士師記1−3章6節 「敗北の序幕」

アウトライン

1A 貫徹しない占領 1
   1B ユダとシメオン族 1−20
   2B その他の部族 21−36
2A 霊的堕落の循環 2−3:6
   1B ボキムの嘆き 1−5
   2B 堕落の流れ 6−23
      1C ヨシュア以後 6−10
      2C 士師の派遣 11−19
      3C 主の試み 20−23
   3B 残された国民 3:1−6

本文

 士師記1章から始めます。私たちはついに、ヨシュア記を読み終えました。神がかねてから約束されたカナンの地の所有を果たしたのですが、私たちはヨシュア記において、そのすべてを占領したわけではないことを学びました。ですから、ヨシュアが残した働きを彼らは貫徹しなければならないのですが、それができなかった話を私たちは読みます。そして、そのうちに彼らが堕落します。周囲の住民と縁を結び、そしてその神々を拝み始めます。それで主が彼らを周囲の住民に虐げるままにされます。

 そこで神が苦しんでいる彼らを憐れんで起こしてくださった「つかさ」たちがいます。彼らを「士師」と呼びます。これは中国語訳聖書から来た翻訳ですが、イスラエルの苦境を救済する指導者と考えてください。合計十二人の士師が現れます。けれども、彼らがいる時にはイスラエルの民は主と共に歩むのですが、彼らが死んだ後に再び偶像にのめり込みます。それで彼らは再び周囲の民に圧迫され、その苦境の中で主に叫び求めます。そこで主は彼らの苦しみを見ていたたまれなくなり、新たな士師を送られます。そして救い出され、その士師が治めている間は、彼らは主と共に歩みます。その士師が死ねば、また偶像礼拝に陥るのです。

 これを何と呼んだらよいでしょうか?クリスチャンに当てはめたら、どうでしょうか?「ヨーヨー・クリスチャン」とでも言いましょう。ある時には主と共に歩んでいるけれども、次に会う時には信仰的に後退しています。けれども、またその後で会う時には絶好調の姿を見ます。環境に左右されやすく、安定していません。こんなイスラエルの姿をこれから見ます。

 その根っこにある問題は、士師記の主題になる言葉ですが士師記の最後です。「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(21:25」問題は、彼らが意識的に神の律法に背いていることではありませんでした。背いているという意識さえありません、自分にとっては正しいと思っていることを行なっているのです。このような霊的混乱の時期を私たちはこれから見ていきます。主が、このイスラエルの地に王を立ててくださるまでそれが続きます。ダビデ王によって、神の約束されたご自分の支配する国が立てられるようになります。

1A 貫徹しない占領 1
1B ユダとシメオン族 1−20
1:1 さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」1:2 すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」

 ヨシュア記の始まりと同じように、主が用いられた指導者の死後から話は始まります。ヨシュア記の始まりは「モーセの死後」でありました。ここではヨシュアが死んだ後です。ヨシュアが死ぬ前に、「あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。(ヨシュア23:5」と強く命じていました。イスラエルはそれをすばやく実行したようです。

 彼らは主に伺っています。すばらしい姿勢です、自分たちが事を行なう前に主に導きを求めます。恐らく祭司の胸当てにある、ウリムとトンミムを用いて御心を探ったのでしょう。するとユダが上るように命じられました。そして勝利の約束も与えておられます。

1:3 そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。

 覚えていますか、シメオン族はユダ族の割り当て地の中に割り当てをもらっていました。そこでユダはシメオンに共に戦うように誘います。

1:4 ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。

 「カナン人」は普通、ヨルダン川の西全域に住む先住民を指していますが、もっと厳密に言えばここではイズレエル平野平原と海辺のほうの隣接地域に住んでいた人々のことを指します。「ペリジ人」は南方の山岳地帯を占めていました。ベゼクは、マナセ族の割り当て地に同名の町がありますが、ユダ族の中にある町はまだどこにあるか分かりません。

1:5 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。1:6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。1:7 すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。

 この手足の親指を切り取るという行為は、今の私たちからするとずいぶん残酷だと思うと思います。けれども当時、手の親指を切るということは剣を持てないことを意味し、足の親指を切るということは戦いのための行進することができなくなることを意味します。一種の武装解除です。そして、王がその仕打ちを受けると言うことは、戦うことのできない王ということになり、能無しとなり、王の地位を剥奪されます。

