ホセア書1−3章 「姦通する女への愛」

アウトライン

1A 結婚による預言 1
   1B 時代背景 1
   2B 三人の子 2−9
   3B 変わる名前 10−2:1
2A 再び契りを結ぶ主 2
   1B 全てを失う女 2−13
      1C 恋人 2−7
      2C 財産 8−13
   2B 女をくどく主 14−23
      1C アコル(災い)の谷 14−15
      2C 三つの「その日」 16−23
3A 買い戻す預言者 3
   1B 戻ってきた女 1−3
   2B 帰ってくるイスラエル 4−5

本文

 ホセア書1章を開いてください。今日から「小預言書」の学びに入ります。ホセア書からマラキ書までが小預言書ですが、これは単純に預言の量が少ないことからそう分類しました。けれども中身においてその重要性が劣ることは決してありません。

 今日のメッセージ題は、「姦通する女への愛」です。ちょっと誤解を与えてしまいそうな題名ですが、けれどもこれがホセア書全体のテーマです。神がバアルを慕うイスラエルに対して、なおもご自分の愛を傾けられます。その姿を預言者ホセア自身が、姦通する女を娶ることによって預言するのです。

1A 結婚による預言 1
1B 時代背景 1
1:1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。

 ホセア書の時代背景が、王たちの時代から見て取ることができます。ユダの王が「ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」です。覚えているでしょうか、これはちょうどイザヤが預言した時と同じです。イザヤがウジヤ王の死後に天の御座の幻を見て神によって遣わされ、アハズに預言しました。さらにヒゼキヤが王位に着いていた時、アッシリヤ軍がエルサレムを包囲しました。それでヒゼキヤは衣を引き裂いて主の宮に行って祈り、またイザヤに祈ってほしいと要請しました 

 したがって、ホセアはイザヤと同時代の預言者であり、ホセア書はイザヤ書と同時代を扱っています。けれども場所が違います。イザヤは南ユダに対する預言であったのに対して、ホセアは北イスラエルに対する預言です。

 北イスラエルについては「イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代」とあります。彼は北イスラエルの初代王ヤロブアム一世ではなく、ヤロブアム二世のことです。このヤロブアムの後、アッシリヤ捕囚まで五人の王が立てられていますが、謀反によって殺されたりして数ヶ月の統治しか行っていない場合もあります。ヤロブアムの後にまたたくまに北イスラエルの政治情況が変わって、紀元前722年にアッシリヤによって北イスラエルが滅ぼされてしまいました。ちなみに、北イスラエルが滅ぼされたのを目撃した南ユダの王がヒゼキヤです。

 したがって、ホセアは「北イスラエルのエレミヤ」とも呼ばれています。エレミヤがユダの滅亡を預言したのと同じように、ホセアは北イスラエルが滅ぼされることを預言しました。

 ホセア書に記されている北イスラエルの状況は主に二つありますが、一つはかつてアハブ王が妻イゼベルによって導入したバアル崇拝です。この偶像を慕っていることを神は姦淫の罪を犯している妻としました。

 そしてもう一つは物質的な繁栄です。ヤロブアム二世の時代、ソロモンの死後、国が二分された後、実はもっとも領土が拡大した時でした。列王記第二14章を開いてください。25節を読みます。「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。」レボ・ハマテとは、限りなくユーフラテス川上流地域にあるシリヤ北部の町です。ここまであのイスラエルのスパイ12人が偵察に行きました。神がイスラエルに約束された土地の北の国境線の町です。これはソロモン王国以降のことであり、ものすごい影響力を及ぼしていました。そして同じく列王記第二14章の28節を読むと、シリヤの都ダマスコをもイスラエルのものとしていたのです。

 けれども、この繁栄は不気味な滅亡の前兆とも言えます。ちょうど寿命に近づいた星のようです。太陽のような光を放つ、恒星と呼ばれる星は、その寿命になると非常に巨大化して何百倍、何千倍になるそうです。同じように、北イスラエルはアッシリヤによる滅亡の前に非常に巨大化したのです。 

 そのように彼らがバアルを慕っているにも関わらず繁栄したことを、北イスラエルの人たちは、これを神の惜しみない愛の表れと見ることをせず、むしろバアルが私たちに繁栄を下さったのだと受け取ったのです。物質的な祝福の中で、ますます肉の欲望と偶像礼拝の中に溺れていったのです。この問題をホセア書は取り扱っています。

