エレミヤ書11−12章 「破られた契約」

アウトライン

1A 契約の呪い 11
   1B 神への謀反 1−17
      1C 神の声 1−10
      2C 聞かれない祈り 11−17
   2B エレミヤへの陰謀 18−23
2A 荒らされる地 12
   1B 悪者の栄え 1−6
   2B 主のもの 7−17
      1C 猛獣 7−13
      2C 隣国の民 14−17

本文

 エレミヤ書11章を開いてください、今日は、11章と12章を学びます。ここでのメッセージ題は、「破られた契約」です。

 ここからエレミヤの第三のメッセージが始まります。第一が2章から6章までの、「夫を離れた妻イスラエル」についてのメッセージ、第二が7章から10章までの、「神殿と律法に安住している」ことについてのメッセージでした。

 そして第三は、「契約を破ったので、もう遅すぎる」という内容のメッセージです。契約履行のための「最後通牒」という言葉がありますね。主がイスラエルの民に最後通牒を出されて、その期限が過ぎてしまったのだよ、という内容です。とても重い内容になりますが、けれども神の真理のうちの一つです。

1A 契約の呪い 11
1B 神への謀反 1−17

1C 神の声 1−10
11:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。11:2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語って、11:3 彼らに言え。イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ。11:4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの国、鉄の炉から連れ出した日に、『わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行なえ。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。』と言って、彼らに命じたものだ。11:5 それは、わたしがあなたがたの先祖に対して、乳と蜜の流れる地を彼らに与えると誓った誓いを、今日あるとおり成就するためであった。」そこで、私は答えて言った。「主よ。アーメン。」

 エレミヤがこの預言を行なったのは、おそらくユダの王ヨシヤが死に、エホアハズ、またエホヤキムが王となっていた時のことであると考えられます。ヨシヤ王のときに、長いこと無視されていたモーセの律法の巻き物を、神殿の中で発見したからです。

 歴代誌第二34章また列王記第二22章によりますと、ヨシヤは神殿の修繕のために、お金を修理工らに渡しなさいという命令を出しています。そこで人々が献金したお金を取りに祭司ヒルキヤが宮の中に入ると、主の律法を見つけました。それを書記官に渡して、そして書記官がヨシヤに朗読すると、ヨシヤが自分の衣を裂いて大きく動揺しました。自分たちが、モーセの律法で命じられていることを何一つ行なっておらず、むしろ、「これこれのことをしたら主の憤りが下る」と言われているものを行なっていることを行なっていたからです。

 私たちも、聖書の言葉に触れなかったら、何にも罪意識もなく平気で行っていたことは多いですね。信仰をもって、自分のしていたことがいかに悪いことであるかに気づき、驚愕して、心を痛め、主に祈った、ということはあるでしょうか?ヨシヤがそうでした。主は、女預言者フルダを通して、「わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。(2歴代34:27」という言葉をかけられました。

 けれどもヨシヤが死にます。まず、その子エホアハズが王になりますが、主の前に悪を行いました。エジプトのパロ、エホアハズを退け、ネコがヨシヤの他の子エホヤキムを王に立てました。彼も主の前に悪を行っています。かつて、マナセが始めたあらゆる種類の異教のならわしと悪の行ないを始めたのです。

 そして、このヨシヤが聞いて衣を裂いたところのモーセの律法には、どのようなことが書いてあるでしょうか?今日の学びでは、律法、つまりモーセを通した神との契約について、とても大切なことを学びます。

 もう一度1節をご覧ください、「この契約のことばを聞け。」とあります。この契約の言葉とは、シナイ山のふもとで与えられた契約、またモーセが約束の地を目の前にして死ぬ直前に、イスラエルの民に伝えた契約です。まず、出エジプト記19章を開いてください。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。(4-5節)」このように、主の命令に聞き従い、契約を守るというイスラエル側の従順によって、彼らが祝福されるという内容です。これに対しイスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。(8節)」と答えています。

 そして十戒と数々の定めを主がモーセに与えられて、それをモーセが民に告げたら、再び、「主の仰せられたことは、みな行ない、聞き従います。」と答えました(24:3)。そこでモーセは、雄牛の血を彼らに注ぎかけ、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。(24:8」と言いました。これが、エレミヤがここで話している契約です。

 そしてモーセは、ヨルダン川の東岸においても、申命記4章20節で「主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。」という神の約束を告げています。イスラエルが神の民となったのです。

 また、乳と蜜の流れる地が与えられるという約束も、申命記6章3節にてこう言われています。「イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」