 アドニ・ゼデクの言葉が極めて興味深いです。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」いかがですか、ガラテヤ書6章にある言葉を思い出しますね。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(6:7-8」私たちは結果を考えずに悪いことを行なってしまいますが、必ずその刈り取りを後にしなければならないことを知る必要があります。

1:8 また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。

 ユダ族は、これから次々と町々を攻略します。「エルサレム」を攻めたとありますが、エルサレムは二つ以上の町があったものと考えられます。なぜならヨシュア記1563節には、エルサレムに住むエブス人を倒すことができなかった、と書いてあるからです。後にダビデの町となるところではなく、すぐそばのまた別の町を攻略したものと思われます。

1:9 その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。1:10 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。

 エルサレムから南下します。ユダ山地そしてネゲブ、そしてシェフェラにいるカナン人と戦います。ヘブロンのカナン人については私たちはすでに、カレブの勇猛な姿を読みました。民数記に出てきた巨人アナク人三人を、カレブがこの時にやっつけたのです。

1:11 ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。1:12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」1:13 ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。1:14 彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。1:15 アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

 この話もすでにヨシュア記に出ていました。カレブの弟オテニエルが、デビルの町を倒しました。その時にも説明しましたが、ここにある「そそのかす」という訳よりも、新共同訳のほうが正しいと思います。「オトニエルは父に願って耕地をもらうように彼女を促した。」ネゲブという砂漠では泉は宝のような存在です。それを欲したのです。

1:16 モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。

 覚えていますか、シナイ山から約束の地に向かって旅立つ時に、モーセがイテロの子ホバブに道案内をお願いしました。彼は嫌がりましたが、モーセの執拗な願いによって承諾しました。それ以来、同じくヤハウェを敬う部族としてイスラエルと大まかな行動は共にしていたのです。それで彼らはユダの荒野のところを活動地域にしました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。今でもイスラエルのユダの荒野にはベドウィンがいますが、ケニ人の末裔ではないかとも言われています。

1:17 ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。1:18 ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。

 ケニ人が住むと決めたユダの荒野の南にツェファテがあります。そこにホルマつまり「破滅」という名を付けました。そこから東に移動して、地中海沿岸にあるペリシテ人の町を倒しました。

1:19 主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。1:20 彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。

 ここまでユダまたシメオンは勇敢に戦ったのに、貫徹していません。谷の住民は鉄の戦車を持っていました。考古学的には今、青銅器の時代から鉄器時代に差しかかっています。戦車と言っても当時は馬に引かせていたものですが、けれども近代戦に当てはめれば、機関銃に対して戦車がやって来たような状態です。確かに戦える相手ではありません。けれども霊的には言い訳ができません。以前、カナンの王たちと戦った時に主は、「あなたは、彼らの馬の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。(ヨシュア11:6」と言われました。それとは対照的に、カレブは先の三人のアナク人を追い払いました。

2B その他の部族 21−36
1:21 ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。

 エルサレムはユダ族とベニヤミン族の境にあります。ユダ族はこのエブス人と戦ったけれども、勝利を収めるまで戦わなかった一方で、ベニヤミン族は戦いもしなかったようです。ですから「今日まで」とありますが、ダビデによってエルサレムが彼の町になりますから、その前に書きしるした記述ですが、ベニヤミン人とエブス人がいっしょに住んでいます。

1:22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。1:23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。

 ユダ族が南の主要な部族ですが、北はヨセフ族です。彼らも勇猛に戦いました。ベテルは、かつてヤコブが天からのはしごの夢を見たところです。ちょうどカレブが、族長にとって大切なヘブロンの町を攻略したように、ヨセフ族も霊的に大切なところを攻略しようとしています。

1:24 見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」1:25 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。1:26 そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。

 興味深いですね、以前、ラハブとその家に対してイスラエルの民は同じことをしました。出入り口を通報した者とその氏族を助けてあげました。ところが、ヨセフ族もユダ族と同じように、いやそれ以上に戦いを貫徹することはなかったのです。

1:27 マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。1:28 イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

 カナン人のほうがマナセ族の戦いの意志よりも、より執拗でした。イスラエルはそれで、苦役という妥協案を行ないました。これで良いのでしょうか?私たちは、自分の肉の弱さについて、その肉の執拗さを見て、途中であきらめてしまいます。これと共に住んでいこうと思います。けれども、あきらめないことが大切です。