 ところで、ホセア書は北イスラエルに対する預言であるにも関わらず、なぜユダの王をしっかりと銘記しているのでしょうか?肝心の北イスラエルの王はヤロブアムだけです。これは、ユダにこそ神が定められたダビデの王座があり、そして神が定められたシオンの山と神殿があるからだと考えられます。イエス様もサマリヤの女に対して、「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22」と言われました。シオンの山が正統なのです。北イスラエルは、純粋に政治的な思惑で初代王ヤロブアム一世が、ベテルとダンに金の子牛と祭壇を造り、そこで礼拝させました。そしてレビ人ではなく、勝手に祭司を立てました。ホセア書にも、ユダだけでなくイスラエルがダビデを王として尋ねる日が来ると、預言されています(3:5)。

 ところで「ホセア」という名前の意味は「救い」です。「ヨシュア」が「主が救い」という意味を持っていますが、その「救い」の部分が「ホセア」になります。

2B 三人の子 2−9
1:2 主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」

 私たちはこれまで預言者たちが、単に言葉だけでなく行動をもって神の宣告を行なう姿を見てきました。裸になって歩いていたイザヤは、アッシリヤがエジプトを捕虜として連れて行くことを表し、横様になって寝ていたエゼキエルは、包囲されているエルサレムを表しました。ここでも同じように、ホセアが自分の行動をもって預言を行なうように命じられています。

 それが「姦淫の女」をめとることでした。一部の人にはこれは衝撃的なことかもしれません。「信者と不信者に同じくびきを負わせてはならない」と言われた聖なる神が、なぜ神のしもべに姦淫の女をめとるように命じることができるのか、という驚きです。宗教改革者のカルビンは、これは寓話であり実際には起こらなかったと解釈しました。けれども、それは違います。イスラエルの国がご自分を捨てていることを姦淫の女として描くために、神はホセアに特別な使命を課しておられるのです。

 ホセアは、単に主の命令を守るために彼女を娶ったのではありません。娶るのですから、そこには愛情が生まれます。彼女を自分の妻として愛するという決断があります。そして彼女が自分から離れることによって、とてつもない苦しみと嫉み、痛みと悲しみを担います。これが、今、神が北イスラエルに対して抱いている辛い思いなのです。神のお心をホセアが実体験できるように、姦淫の女を娶りなさいと命じられています。

1:3 そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。

 その女の名前は「ゴメル」で、「ディブライム」という父を持っていました。実在のイスラエルの娘をめとったことがここから分かります。

1:4 主は彼に仰せられた。「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。1:5 その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る。」

 ゴメルはこの男の子を含めて、合計三人の子を産みます。その一人一人の名に、神がこれから行なわれる裁きについての意味が込められています。

 一人目の子の名は「イズレエル」です。イズレエルといえば町の名でもあり、また平原の名としても使われています。サマリヤとガリラヤの間を東西に走っているのがイズレエル平原です。そしてそこに「イズレエル」という町がありますが、北イスラエルの王アハブなどが宮殿を置いていた所でもあります。

 「イズレエル」という名前には、相反する二つの意味があります。一つは「散らす」で、もう一つは「集める」です。ここでは裁きとしてイスラエル人が散らされる、王国が取り除かれることとして使われています。

 「イズレエルの血をエフーの家に報い」るとあります。「エフー」のことを思い出せるでしょうか?列王記第二9,10章に彼が行なったことが書いてあります。彼は、かつてアハブとイゼベルが行なったことに対する神の裁きの器として用いられた人物です。

 アハブは、イズレエルの宮殿のそばにナボテという人が所有するぶどう畑を欲しがりました。けれどもナボテは断りました。するとイゼベルが、偽りの証人を立てて、ナボテが神と王をのろったと証言させ、そしてナボテを石打ちにして殺してしまいます。それでぶどう畑をアハブが手に入れたのですが、そこにエリヤがやってきて、この悪事に対する神の裁きを宣言します。アハブ家はどんな者もことごとく絶ち滅ぼされ、そしてイゼベルはイズレエルの領地で犬に食われる、という預言を行ないました。

 エフーはアハズの子ヨラム王の側近であり、軍の司令官でした。エリシャの弟子の預言者が彼に油を注ぐと、周りの者たちが彼を王としました。そして、血相を変えて、ものすごい勢いで当時のイスラエルの王ヨラムのところに行きます。ヨラムはイズレエルの町にいました。そこでエフーはヨラムを殺します。また協力していたユダの王アハズヤも殺します。アハズヤはユダの王なのにアハブ家の婿になっていたからです。

