えられた栄光についても話しています。「神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」だれがそのような栄誉を受けられると思っているでしょうか?このように、神が高い所に引き上げてくださる方であることを知って、その恵み豊かさの中にいたので、兄たちを赦すことができたのです。

 私たちが、「キリスト者」になったという特権と栄光をよく考える必要があります。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17」キリストとの共同相続人というのは、キリストが受ける相続と同等の相続を受け継ぐ、という意味です。キリストが父なる神から受け継ぐものとはどれだけ大きいのでしょうか?全世界です!キリストが全世界をご自分のものとされて、私たちはその全世界をキリストと共に自分たちのものとする、という意味です。私たちが何で、「自分は貧しい」と卑下する必要があるのでしょうか?世界は私たちのものなのです!全世界を支配されている神の、直属の子孫が私たちなのです!

 このような豊かさの中に生きる時に、私たちは人を赦すというのがどういうことかが分かります。過去に自分に対してしたことなど、その神の栄光に比べれば無に等しいのです。それで、十分に赦すことができるのです。圧倒的な神の恵みに満たされること、これが赦しの秘訣です。

3A 和解の後の交わり
 そして最後にヨセフは兄たちと和解した後に、15節ですがこうあります。「彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。」和解をした後に、交わりを回復させました。互いに語り合う時間を持つことができました。もちろん、これは時間がかかります。兄たちはまた罪の意識を思い出して、ヤコブが死んだ後に罪の赦しをヨセフに請うのです。けれども、ヨセフは優しく語りかけ、続けて兄たちと交流を持っていったのです。

 私たちもこのようになりたいですね。そのためには、神のご計画を知ってください。そのすばらしさに圧倒されてください。そして、キリストをその人に分かち合ってください。喜びと平安が満ち溢れる時に、私たちは相手が自分に犯したことなど気にしなくなります。むしろ、その悪でさえも神が善に変えてくださっているのを見ることができ、憎しむ気が失せてしまうのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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