1:29 エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。

 もう一つのヨセフ族であるエフライム族も、同じくカナン人が彼らと共に住んでしまいました。

1:30 ゼブルンはキテロンの住民とナハラルの住民を追い払わなかった。それで、カナン人は彼らの中に住み、苦役に服した。1:31 アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。1:32 そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである。1:33 ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。しかし、ベテ・シェメシュとベテ・アナテの住民は、彼らのために苦役に服した。

 ガリラヤ地方にある部族たちの記録です。これまではマナセとエフライムにおいては、カナン人が彼らの中に住んでいた、とあり、ゼブルン族においても、カナン人が彼らの中に住んでいます。けれどもアシェル族とナフタリ族においては、彼らのほうがカナン人の中に住みついています。苦役に課しているのはイスラエル人でありますが、それでも彼らのほうがカナン人の中に住んでいるという、もっと悪い状態です。

1:34 エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。1:35 こうして、エモリ人はハル・へレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。1:36 エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。

 最後にダン族においては、エモリ人より劣勢になっています。ヨセフ族、ここではエフライム族のことでしょうが、彼らがダン族との共通の境を持っており、彼らが勢力を伸ばしてかろうじてエモリ人を苦役に服させました。ダン族はついに、その一部がその地から離れて北上し、ナフタリとアシュルの間に自分たちの土地を探しました。

2A 霊的堕落の循環 2−3:6
 いかがでしょうか?今、各部族を眺めると、ユダ族からダン族へ向かい、その占領範囲がどんどん狭まっています。私たちの霊的妥協の姿を表しているようでもあります。初めはわずかな妥協だったのだけれども、次第にその妥協の範囲が広がります。ついに、自分は世の中にどっぷりと浸かっており、かろうじて信仰を持っているのかどうか分からない状態になります。そしてついに、信仰そのものが変容するのです。

1B ボキムの嘆き 1−5
2:1 さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

 語っておられるのは、「主の使い」です。創世記から何度となく現れてくださった方です。モーセに対してもホレブ山で、燃える柴の中で現れてくださいました。そして、ヨシュアに対してエリコの城壁のそばで、主の軍の将として現れてくださいました。私たちはこの方が、受肉前のイエス・キリストであると信じています。

 今、この方がギルガルから来られていることに注目してください。そこで彼らは、割礼を受けました。そして過越の祭りを祝いました。主に対する新たな出発を切り、そこから先住民を追い出す活動を開始したのです。彼らは貫徹できなかったことを、主がここで責めておられるのです。

2:2 あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。2:3 それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」

 モーセが何度も何度も、このことを警告し、ヨシュアも警告していました。「契約を結んではならない」というのは、私たちの霊的生活で言えば、罪の行ないに具体的に関わる、ということです。それを行なってはならない、ということです。そして「祭壇を取りこわさなければならない」というのは、たとえその瞬間、罪を犯していなくても、つまずきとなるものを自分の前から取り除くということです。このことを行なわないと、主が言われるように「わな」となります。その罪の中に捕えられて、がんじがらめになってしまうのです。

2:4 主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。2:5 それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。

 「ボキム」は泣く者、という意味です。彼らは自分たちの不従順に対して嘆き、またいけにえも主に捧げることさえしています。けれども、この後で彼らは行ないを改めることをするでしょうか?つまり、切に悔い改め、主から憐れみと力をいただき、カナン人完全追放のために動き始めたでしょうか?いいえ、その場限りだったことがこの後の話を読むと分かります。

 私たちは感情の豊かな生き物です。泣くこと自体が何も悪いことではないし、罪に対して悲しみ、泣くことは、あるところでは命じられてさえいます。けれども、バプテスマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(マタイ3:8」と言いました。悔い改めというのは、感情的な悲しみではありません。悔いるだけでなく、改める必要があります。実質的に自分のあり方を変える必要があります。だから、「ごめんなさい」と謝るだけでなく、その罪の告白にふさわしい、その罪を捨てたところの生活を構築していかなければならないのです。

2B 堕落の流れ 6−23
1C ヨシュア以後 6−10
2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。2:7 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。2:8 主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。2:9 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

 ヨシュアの時代にさかのぼって、これからのことを話しています。主はご自分のしもべを立てられるその境目に、これまでも霊的混乱が起きていたことを記録しています。創世記から出エジプト記にかけて、ヨセフの死後、四百年近く指導者が現れませんでした。その間に、ヨセフのことを知らないパロが出てきて、それまで手厚く保護していたエジプトはイスラエル人を苦役を課すようになったのです。主はこれから士師を与えられますが、この霊的混乱を払拭させるのは最後の士師であるサムエルを待たなければなりません。そして、主の愛する、選ばれた王ダビデが現れて、イスラエルの国が神を中心として秩序を回復します。

