士師記176節 「めいめい行なう正しいこと」

アウトライン

1A 混沌の時代
   1B 無駄に呼ばれる御名
   2B 知識なき情熱
   3B 孤立・近視眼・仲間割れ
2A 王がいない時代
   1B 神が王たる国
   2B 神の法を絶対としない民
3A 自分の目に正しい事
   1B 神の目に正しい事
   2B 道徳相対主義の禍
      1C 混乱
      2C 孤独
      3C 非寛容
      3C 自我の増大
      4C 非人間化
4A 自分を非とすることの幸い
   1B キリストの義
   2B 神の愛

本文

 ついに士師記も最後に入ります。士師記176節を見ましょう。午後は17章から21章まで読み進めたいと思いますが、今は176節に注目してください。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。

1A 混沌の時代
 士師記における、士師の働きの記録は16章で終わりました。17章から21章は、云わば「あとがき」です。この時代に、イスラエルの民がどのような霊的生活を送っていたのかを示す、典型的な出来事が主に二つ記されています。ダン族が自分たちの住むところを求めて北上したこと、またベニヤミン族と他のイスラエル人が内戦をしたことが書かれています。そして、それぞれの出来事にこの注釈が書かれているのです。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」イスラエルの中で起こっていた混沌と混乱は、この為でした。

1B 無駄に呼ばれる御名
 具体的に彼らの間で起こっていたのは、第一に、「主の御名がむなしく唱えられている」ことでした。17章の始めは、銀を盗んでそれを返した息子に対して、母親が何とその銀で偶像を彼のために造ります。彼女はこう言っているのです。「(ヤハウェ)が私の息子を祝福されますように。(2節)」イスラエルの契約の神の名であるヤハウェの祝福の表れとして、偶像を造っているのです。

 つまり主の名は知っているのですが、主が御心としておられることを度外視して、主が願っていることではなく、自分自身の願いがかなえられた時に主の名をほめたたえているのです。私たちも、聖書に書かれていることを度外視して、自分の願っていることがかなえられた時にだけ、主をほめたたえることはないでしょうか?

2B 知識なき情熱
 具体的に彼らの間で起こっていたのは、第二に「知識なき情熱」です。例えば、エフライムに住むレビ人にそばめがいました。彼女は彼を嫌って、実家のベツレヘムに戻りました。レビ人はベツレヘムに行き、彼女を取り戻しました。日も暮れかかっていたのですが、そこはエルサレムでした。当時はエブス人が住んでいます。彼は、「ここはエブス人が住んでいるから、ここで泊まってはいけない。」と言い、さらに北上しベツレヘム領のギブアに来ました。

 ところが、そこはもっと危険でした。なぜなら、ベツレヘム人に非常に悪い者たちがいたのです。なんとソドムと同じように男色を貪る者たちが、彼の泊まった人の家に押し寄せてきました。そこでそこの家の主人は、なんとその旅人を守るために、自分の娘とそしてそのレビ人のそばめを出そうとしています。結局、そばめだけをそのベツレヘム人たちは取り上げ、夜通し彼女を辱めたのです。彼女はその家までたどり着くことはできたものの、敷居のところで息絶えてしまいました。

 恐ろしいのは次の箇所です。「その女の主人は、朝になって起き、家の戸を開いて、旅に出ようとして外に出た。見ると、そこに自分のそばめであるその女が、手を敷居にかけて、家の入口に倒れていた。それで、彼はその女に、立ちなさい。行こう。」と言ったが、何の返事もなかった。それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。(19:27-28」彼女が陵辱されていたにも関わらず、彼は家の中で守られて眠っており、朝起きてみたら彼女が倒れているのを、平然と「立ちなさい。行こう。」と言っています。なんという女性に対するいたわりでしょうか!(皮肉です。)一方では、異邦人との交わりを注意深く避けていたのに、もう一方では異邦人と何ら変わりない慣わしに対して何の違和感も抱いていません。