 そしてエフーは、イズレエルにいたイゼベルが窓から見下ろしていたのを見て、横にいるイゼベルの側近に呼びかけて、彼女を突き落とせと促しました。彼女は窓から落ちて死にましたが、犬が彼女を食べて、頭蓋骨と両足と手首ししか残っていませんでした。

 それからサマリヤにいる七十人のアハブの息子を、その世話をしている長老たちを脅して殺させました。首を二つに分けて積み重ね、門に置いておけと命じています。ユダの王アハズヤ家の者たちも殺し、最後に、バアルの預言者をバアルの宮に集めさせました。「自分も大いにバアルを拝むつもりだ。」と言ってだましたのです。そして預言者たちがバアルにいけにえをささげる準備をしていたとき、一気に彼らをすべて殺し、宮を壊し、そこを公衆便所にしました。

 あまりにも激しく、残酷なことをエフーは行ないましたが、それでも主は「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ(2列王10:30」たと評価しておられます。アハブ家を滅ぼすのは主の御心だったからです。

 そしてエフーは王になります。けれども主はエフーに「四代目まで、あなたの子孫は王座に着く。」と言われました。時限つきです。理由は、エフー本人が、そしてその子、孫、曾孫もみな、金の子牛を拝むことをやめなかったからです。ヤロブアム一世がイスラエルに行なわせた偶像礼拝を捨てることはありませんでした。あれだけ熱心にバアルを滅ぼしたのですが、それが必ずしもすべての偶像を避けていたのではなかったのです。

 そしてヤロブアム二世はエフーの三代目の王であり、四代目のゼカリヤが謀反にあい、それでエフーの王座は取り除かれます。そしてイスラエルは罪を犯し続け、ついにアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。

 ですから、ここで主が男の子に「イズレエル」という名を与えられたのは、エフーを通しての神の裁きの器を思い起こさせるためです。エフーが神の裁きを実行するために多くの血を流したように、今度はアッシリヤがこのイズレエルにて多くのイスラエル人の血を流すことによって、神の裁きを実現させる、というものです。「イスラエルの弓を折る」というのは、イスラエルの軍事力をなくするという意味です。

1:6 ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。」

 二人目の子は女の子でした。「ロ・ルハマ」ですが、「ロ」はヘブル語で否定を表す言葉です。「ルハマ」は「愛する」とか「憐れむ」という意味があります。だから「ロ・ルハマ」で、「愛さない」という意味です。

 神はここで「二度と」愛することなく、「決して」赦さないと強調されています。この箇所だけを読むと、神は永遠にイスラエルを見捨てられたかのように読めます。けれどもすぐに、1章の最後と21節に、イスラエルを再び集めて、そして今度は「ロ・ルハマ」ではなく「ルハマ」という名に変えられているのを見ます。

 ここで理解しなければいけないのは、神のイスラエルに対する取り扱いです。神はアブラハムによって、彼らが大きな国民となることを約束されました。これは無条件であり、イスラエルがどんなことをしても、これは決して無効にされることはありません。

 けれども主はモーセを通してその400年後に契約を結ばれます。それは彼らが神の命令に聞き従えば祝福され、背けば呪われるという条件付きでした。そして、彼らが背き続ければ約束の地から引き抜くと神は宣言されました。けれどもイスラエルが心を尽くして神に立ち返るとき、神はアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を思い出して、彼らを回復させることを約束してくださいました。

 ここで「決して赦さない」「二度と愛することはない」というのは、あくまでも一時的な神の取り扱いです。エレミヤ書には、イスラエルに神が離婚状を出して追い出した(3:8)とあります。けれども再婚してくださる約束も与えておられます。この一定の期間のみ、神が彼らを捨てて置かれるという強い決意をここで表しておられるのです。

1:7 しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」

 北イスラエルが紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされるとき、南ユダにはヒゼキヤがいました。そして先ほど話しましたように、アッシリヤ軍がエルサレムを包囲しました。ところが、一夜にして185千人のアッシリヤ軍を神は滅ぼされたのです。だからここで神は、弓、剣、馬などによって彼らを救うのではない、と言われています。

1:8 ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ。1:9 主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」

 三人目は再び男の子です。名前は「ロ・アミ」です。「アミ」は「わたしの民」という意味なので、ロ・アミで「わたしの民ではない」という意味です。イスラエルの民が、もはや神の民としての立場を失ってしまうということです。

 イスラエルに与えられた、そして私たちキリスト者に与えられた祝福と特権の中で、これがもっとも優れたものです。土地が与えられても、国が与えられても、また私たちであれば、良い妻、夫が与えられても、幸せな家庭が与えられたとしても、もし主との個人的な関係、人格的な関係がなければ全く意味がありません。それが失われてしまった。ちょうどこれは、キリスト者であれば「初めの愛から離れてしまった」と同じです。キリストにある愛、キリストと自分だけにある親密な関係がもはやなくなっている状態です。 

