創世記9−11章 「民族の始まり」

アウトライン

1A 新しい祝福 9
   1B 「生めよ、増えよ」 1−7
   2B 虹の契約 8−19
   3B カナンへの呪い 20−29
2A 民族の分布 10
   1B ヤペテ 1−5
   2B ハム 6−20
   3B セム 21−32
3A 新しい民族へ 11
   1B バベルの塔 1−9
   2B セムの系図 10−26
   3B アブラハムの登場 27−32

本文

 創世記9章を開いてください。私たちは、ノアとその家族が箱舟から出てきた所までを読みました。そして神は新たに祝福の命令を与えられます。

1A 新しい祝福 9
1B 「生めよ、増えよ」 1−7
9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。9:2 野の獣、空の鳥、・・地の上を動くすべてのもの・・それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

 かつて主がアダムに、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と命令されたように、同じようにノアとその息子たちを祝福されています。人類を完全に滅ぼすことはせず、やり直しを与えてくださいました。神は、やり直しをしてくださる方です。私たちがたとえ失敗しても、恵みを与えて新たに祝福してくださいます。

 ただ、アダムに与えた祝福とノアに与えた祝福には、多少、違いがあります。一つは、アダムに対しては動物界を「支配させよう」「従えよ」という命令があったのに対し、ノアに対してはそれがないことです。それは、神が人に任された被造物の支配を、アダムが罪を犯したために悪魔に移ったためです。聖書には、悪魔は「この世の君(ヨハネ12:31」と呼ばれています。

 そして、アダムに与えられた祝福とノアに与えられたものとのもう一つの違いは、動物の肉を食べて良いことです。アダムの時は、動物はいけにえのため、衣を作るためには殺されましたが、食べ物のためには殺されませんでした。けれども、今はそれを食べてもよいと言われ、そして動物は人間に食べられるという恐れを、神は動物に与えられました。

9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

 肉は、血を抜いて食べます。これは後に、モーセによって律法が与えられた時に、はっきりと神からの命令として与えられたものです。けれども、キリストが来られた今、私たちはもはや律法の下にはいないので、血を絞り出して食べる必要はありません。

 けれども、その理由が大切です。「血は命だ」ということです。これは医学的にもそうですし、象徴としてもその通りです。医学的には、血によって初めて酸素が脳内に回り、それで生きられます。ですから、血を食べるということは、象徴的にその命を食べることを意味し、命の尊厳することから血を食べてはならないと神が命じられたのです。

9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 これは、神が、カインがアベルを殺したことを覚えておられた定められたものです。カインの殺人は、その子孫に受け継がれ、彼らはますます暴虐に陥りました。そこで、命を守るために、命をもって命の対価を支払うという死刑制度を人に対して与えられました。覚えていますか、私が以前、「人間を殺すのと動物を殺すのでは、なぜその刑罰が異なるのか。」ここに答えが書いてあります。「神がご自分のかたちに人をお造りになった」からです。

 人が人に対して死刑を執行する権威を神がお与えになりました。これは政府の原型であり、政府の始まりと言って良いでしょう。ローマ人への手紙13章で、パウロが教会の人々にこう教えました。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(1節)」悪のない完全な状態は、この世において期待することはできません。イエス・キリストがこの地に戻ってこられて、神の国を立てられる時を待たなければいけません。けれども、それまでの間、神は政府や国の権威を通して、悪を抑制しておられます。もちろん、政府自体が腐敗して、悪がはびこることがあります。けれども、全くない無政府状態よりは優るのです。

 ですから、私たちは国で働く人々、例えば警官の人々に感謝すべきですね!自分がスピードの出しすぎでお巡りさんに止められた時、感謝しなければいけません。彼らは国の僕であると同時に神の僕なのです。

2B 虹の契約 8−19
9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

 かつて主は、箱舟を造りなさいと命じられた時、「あなたと契約を結ぼう(6:18」と約束されていました。それを今、実行されます。契約の相手は、人間だけでなく、動物を含めて全てです。なぜならそれは、「大洪水をもって滅ぼすことはしない」というものです。