 その後、イスラエル全体を上げての内戦が、この事件で繰り広げられます。彼らは多くの誓いを立てますが、そのせいで、戦争に参加しなかった町の者を虐殺し、また未婚の女性たちを数少なくなったベニヤミンの男たちに拉致させるようなことまでやらせています。「誓い」を立てるのですが、それを守るために非倫理的なこと、非道徳的なことを行ないます。神の知識が不足しているために、情熱を傾けて行なっていればそれだけ、神から離れていくという皮肉を味わっているのです。

3B 孤立・近視眼・仲間割れ
 その他の具体的問題は、一つに「孤立」があるでしょう。ダン族は他の部族から離れて、自分たちで祭司を立て、そこに祭壇を造って偶像を拝んでいました。先の、偶像を造ったミカという者は、自分の家にだけある祭壇があるようにしていました。そこに、まことの主をあがめる共同体が存在していなかったのです。

 また「近視眼」であったことが挙げられます。ミカの家の祭司となったレビ人は、ダン族が自分たちの祭司となってくれと言ってきたときに、一人よりも一部族の祭司になれることで心がはずみ、すぐにダン族の祭司になりました。目の前にあることで、ころころ立場を変えています。イスラエルとベニヤミンの戦いにおいては、イスラエルはベニヤミンという部族がなくなってしまう危険について考慮せずに戦争をし続けました。

 そして「仲間割れ」が、おのおのが正しいと見えることを行なった大きな結果の一つです。とんでもない数のイスラエル兵が死んでいきました。単純に数えるだけでも、イスラエル側は四万三十人、ベニヤミン族は二万六千百人が死にました。確かに、陵辱事件は深刻に、厳正に裁かなければいけないものですが、そこまで極端に殺しあう必要はあったのでしょうか?内部を裁くことは教会にも命じられていますが、未熟な者たちが行なえば、不必要なまでの過大な痛みをもたらします。

2A 王がいない時代
1B 神が王たる国
 これらの混乱が起こった大きな原因の一つとして、士師記の著者は、「イスラエルには王がなかった。」という事実を挙げました。著者はもちろん、サウルまたはダビデによって確立したイスラエル王国のことを踏まえて書いているものと思われます。けれども、イスラエルにおいては王自身が、神を礼拝します。王自身が、祭司による律法の朗読を聞きます。王と言っても、実は彼自身が、ヤハウェなる神を王とする臣民なのです。ダビデは、エルサレムに神の箱を持っていくときに、他のイスラエルの民といっしょになって、王服を脱いで主の前で踊ったり、歌ったりしました。

 したがって、イスラエルにとっては主のみが王なのです。この方の主権を受け入れることによって成り立つ共同体なのです。神が天の御座に着いておられ、その統治に服従する民がいるときに、そこは神の国となります。ギデオンがミデヤン人の手からイスラエルを救い出した時に、民はギデオンに王となってほしいことを申し出ましたが、彼は断りました。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。(士師8:23」他の誰でもなく主が治められるのです。けれども、イスラエルの民は主が治められることを拒んだので、それぞれが自分にとって正しいことを行っていきました。

 人に伝道する時にしばしば使われる文書は、「四つの法則」というのがあります。そこには二つの図があります。(引用元:hyuki.com/four/laws.html

[自己中心の生活]

[キリストを受け入れた生活]

自己中心の生活

キリストを受け入れた生活

我=自我が心の王座を占めている。
=キリストは心の外にいる。

=キリストが心の中心にいる
我=自我はキリストに導かれている。

生活の関心事は自我によって方向づけられ、その結果、調和を欠いたり、欲求不満に陥ったりします。

生活の関心事はキリストによって方向づけられ、その結果、神の計画と調和するようになります。

 イエス・キリストを信じるということは、自分の人生に対して主権を捨てて、キリストを王とすることに他なりません。心の王座に「自分」あるいは「我」が着いていました。生活の関心事は自我によって方向付けられており、その結果、調和を欠いたり、欲求不満になったりします。けれどもキリストを心に受け入れると、生活がキリストによって方向付けられていきます。