2C 士師の派遣 11−19
2:11 それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。2:13 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、2:14 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。

 午前礼拝で話した第三世代以降の歴史が始まります。ここから、16章のサムソンにまで続く士師の時代の歴史のまとめを読むことができます。彼らはずっと同じことを繰り返していました。偶像礼拝、周囲の民による圧迫、彼らの泣き叫び、士師の出現、安息、と続きます。けれどもその士師が死ぬと、同じことを繰り返すのです。そして士師記17章以降に、その時代に起こっていた二つの逸話が記されています。そこには、どれほどイスラエルが霊的に、倫理的に混乱状態に陥っていたかを眺めることができます。

 カナン人の拝んでいた神々のうちで中心的な神々はバアルとアシュタロテでした。バアルは、もともとは嵐の神です。それで農耕に豊穣をもたらす神として、カナン人の神々の中でも主神となっていきました。そしてアシュタロテは、性愛と戦いの女神で、バアルの相手になっています。アシュタロテに相当する女神は、他の国々にも広がっています。バビロンではイシュタルで「天の女王」と呼ばれています。エジプトではイシス、ギリシヤではアフロディテ、そしてローマではウェヌスあるいはビーナスです。

 ここで「主を怒らせた」という言葉があります。ここで私たちが間違ってはいけないのは、ここには主の悲しみの憤りがあるのだということを忘れてはならないことです。主はご自身をねたむ神であると紹介されました。ご自身が愛してやまないイスラエルが、他の神々に仕えていることにとてつもない悲しみと呻きを持っておられる、ということです。そこで憎たらしいから、彼らを略奪者の手に渡しておられるのではなく、むしろ愛しておられるから敵の手に渡しています。ご自身の聖なる性質のゆえに引き離さなければならないのですが、それをするのはとてつもなく苦しいのです。

2:15 彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。2:16 そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。

 他の箇所を読むと、彼らは苦しみの中にいる時に、彼ら自身が主に叫んでいます。彼らは真に悔い改めているわけではないのですが、その苦しみを見るに耐えなくなってそれで、さばきつかさ、すなわち士師を起こされるのです。

2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。

 「神々を慕って淫行を行ない」とあるのは、霊的な淫行であり、また実際の淫行です。バアルとアシュタロテに関わる宗教儀礼は、まさに忌まわしい性的倒錯も含まれていました。ゆえに、カナン人は文化的、習慣的な理由だけでこれらの異教に関わっていたのではなく、むしろ肉欲の発散の場としてこれらのことを行なっていたのです。それにイスラエルも引き寄せられたのです。

2:18 主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。

 「主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間」という言葉が大事ですね。私たちは前回、「私と私の家は主に仕える」という言葉を学びました。たとえ、周りの人々が主を捨てて偶像を拝んだとしても、私はそれでも主に仕えるという、霊的個の確立が必要であることを学びました。前回、この礼拝の後で交わりをしましたが、アメリカで信仰を持って日本に帰ってきた人、また韓国で信仰をもって帰ってきた日本人の人で、教会に通っている人が少ないことを話しました。その回りの雰囲気で信じているのか、それとも自分自身が確かにキリストを主と仰ぎ見ているのかが、試されるわけです。

 イスラエルの民は、信仰の根が御言葉によって、魂の奥底まで張っていませんでした。主が士師とともにおられ、その士師が彼らと共にいる時は主に従ったのです。けれども士師が死ねば、元の木阿弥です。いや、元の木阿弥ではありません。もっと堕落していく、と書いてあります。なぜでしょうか?ちょうどダイエットのことを考えてください。リバウンドっていう言葉がありますね。食べるのを我慢していたから、食事制限を取るとこれまでのものも取り返すかのように貪り食べるからです。霊的にも同じなのです。心から変えられているのではありませんでした。表面的に指導者がいるから、その霊的影響下の中に自分を留めていただけなのです。けれども、自分の内にある欲望に対しては、何ら対処を行なっていませんでした。

 何がいけないのでしょうか?表面的な行動になっている、ということです。コロサイ書223節にこのような言葉があります。「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(2:23」コロサイ書は、キリストが教会のかしらであることを教えています。けれども天使礼拝であるとか、食べるな、触るななどの律法主義や、およそキリストとは無関係の、いわば“霊的な弄び”によって教会らしく振る舞っていることを戒めた手紙です。