 ところで、この洪水が地域的なものであったという意見を言う人たちがいます。それは前回、すべての山々が水に覆われたという箇所で間違っていることを話しました。そしてもう一つ、全世界の洪水であったと言える大きな根拠は、もし地域的な洪水であればこれまで何度もこの歴史の中で起こってきたからです。神がここで語られている約束を守らなかった、ということになります。けれども世界に及ぶ大洪水であれば、私たちは一度もそれを経験していないのですから、神は約束を守っていてくださっています。

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

 契約というものには印があります。私たちが契約を結ぶ時は、印鑑がその印でありますが、それをもってその契約が有効であることの確認をしているのです。ノアとの契約の時は、それを「」にしてくださいました。

 ノアたちはこれまで、雨を経験していなかったので虹も見たことがありませんでした。けれども、雨が降り、その後、晴れるときに虹が出てきます。それは、その雨が大洪水に至らずに神が止ませてくださったことの印になっています。私たちは何度となく虹を見ていますね。その時に思い出してください、神がその虹を見ておられて、そしてこのノアとの契約を思い起こしてくださっているのです。今でも、この契約は有効なのです。

 聖書には、このように契約によって人と関わりを持つようにしてくださる歴史が始まります。私たちと神との関係は、感情や、また状況に左右されるあやふやなものではありません。神ご自身がご自分にかけて誓い、ご自身をその契約の中に拘束させるという強い結びつきです。そして、契約が聖書の中で現れる度に、主は確認の印をも与えてくださいます。

 今日の学びの最後のところでアブラハムが出てきます。神は後にアブラハムと契約を結ばれますが、その印は割礼でした。割礼とは、男子の赤ん坊の性器の包皮を切り取ることです。そしてモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。その印は安息日でした。そして後に、ダビデ王と契約を結ばれます。それは、彼の世継ぎの子からキリストが出てきて、神の国を治めるというものです。その印はキリストが処女から生まれる、というものです。

 そしてモーセとの契約をイスラエルが違反したために、神が新たに結ばれる契約がありました。それが「新しい契約」です。その印が、キリストご自身が流される血です。私たち教会はその契約を改めて思い出すために、聖餐式を持ちます。キリストの肉体が裂かれたことを思い出すために、裂かれたパンを食べ、キリストが流された血を思い出すために、ぶどう酒を飲みます。

9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。

 さて、ここからです。私たちはアダムの子と言うこともできますが、ノアの子とも言うことができます。どの世界の人々もアダムを先祖に持っているだけでなく、ノアも先祖に持っています。けれどもここにあるように、私たちは様々な民族や国語や国々に分かれています。これから、その民族に分かれていく歴史を見ていくことになります。

3B カナンへの呪い 20−29
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

 ここを読むたびに、私たちはびっくりします。あの正しい人で、全き人と呼ばれたノアが、泥酔して裸になっているのです。聖書は徹底的に、完璧な人などいないことをはっきり表しています。全ての人が罪を犯し、誰一人として義人はいないことを教えています。

 そして、お酒を飲むことについてですが、聖書ではっきりしているのは、泥酔は肉の行ないであり、罪であるということです。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラテヤ5:19-21

 日本は泥酔している人たちにあまりにも寛容です。けれども、ノアが裸になって愚かさを表したように、泥酔している人々はその愚かさを表します。街角で、突然、人に殴られたという女性の人たちの実際の話を聞いたことがありますが、それを「酔っていて何も覚えていない。」と言い訳します。そしてお酒のせいでどれだけの家庭で暴力が増え、妻また子供が被害を受けています。けれども、文化や世間はそれに対して寛容であろうとします。けれども、明らかに罰せられるべき罪です。

9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。9:27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」

 この箇所は、表面的に読むと、ノアが頭に来て、それでハムを呪ったように見えます。けれども、そういうものではありません。著者モーセは、注意深く、ハムではなく、その子カナンが呪われていることを書き記しています。ハムが行なったことは、彼の子カナンの子孫であるカナン人が後に行なうことを、予め示していたからです。