 キリストの教会は、「からだ」であると聖書に書かれてあります。それはキリストの体であり、キリストが頭であるということです。したがって、私たちはキリストを礼拝します。この方が万物の支配者であられ、かつ教会のかしらであるので礼拝します。そして、私たちはこの方に結びつきます。同じくコロサイ書には、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(2:3」とあります。他に、知識や知恵と呼ばれるものによって補完するのではなく、キリストにつながることによって知識や知恵を得るのです。また、「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです(あるいは、「完全なのです」)。キリストはすべての支配と権威のかしらです。10節)」とあります。自分の拠り所をすべて、キリストに傾けます。この方以外のものに拠り頼むのではありません。

2B 神の法を絶対としない民
 イスラエルの民が、神を王とする国となるためには、神の命令は絶対です。神の法律があり、それに則って生きなければいけません。そうでなければ、そこには正義は存在せず、平和と秩序がありません。聖書では、神の法律のことを「律法」と呼んでいます。先ほど話したイスラエルの王ダビデは、律法をこよなく愛していました。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。(詩篇119:97」このように、神の言葉を愛して、一日中それが自分の思いとなっている人々が集まるところに、神は王として君臨しておられます。

 ところが、ところがイスラエルの民は、士師の時代それを拒みました。神の律法を第一とするのではなく、自分自身が律法になったのです。自分にとって正しいことをしていくのは、まさに自分自身が法律を定めていることと同じです。そして実に数多くの人が、自分自身を王とし、立法者としています。「私は自分を信じているのだ。」「私の人生は私自身で決める。」「自分の人生に神がいるなどと考える余裕はない。」こうやって自分が王となっているのですから、当然、その周りには混乱と葛藤と不満が出てくるのです。

3A 自分の目に正しい事
1B 神の目に正しい事
 そして士師記166節には、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」とあります。「それぞれが自分の心に正しいと思われることを行なうのが理想なのではないか。」と思われるかもしれません。確かに、それが現代社会の哲学になっています。けれども、士師記16章から21章までには、理想どころか暗黒の社会に陥っていることを教えています。学校では、「西洋では教会を権威にした中世社会は暗黒時代であり、近世に入って啓蒙思想によって人間は進歩した。」と教えます。いいえ、進歩どころか人間はその後、二つの世界大戦を行ないました。第二次世界大戦を勃発させたヒトラーは、神への憎しみ、キリストへの憎しみを公言していました。これが、めいめいが正しいと見えることを行なっている結果です。

 多くの人が教会の語ることについて、「あなたの価値観を押し付けないでください。」と反発します。それはもし私たちキリスト者が、自分の経験や考え、自分の思想を語っているのであれば至極もっともな事です。けれども、キリスト者というのは、自分に対しては既に死んでしまった、自分が生きているのはキリストが生きているからだ、と人生の中で決めてしまった人たちです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20」聖書の言葉を語っているときは、それは私たちの言葉を押し付けているのではなく、神が正しいと思っておられることを語っています。語っているのは、人間としてのキリスト者ではなく、神ご自身なのです。

 私自身は、アメリカの牧者訓練校で牧師としての訓練を受けました。そこには聖書カウンセリングという科目があります。そこで徹底的に教えられたのは、「あなたの意見を言ってはいけない。神が何と言っておられるのかを話しなさい。」つまり、聖書を開いて、そこに書いてあることを示していくことが必要であることを教えられました。これはもちろん牧会者だけでなく、すべての信者も同じ責任が課せられます。自分の意見や経験は、他の人には当てはまらないことが多いです。それを語り続けるならば、自分は相手のことを思っていろいろ話しているつもりかもしれませんが、押し付けです。その人の心のうちは、その人自身、いや神ご自身だけが知っておられます。キリスト者にできることは、キリストの命令に自分が従うこと、そしてキリストの言葉によって教え、励まし、慰め、勧め、そして時には戒め、責めることです。