 このように、主が命じられたことを聞き従うことによって、契約を守り行なうことによって、神の民となり、約束の地で繁栄を楽しむことができるという契約の中に彼らはいたのですが、モーセは同時に、警告を放っています。

 シナイ山においてはレビ記26章にて、またヨルダン川東岸では申命記26章の後半から30章の終わりまでに、彼は律法を守り行なうことによる祝福と、そうではない場合の呪いを語りました。それは実は、これからイスラエルが辿る道、歴史になっていく壮大な神の預言でした。祝福される場合はこうなるが、背けばこうこうこうなると言いましたが、呪われることについての内容のほうがはるかに多いです。主がその度に懲らしめを与えられますが、イスラエルがかたくなにすれば、さらに厳しい懲らしめが与えられ、そして最後は、「あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。(申命28:63」とモーセは言いました。そしてモーセの律法が終わり、ヨシュア記以降エステル記に至るまで実に、このモーセの言葉がどのようにイスラエルに成就しているかを確認していくものとなっているのです。そして今、ヨシヤが死んで人々が再び偶像礼拝を行ない始めたことによって、主は、「もうここまでである。私は契約に書かれている呪いをそのまま与える。」と決められたのです。

 この契約の性質は、もともと「呪い」の側面のほうが強いのです。ここエレミヤ書11章でも、「この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ。」とありますね。モーセは、民が約束の地に入ったら、ゲリジム山に立ち、また向かいのエバル山に立ち、律法を読みなさいと命じました。ゲリジム山にいる人々が祝福を語り、エバル山の人たちが呪いを語ります。ですから、祝福か呪いかのどちらかなのですが、申命記27章を読むと、律法に違反した時のことしか書いていません。例えば、15,16節を読むと「『職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。』民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。『自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」となっています。

 この理由を見つけるためには、私たちは新約聖書を開かなければいけません。パウロがガラテヤ書3章10節でこう言いました。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」律法の行ないによっては呪いのみが与えられる、なぜなら律法をすべて守り行なうことはできず、かえって違反するばかりだ、ということなのです。これが古い契約です。イスラエルの従順によって、イスラエル側の行ないによって成り立つ契約です。

 そこで、エレミヤ書で後に学びますが、主は新しい契約を与えられます。御霊によって、石の板ではなく、心に律法を書き記す、という約束です(31:31以降)。この契約は、人々の従順によるのではなく、神の真実に基づくものであり、イエス・キリストが流された血に基づくものです。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20

 したがってエレミヤ書は、私たち信仰者に非常に重要な書物となります。それは、「人が律法の行ないによっては、このように神の怒りを買うだけであり、ただ神の真実によってのみ、救われるのだ。」という真理を、ユダヤ人がバビロンに捕え移される歴史を見ることによって観ることができるのです。律法によっては、また肉によっては、決して人間は神に義と認められないのだ、かえって神に敵対することしかできず、律法による神の怒りを買うだけなのだ、ということを知ることができるのです。それでは6節から読み進めましょう。

11:6 すると主は私に仰せられた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムのちまたで叫んで、こう言え。『この契約のことばを聞いて、これを行なえ。』11:7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出した日に、彼らをはっきり戒め、また今日まで、『わたしの声を聞け。』と言って、しきりに戒めてきた。

 先週もお話しましたが、主の喜ばれることはただ「わたしの声を聞け」であります。律法の中に、実は信仰によって生きることが命令されているのです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17」とあるとおりです。私たちは、御霊によってどこまで神の御声を聞き取れているかが、実は全てなのです。そして聞いている人は、必ずそれにともなう実を結ばせています。

 私たちは、「聞こえているけど、聞いていない。」ということをよく行ないます。その違いを、ある伝道者は、飛行機離陸時のアナウンスに例えました。離陸するとき、必ず酸素マスクのかぶりかた、非常口のことなどの説明があります。私は飛行機をよく利用しますが、全然聞いていません(汗)。でもいざ、乱気流の中で飛行機が激しく揺れているとき、もしかしたら墜落するかもしれないとき、その時に同じことをフライト・アテンダントがアナウンスします。その時は一言も漏らさずに聞こうと努力するでしょう。この違いです。

11:8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、おのおの悪いかたくなな心のままに歩んだ。それで、わたしはこの契約のことばをみな、彼らに実現させた。わたしが行なうように命じたのに、彼らが行なわなかったからである。」