 ハムと、他の二人の兄の違いは何でしたでしょうか?カナンは父の裸を見ましたが、セムとヤペテは、顔を背けて父の裸を見ませんでした。見たか、見なかったかの違いです。けれども、この「見る」のヘブル語の動詞は「じっくりと見る」という意味合いがあります。つまり、ハムはただ父が裸なのが見えたのではなく、じっくりと見ていたのです。

 彼のその態度は、「あざけり」と「見下し」です。父の権威に対する反抗です。それを発展させて、神の権威に対する反抗やあざけり、そして堕落していく姿をカナン人が見せていきます。カナン人の中には、ソドムとゴモラの住民もいます。男色に満ちあふれていた町ですね。最終的に、モーセの後継者であるヨシュアが、神が約束してくださった土地に入るときに、神はこれらカナン人をことごとく滅ぼしなさいとイスラエルに命じられました。

 セムに対しては、「セムの神、主を。」と言ってノアはほめたたえています。これは預言の言葉であり、セムから出てくるイスラエル人からメシヤ、キリストが出てくるからです。そしてヤペテについては、「ヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」と言っていますが、ヤペテの子孫の広がりは10章の初めに出てきます。広範囲に広がるのですが、セムの影響下に入ります。霊的に入ります。ヤペテはロシア南部からトルコ、そしてヨーロッパに至る諸民族です。そこにイエスを信じるユダヤ人が宣教に行き、ユダヤ人のメシヤを信じていくようになるのです。

9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。9:29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 これでノアの生涯が終わります。

2A 民族の分布 10
1B ヤペテ 1−5
10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。

 10章はノアの系図というよりも、民族の分布図になります。聖書を信じる人たちだけでなく、一般の民族の分類においてもこの箇所を多くの人々が用います。それだけ、歴史上に出てくる民族に、深く関わりのある名前が出てきます。

10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。10:3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。

 初めに、ヤペテの子孫です。ヤペテはノアの二番目の息子です。彼から出てくるのは、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」これらは黒海とカスピ海の辺りから小アジヤ(今のトルコ)に至るところに住んでいた人々です。同じくゴメルの子孫のアシュケナズ、リファテ、トガルマも同じです。

 「ヤワン」はギリシヤ人のことです。そして「マゴグ」はロシア南部の民族ですが、エゼキエル書38章に、「マゴグの地の大首長ゴグ」ということで、終わりの日にイスラエルを攻める主要な民族として出てきます。

 そしてヤワンの子孫で「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」とありますが、ヨーロッパ南部、地中海沿いのところいた民族です。タルシシュはスペインにおり、イスラエルにとって地の果てのところとしてしばしば聖書に登場します。有名なのはヨナ書で、預言者ヨナがヨッパからタルシシュ行きの船に乗りました。

2B ハム 6−20
10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。10:7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。

 ハムの子孫は、主に北アフリカに位置します。「クシュ」はエチオピヤのことで、今のエチオピヤだけでなく、スーダン、そしてエジプトの南部にまで広がった国です。そして「ミツライム」は、エジプトのことです。エジプトにいくと、今でもミツライムの名を使った名称が数多く出てきます。そして「プテ」は、今のリビアにあっただろうと言われています。ソマリアだという人もいます。

 そしてクシュの子孫は主にアラビア半島南部にいました。特に「シェバ、デダン」は、ソロモンに表敬訪問した「シェバの女王」で有名ですね。現在のサウジアラビアです。

10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。10:9 彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、10:12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

 10章は、「ニムロデ」という人物に注目しています。彼が、11章に出てくるバベルの塔を建てるのに大きな役割を演じた人であろうと考えられます。彼の王国に「バベル」があり、そして「シヌアルの地にあった」とあります。そしてその後に「アシュル」に行ったとありますが、これは古代アッシリヤのことであり、イラク北部にあるところです。バベルの塔の事件以来、彼自身が世界に散っていったと考えられます。