 箴言の言葉で有名なのは次です。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(箴言3:5-7」主の言葉は、私たちの理解を超えているかもしれません。けれども、それは主の目には正しいことです。主の目に正しいと見られることを選び取ることによって、これまで混乱や葛藤がつきまとっていた自分の人生がまっすぐにされます。

2B 道徳相対主義の禍
 箴言には反対の言葉もあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12」私たちの目では正しいと思っていることを行ない続ければ、その道の終わりは死である、というのです。これがまさに、士師時代のイスラエルの姿です。そして今日の姿です。現代は、「道徳相対主義」が人々の哲学になっています。つまり、「真理や真実、また正義というものは、各人異なるものだ。絶対的な道徳基準というものは存在しない。その違いを認めることによって初めて人間は平和に生きることができる。」というものです。

1C 混乱
 果たしてその通りでしょうか?大学で、道徳相対主義を教えている教授がいました。絶対真理などというものは道徳においては存在しない。それぞれが正しいと感じていることを行なえばよいのだ、という教鞭を振るっていました。その講義を聴いていた学生が立ち上がりました。教壇にまでやってきて、教授のノートを破り始めました。そして教授を平手で打ちました。教授はひどく怒りました。「何をやるんですか!」と、言いました。学生は答えました。「今、道徳に絶対的価値などないと言ったばかりではないですか。私が正しいと思ったことを行えば良いんでしょう。」

 そうなのです、それぞれが正しいと思っていることを行なうことに、そもそも無理があります。ローマ214-15節にはこうあります。「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」すべてを知っておられる神は、それぞれの心に、その良心に、律法を置いておられるのです。もしこれを無視するならば、学級崩壊のような社会、混乱と混沌の社会に成り立ててしまいます。

2C 孤独
 そして道徳相対主義は、孤独をもたらします。それぞれが正しいと思うことを行なっているので、互いに分かち合うことのできる共通の価値観がなくなってしまうからです。皆さんの中で絵画鑑賞が好きな人はどれだけいるでしょうか?近現代の芸術品は、例えば、ペンキを無作為に散りばめただけの絵など、または雑音にしか聞こえない音楽など、極めて哲学的になっています。それぞれが見て、自分で見えてくるものが真実なのだ、というメッセージを送りたいからです。自分に見えてくるものと、他の人に見えてくるものが違います。だから、共有できないのです。そこには共同体の崩壊があります。しかし教会はキリストのからだであり、キリストにあって私たちは一つです。キリストという絶対真理を持っているからこそ、互いに一体になることができます。

3C 非寛容
 そして道徳相対主義は、非寛容をもたらします。これは矛盾に聞こえるかもしれません。相対主義こそ、寛容を第一にしている考えではないのか?と思われるかもしれません。けれども、相対主義が成り立たない簡単な理由は、次のとおりです。「相対主義は、絶対に相対でなければいけない。」絶対に相対、絶対ということは絶対にあってはならない、という立場ですから、その考えそのものに無理と矛盾があります。

 「私の目に正しいと見えることを行っていく」という考えの人は、必ず他の考えを排除します。絶対の基準を自分以外のところに持っていない人は、自分自身が絶対になっています。だから、他の絶対的真理について語られると、極度に排除しようとするのです。「寛容」や「愛」、また「平和」という言葉を主張する人ほど、他の考えに対して極めて否定的な反応をして、反発し、一切の異論を許しません。

 その反面、イエス・キリストの福音を信じている人は、自分を義としません。神こそが義であり、自分はいくらでも間違えるという立場です。ですから、同じ過ちのある人々を思いやることができます。正しく福音を理解している人であれば、そうなのです。確かに真理は排他的です。聖書には、イエス・キリストこそが真理であり、この方の名前以外には救われるべき名としては天下にない、とあります。けれども、イエス・キリストの名を罵っている人がいようとも、その人を排除したり、罵ったりするどころか、「彼は自分が何をしているのか分かりません。どうかその罪を赦してください。」と祈ることができます。真実なるキリストが、十字架の上で反抗する者たちに対してそのように祈られたからです。