3B 変わる名前 10−2:1
1:10 イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない。」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ。」と言われるようになる。

 主がイスラエルを再び回復させます。「海の砂のようになる」というのは、主がアブラハムに与えられた約束です。そして、9節にあった「わたしの民ではない」という状態は、「あなたがたは生ける神の子らだ」に変わっています。

 ここの「言われた所で」が大事です。自分が罪に陥ってしまったその場所で、神の豊かな祝福を経験できます。自分に罪が増し加わったところで、恵みがあふれでます。ここに「恵み」の不思議があります。神の愛の不思議があります。どんなに罪を犯しても、・・・これは罪を犯してよいという許可ではありません・・・どんなに犯したとしてもそれを途中で赦すことのできない境界線はないのだよ、ということです。だからすべての罪が完全に赦されて、イエス様が十字架につけられのは、ただ一度、これまでに犯したあらゆる罪を知っておられて、それでつけられたのです。だからその罪の中で死んでいる所で、主は私たちをご自分の子どもとすることができます。

1:11 ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。

 イスラエルの人々だけでなく、ユダの人々も加わっています。エゼキエル書にも、エゼキエルが二つの杖を束ねなさいという神の命令を受けましたが、それはイスラエルとユダが一つになるためでした(37:1523)。

 そして「ひとりのかしらを立て」るとあります。これはダビデであると3章の最後にあり、メシヤご自身のことです。イエス・キリストが戻ってこられる時に実現します。

 それから「イズレエルが大いなるものとなる」という約束もあります。ここが流血の地ではなく、ぶどう酒と穀物の満ちるところになる、という約束です。そして「イズレエル」は「散らす」の意味ではなく、国々からイスラエルを「集める」という意味に変わります。

2:1 あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と言い、あなたがたの姉妹には、「愛される者」と言え。

 2章1節は、実際は1章の続きです。(章と節を付けたのは後世の人が行なったので、この区分は絶対ではありません。)

 先ほどの男の子の名は「ロ・アミ」でしたが、終わりの日には兄弟たちを「アミ」と呼びなさいと命じておられます。そして女の子の名前は「ロ・ルハマ」でしたが、終わりの日には姉妹たちを「ルハマ」と呼びなさいと命じています。愛の関係の回復です。

2A 再び契りを結ぶ主 2
 そして2章2節から、神ご自身が姦淫するイスラエルによって、彼女を失う、その嘆きが書かれています。

1B 全てを失う女 2−13
1C 恋人 2−7
2:2 「あなたがたの母をとがめよ。とがめよ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないからだ。彼女の顔から姦淫を取り除き、その乳房の間から姦通を取り除け。

 「あなたがたの母」とは、イスラエルの国です。そしてその子らはもちろんイスラエル人ひとりひとりです。イスラエルの国が、まことの神から離れてバアルを拝んでいることを神は嘆いておられます。

 私たちは聖書の学びの中で数多く、神と人との関係を結婚になぞらえている部分を読みました。エレミヤ書においても、エゼキエル書においても、神がイスラエルを拾い上げて、彼女を王女のようにしたのに、それでも彼女は姦淫を犯して、そしてついに彼女自身が裸にされ、さらし者にされるという内容です。そして、教会もまたキリストと私たちが婚姻関係にあることを教えています。黙示録19章には、天に引き上げられた教会が小羊の婚宴の花嫁として登場します。この、結婚という堅い契約と誓約の中における愛です。親密でありながら、単なる恋愛と異なり、貞潔と忠誠に基づいているものです。

 私たちは信仰について考えるとき、このことを念頭に入れておかなければいけません。信仰は、第一に知識が目的ではありません。頭の中で整理することができるのが信仰ではありません。聖書の学びを行なって知識が与えられることは必要でしょう、けれどももっと大事なのは、たった独りでいるとき、それでも主を主としてあがめることができるか、主を畏れ敬うことができるか、という個人的な関係です。

 そして信仰は、活動や行動ではありません。教会活動、祈り、賛美、またある集会に参加することなど、行動によって決められるものではありません。あるプログラムに参加すると、その参加していること自体が目的化して、それができないと自分を責め、できると高慢になるのです。 