 彼は神なる主の権威に反抗した者でした。「主のおかげで、力ある猟師」とありますが、これは否定的な意味で使われています。「主の前で力ある猟師」と訳したほうがよいでしょう。「ニムロデ」という言葉そのものが「反抗」という意味だからです。先ほど、父の権威を侮り、その裸を見たハムのように、ニムロデには神に対する権威を侮り、見下す態度がありました。そして彼は猟師でありましたが、単に動物の猟だけでなく、人の魂の猟をする者になりました。権力者となり、人々を次々と蹂躙していったのです。

 預言者ミカが、後にニムロデの事を言及します。「彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。(5:6」これは、その前に出てくる「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。(2節)」という預言の続きです。ベツレヘムの町から、家畜小屋でマリヤからお生まれになったイエス・キリストが、後にアッシリヤ、そしてニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす、とミカは預言したのです。

 主イエス・キリストが行なわれたことは、この世の最も強大な権力者でさえ打ち勝つことのできないことを行なわれました。それは死からの復活です。罪から死が入ってきました。この罪そのものを打ち滅ぼしてくださったのです。そして主イエス・キリストはこの世界に再び戻ってこられます。そして、神に反抗するすべての者たちに対して、また世界の王たちに対して戦われ、これらを打ち殺し、平和に満ちた神の国を打ち立ててくださるのです。

10:13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、10:14 パテロス人、カスルヒム人・・これからペリシテ人が出た・・、カフトル人を生んだ。

 地中海の島々の民族ですが、「ペリシテ人」という聖書の中で有名な民族が出てきました。彼らは地中海に浮かぶクレテ島から来た民族で、地中海の沿岸、イスラエルの南部に五つの町を立て、そして紀元前1400年辺りからイスラエルの地に侵入してはイスラエル人を苦しめていた民族です。

10:15 カナンは長子シドン、ヘテ、10:16 エブス人、エモリ人、ギルガシ人、10:17 ヒビ人、アルキ人、シニ人、10:18 アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。

 ここに、ヨシュアたちが約束の地に入った時に、神からことごとく滅ぼせと命じられた民族が並んでいます。彼らを理由なく殺しなさいと神は命じられたのではありません。彼らの悪があまりにも酷かったために、もしそのままにしていたら彼ら自身で自分たちを滅ぼしていったことでしょう。淫らなことをして、それで出てきた幼児を偶像のいけにえとして捧げました。後に、イスラエル人がその慣わしの影響を受けて彼ら自身が行なってしまったために、エルサレムが滅ぼされるという裁きを受けました。ですから、「のろわれよ。カナン。(9:25」というのは、それゆえの神の警告だったのです。

10:19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。10:20 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。

 「シドンからゲラル」とありますが、これはレバノンにあるシドンから、イスラエル南部の地中海沿いにある町であるゲラルのことです。つまり、今のイスラエル全域に住んでいた人々でした。それだけでなく、死海のところにもカナン人はいて、「ソドム、ゴモラ」があります。彼らも、その邪悪さのゆえに神の裁きを受けます。

 そして、ヤペテの子孫にも、ハムの子孫にも「分かれ出た」という言葉がありますね。5節、そして18節です。セムの子孫にも25節に出てきます。なぜノアの家族は一つの民、一つの言葉だったのにこのように分かれ出たのか、という経緯が11章のバベルの塔に出てくる話しなのです。

3B セム 21−32
10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。

 セムが、「エベル」の先祖であることが強調されています。この言葉から派生して「ヘブル人」と呼ばれます。ヘブル人はイスラエル人であり、そしてユダヤ人です。みな同じ人々のことです。」

 「エベル」の名前の元々の意味は、「越える」です。初めのヘブル人であるアブラハムは、偶像礼拝の町から、神に呼び出されて出て行き、そしてユーフラテス川を渡ってカナン人の地に行きました。つまり、偶像の生活から決別し、天地を造られた生ける神に従うという意味合いが、この名前に含まれているのです。