3C 自我の増大
 そして道徳相対主義の最も大きな問題は、「自我の増大」です。テモテへの第二の手紙3章に、終わりの日には困難な時代がやって来ることを教えています。そこに、人々がどうなるかについて書かれていますが、「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、・・(2節)」とあります。自分を愛する者になり、それからいろいろな問題が出て来ます。なぜなら、自分より上に、自分を律する存在が存在しないからです。抑えられている自我が何の制限もなく膨張するしかないのです。

 聖書には、人は神によって造られた、とあります。それも、他の被造物と違って、神ご自身のかたちに造られた、とあります。そこで人は創造的な存在となりました。言葉を語り、計画を立て、そして何よりも自分で判断して、選び取っていく自由意志のある存在となりました。けれども、それは人が神を神としているからこそ有益であって、人が神に服従しているからこそ創造的な存在になれるのです。けれども人は、悪魔による「神のようになれる。賢くなれる。」という言葉に聞き従って、神の命令に背きました。

4C 非人間化
 そして道徳相対主義の最終的な結実は、「非人間化」です。士師記17-21章で、士師の時代の人々が、女性の人権を蔑ろにしたこと、人命を蔑ろにしたことを見ます。なぜ人が、そこまで非人間的なことができるのだろうか?と思うでしょう。アメリカでは、あたり構わず乱射する事件が多発しています。日本でも通り魔事件において、「憂さ晴らしに」という動機がほとんどです。育児放棄による幼児の餓死の話、二日前もパチンコをやっていて、車中の子が死んだという話も聞きました。人が動物であるかのように、いや動物以下になっています。また動物そのものに対しても、かわいいという理由だけでペット・ショップで子犬や子猫を購入、育てるのが面倒くさくなって捨てる場合がかなりたくさんあります。彼らは単純に、「自分の目に正しいと見えること」を行なっているだけです。

4A 自分を非とすることの幸い
1B キリストの義
 では、私たちはどうすれば良いのでしょうか?もっとも人間らしく生きる方法は、自分を正しいとするのではなく、むしろ自分を不義とすることです。自分がとてつもない罪人であり、救いようのない存在であることを悟ることです。この人間存在を知るときに、私たちは自分自身に頼るのではなく、完全で、義なる方に頼ることができるようになります。

 先々週、韓国から来た宣教チームと共に東松島に行ってきました。韓国料理の夕食を出して、テコンドーと歌を披露して、それから牧師さんが証しをしました。彼は立派なクリスチャン家庭に生まれました。その品行は誰が見ても、模範的なクリスチャンのように見えたそうです。けれども、事あらば、人に知られないように、ごまかしをするなど、表と裏の乖離が起きてきたそうです。大学生の時に、後輩が自分を裏切りました。それで食事を取ることも、寝ることもできないほど憤りと憎しみでいっぱいになったそうです。これまで自分は正しい人、良い人間だと思っていましたが、そこで自分はとんでもない醜い存在であることを発見しました。

 それで祈りました。キリストがこの罪人のために死んでくださったことを信じて、受け入れました。そうしたら罪の赦しの確信が与えられ、それで心に平安が与えられました。その神の愛に触れられたので、怒りや憤りは過ぎ去りました。後輩だけでなく、いろいろな人を愛せるようになりました。そして彼は締めくくりました。「自分が世界で一番悪い奴だ。」ということを悟るとき、初めて自分の人間存在を認めることができ、解放される、と。

2B 神の愛
 自分は正しいと思っている人には、神の愛は分かりません。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(ヤコブ4:6」神の前にいる自分は悪者だと知るときに、そのありのままの姿を認めることができるときに、神は豊かな恵みを施してくださいます。キリストを自分の心の王座にお迎えしてみてください。「このように、私は今まで頑張ってきたのだ。」という自負を捨ててみてください、主がその弱さにご自分の恵みを注いでくださり、主が強くしてくださいます。これを福音、良い知らせと呼びます。

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