ホセア書4−7章 「主を知らない民」

アウトライン

1A 主の教えを忘れる祭司 4
   1B 神の告発 1−10
   2B 迷わす姦淫の霊 11−19
2A 主の懲らしめ 5
   1B つまずくエフライム 1−7
   2B ユダに押し迫る恐怖 8−15
3A 移り変わる誠実 6
   1B 三日目の生き返り 1−3
   2B 流血を犯す祭司 4−11
4A 訓戒に応えない民 7
   1B 謀略を働く家来 1−7
   2B 国々の中のエフライム 8−16

本文

 ホセア書4章を開いてください、今日は7章まで学びたいと思います。メッセージ題は「主を知らない民」です。

 私たちは前回、1章から3章までホセアが姦淫の女ゴメルをめとった所を読みました。姦通の女を愛すことによって、神が他の神々に走っているイスラエルをなおも愛していることを学びました。4章からは預言の言葉の部分になります。

1A 主の教えを忘れる祭司 4
1B 神の告発 1−10
4:1 イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。4:2 ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。

 主は、他の預言書と同じように、イスラエルの民に対する告発を行なわれています。「言い争う」とは法廷で検察官が告訴するのと同じ言葉です。

 この地、イスラエルの地には「真実がない、誠実がない、そして神を知ることがない」と責めておられます。真実とはもちろん、真理のことです。すべて自分たちが正しいと信じていることを行なっており、絶対的な真理が存在しない状態です。そして誠実は、偽善ではなく正直で、真摯に行動している姿です。そして、「神を知る」ことですが、これが今回のメッセージの主題です。妻が夫を知る、というのと同じ意味でここでは使われます。神を人格的に、親密に知っているということです。単に頭の知識のことではありません 

 神の真理を知ることがないので、誠実に生きることもできず、それゆえ呪い、欺き、人殺し、盗み、姦通があると言います。多くの人はこの具体的な悪いことがらを正そうとしますが、根本は主を知らないことから来ているのです。神を知らないから、これらの悪を行なうことができるのです(ローマ1:1825参照)。

4:3 それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。

 人の罪が、この地上における自然界の呪いに結びついています。アダムが罪を犯したとき、それゆえ地が呪われたものとなりました。イスラエルは、神に背いたのでアッシリヤにその地を踏み荒らされました。

4:4 だれもとがめてはならない。だれも責めてはならない。しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。

 神は、民がご自分の知識について枯渇している状態は、祭司たちに責任があるとなじっておられます。祭司が神と民の仲介者として、神の栄光と御言葉を民に伝えなければいけないのに、彼らはそれを怠っていました。

 南ユダの王の話になってしまいますが、ヨシヤがどのようにして宗教改革を行なうようになったかを思い出せるでしょうか?神殿の中で見つかった律法のことばを聞いたからです(2歴代34:19)。彼はただ単純に、律法を知らされていなかったので、心を主にあって奮い立たせる機会さえなかったのです 

 そしてバビロン捕囚から帰還したイスラエルの民は、律法学者エズラらによって一日の四分の一を、律法の朗読とその説明を聞くのに費やしました。それゆえ、彼らの心に罪を悲しむ心が起き、それから主にあって喜ぶ力が与えられました(ネヘミヤ8章)。

 私たちが手にしている聖書があります。物理的にはいつも家に置いてあるかもしれませんが、それをただ置いているだけによって、すでに明らかにされている真理を知らず、未だ不義の中を生きている人たちがあまりにも多いです。教会に通っているのに、平気で罪を犯している人たちがいます。その責任はひとえに牧師や教師にあるのです。聖書を自分たちで開かせ、それを実際に読ませることをしていないために、罪の中にあるのです。 

4:5 あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。

 「昼つまずく」とは、白昼堂々と罪を行なっている姿です。そして祭司だけでなく、同じく御言葉を宣べるはずの預言者たちも、夜にこそっと罪を犯しています。

4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

 私たちを救うものは何でしょうか?聖書にある神の知識です。教会において、私たちが絶えず行なわなければいけない活動は、聖書を開くことです。「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになるのです。(1テモテ4:16」御言葉を聞き、そして神を知ることは、まさに聞いている人たちを罪から救う行為であり、また教えている者本人も救うことになります。