 私は、伝道するときにこの婚姻の関係を念頭にいれて伝道します。日本人は、主に、神とキリストについて二つの誤った考えを持っています。一つは、唯一神に仕えることは排他的であるということです。もともと多神教であったのに、その中から一つを選ぶのは自分を偏狭にする、というものです。もう一つは、人間中心主義です。人間として人格を磨き上げるには聖書は有益であると考えて、神のことを考えることはほとんどしません。

 一つ目の排他的なことに対して私は、「もし私が数多くの女と関係を持っていて、それで妻が私を激しく嫉んでいるとします。それでも彼女は排他的なのでしょうか?」。神のみを愛するというのは、一対一の間にしかない、親密で、深い愛を体験できるということです。ある時にはキリスト、またある時には他の神々では、決してこの親密で、人格的な愛を楽しむことはできません。

 そして二つ目の人間中心主義ですが、私の妻が、非常に高潔な人間で、誰が見ても誤ったところがなく、優れた人であったとします。けれども、家ではほとんど私に話しかけたことがありません。心の通い合いが皆無です。たとえ間違いがたくさんあっても、自分の悲しみ、喜び、怒り、これらすべてをすべて分かち合ってこそ、私は満足します。けれども、神のことを考えず、哲学的、道徳的なことのみとして聖書を読むのであれば、それはまったく一言も話さずに自分だけを鍛錬しようとする妻となんら変わらないのです。

 信仰はあくまでも「関係」であって、知識でもなく哲学でもない、ということがこの夫婦の関係によって明らかにされています。

 そしてここに「顔から姦淫を取り除き、その乳房の間から姦通を取り除け」とあります。非常にわかりやすい表現です。妻にとって、女にとってこれほど体の器官において身近なものはありません。私たちが罪から離れなければいけないというのは、自分自身との戦いです。情欲についていうならば、まさに自分の体の器官との戦いです。「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20 

2:3 そうでなければ、わたしは、彼女の着物をはいで裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、彼女を荒野のようにし、砂漠のようにし、渇きで彼女を死なせよう。

 エゼキエル書に、イスラエルの歴史を、野原に捨てられた女の赤子に例えている箇所があります。16章ですが、「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなた、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、繰り返して、『生きよ。』と言った。(6節)」そして彼女を洗って、手塩をかけて育てて、大きくなり乳房が出てきたころになったとき、その裸を覆って、契りを結んだ、とあります。

 これは、イスラエルがエジプトから出て、シナイの荒野において神がイスラエルと契約を結ばれたことを表しています。今、ここホセア書では、イスラエルを再びこのような赤ん坊の状態にようにする、すなわち神がまだ介入される前の状態に戻すと宣言されているのです。つまり、アッシリヤによって捕らえ移され、奴隷状態となり、イスラエルの地は荒地になり、他の異邦の国々の民となんら変わることのない状態にする、ということです。

2:4 わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから。

 もうすでに自分を離れてしまったのですから、子供たちは自分のものではありません。愛したくても、遠くにいるから愛すことができません。また、他の男と通じてできた子であれば、法的にも完全に自分の子ではありません。

2:5 彼らの母は姦淫をし、彼らをはらんで恥をさらし、そして言った。『私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる。』と。

 この「恋人たち」とはバアル神のことです。思い出してください、ヤロブアム二世の時のイスラエルは繁栄していました。でもそれは、イスラエルの名を地から消し去りたくないという神の憐れみの現れであって、彼らの偶像礼拝を是認されているからではありません。

 けれども当の本人たちは、これだけ自分たちが豊かになっているのはバアルのおかげだと思っているのです。バアルは「主人」という意味で、豊穣と深く関わっています。農作業がうまくいくように祈るのです。

2:6 それゆえ、わたしは、いばらで彼女の道に垣を立て、彼女が通い路を見いださないように、石垣を立てよう。

 彼女が売春をするために、男の家に通います。あるいは売春宿に通います。神はその通い路を見出さないように石垣を立てると言われます。

 私たちは、自分たちで物理的に自分の道を切り開くことができると思ってしまいます。けれども、いつの間にかできると思っていることができなくなります。「こんなに簡単なことなのに」と思うことさえ、不思議にできないような状況に追い込まれることがあります。

 それは神がこの垣根を持っておられるからです。覚えていますか、ヨブのことでサタンが神に対して、「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。(1:10」と言いました。もちろん物理的な垣ではなく、神が目に見えない守りの壁をサタンに対して作っておられたのです。

 この姦淫の女の場合、神の垣根のみならず、自然の成り行きもあったことでしょう。女として自分を売っても、・・・男は誰も知っていますが・・・その体をあきてしまいます。また他の女を欲しいと願います。いろんなことをして自分を売ろうとしますが、欲望は膨れ上がるばかりで、それを満たすことはできません。