 私たちには、御言葉の力があります。そして御霊の働きがあります。そして何よりも、主イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという福音があります。私たちが罪によって支配されていた古い人が、キリストとともに十字架につけられ死にました。そしてキリストともによみがえり、新しい命を得たのです。このことを信仰を持って受け入れる時に、私たちは根本のところで、自分の罪の問題に圧倒的な力を持つのです。「これをやってきたが、なかなか直らない。」と言われるかもしれません。いいえ、ぜひ前進してください。カナン人のようにしつこいでしょう。けれども、主が約束されています。戦いを貫徹してください。

3C 主の試み 20−23
2:20 それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。2:22 彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」2:23 こうして、主はこれらの国民をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。

 ここに、主があえてヨシュアが死ぬまでに、国民をすべて追い出されなかった理由がはっきりと書かれています。「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」イスラエルの民にとってもっとも大切なことは、豊かな地を得ることなのでしょうか?いいえ、違います。主との豊かな関係であり、その裏付けとしての豊かな地であります。もし豊かな地に住んでいて、それで主を忘れているのであれば本末転倒です。もちろん主をあがめ、主に礼拝を捧げる生活を保っているなら、主は諸国民をことごとく追い出されたことでしょう。けれども、豊かであるがゆえにかえって主を忘れてしまうのであれば、むしろ試みの中にいれて、彼らが主によりすがるように仕向けることが益なのです。

 午前礼拝で学びましたが、全ての世代の人が、実は第一世代にならなければいけません。神を体験する世代にならないといけないのです。そこで、神は時に私たちを試みの中に入れられます。安住の地を得ていることが、いかに貴いことなのかを知るには、安住ではない戦いの時を知っているからこそできることです。今、キリスト者として喜びを抱くのは、自分がいかに罪深く、それで聖なる神の前では到底、その前に立つことはできず、永遠の罰の中にいなければいけなかったところ、十字架の代償の御業によって神の前に立つことができているからです。恵みを知るには、それだけ自分に罪があることを知る必要があるのです。

 それで戦いを主は許容されるのです。私たちは肉の戦いがあると、戦いがあることだけで落胆します。いいえ、それは主が許容されていることなのです。必ず打ち勝つことのできるようにしておられるから許容しておられます。ある聖書教師は、「堕落にある祝福」というとんでもない題名の説教をしました。なぜ堕落に祝福なぞあるのか?と思うでしょうが、私たちの肉がどうしようもなく堕落しているので、私たちが自分に拠り頼まず、主ご自身に助けを求めることができるから、ということです。このことによって私たち自身が神の御霊とその力を味わうことができます。

3B 残された国民 3:1−6
3:1 カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。3:2 ・・これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。・・3:3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。3:4 これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。

 具体的に戦うべき相手が列挙されています。ペリシテ人の王たちは、ダビデが彼らを屈服させるまでイスラエルの宿命的な敵でした。そしてカナン人とシドン人というのは、イズレエル平野以北の、主に海岸地域の人たちです。そしてレバノン山のほうはかなり北の地域です。霊的に言い換えれば、ペリシテ人は自分の膝元にいる敵であります。私たちが初めから意識している肉の弱さです。けれども、カナン人、シドン人、そしてヒビ人は、遠くにいる存在です。私たちは信仰をもって初めはそれが罪であるとか肉の働きであるとか分からなかったものが、信仰によって前進していくと思わぬ遭遇をする敵の攻撃です。その時に、「まさか自分自身にこんな弱さがあったとは・・・。」と気付くような領域です。

3:5 イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、3:6 彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。

 先週話しましたが、縁を結ぶと、それは個人だけの問題ではなくなります。その家族の交流、氏族、部族間の交流になります。そうすれば自ずと、その神々とも関わりが出てきます。

 次回から、士師たちの活躍の歴史を読んでいきます。今、私たちが学ばなければいけないのは何でしょうか?戦いをやめること、中断することが、堕落への序幕であるということです。主が今与えておられる、皆さんのうちにある葛藤は実は主がそのようにされているとも言えます。その試みは決して自分に耐えることのできないものではありません。逃れの道を主は備えておられます。どうか果敢に、たとえこれまで失敗したとしても再び御霊によって進んでいってください。そして、霊的な事柄については、他人事のようにしないということです。知識としての聖書も止める、ということです。自分に語られた神の言葉としてその中に生きる選択をしていきます。この教会で、また個々人の生活で、今週、神を体験する最前線の人たちとなるようお祈りします。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME