士師記2章7,10節 「信仰継承の挑戦」

アウトライン

1A 三つの世代
   1B ヨシュアの時代
   2B 長老たちの時代
   3B 主を知らない民
2A 異なる神々に仕える結果
   1B 即効の満たし
   2B その後の束縛
3A 継承の方法
   1B 三世代の特徴
   2B 一世代のような神の経験
   3B わずかな漂流

本文

 士師記2章を開いてください。ついに私たちは士師記に入ります。士師記は、モーセの後継者であったヨシュアが死んだ後のイスラエルの姿を描いています。そして、自分が正しいと思われることをめいめいが行なっていたので、その混乱している姿を描いています。そしてその中から預言者サムエルが現れ、ついに王ダビデによってイスラエル王国が立てられるのですが、それを描いているのがサムエルです。その中間期が士師の時代です。

 秩序のない姿というのはとても辛いです。ちょうどそれは、先週も少し話しましたが、学校の先生が教室から離れた後に勝手気ままなことをしている生徒たちに似ています。教会においても、キリストにおける権威をないがしろにすれば混乱が起こります。聖霊の賜物や奉仕のことで混乱が起こっていたコリントの教会に対して、パウロはいろいろ具体的な指示を与えます。そこで「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。(1コリント14:33」と言いました。私たちそれぞれの心に平安がとどまるため、また私たち相互の間に平和が留まるためにはどうすればよいのか、といったことを今日は学ぶことができます。今朝は2章7節と10節に注目してみたいと思います。

7民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。・・・10その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

1A 三つの世代
 ここには、三つの世代がはっきりと書かれています。一つは、ヨシュアの生きていた時代です。そして二つ目は、ヨシュアの死後、ヨシュアの時代にあった神の大いなる御業を目撃していた長老たちが生きている時代です。そして三つ目は、その長老たちがみな死んだ後の世代です。

1B ヨシュアの時代
 まず、ヨシュアが生きていた時代のことを考えてみましょう。ヨシュアの時代とは、神の絶大な力が信仰と共に働いていた時代です。ヨルダン川を渡るところから始まりました。そして、エリコの城壁がときの声のみで崩れました。そして、五人の王に対して、神が雹をもって打ってくださり、また敵を追跡するために、神はヨシュアのために日と月を天にとどまらせることまでなさいました。そして、町行く町は、徹底的にその住民を打ち殺し、主が約束された土地では、彼らの足の踏みゆくところはみな勝利を与えてくださったのです。

 そしてもう一つの特徴は、彼らは信仰によって神にすがるしかなかった時代でありました。自分たちに対する相手方の力は圧倒的に強いものでした。ヨルダン川から始まりました。そしてエリコの町もそうでした。ギブオン人に対してはその計略によって、倒すことはできませんでしたが、彼らは非常に強い都市のような国であったと書いてあります。ガリラヤ地方における、ハツォルの王を中心とする連合軍との戦いにおいては、相手は戦車と馬であるにも関わらず、ことごとくその馬の筋を切り、彼らを倒していったのです。自分たちには到底立ち向かえない相手なのですが、神が全能者であるからということで彼らは果敢にその課題に取り組んでいったのです。

 そしてさらにもう一つの特徴は、神の真実を知っていく時代でありました。彼らは大変、苦労しました。戦い通しました。その労苦の働きの中で立ち止まって、改めて周りを眺めると、実に神が初めに約束してくださったとおりになっていました。彼らが踏み入れた土地はことごとく自分たちのものになっていました。敵はもはや自分たちに立ち向かってくることはありません。ヨシュアによって、無事に各部族へ土地の割り当てもなされています。すべてが神が初めに、「わたしが行なう」と言われたことを行なっています。

2B 長老たちの時代
 そしてヨシュアが死にます。ヨシュアよりも若い長老たちは、その後に生きていました。彼らの時代にはすでに、ヨルダン川を渡りきるような主の大いなる御業を経験していませんでした。けれども主はこのことのために、次世代に言い伝えなさいと命じておられました。覚えていますか、ヨルダン川を渡河したのに、ヨシュアは祭司たちを川の真ん中にとどまるように言い付けていました。そしてイスラエルの十二部族のかしらたちが、それぞれ川底から石を持ってくるように命じました。そしてその石を、渡り終わったところギルガルで積み上げたのです。ヨシュア記420節を開いてください。
 

20 ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、21 イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、22 あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』23 あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海(紅海)になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。24 それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」

 したがって、それを聞いていた若い世代がいました。自分自身は主の大いなる業を体験していないけれども、確かに過去に主がこうしてくださったのだから、我々もこの方を信じていかなければいけない、と思わなければいけませんでした。同じように、シェケムにはモーセの律法の書き記されている石が立っています。また、ヨシュアの死ぬ直前にイスラエルが誓った、主にのみ仕えると書き記している石も立っています。ですから、彼らは聞くことはできていました。