 「実現させた」というのは、先ほど話したモーセによる言葉です。今、北イスラエルはすでにアッシリヤによって捕え移されました。ユダの国は、外敵によって既に圧迫されています。飢饉にもなっているし、すべてモーセが告げた通りです。

11:9 ついで、主は私に仰せられた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。11:10 彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

 ここの「謀反」あるいは「陰謀」とも訳すことのできる言葉ですが、これがエホアハズ、エホヤキンが王となった時に、ユダの人々が行なったことです。彼らは、律法をヨシヤ王から聞いているので、知っているのです。知っていながら、あえて、故意に契約を破っているのです。計画的に、自分たちは神の命令には反対しようと決めていた、と言うこともできるでしょう。ヘブル書に、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。(10:26」とあります。後でこの箇所を詳しく見たいと思いますが、これがユダの人、エルサレムの住民が犯していた罪です。

2C 聞かれ」ない祈り 11−17
11:11 それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。

 とてつもない言葉です。祈りを聞かないとの断言は、エレミヤ書には何回も出てくるし、すぐ後14節にも出てきます。私たちは、すべての祈りを主が聞いてくださるというふうに思っています。祈りの答えがないときに、主が聞いておられないと感じることがあっても、いや、聞いておられます。ただ私たちが考える方法のように、主がお応えになっていないだけです。祈りはすばらしい神の子どもの特権です。

 けれども、祈りは聞かれないことがあります。それは、「主の言われる事を全く聞かない人の祈りは聞かない」という原則があるからです。例えば箴言1章28節にこうあります。「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。(28-30節)」ことごとく侮る、先ほどの謀反、陰謀、故意の罪のことですね。イザヤ書1章15節、「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。 (イザヤ1:15」手が血まみれ、つまり流血の罪だらけだ、ということです。

 そして新約聖書では、主がこう言われます。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:22-23」やはりここでも「不法をなす」ことが、彼らの叫びを聞かない理由としておられるのです。

11:12 そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。

 ヤハウェなる主に祈っても聞いてもらえないので、今度は、神々のほうに向かいます。興味深いですが、彼らにとってヤハウェは、数ある神々の中の一つだったのです。私たちがこの方を唯一の神とするとき、主のみに仕える時に、主は始めて私たちの祈りを聞いてくださるのですね。

 そして神々に祈りますが、祈りは聞かれません。当たり前のことです、前回10章で学びましたが、これらは木や石で作られたものにしかすぎません。エリヤがバアルの預言者と対決した時のことを思い出してください、バアルの預言者の祈りをバアル神は聞き入れませんでした。もともとバアルなんて生きていないからです。

11:13 なぜなら、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもあり、あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのためにいけにえを焼く祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けたからである。

 偶像を持つと、それは数限りなくなりますが、ユダの民も同じでした。今、神殿の丘の南にあるダビデの町で考古学の発掘が盛んに行なわれていますが、エレミヤの時代のエルサレムの町も発掘されているそうです。そこには、数限りない偶像が家々から出てきているとのこと。至るところ偶像だらけだったのです。

11:14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。

 これもすごい神様の言葉です。彼ら自身の祈りを聞かれないだけでなく、執り成しの祈りをも主は聞かれない、と断言されます。サムエルのことを思い出してください、サウルがアマレク人を聖絶することをせず、しかも家畜の肥えたものを残しておいた、だからサウルの王としたことを悔いていると主から聞き、彼は怒り、「夜通し主に向かって叫んだ。(1サムエル15:11」とあります。そしてサムエルは悲しんでいましたが、主は、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。(16:1」と言われています。すでに主が思いを変えられている時、その祈りは聞かれないのです。

 ヨハネによる福音書12章にて、パリサイ人がイエス様を信じないために、信じることができなくなったことが書かれています。「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。』(37-40節)

 繰り返し、主の証しを受け入れないでいると、どこかの時点で受け入れることができなくなります。故意に主に逆らっていると、どこかの時点で悔い改めることができなくなる、という恐ろしい事実があります。

11:15 わたしの愛する者は、わたしの家で、何をしているのか。何をたくらんでいるのか。誓願のささげ物や、いけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。その時には、こおどりして喜ぶがよい。

 「何をたくらんでいるのか」と主が皮肉っておられますが、これまでも見てきたように、いけにえをささげることによって救われるのではありません。あくまでも主の前にへりくだって、主の言われることに聞き従うことです。