 ですから、聖書そのものを開いて、そこから聞くということを教会の中心に、そして信仰生活の中心に据えなければなりません。けれども今日の傾向は、聖書をじっくり読むこと、じっくり学ぶことが倦厭されている世の中になっています。映像や音楽など、感覚に訴える媒体に囲まれているので、思考能力がすりへっているように思われます。思考力が奪われて、多くの人が無気力になっています。けれども、聖書を開くか開かないかが、私たちの霊的な生死を決めることを覚えましょう。

4:7 彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。

 イスラエルの国は、ホセアが預言したヤロブアム二世の時代には繁栄していました。それで人々も増えていましたが、それに正比例して罪も多くなりました。けれども最後は、「栄光が恥」に帰られます。これほど栄えていたのに、今はこんなに落ちぶれてしまったのか?ということです。

4:8 彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている。

 祭司らが、人々を正しい道に導くどころか、彼らの罪と悪によって私腹を肥やしています。例えば、賄賂を受け取るとか、あるいは神にささげなければいけない動物の肉を食べてしまうとか、です。

4:9 だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行ないに報い、そのわざの仕返しをする。

 祭司が神の教えを彼らに与えないのは祭司の責任ですが、それで彼らに責任がないかと言えば、決してそうではありません。民が祭司の悪い例にならえば、その悪い例にならった報いは受けなければいけないのです。

4:10 彼らは食べても、満たされず、姦淫しても、ふえることはない。彼らは主を捨てて、姦淫を続けるからだ。

 すべて主から離れた行為は、人々を満足させることはありません。たとえ食べる物がたくさん与えられていても、何かが足りないという思いがあります。そして一人の女よりも二人の女と通じたら、数学的に考えたら子供が増えるはずなのですが、中絶をしたり、または自分自身が性病にかかったりして、人口は増えることはないのです。主を求めないとき、このような空しさが襲います。

2B 迷わす姦淫の霊 11−19
4:11 ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる。

 これは酔いしれることです。酩酊です。箴言にも酒に対する警告があります。「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(箴言23:29-30

 酒を飲んでも良いではないか、と言う人たちが多くいます。けれども、強い酒がもたらす害を考慮に入れてから、そのようなことを言っているのでしょうか?妻は以前、電車の中で酔っ払った男の人に叩かれたことがあります。訴えれば立派な傷害罪ですが、社会には「お酒を飲んでいたのだから、仕方がない。」というような悪い意味の寛容さがあります。けれども、お酒のせいで判断を誤ることはあまりにも多くあるのです。

 そしてここでは祭司のことも考慮にいれて主は話しておられます。アロンの子の二人が、異なった火をささげて、そのまま主の火によって焼き殺されたのを覚えているでしょうか?彼らは、「ぶどう酒や強い酒を飲んで」いたからです(レビ10:9)。酒を飲むことは霊的な判断を誤り、深刻な罪を犯しえるのです。

 4:12 わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。

 イスラエル人たちは、木を拝み、そして杖がどこに倒れるかによって判断する棒占いを行なっていました。これがそのまま、神に対して霊的に姦淫行為なのです。

 神は、彼らが「姦淫の霊に迷わされている」と言われます。姦淫の霊とは何なのでしょうか?11節に、お酒の問題が書かれています。お酒を飲むと、自分の神経中枢が麻痺してきて、自分が何をしているか分からなくなっていきます。この識別力がなくなっている状態が「姦淫の霊に迷わされている」ことです。

 実際の姦淫の罪を犯す人は、この状態に陥ります。自分が何をしているのか分からなくなります。ちょうどお酒に酔った状態、麻薬で幻想を見ているような状態、あるいは魔術にかけられたような状態に陥っているのです。後で「自分はいったい、何をやっていたんだ?」と気づくことができたら、自分が行なっていることがいかに気違いめいていて、愚かで、恥ずかしいことかを知ることができるのですが、それに気づくのは容易いことはではありません。