 それで売春婦はどんどん落ちぶれます。ゴメルの場合も同じで、3章を見ると、彼女はついに奴隷市場で売られている身になりました。

2:7 彼女は恋人たちのあとを追って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない。彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。』

 すばらしいですね、これが神の意図です。彼女が誰も相手にされなくなったようにされて、それでご自分に戻ってくるようにさせています。それも強制的にではなく、自ら悟って戻ってくるようにされます。

 これはまさに「放蕩息子」の女版です。富んだ父を持つ息子が遠くの国に行って、放蕩のかぎりを尽くし、飢饉がおそって、豚の食べるいなご豆さえも食べたいと思うようになった。それで我に返ることができ、父のもとに返る決心ができたのです(ルカ15章)。

2C 財産 8−13
2:8 彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、また、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった。

 おそらくホセアは、姦淫の罪を犯しているゴメルのことをずっと見守っていました。もしかしたら相手の男に、「これを女に渡してくれ」と言って、食糧や生活必需品を与えていたかもしれません。それを受け取った女は、「私がこの男から得た報酬だ。」と喜んでいたかもしれません。

 これが、イスラエルが「この豊かさはバアルによるものだ。」と言っている姿です。そして、あらゆる良いものについて神に栄光を帰さない人間の姿です。自分の能力や知恵によるものであるとか、他の人がやってくれたおかげだとか、すべてのものを支配し、すべてのものを与え、すべてのものの源であられる神を認めようとしないのです。

2:9 それゆえ、わたしは、その時になって、わたしの穀物を、その季節になって、わたしの新しいぶどう酒を取り戻し、また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。

 イスラエルでは穀物は主に春に収穫されます。春の祭りである、初穂の祭りや五旬節がそれぞれ大麦、小麦の収穫を捧げるものであったことを思い出してください。そしてぶどうは秋に収穫されます。

 アッシリヤは、その季節に合わせて他国を侵略したそうです。そうすれば、遠征にいった兵士たちにその地の食糧で食べさせることができるためです。北イスラエルを攻め取ったとき、おそらく春が過ぎて夏のころだったのでしょう。ぶどうの実も出始めたころ、そして春の収穫が終えて穀物が豊かなころ、そこを攻めて持って行きました

2:10 今、わたしは彼女の恥を、恋人たちの目の前にあばく。だれも彼女をわたしの手から救い出せる者はない。

 自分たちがアッシリヤに攻められて、バアルに祈り求めても、何の答えもありません。それが、ここにある「彼女の恥を、恋人たちの目の前にあばく」というものです。

2:11 わたしは彼女のすべての喜び、祭り、新月の祭り、安息日、すべての例祭を、やめさせる。

 北イスラエルが行なっていたのは、混合宗教です。これまで私たちはエレミヤ書とエゼキエル書の中で、ユダの人々がエルサレムにおける神殿礼拝を行なっていながら、かつ偶像礼拝も行なっていた姿を読みました。完全な二重生活でありますが、神殿礼拝を行なっていたときは、形式化していましたが正統で、純粋なものでした。

 けれども北イスラエルが行なったのは、その儀式さえも異教と混ぜ合わせた混合宗教です。ちょうど日本仏教の教えの中に「死んだら仏になる」という神道の考えが入ったようなものです。あるいはカトリックがそうでしょう。マリヤや聖人崇拝、法王無謬説、その他もろもろの伝説は、当時のローマ宗教にキリスト教の色彩を加えたものに過ぎません。だから、ここで「新月の祭り、安息日、すべての例祭」とあるのは、聖書に出てくるものですが偶像礼拝との混ぜ合わせた中で行なったものです。

2:12 それから、わたしは彼女が『これは私の恋人たちが払ってくれた報酬。』と言っていた彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒れすたらせ、これを林にして、野の獣にこれを食べさせる。2:13 わたしは、彼女がバアルに香をたき、耳輪や飾りを身につけて、恋人たちを慕って行き、わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。・・主の御告げ。・・

 ここの「報い」というのは、「わたしを忘れたのだから、わたしもあなたを忘れたかのようにみなす。」という意味です。私たちは全てを失わないと、それが当たり前ではなく神からの贈り物であることを忘れてしまいます。パウロは、近親相姦の罪を犯した者を「サタンに引き渡した(1コリント5:5」と言いました。教会の一員になれているから、空気のように慣れ親しんでいたものを、教会から引き離すことによって失わせる、ということです。

2B 女をくどく主 14−23
1C アコル(災い)の谷 14−15
2:14 それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。