10:22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。

 エラムは後にペルシヤの国になるところで、今のイランです。アシュルは、先ほど話しましたようにイラク北部です。そしてアラムは、シリアの古代名です。

10:23 アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。10:25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。

 「ペレグ」というのは「分かれる」という意味があります。「地が分けられた」とありますが、これを「大陸移動」と見る人たちもいます。地は一つであったが、ペレグの時に、例えばアメリカ大陸とアフリカ大陸が分かれ、アフリカ大陸と、インドのユーフレテス大陸が分かれた、というように、です。

 あるいは、もっと単純に先ほどから見ているように、言葉が分かれたことによって、民族がそれぞれの地域に分かれていった、と読むことができます。そう読むならば、ペレグの時代に次の章のバベルの塔の事件が起こったと考えられます。ハムの子孫においてはニムロデの時代に起こりましたが、セムの子孫においてはペレグの時代に起こったと考えられます。

10:26 ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、10:27 ハドラム、ウザル、ディクラ、10:28 オバル、アビマエル、シェバ、10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。

 「オフィル」というのは、アラビア半島の南のところにありますが、金が採掘されるところとして聖書に出てきます。

 そして「ヨバブ」を、ヨブ記の「ヨブ」ではないかと言う人たちもいます。そうでなくても、ヨブ記はモーセが創世記を書いた時よりも前に書き記されたのではないかと言われています。モーセが紀元前1440年頃、創世記から申命記を書き記したのですが、ヨブはおそらくアブラハム、イサク、ヤコブの生きていた族長時代に生きていました。

10:30 彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。

 主にサウジアラビアの地域です。

10:31 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。10:32 以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。

 何度も強調していますね、「諸国の民が地上に分かれ出たのであった」と言っています。それで11章です。

3A 新しい民族へ 11
1B バベルの塔 1−9
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

 当然ですよね、ノアの家族は一つの言葉を話していました。私は以前、クリスチャンではない言語学者の人から話を聞いたことがあるのですが、「諸言語は、元々一つであった。」と仰っていました。言語学的にも、ここの聖書の言葉と一致しています。

11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

 住まいを頑丈に作りました。煉瓦に瀝青、つまりアスファルトを塗ったのです。その理由は、第一礼拝でお話ししたように、洪水の記憶が残っていたからです。その恐れから彼らは自分たちを守ろうとしました。

 けれども、すべての安全は主から来ます。主に不従順だったから水の滅びを受けたのであり、主に従っていれば安全なのです。ヨハネ第一に「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17」とあります。

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

 自分たちで自分たちの安全を確保した後、彼らは高慢になりました。そして神にさえ至る塔を建てようとしました。そして神の御名ではなく自分の名声が上げられるように願いました。そして明らかな、故意の反抗をここに見ます。「われわれが全地に散らされるといけないから。」主は、「地を満たせ」と命じられたのに、それに反抗したのです。

 そしてこの塔の上で行なっていたことは、天の万象を拝む偶像礼拝でした。かつてアダムとエバが、いちじくの葉をつづり合わせて自分の恥を隠そうとしましたね。自分の行ないでは、罪意識を拭い去ることはできないけれども、それをしようと努力するのが宗教だ、と話しました。それを大胆に行なっているのが、ここバベルの塔です。神など要らない。私たちが、自分たちで天に達することができるのだから、という人の力を信じて、あらゆる教えや儀式を作っているのが宗教です。

 このバベルの塔が、偶像礼拝あるいは偽りの宗教の始まりです。まことの神をあがめるのではなく、その代替物を拝むようになったのはここが始まりです。それで、バビロン宗教にあるものは他の偶像礼拝の中にも共通して見ることができます。バビロンには「イシュタル」という女神がいました。愛と性の紙です。エジプトには「イシス」、カナン人には「アシュタロテ」、そしてギリシヤは「アフロディテ」そしてローマは「ビーナス」です。エレミヤ書には、「天の女王」として出てきます。