4:13 彼らは山々の頂でいけにえをささげ、丘の上、また、樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で香をたく。その木陰がここちよいからだ。それゆえ、あなたがたの娘は姦淫をし、あなたがたの嫁は姦通をする。4:14 わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が姦通をしても罰しない。それは男たちが遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえをささげているからだ。悟りのない民は踏みつけられる。

 娘や嫁が姦淫をしても、父や夫は責めることはできません。なぜなら、自分たち自身が遊女の家の通っているためです。祭司がだめなら民がおかしくなるのと同じように、妻の頭であるべき者、あるいは父たる者として模範を示さなければ、妻も娘も追従してしまうのです。

4:15 イスラエルよ。あなたは姦淫をしても、ユダに罪を犯させてはならない。ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない。「主は生きておられる。」と言って誓ってはならない。

 イスラエルがユダに悪い影響を与えようとします。この罪がユダに伝染しようとしています。「ギルガル」は、ヨシュアたちがエリコの町を攻略する前に、そこでイスラエル人たちが割礼を受けたところです。ベニヤミンの北の国境近くにある町であり、エフライムからそう遠くありません。 

 そしてベテ・アベンはベテルと同じです。ベテルは「神の家」という意味ですが、ベテ・アベンは、「悪の家」あるいは「偶像の家」という意味です。そこでヤロブアム一世が北のダンとともに金の子牛を据えた町です。ベテ・アベンもまた、ベニヤミンとエフライムの国境のところにあります。

 そこに行くな、南ユダに面する町で偶像崇拝を行なって、それをユダに伝播させてはならない、ということです。私たちは悪を行なわないためには、その悪から離れる必要があります。近くにいても、その罪を犯さなければ汚れることはりませんが、その罪を受ける誘惑を強く受けます。だから離れること、その場から逃げることが最も良い方法です。

4:16 まことに、イスラエルはかたくなな雌牛のようにかたくなだ。しかし今、主は、彼らを広い所にいる子羊のように養う。

 ここの「雌牛がかたくな」というは、牛で畑を耕そうとしているのに、前進しないでむしろ自分のほうに後退してくる状態を指しています。自分が牛を牽引して、前に進ませようとしているのに、むしろその反対のことを行なう融通の利かない様です。

 そして「広い所にいる子羊」とは、羊飼いなしでほったらかしていることを意味します。次をお読みください。4:17 エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。4:18 彼らは飲酒にふけり、淫行を重ね、彼らのみだらなふるまいで恥を愛した。4:19 風はその翼で彼らを吹き飛ばす。彼らは自分たちの祭壇のために恥を見る。

 イスラエルがあまりにも聞き分けがないので、それで神が彼らを自分たちが望むままに明け渡された状態を指しています。これは恐ろしいことです。神は異教徒に対して、裁きとしてこの方法を取られます。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはじかしめるようになりました。(ローマ1:24」自分たちは、誰の干渉も入らないので自由で嬉しいと思うかもしれませんが、自分がその罪によって一直線に滅びへと向かっているのです。私たちが強情をはると、ある時に神はこのように放っておかれます。

2A 主の懲らしめ 5
1B つまずくエフライム 1−7
5:1 祭司たちよ。これを聞け。イスラエルの家よ。心せよ。王の家よ。耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る。あなたがたはミツパでわなとなり、タボルの上に張られた網となったからだ。

 5章は祭司だけでなく、イスラエル人全体、また王たちに対しても神が語られています。「ミツパ」は、エルサレムの北にあるベニヤミンの地にある町です。かつてサムエルがペリシテ人との戦いのときに、そこで執り成しの祈りを捧げたところです。また、「タボル」イズレエルの谷の東にある山です。士師であるデボラとバラクが、そこからカナン人を攻め入りました。

 このように、さばきつかさが活躍したゆかりの地で彼らは偶像崇拝を行なっていました。それが「罠」となり「網」となりますが、その罪から離れることができなくなり、ついに滅んでしまうということです。