 ここに神の変わらない愛の究極が示されています。まず「それゆえ」という接続詞です。「あなたは裸になって、恥をさらしている。見るに耐えない。けれども、わたしはあなたのところに戻ろう。」ではないのです。「あなたは裸になって、恥をさらしている。かわいそうだ。だから、わたしはまたあなたをくどいて自分のものにする。」と言われているのです。

 男の人たち、聞いてください!だれが、このような悲惨な状態になっている女を自分のものにしたいですか?美しい女、妖しさを漂わせている女を自分のものとしたいけれども、汚くて、傷だらけの女をくどこうなど絶対に思いません。なぜなら、私たちが「愛」と呼んでいるものは、方向が違うからです。相手を愛しているのではなく、自分を愛しているという意味です。

 けれども、神は私たちを愛しておられます。恋い慕っておられます。それは、私たちが何か恋い慕うべきもの、魅力的なものを持っているからではありません。いや、忌み嫌うべきものをたくさん持っています。けれども神の愛は、その忌み嫌うべきものを見て、むしろ私たちを憐れまれます。むしろもっと愛したいと願われます。

 ちょうど、父の家に戻ってきた放蕩息子を、遠くに見つけて彼に接吻した父親に似ています。そして失われた者が見つかったということで、これまでにない喜びと祝福を注いだ父親に似ています。

 これが恵みの奥義です。私たちは恵みについて理解ができません。なぜなら、人間にはない概念だからです。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」なのです。私たちは、「私たちはある程度、憐れみを受けてもよいが、ちゃんと自分の行ないを正して、更正した後に祝福を受けてもよい。」と考えます。けれども愛には境界線がないのです。神の備えておられる恵みは無尽蔵なのです。

 憐れみと恵みの違いを知ることは大切です。公義との比較も大事です。例えば私が車の速度違反で警察に止められたとします。違反したのですから罰金を支払わないといけません。これが公義です。自分が行なったことに対して報いがあることです。けれども、「どうかご勘弁を。見逃してください。」と私が頼んで、その警官が「よし。今回は、大目に見よう。」と言います。これが憐れみです。受けるべき処罰を受けなくてもよいようにする取り計らいです。

 けれども、警官が「この罰金は、私が代わりに支払っておくよ。」と言ったとします。どうでしょうか?理解できません、聞いた耳を疑います。こんなことありえません。けれども、これが神がキリストにあって私たちにしてくださったことなのです。罰を与える主権者が、その罰を自分の身に負わせることによって、私たちがまるで罪を犯したことがないようにしてくださるのです。

2:15 わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。

 エジプトでの奴隷生活のように、スタートの前にふりもどされたイスラエルですが、主がその荒野のような状態にいるあなたに答えようと約束してくださっています。

 ここで「アコルの谷」が出てきます。これはエリコの町の南東に隣するところにあります。ヨルダン渓谷からエルサレムに上る道として使われていました。ここは、あのアカンが石打ちの刑にあった所です。

 ヨシュア率いるイスラエルの民がエリコを攻め取りました。そこにあるものはみな聖絶されたものであると神が言われたのに、アカンは金の延べ棒や外套などを欲しくなり、取ってしまいました。そのため、アイの町の攻略にことごとく失敗しました。ヨシュアたちがアカンが罪を犯したことを知ると、彼を石で打ち殺し、持ち物を火で焼きました。そして石くれの山を積み上げたのですが、そこがアコルの谷と呼ばれます。「アコル」は「災い」という意味です。けれども、そのことによって今度はアイに打ち勝つことができました。

 これと同じことをすると神はイスラエルに言われます。アコル、災いの谷を望みの門とすると約束してくださっています。アカンが殺されたように、神の戒めと懲らしめがありましたが、その後は望みを与えてくださる、という意味です。

2C 三つの「その日」 16−23
 そして次から、「その日」という言い回しが出てきます。これはイザヤ書などにも出てきた、神が究極的にご自分の救いを完成してくださる、神が定められた日です。多くの場合、終わりの時に実現します。「その日」という言い回しは、三回出てきます。

2:16 その日、・・主の御告げ。・・あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。2:17 わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。

 何か豊かな祝福が与えられると、これまでは「バアルが私にくださった。」と言っていました。けれども、まことの供給者であられる主の名を彼らが口にします。

 主への呼び名が「私の夫」です。私たちは、このようにして主イエス・キリストを恋い慕っているでしょうか?主への畏れは、聖書の学びだけでは生まれません。たった独りで、主と御言葉を思い巡らしているとき、主の恐れは生まれます。