 では、神道を見てみましょう。日の出ずる国、ヨーロッパからも中東からも非常に遠いです。けれども、天照大神が女神ですね。それから仏教はどうでしょうか?創始者仏陀は明らかに男性ですが、それを祭る観音像はなぜか母性的です。そして、「キリスト教」だと言われているカトリックですが、なぜか神の無比の子であられるキリストに、さらにお母さんがいるのです。マリヤは神の母と崇められ、イエスよりもさらに高められます。

 私たちがメキシコに行った時に、そこにあるカトリックの聖堂に入りました。香の臭い、金色の装飾など、驚いたのは日本の寺の雰囲気と非常に似ていたことです。そしてマリヤ像がありますが、ちょうど仏像が安置されているのに似ていました。キリスト教と仏教、そして日本とメキシコと何の関係もないはずの二つが、多くの共通点を見出すのです。それは、人間の心にまことの神に取って代わるバビロンがあり、偽りの宗教の原点がここにあるからです。

 黙示録17章には、バビロンが世界の王たちと淫行にふけっている大淫婦として登場します。きらびやかな服装を身にまとい、金の杯から酒を飲み、そして預言者や聖徒たちの血に酔いしれています。これが、終わりの日に明らかになる偽りの宗教、世界宗教の姿です。

11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

 人は自分が天に達したと思った時でさえ、神は降りてこなければいけませんでした。自分が正しくなったと思った時には、実は不潔な、汚れた着物なのだよ、と預言者イザヤは言っています。

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 「バベル」というのが、この「混乱」という意味です。そしてギリシヤ語で「バビロン」と言います。そしてこの混乱によって、初めて彼らが強制的に世界に散らされました。

2B セムの系図 10−26
 こうしてついに、人間は再び神に反抗し、その裁きを受けてしまいました。初めの時からのことを思い出してください、アダムが罪を犯し、さらにカインがアベルを殺しました。けれども、神はセツを通して神を信じる子孫を残してくださいました。世界が暴虐に満ちたとき、神はノアとその家族を救ってくださり、新しいやり直しを与えてくださいました。けれども、言葉をばらばらにし、世界に人々を散らされました。

 しかし神はあきらめられません。一度、ご自分のもとから離れ去ってしまった人間を決してお見捨てにならないのです。この神の情熱が、聖書の物語なのです。次に出てくるのはアブラハムです。このアブラハムの登場によって、神は無条件の、永遠の救いのご計画を立ててくださいます。

11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。11:12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。11:16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。11:21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

 ノアの息子セムからアブラハムに至るまでの系図です。(アブラムとありますが、それはアブラハムの当時の名前です。)ここでは寿命の長さについて注目したいと思います。

 5章にあってアダムからノアまでの子孫が900歳以上または800歳以上でした。けれども、200歳代にまで短くなっています。特にセムからアルパクシャデに入る時、500歳から400歳代に落ちました。それからエベルからペレグの時に、400歳代から一気に200歳代に短くなっています。

 おそらく前者は、洪水後、周囲の環境が苛酷になったからでしょう。以前は、地球の上に水の層がありました。それによって紫外線など、悪い物質が遮断されて、地球が守られていたのではないかと考えられます。そして後者は、大陸移動したとき、あるいはバベルの塔の事件の時です。どちらにおいても、人々が大移動しなければならず、神の裁きを受けているので、寿命が短くなったと考えられます。

3B アブラハムの登場 27−32
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。

 ここから「テラの歴史」、実際にはアブラハムの歴史が始まります。創世記を読めば、世界の創造からここまでは、世界的な出来事が出てきましたね。けれどもそれは1章から11章までであり、12章から最後の50章までには、非常に小さな、個々人の話にズームアップしています。アブラハム、そしてその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブの子十二人の一人ヨセフの話で終わります。