5:2 曲がった者たちは落とし穴を深くした。わたしは彼らをことごとく懲らしめる。

 主がイスラエルに行なわれるのは「懲らしめる」ことです。確かに一時的に彼らを裁かれます。殺されて滅んでしまう人たちもいます。けれども、その痛い経験を通して主に立ち返ることができるように仕向ける働きです。

5:3 わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。

 私たちが悪いことを行なっているとき、それは自分独りが行なっており、誰も見ていないと錯覚します。ここで主がおっしゃっているように、その悪を知っておられるのです。

5:4 彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。

 主はエフライムを知っておられましたが、彼らは主を知りませんでした。一方通行です。

5:5 イスラエルの高慢はその顔に現われている。イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく。

 イスラエルだけでなく、ユダも巻き添えになってしまいます。イスラエルと同じ罪をユダも犯します。具体的にはアハズ、そして後にマナセです。

5:6 彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。5:7 彼らは主を裏切り、他国の男の子を生んだ。今や、新月が彼らとその地所を食い尽くす。

 宗教的には主を求めるのですが、実際は心そのものが問題なのです。5節に「高慢がその顔に現われている」とあります。自分が変えられなければいけないのに、自分の宗教的な活動が大事だと思っているのです。

 例を挙げるなら、教会を転々と変える人がそう言えます。もちろん、教会を探すためにいろいろ見に行くのは大事ですが、「この教会は私を満足させることはない。」など、いろいろな言い訳をつけて他の教会に行きます。いっけん熱心に見えるし、話ももっともに聞こえることを話すのですが、いったん自分の心が刺されるようなことを説教壇から言われると、それをすべて教会のせいにして、他のところに移るのです。問題は自分の行ないを捨てようとしないかたくなさ、高慢であり、それを変えないためにむしろ活動としては一生懸命することがあります。

2B ユダに押し迫る恐怖 8−15
5:8 ギブアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らし、ベテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ。警戒せよ。

 ここからユダに対する神の警告になります。ギブア、ラマ、そしてベテ・アベンはみなベニヤミン領にあります。ベテ・アベンはエフライムとの国境にあります。ギブアからラマ、ラマからベテ・アベンに北上しています。これは、ユダがイスラエルに対して自分たちの影響力を及ぼそうと企んでいる姿です。

 ちょうど時期は、シリヤとイスラエルが共同で南ユダを攻めようとした時です。イザヤ書7章で学びました。アハズがイスラエルとシリヤが近づいて来たのを聞いて、非常に動揺しましたが、イザヤが彼に、「そんなことは起こらない」と預言しました。けれども、アハズは主ではなくて、アッシリヤに拠り頼みました。確かにその後、アッシリヤがシリヤと北イスラエルに攻めてきて、これがきっかけで北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされるのです。

 8節はおそらく、アッシリヤによってエフライム以外の地域が占領された、一部の民が捕らえ移されたとき(2列王15:29)、エフライムに自分の勢力を及ぼそうとした動きについて神が語られているのだと思われます。

 「警戒せよ」とありますが、文字通りには「後ろだ」です。ユダがイスラエルに自分の勢力を伸ばせると思いきや、アッシリヤはエフライムも倒し、そしてユダの町々も倒していくようになるからです。

5:9 エフライムは懲らしめの日に、恐怖となる。わたしはイスラエルの部族に、確かに起こることを知らせる。5:10 ユダの首長たちは地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。

 ユダが勢力をエフライムに伸ばそうとする貪りを、「地境を移す者のようになった」と神が責めておられます。律法で、「地境を移してはならない。(申命記20:14」とあるからです。神が与えれた土地は、それぞれの部族がそれを守るように主は命じられました。

5:11 エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。5:12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。5:13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。

 エフライムも、そしてユダも、自分たちが徐々に蝕まれていることに気づいていませんでした。初めは「しみ」のようなものであったものが腐り始め、後でそれが重大な病であったことに気づきます。これはちょうど「らい病」の患者が汚れていると宣言されて、共同体に入ってくることができない律法と同じです(レビ13:14章)。罪が徐々に私たちを蝕みます。