 ところがヨシュア記において、すでに問題が発生していました。それは、イスラエルが長いこと安住していた、ということです。戦わなければいけないのですが、敵は自分たちにはむかうことはなかったので、手を煩わす必要はないと思っていました。戦うことよりも、その安住の土地でどのように豊かに過ごすか、ということが関心事となっていったことでしょう。神ご自身のことよりも、今の生活が良ければよいと思うようになっていたことでしょう。

 彼らが生きていたのは、主が行なわれた良いことの産物の中であります。自分の父母が戦った町々に住んでいます。ヨシュアは死ぬ前にこう言いました。「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』(24:13」我々が働くことなく、神が一方的に与えられるのが恵みですが、その恵みを恵みであると知るためには、当たり前だと思ってはならない、という思いが必要です。主は与え、主は取られます。すべての良きものは、主から来ています。

 けれども彼らは、その豊かさの中に安住していました。そこで、自分たちの周りにあるカナン人の偶像が気になり始めたのです。それを秘かに持ち込んだり、また心に惹かれていく人々が出始めました。

3B 主を知らない民
 そこで、その後に10節にある新しい世代が出てきたのです。「彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」「主を知らず」というのは、個人的に知らない、人格的に知らない、ということです。そして、主がイスラエルのためになされたわざを知らない世代が起こりました。つまり、前の世代は彼らに、イスラエルを救われた神のことを言い伝えるのを怠っていたのです。自分は体験しなかったけれども、それを伝え聞いただけだったので、自分の子や娘に「体験のない言い伝え」をさらに言い伝える動機付けがなかったのです。

 けれどもモーセの律法には、これらのことを言い伝えなさいという強い戒めがあります。申命記66節から読みます。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(6-9節)」けれども彼らはそれを怠りました。

 そこで主ご自身の名はどこかで聞いてはいても、心の中にとどめるほどには聞いていなかった新しい世代は、救いの知識に至ることもなく、また過去にイスラエルがそんなに神から良く取り扱われていたことも知りませんでした。それで彼らは偶像礼拝に陥るのです。士師記210節の続きを読んでみます。「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えた・・・(11-13節)」主のことを知らないのですから、自分の周りにある神々のほうが良いに決まっています。

2A 異なる神々に仕える結果
1B 即効の満たし
 けれども、どうして彼らはそうも木や石にしかすぎない偶像に魅かれていったのか、という疑問を持たれている人がおられるかもしれません。聖書博物館などに行けば、今でもバアルやアシュタロテの偶像が展示されていて見ることができますが、どうしてもこれらに魅力を感じません。時代というものは不思議で、例えば平安時代の美人画を見ても、どうしてあのおたふくが美人なのか?と思う時があるでしょう。今、私たちに雑誌に載っている可愛くしている女の子の写真は、おそらく他の時代の人がタイムマシンに乗ってきて、それを見たなら、首を傾げるに違いありません。

 当時の人々は素直でした。自分の感情や趣向について、それを分からないようにするというのが難しかったのです。自分たちが欲しているもの、それをそのまま神に造ったのです。お金が欲しければ、マモンがいました。快楽を欲していればモレクがいました。アシュタロテは愛欲の神です。バアルは知識の神です。今、私たちは外を歩けば人々はまともなように見えますが、実はこれがなければやっていけないという対象を持っています。

 午後に読みますが、イスラエル人は山地に住んでいましたが、谷に住んでいるカナン人を追い払うことをしませんでした。彼らは戦車を持っているからです。彼らが眺めると、谷には緑があります。山地よりも豊かなのですが、そこには彼らの持っているバアルとアシュタロテがいます。二つは男と女の対になっている神々です。豊穣をもたらす神々です。ならば、これらを持てばもっと豊かになれるんじゃないか、という誘惑があり、それでその誘惑に陥ったのです。

 イエス様が公の生涯を始めるにあたって、御霊が導かれたのは荒野でした。そこで四十日、四十夜、断食をしておられました。その後、空腹を覚えました。そして悪魔は誘惑を始めました。「この石ころをパンに変えなさい。」「神殿の頂から飛び降りたら、天使が守ってくれるよ。」そしてこうあります。「今度悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』(マタイ4:9」イエス様が来られたのは、この世界を神にお返しすることです。世界を神のものへと贖うことが主の来られた目的です。悪魔がその時はこの世の神であり、万物は悪魔に引き渡されていました。それで悪魔は、「ほら、あなたが願っているものを今あげるよ、私にひれ伏してくれさえすれば。」と言ったのです。しかしイエス様は知っておられました。世界の贖いは、ご自身の流す血を対価としてのみ成し遂げられることをご存知でした。だから、拒まれたのです。

 けれども、私たちはなかなか待つことができません。待つことによって、主が私たちの内に品性を造り出し、それを手に入れる時には最高の喜びと満足を与えてくださるのに、待つことなく入手しようとするのです。これが偶像の表しているところです。イスラエル人のことを笑えませんね、私たちのすぐそば、いや私たちの内側にこそ偶像を欲する心があるのです。

2B その後の束縛
 そして偶像の中に身を投じたら、その瞬間は満足を得られるかもしれませんが、そのすぐ後に自分がどうなっているかの結末を見ます。その欲望の虜となっているのです。イスラエルはバアルとアシュタロテを拝んだ結果、周囲の民に抑圧されていくようになりますが、私たちも同じように肉欲のとりことなっていきます。「その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2ペテロ2:19-20

3A 継承の方法
 このようにして、モーセが何度も警告していたこと、そしてヨシュアが死ぬ前に警告したことが、その通りになってしまいました。私たちはこの三世代間で起こってしまったことを抑えることはできないものなのでしょうか?継続的に主に対する信仰を持つことができるようにするのは、どうすればよいのでしょうか?