 なぜなら、神がこのアブラハムをして、ご自分の救いの計画を確立されるからです。それは、人類が民族と国々に分かれてしまった今、神はご自分を信じていく民族を新たに造られて、その民族と国を通して他の民族に祝福を与えるというご計画です。この神の民族からキリストを輩出させ、そして他の全て民族に祝福を与えるというものです。神はこれ以上、繰り返すことのない、変更することのない確固とした、無条件の救いの約束をアブラハムに対して与えられます。

 ですから、新約聖書はこの人物の名前をもって始めています。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図(マタイ1:1」です。そして、終わりの日、新しいエルサレムの中で、アブラハムから出たイスラエル十二部族の名が、その都の門に付けられています(黙示21:12)。したがって、神が終わりまでアブラハムによってご計画されたことを実行してくださるのです。

 そのような偉大な父アブラハムですが、私たちがこの人物から学ばなければいけない原則は「信仰」です。ローマ人への手紙412節に、「私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」とあります。神から大いなる祝福を受けたアブラハムですが、それは彼の行ないがすぐれていたからではなく、彼が神を信じたからです。その信仰はいったいどういうものなのかを、彼の生涯を模範とすることによって具体的に見えてきます。

 それでアブラハムの背景を見てみたいと思いますが、父テラは偶像礼拝者でした。ヨシュア記242節に、「あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」とあります。彼の故郷は「カルデヤ人のウル」とありますが、バベルの塔のある地域です。偶像礼拝が色濃く残っている町でした。具体的には月を神として拝んでいました。次に彼らが滞在するハラン(カラン)も、月の神への礼拝が盛んだったところです。それでアブラム、サライ、ミルカの名前も、月の神礼拝の影響があると言われます。テラがその名を付けたからです。

 このような環境から、神に呼び出されて、どこに行くかも知らない旅を始めたのがアブラハムです。私たちは、「今までキリスト教の環境にいなかったから、私は神やキリストを信じるのは難しい。」と言ってしまいます。けれども、信仰とは周りがそのような環境だから信じるのではなく、むしろそうでない環境から、神が個々人をそれぞれ呼び出されて、その呼びかけに応えるのです。

11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。

 実は、この家族共々の旅を始める前に、彼は1213節にある神の声を聞いていました。121節だけをお読みします。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」「その後」という言葉は原文にはありません。これはむしろ、アブラハムたちがウルの町にいたときに、彼が個人的に神から聞いた言葉です。

 ですから彼は「生まれ故郷」を出て、「父の家」を出なければいけません。ところが、彼は確かにウルの町を離れたけれども、父テラを連れて出て行ったのです。神に聞き従っているようで、実は半分しか聞いていなかったのです。

 私たちも、この間違いをしばしば犯しますね。神が語られていることは分かるのだか、近くにいる人々との関係を切りたくないと思います。家族であったり、親しい友人であったりします。世から強い反対を受けるならばかえって、自分独りで神に従わなければいけないと思いますが、親しい人たちと一緒にいたいと思って、その肉の思いも携えて神に従おうとするのです。アブラハムは初めからこの過ちを犯してしまいました。

 そのため、彼らはハラン(カラン)に滞在しなければならなくなりました。まだ神が示された地に着いていないのに、そこに留まったのです。そこは月の神への礼拝が盛んでしたから、テラはさぞかし気に入ったことでしょう。けれども彼が死にまでアブラハムはそこを離れることができなかったのです。

 神の永遠の救いのご計画を示すために選ばれたアブラハムですが、彼の神への信頼は不完全だったのです。その不完全な彼に対して、神が何ら咎めることなく、むしろ彼をさらに祝福されることによって、アブラハムは神の恵み深さ、大らかさ、慈しみ深さを知ることができました。それで彼は神にさらに信頼することができるようになりました。彼が初めから神を完全に信頼したのではなく、彼の弱さにも関わらず神が良くしてくださったので、アブラハムは神により信頼できるようになったのです。ですから私たちは、初めから完璧になろうと思わなくて良いのです。むしろ、神が示してくださっている真実に応答してください。

 そして次週、アブラハムへの神の約束の言葉を読んで、彼の信仰の旅を読んでいきます。

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