 そして彼らは自分たちの病に気づきましたが、それでも主に求めるのではなく、アッシリヤに求めました。自分たちの敵であり、自分たちを痛めつけるもののところに助けを求めるのです。私たちが主に助けを呼び求めなければ、このように自分たちを縛るものにかえって拠り頼もうとしてしまいます。

5:14 わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。5:15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。

 これが主のご目的です。彼らがまことに、主の御顔を慕い求めるまで、主が彼らを懲らしめられます。本当はそんなことをしないほうが良いと神はお考えです。ご自分の民を懲らしめることは、決してしたいことではありません。けれどもしなければいけません。そうでなければ、目覚めることもなく、主を呼び求めることもないからです。

 これはちょうど、子供に罰を与える親のようです。親が子供を懲らしめる時、子供は親がそれを喜んでやっていると思いますが、大きくなったらその気持ちが分かります。もっとも行ないたくないことです。けれども、その子が愚かなことを行なわないようにするために、その悪を憎むことができるように罰を与えます。

3A 移り変わる誠実 6
1B 三日目の生き返り 1−3
 そして次に、立ち返る民の声を読むことができます。

6:1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。

 彼らは悟ります。引き裂かれたのは(先ほど、神はご自分が獅子のようになると言われましたね)、引き裂くのが目的ではなく癒すためだったのだ。そして、打つのも包んで癒すためだ、ということを悟ります。

 私たちへの神の愛はこのような愛です。私たちが罪を犯し、他の神々に仕えてしまっているとき、神はねたんでおられます。ご自分の子どもが自分から離れているのを、激しく悲しんでおられます。何とかして罪の滅びを免れてほしいと願われるので、それで凝らしめを与えられるのです。

 これは手術に似ています。直るためには、体が切り裂かれる必要があります。切り裂くのは痛いからと言って、ただ痛み止めの薬だけを与える医者がいたら、私たちはそのような医者に診てもらいたいと思うでしょうか?確かに痛いです、けれどもそれは治癒の第一歩です。

6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

 これは暗示的に、彼らのメシヤ、イエス・キリストの復活を表しています。三日目によみがえられた主の御姿です。

 同時に、これはイスラエルの民の霊的回復であります。ペテロ第二3章にある、「一日は千年のようである(8節)」の言葉を使って、イスラエル人はイエスを拒んで、離散してから約二千年が経った。二日が経った、まもなく三日目、つまり三千年目に入る。つまりまもなくイスラエルは回復するのだ、と考える人もいます。なぜならここは、主が戻られる終わりの日の文脈の中で語られているからです。

6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

 すばらしいですね、彼らが一番必要なものは「主を知ること」です。それを一番に追い求めようとしています。その知識が与えられたら、ここにあるように大雨のように、また後の雨(つまり春の雨)のように潤いが与えられるという約束です。春の雨は、春の収穫物が一挙に実を結ぶのを助ける働きをします。つまり、収穫が一挙に与えられるということです。

2B 流血を犯す祭司 4−11
6:4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。

 再び、当時のエフライムの姿、そしてユダの姿に焦点を合わせています。ここで既にユダに対して、エフライムとともに神は語られています。ユダは引きずられてしまいました。

 「わたしはあなたに何をしようか」とありますが、この言葉をまるで災いを下すのを喜び迷っている声だと思わないでください。そうではなく、悩み、逡巡している姿です。何か、良いことをしてあげたい。できれば癒してあげたい。でも、あなたがたの誠実が朝もやのようにあまりにもはかないから、やはりこのように厳しく臨まざるを得ない、ということです。

6:5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現われる。

 そうですね、預言者たちの言葉は切り倒すような言葉です。アハブ王に対するエリヤから始まりますが、預言者たちは、彼らを殺す言葉で満ちています。

6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

 イエス様が律法学者やパリサイ人に対して引用された御言葉です。ご自分の周りに悔い改めた罪人が集まっていました。それを批判した彼らに対してこの言葉を引用されました。私たちが、自分たちの奉仕活動に一生懸命になるばかりに、人々に仕えることができなくなるという、本末転倒的なことをしてしまいます。目的はあくまでも、人々に憐れみを与えるための奉仕であり、それが自己目的化してはいけません。 