1B 三世代の特徴
 三世代に起こっていることをまとめますと、こうなります。「一世代においては、神を経験した。」「二世代においては神のことを聞いた。」「三世代においては、神のことさえ聞かなかった。」二世代目において、自分自身が経験のない言い伝えを聞いているので、次世代にその灯火を渡そうとする気になれなかったのです。

2B 一世代のような神の経験
 したがって解決法は、どの世代にいても、その世代の人が一世代になっていく必要があります。つまり、自分が神について聞くだけでなく、自分自身が神を体験しなければいけない、ということです。私自身、それを心砕かれながら学んでいる最中です。スクール・オブ・ミニストリーでは、ミニストリーについてたくさん聞きました。チャック・スミス牧師からも直接、聞いていました。たくさん聞いたので、それで1997年に日本に戻ってきて、そのことを行なえば大きな教会ができると思っていました。結果は散々でした。神は私に、ご自分の恵みについて聞くだけでなく、むしろ体験させるようにしてくださいました。ちょうど牧者チャックが、牧会を始めて17年目にカルバリーチャペルを始めたように、私も2011年になって教会を始めることとなりました。もちろん今も訓練の期間です。数年後には、今の時期を振り返って、「主がまだ私を整えておられたのだ。」と言うことになるのでしょう。けれども、本格的に教会開拓をするように、神は14年という準備期間を与えてくださいました。

 聞いているだけでは駄目なのです。自分の魂が神の御言葉とぶつかって、自分の魂を取り扱っていただき、そして実質的なへりくだりと悔い改めによって変えられていく必要があります。そこにある神の慈しみと真実に触れていくことによって、徐々に成長するのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3:22-24」日々、新たにされる神との出会いが必要になります。そして、「主が過去にこんなことをされたのだ。」という証しではなく、「主が今日、こんなことをしてくださった。」と喜びをもって報告できる証しを持ち続けるのです。

 そして私たちは積極的に、人々を教えていかねばなりません。自分に与えられた神の恵みを、他の人々に分け与えていかねばなりません。自分だけ受けて、自分だけ活動していたのでは、自分自身で終わってしまうからです。そうではなく、今、自分が主に仕えていることが、他の人々にも主に仕えるようになってもらえるよう教えていくのです。私たちは、イエス様の大宣教命令を受けています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:19-20

3B わずかな漂流
 一世代目から二世代目に、また二世代目から三世代目に入る時に、主からの離反は一気に始まったのではなく、徐々に始まっていたものでした。ヘブル書21節にこうあります。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル2:1」押し流される、つまり漂流することです。自分の漕いでいるボートが、いつのまにか沖へ進み、もはや岸辺に戻すことができなくなってしまった状態です。気づかぬうちにそうなってしまいます。

 イエス様がエペソにある教会にこう語られました。彼らの教会には偽教師や偽使徒が入ってきて、その異端との戦いによく耐え抜きました。その面は、イエス様はほめておられるのですが、こう責めておられます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2:4-5」イエス様の初めの愛、つまり、私たちが神を愛したのではなく神がまず私たちを愛し、罪の供え物として御子を与えてくださった、この愛を知って驚き、喜び、主に仕えたいと願う情熱です。

 私は、皆さんが霊に燃えている姿を見て本当に喜んでいます。もちろん問題や課題がたくさんあります。けれども、それは成長している証拠です。この問題や課題が生じることこそが、今もこの教会が生きている証拠であります。変化がなく、いつまでも自分の心で安心しているところに留まっているのであれば、何かがおかしいです。どうか主との直接の出会いを、神の御霊によって、御言葉の適用によってしていってください。そして、互いへの思いやりを忘れないでください。私たちキリスト者の奉仕の態度は、「主への情熱、そして人々への同情」です。主にあって燃え、そしてその情熱を他の兄弟姉妹の重荷を負うことに用いるのです。

 私たちは肉体を休める時が必要でしょう。けれども、それは主にあって休む時であり、霊においては絶えず働いています。主にあって休み、そして次に主に仕えるための安息になるのです。その中でキリストの栄光を見ることができます。間もなく来られる主に見えるその期待感でいっぱいになります。御言葉から決して離れないでください。日々の祈りを絶やすことのないようにしてください。朝ごとに祈りましょう。主と話し合いましょう。そして教会では兄弟たちで熱く愛し合いましょう。

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