11:16 主はかつてあなたの名を、『良い実をみのらせる美しい緑のオリーブの木。』と呼ばれたが、大きな騒ぎの声が起こると、主はこれに火をつけ、その枝を焼かれる。11:17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを言い渡す。これはイスラエルの家とユダの家が、悪を行ない、バアルにいけにえをささげて、わたしの怒りを引き起こしたからである。」

 オリーブの木の例えは、ローマ人への手紙
11章にもあります。栽培種のオリーブの木の枝であったイスラエルは、不信仰によって切り倒されました。その代わり、野生種のオリーブの木から異邦人が接ぎ木されました。けれども、私たちが神のいつくしみにとどまっていればのことであって、倒れているイスラエルを見て、自分たちはつながっていると高ぶれば、神は私たちを切り倒すこともおできになる、とパウロは警告しています。

 ユダの民は、このとき、そのいけにえによる宗教的情熱によって、ほんの一時的に情勢がよくなったのでしょうか喜んでいたのですが、それもつかの間、主が一度に彼らを滅ぼされます。

2B エレミヤへの陰謀 18−23
 ここまでの話を聞いて、エレミヤがこれまでは口にしなかったことを口にし始めます。それは、自分個人に対する迫害と陰謀です。そして、その仕業に対する神の報復を願う祈りです。

11:18 主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。今、あなたは、彼らのわざを、私に見せてくださいました。11:19 私は、ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して、「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう。」と計画していたことを、私は知りませんでした。

 主がご自身に対する彼らの企み、陰謀と同時に、エレミヤを殺そうとする陰謀をお見せになられたのでしょう。彼は前もって、彼らの思いの中にある事柄を主によって知らせていただきました。

11:20 しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見ることでしょう。私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです。

 これまで彼らのために愛を注いでやまなかったエレミヤですが、ここに来て、彼らへの裁きを神に願っています。このような祈りを見ると、私たちは、「敵をも愛しなさい。復讐ではなく祝福を祈りなさい。」というイエス様の命令を思い出して、何と神の心とかけ離れているのか、と見下してしまいます。

 けれども、これは個人的に迫害を受けている時の心の現実であることを知らなければいけません。自分を迫害する者のことで、詩篇では、ダビデが何度も仕返しを祈りました。パウロも、自分を迫害するユダヤ人について、「御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しています。(1テサロニケ2:16」と断言しています。あの、同胞の民のためには自分がのろわれたものとなっていいとさえ言った彼が、です(ローマ9:1-2)。そして黙示録には、天にいる聖徒たちが、殉教した人々の血を報いてくださることを願い、そしてバビロンが崩壊したときその祈りが届けられています(19:2)。

 自分が罪を犯しているのではなく、はっきりと、義のために、主のために行なっていることが分かっている中で、もしその働きを妨げる人々が現れるのであれば、その人は、自分に対してではなく、神ご自身、キリストご自身を妨げようとしているのです。自分を憎んでいるのではなく、自分が属しているキリストを憎んでいるのです。

 ですから、迫害者には必ず神の裁きがあります。そしてそのことを知ると、逆に迫害者のほうが哀れに思えてきます。彼らのことを心配して、祈るようになります。それが主の言われている、「迫害する者のために祈れ。祝福しなさい。」という命令です。

 けれども、迫害を受けている時には内なる戦いがあります。この現実を知らなければいけません。その戦いの中で、「自分が仕返しするのではなく、主が仕返ししてください。」という祈りがあります。自分が戦うのではなく主が戦ってください、という祈りがあります。全てのことを主にお任せする過程の中で、心の中で戦いがあるのです。そして祈っているうちに、主が私たちの心に平安を与えてくださり、復讐ではなく忘れる心、赦す心を与えてくださるのです。

11:21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう仰せられた。「彼らはあなたのいのちをねらい、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように。』と言っている。」11:22 それで、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを罰する。若い男は剣で殺され、彼らの息子、娘は飢えて死に、11:23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」

 アナトテは、エレミヤの町です。自分の家族、親族のいる町です。そこは祭司の町でもあります。彼らが何と、エレミヤを滅ぼそうと企んでいます。これもまた、私たちは知らなければいけない現実です。イエス様が言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:34-36」私たちは、家族だったら自分の味方になってくれるだろう、という期待を、どこかで持っています。けれども、そうではないのです。

2A 荒らされる地 12
1B 悪者の栄え 1−6
 このように主が裁いてくださることを知ったエレミヤは、さらに心が揺らいで、主に自分の思いを打ち明けました。エレミヤ書を読んで安心するのは、エレミヤは若者で、しかも私たちと変わらない精神を持っている人だ、ということです。人を恐れもすれば、そして神が行なわれていることについて疑問も持つのです。でも大事なのは、その時に祈ります。恐れれば、それを主に打ち明けます。疑問があれば、それも打ち明けます。自分で勝手に判断して、神に挑むことをしていないのです。