6:7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。6:8 ギルアデは不法を行なう者の町、血の足跡に満ちている。6:9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。

 ギルアデは、ヨルダン川の東側の地域です。ヤボク川の北からバシャンまでの間の地域ですが、ここはおそらく「ラモテ・ギルアデ」という町のことを指しているのでしょう。そしてシェケムはもちろん、ヨルダン川の西にあり、マナセ族の領土の中にあります。

 この二つの町は、ヨシュア記20章によると「逃れの町」に指定されていたところです。覚えていますか、主は、殺意がなく事故によって人を殺してしまった時に、親族による復讐を免れるために、レビ人の町のうち六つを「逃れの町」として定めてくださいました。ヨルダン川の西に、北部・中央・南部に一つずつ、そして東側にも三つの町があります。全イスラエルが自分が一番近いところに逃げ込むことができるようにするためです。

 ところが、その命を守るはずの町が、反対に祭司たちが命を奪い取る町になってしまったという、恐るべきことを行なっていたのです。

6:10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。6:11 ユダよ。わたしが、わたしの民の捕われ人を帰らせるとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。

 この「捕らわれ人を帰らせる」というのは、北イスラエルが捕虜として連れて行ったユダの人々を帰してあげた時のことを話しているものと思われます。シリヤとイスラエルがユダに対して戦って、女、子供たちをなんと十二万人もサマリヤに連れてきました(2歴代28:8)。それで預言者オデデが、「とりこを返しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです(11節)」と警告しました。それで彼らは、丁重に彼らを取り扱いエリコに連れて行った、とあります。

 けれどもこのような神の憐れみを見たアハズ王は、これを神の憐れみと受け入れませんでした。それで「刈り入れ」が始まります。刈り入れとは、ここでは神の裁きのことです。黙示録14章で、刈り入れの御使いが来て、それが裁きを表していました。

4A 訓戒に応えない民 7
1B 謀略を働く家来 1−7
7:1 わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪とは、あらわにされる。彼らは偽りを行ない、盗人が押し入り、外では略奪隊が襲うからだ。7:2 しかし、彼らは心に言い聞かせない、わたしが彼らのすべての悪を覚えていることを。今、彼らのわざは彼らを取り巻いて、わたしの前にある。

 神が、ご自分の懲らしめをためらって行なっていることがここからよく分かります。主がイスラエルを癒した、とあります。彼らがご自分の立ち上がってくれるためには、何をしなければいけないかをお考えになって、それで癒しを行なわれます。ところがエフライムは、ちょうど更正できない不良少年のように、一度いやされたら、その機会をもっと悪を行なう機会としたのです。

 そしてそれは、盗人と略奪隊です。盗人は内側で行なうこと、略奪隊は外で行なうことです。こっそり悪いことをしているし、また白昼堂々と行なっていることもあります。

7:3 彼らは悪を行なって王を喜ばせ、偽りごとを言って首長たちを喜ばせる。7:4 彼らはみな姦通する者だ。彼らは燃えるかまどのようだ。彼らはパン焼きであって、練り粉をこねてから、それがふくれるまで、火をおこすのをやめている。7:5 われわれの王の日に、首長たちは酒の熱に病み、王はあざける者たちと手を握る。7:6 彼らは陰謀をもって近づく。彼らの心はかまどのようで、その怒りは夜通しくすぶり、朝になると、燃える火のように燃える。7:7 彼らはみな、かまどのように熱くなって、自分たちのさばきつかさを焼き尽くす。その王たちもみな倒れる。彼らのうちだれひとり、わたしを呼び求める者はいない。

 これはヤロブアム二世の後の、残りの五人の王たちのことだと思われます。家臣が謀反を起こして王を殺し、そして自分が王となりました。そして本人もまた家臣に殺されます。

 これを、パンを焼くかまどに例えています。パンがふくれるのは、王のことです。彼にへつらいの言葉を言うだけ言っておいて、そして彼が酒に酔いしれている時に一気に怒りをもって殺します。