2:18 その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。

 先ほど「野の獣にこれを食べさせる(12節)」とありましたが、主は動物界をも支配されている方です。彼らに害を与えない契約、むしろ彼らに従う契約を結び、平和が与えられます。覚えていますか、イザヤは、狼と子羊がともに宿るという預言を行ないました(11:6)。

 また外敵による攻撃もやめさせます。これも「剣を鋤に、槍をかまに打ち直す(2:4)」というイザヤの預言があります。

2:19 わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

 この「契り」は結婚式のことです。イスラエルを再び妻として正式に迎えるということです。それを正義と公義をもって、また恵みと憐れみをもって、そして真実をもって結びます。

 そして「主を知ろう」というのは、単に知識のことではありません。結婚の完成、夫婦の完成です。夫婦であれば初夜を過ごすことです。主をそれだけ親密に、密接に知るということです。

2:21 その日、わたしは答える。・・主の御告げ。・・わたしは天に答え、天は地に答える。2:22 地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え、それらはイズレエルに答える。

 主は、動物界だけでなく、自然界をも支配されている方です。天から雨を降らせます。そしてその雨によって地が豊かになります。そして再び、穀物と新しいぶどう酒に恵まれます。

 今のイズレエル平原はイスラエルの穀倉地帯です。広く穀物が栽培されていますが、今とは比較にならぬほど終わりの日にはこの平原を主は祝福されることでしょう。

2:23 わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」

 「イズレエル」には「まき散らす」という意味がありますが、ここでは豊かさを広げるという意味で使っています。そして「ロ・ルハマ」を「ルハマ」にし、「ロ・アミ」を「アミ」としてくださいます。

3A 買い戻す預言者 3
 そして場面は、ホセアとゴメルに戻ります。

1B 戻ってきた女 1−3
3:1 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」

 ホセアがゴメルに三人の子を生んでから、彼女は去っていき、他の男のところに行きました。彼女を愛しなさい、という神の命令です。ホセアにとってこれはうれしくもあり、また痛々しい決断ですが、これが主の痛みを表していました。

 「干しのぶどう菓子」というのは、おそらくバアル崇拝に使われていたものだったのでしょう。また、性欲促進剤として使われていたのかもしれません。彼らがそれを愛していたように、神はなおさらのことイスラエルを愛しているのだよ、ということです。

3:2 そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。

 ゴメルは奴隷市場で売られていました。自分の妻ですが、代価を払わなければ自分のものになることはできません。それで価格交渉をしています。おそらく彼の手持ち金は15シェケルだけだったのでしょう。15シェケルと言っても、売り手はうなずきませんでした。それで「大麦がここにあるから、これを取ってください。」と言って、それでようやく買い取ることができたみたいです。

 これはもちろん罪に売られた私たちの姿です。もともと神のものですから、対価を支払うというのは的外れです。けれども私たちを愛してやまないゆえに、ご自分の子の血と命という大きな代価を支払って私たちを買い取ってくださったのです。

3:3 私は彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」

 ちょうどこれは、イエス様が、姦淫の現場でユダヤ人に捕らえられた女に対して語られた言葉と同じです。「今からは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11」と言われました。

 そして「長く、私のところにとどまって」と言いました。これはもちろん、何十年という残りの生涯ということです。つまり、神とイスラエルの回復した関係は長く続く、永遠に続くという意味です。

2B 帰ってくるイスラエル 4−5
3:4 それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。3:5 その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。

 イスラエルは事実、長い間、王もなく、首長もない状態で生きています。アッシリヤに捕らえ移されてから、イスラエルに王が与えられたことは一度もありません。現代イスラエルの国は民主主義ですから、王は立てられていません。

 けれども終わりの日に、主キリストが戻ってきてくださいます。その時に、主は世界にまだ離散している多くのユダヤ人を集めてくださいます。彼らは神、そしてダビデ、つまりダビデの子キリストを求めます。

 そして「おののきながら主とその恵みに来よう」とあります。私たちはその恵みに驚いているでしょうか?おののいているでしょうか?そのような驚きの恵みにあずかっているでしょうか?それとも、神の恵みに制限をもうけて、自分の努力や行ないの中で自分を苦しめているでしょうか?

 私たちが、イスラエルと同じように裸であることを知る必要があります。ラオデキヤにある教会に対して、「あなたがたは、なまぬるい。富んでいると言っているが、裸の者であることを知らない。(3:16,17参照)」とイエス様は言われました。裸であることを知るときに、はじめてイエス様を自分の着物として切に慕い求めるのです。