12:1 主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。

 これは、普遍的な問題です。義の神がおられるならなぜ悪者が栄えるのか、という疑問です。賛美の奉仕を神殿で行なっていたアサフも、このように打ち明けています。詩篇73篇です。「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。(1-3節)」彼も、神が正しいこと、心の清い人々に慈しみ深いことを知っていましたが、でも悪者、高ぶる者が栄えるのを実際に見ます。それで信仰から離れてしまいそうだ、という弱さを打ち明けているのです。

12:2 あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。

 「あなたは彼らを植え」とありますが、神の主権がなければ悪者さえも栄えることはない、という信仰から来ています。そうです、今この世に存在している悪は、神の主権の中にすべて存在します。どんなにおぞましいことも、神が見ておられないこと、神が知らないことはないのです。

 そして、「口は神から近いが、思いは遠く離れている」という事実も私たちは理解しなければいけません。誰でも「主よ、主よ」という者が神の御心を行なっているわけではありません。私たちは、クリスチャン用語、教会用語を知れば知るほど、自分の心の中で起こっていることをきれいな言葉で隠すことができます。

12:3 主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください。

 今、エレミヤは自分の心が試されていることを知っています。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを自分の目で見て、「はたして、主は報いてくださるのだろうか。」という疑問が出てきてしまっているのです。

 けれども、彼はこれが試験であることを知っています。主が与えておられる試験であることを知っています。だからこれに合格したいのです。たとえ栄えているように見えても、そうではないことをしっかりと信じていなければいけないことを知っています。だから再び、彼らへの復讐をお祈りしています。

12:4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は、「彼は私たちの最期を見ない。」と言っているのです。

 すでにユダの地は荒れています。彼らの悪い仕業のために、主が土地を荒らすという懲らしめを与えておられます。

 ここの「」は、もちろんエレミヤのことです。彼らがエレミヤを殺そうと企んでいます。

12:5 あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。

 これがエレミヤの疑問に対する神のお答えです。徒歩と騎馬は、次の言い回し、平穏と激しさです。エレミヤは、これからもっともっと、大変なところを通るのです。その時に比べたら、今は徒歩であり平穏な地なのです。

12:6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのあとから大声で呼ばわるのだから、彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。

 これは厳しい現実です。一見、自分に対して親切にしているけれども、実際はそうではないと主は警告しておられます。箴言に、「憎む者がくちづけしてもてなす(27:6」ことが書かれています。その言葉や語調の裏に心を突き刺すナイフを持つことも、人間はしばしばするのです。

2B 主のもの 7−17
 そして主は、ご自分の話に戻されます。ユダの民が契約を破った、というところに戻されます。

1C 猛獣 7−13
12:7 私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した。

 ここの「」は漢字になっていますが、主語は神ご自身ですから、「わたし」と平仮名で書いたほうがよいでしょう。

 主が、イスラエルの地を「ご自分の相続地」と呼ばれています。確かに主は、これをイスラエルの民に与えられました。けれども本質的には、究極的には、主が彼らに任せられたのであり、ここは主ご自身の所有の地であられるのです。

 先ほど話した祝福と呪いの契約についてですが、レビ記のほうでは「土地」に焦点が当てられています。レビ記25章には、土地を休ませる安息年について書いてあり、50年後に土地が元の所有者に戻るヨベルの年についても書いてあります。また近親者が売り渡された土地を買い戻すことについて書いてあります。

 そこで主は、こう言われています。「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。(23節)」土地が神に属していることを明確にしているところです。だからここで、「私の心の愛するもの」と呼んでおられるのです。主は、ご自分の民を愛しておられるだけでなく、ご自分の土地も愛しておられるのです。

 そして26章に、祝福と呪いの言葉をモーセは告げています。そこで彼らが神に背くことにことによって、どのように土地が荒れていくかを描いています。そして最後にこうなります。レビ記2633節です。「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。(レビ26:33

 けれども、これは神がこの土地を休ませるという目的もあることを語っておられます。「その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。(34-35節)」このため主はこの地からユダの民を引き抜かれるのです。

12:8 私の相続地は、私にとって、林の中の獅子のようだ。これは私に向かって、うなり声をあげる。それで、私はこの地を憎む。

 実は「相続地」という言葉は単に「相続」と訳せます。したがってここは、この地に住んでいるユダの民が、林の中の獅子のようであると形容しておられるのです。主に向かって、獰猛に歯向かっているのです。