 このようなことをしていて、彼らの中で主を求める人が一人もいませんでした。

2B 国々の中のエフライム 8−16
7:8 エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる。

 ここから外国の力を借りて、自分たちを救い出そうとする姿を読みます。同じくパンの例えを用いて、神は「生焼けのパン菓子」と彼らを呼ばれました。「生焼け」は、直訳は「裏返さない」です。裏返さなかったら、片方だけがこげて、もう片方はまだ生焼けの状態です。

 これはちょうど、主の御言葉を聞いているのに、それに応答していない状態に似ています。片方はしっかり焼けているのに、御言葉を行動に移さないばかりに、自分自身がだめになっていってしまう状態です。非常な葛藤に苦しみます。

7:9 他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。7:10 イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。

 「気づかない」という言葉が繰り返されています。いつになったら気づくのか?という主の叫びです。主は白髪を与えたりして、彼らが弱くなっていることを示しておられるのに彼らは主を尋ね求めません。

7:11 エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった。彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く。7:12 彼らが行くとき、わたしは彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き落とし、その群れが騒々しくなるとき、わたしはこれを懲らす。

 ようやく自分たちが弱くなっていることに気づいたのに、今度は南はエジプト、そして北はアッシリヤの大国によりすがろうとします。けれどももちろん、彼らは敵であって決して味方ではありません。それを主は、「愚かで思慮のない鳩」に例えておられます。自ら罠にひっかかる姿です。

7:13 ああ、彼らは。彼らはわたしから逃げ去ったからだ。彼らは踏みにじられよ。彼らはわたしにそむいたからだ。わたしは彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う。

 分かりますか、彼らにいろいろな状況が襲いますが、ただ一つのことをずっと頑なに避けています。主に向かうことです。主は彼らに手を伸ばされています。けれども、それをつかもうとはしません。

7:14a 彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。

 同じ泣いていても、主には向かっていないのです。どこまで主を避けるのでしょうか?けれども、これが、私たちが自分の苦手な部分を見つめなければならないときです。私たちがただ、主に叫び求めればよいのに、他の人間的な解決法をずっと探し回ります。それは、先ほど見たように、高慢であり、そして頑なさの表れなのです。いろいろなことを行ないます。医者に言ってみたり、間セラーのところに行ってみたり、あるときは教会で熱心になりさえします。けれども、それはすべて主に向かって叫ぶのを避けるための行動でしかありません。主に対峙する必要があるのです。そして泣いて叫ぶ必要があるのです。

7:14b彼らは、穀物と新しいぶどう酒のためには集まって来るが、わたしからは離れ去る。

 物欲しさで集まってくる姿です。ホームレス伝道で、真摯に御言葉を聞いてる人もたくさんいますが、中にはただご飯が食べられるからということで説教にうなずいている人もいます。ここでも主が強調されているのが、「わたしからは」です。他のものはいろいろ求めるのに、なぜか主だけは避けるのです。

7:15 わたしが訓戒し、わたしが彼らの腕を強くしたのに、彼らはわたしに対して悪事をたくらむ。

 主は彼らに気づいてもらいたいため、癒すこともされるし、また彼らの腕を強くする、つまり力を与えることもあります。けれどもそれを立ち返る機会とはせずにむしろ悪いことをするために用います。

7:16 彼らはむなしいものに立ち返る。彼らはたるんだ弓のようだ。彼らの首長たちは、神をののしったために、剣に倒れる。これはエジプトの国であざけりとなる。

 最後は倒れますが、それを「たるんだ弓」に例えておられます。何の役にも立たないものです。助けを求めたエジプトの国も、彼らが倒れるのを見て、ほくそ笑んでいます。

 いかがでしょうか?「主を知らない」というのは、自ら主を避けている姿です。これが姦淫の霊です。他のあらゆるものは積極的に受け入れるが、主ご自身を求めることは自分の心が高慢なのでやりません。いつまでも、主に対して目を向けることができません。悪さをして、そわそわしている子供のようです。

 けれども、主はご自身を知らせようと必死です。いろんな機会を与えておられます。私たちには、それに応答する機会がたくさん与えられています。それが主の愛です。愛の懲らしめです。