12:9 私の相続地は、私にとって、まだらの猛禽なのか。猛禽がそれを取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。連れて来て、食べさせよ。

 まだらの猛禽は、その風変わりな姿のため、他の猛禽から攻撃を受けます。つまり、ここではユダの民が周囲の外国から奇異の目で見られ、攻撃するということです。

12:10 多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。12:11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ。

 ぶどう園なのに、羊を飼っているはずの牧者がやってきて荒らしています。これは、ユダヤ人の指導者が、神に与えられた約束の地を自分たちの罪によって荒らしている、ということです。

12:12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての者には平安がない。

 この「荒らす者」は、バビロンのことです。「地の果てから地の果てに至るまで」とは、バビロンがイスラエルだけでなく、周囲のあらゆる国々をも荒らしていくという意味です。

12:13 小麦を蒔いても、いばらを刈り取り、労苦してもむだになる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見よう。主の燃える怒りによって。

 徹底的に荒らされるので、これまで自分たちが成し遂げてきたものがすべて破壊されます。

2C 隣国の民 14−17
 そして最後に主は、希望の言葉を残されます。

12:14 「主はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。

 ここでは、ユダの家だけでなく、かつてユダにちょっかいを出してきた周囲の国々に対する神の言葉が書かれています。シリヤ、モアブ、アモン等の国々です(1列王24:2)。けれどもバビロンが来たときに、これらの国々も捕らわれの民となったのです。

 ここにイスラエルのことを主は、明確に、「わたしの民」と呼ばれています。先ほども「わたしの子心の愛するもの」とありましたが、主は彼らをご自分のものとし、愛しておられるのです。そして、イスラエルの地を明確に、「イスラエルに継がせた」と言われています。ですから、ユダヤ人がパレスチナの地、イスラエルの地を所有すること、そのシオニズムは神からのものなのです。

12:15 しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。

 この「彼ら」は、ユダの民だけでなく、そのシリヤ、モアブ、アモンも含まれます。エレミヤ書は、引き抜きの他に、再び植えることも預言しています(1:10)。ユダの民は七十年後に戻ることも、エレミヤは後に預言します。

12:16 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主は生きておられる。』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。

 異邦人らがイスラエルの民にバアルを教えました。けれども、今度は逆です。イスラエルの民が、異邦人らにヤハウェの道を教えられます。そして彼らもまた、主を自分の神とするなら、イスラエルの民の中に建てられる、という約束が与えられています。

12:17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。・・主の御告げ。・・」

 だから彼らには選択があります。回心してイスラエルとともに回復すること、あるいは拒んで滅びることのどちらかです。これがアラブ人、周囲の国々の選択です。主の道をよく学び、この方を神とするか、それとも拒むか迫られています。

 こうして、契約が破られた後の姿を読みました。もう一度言いますが、非常に重い内容です。旧約と呼ばれているゆえんは、これが古いからです。エレミヤ書に、新しい契約、新約が約束されています。旧約時代にこのように期限付きがあれは、新約時代にも期限付きがありました。

 それは主が地上におられたときのことです。主は「この時代」とか「今の時代」という言葉をたくさん使われました。それは、イエス様がメシヤご自身であられ、この方を受け入れる時代が来たことを表しています。けれどもユダヤ人指導者らは、この方を拒みました。そこで主は、彼らに対し「忌まわしいものよ」と八度言われて、そして「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。・・・見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(マタイ23:36,38」と言われたのです。そしてユダヤ人は、紀元70年再び自分たちの土地を失い、世界離散の民となったのでした。

 このように期限付きの契約は、個人生活にもあります。新しい契約は神の真実と、その一方的な憐れみによることを話しましたが、けれどもこれにも期限、条件はあるのです。それは、「唯一の救いの道であるイエス・キリストを拒んだら、その後には罪の赦しはない。」というものです。先ほど少し引用したヘブル書1026節から読みたいと思います。

 「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(26-31節)」御子を踏みつける、そして契約の血を汚れたものとみなす、そして恵みの御霊を侮ること、つまりイエス・キリストの恵みの福音を捨ててしまうこと、これが最後通牒です。

 今は恵みの時代です。恵みの時代であるがゆえに、それを拒むとどれだけ恐ろしいことがあるか、それを思いながら私たちすでに信じている者は、人々に御言葉を伝えていかなければならないでしょう。


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