エレミヤ書23章9節−25章 「まことの預言」

アウトライン

1A 偽預言者 23
   1B 汚れた行ない 9−15
   2B 自分の心の幻 16−40
      1C 悪者への平安 16−24
      2C 藁のような夢 25−32
      3C 主への重荷 33−40
2A 二かごの無花果 24
   1B 良くされる捕囚の民 1−7
   2B 悪くなる残りの者 8−10
3A 万国への裁き 25
   1B ユダに対して 1−14
      1C 二十三年の預言 1−7
      2C 七十年捕囚 8−14
   2B 異邦人に対して 15−38
      1C 怒りの杯 15−29
      2C 吼える獅子 30−38

本文

 エレミヤ書23章を開いてください。前回は23章の8節まで学びました、今日は続きで9節から学び、25章まで学んでみたいと思います。ここでのメッセージ題は「まことの預言」です。

 前回の学びでは、王たちに対する神の預言を読みました。23章の始めの部分は、羊を散らす牧者たちに対する神の裁きが書かれていましたが、今日はその続きで、預言者たちに対する神の裁きが書かれています。

 エレミヤの働きは多くの反対を受けました。王から、祭司から、そして家族からも反対を受けました。おそらく最も近しい家族からの反対が、彼が痛みを覚えていたと思います。自分の外にいる人よりも、自分の仲間からの迫害のほうが辛いのです。

 そして預言者は彼の仲間です。同業者です。同労者として、思いが一つであることを願っているのに、むしろその反対のことを彼らは語っていました。エルサレムの人々に対して、「あなたがたは大丈夫だ。」と言い、「バビロンはあなたがたから立ち去る」と言いました。だから、ますます一般の人々はエレミヤの言葉に聞く耳を持たなくなってきました。

 そこで神が、これら偽預言者に対して、エレミヤに多くのことを教えられました。今日の箇所は、偽預言者について多くのことを学べます。偽預言とそうではないまことの預言者の違いを見ることができます。

1A 偽預言者 23
1B 汚れた行ない 9−15
23:9 預言者たちに対して。・・私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。

 「酔いどれ」、「ぶどう酒に負けた男」・・・これは、神の裁きを受けた者たちに使われる言葉です。エレミヤは今、偽預言者たちことを思ってまるで自分が彼らと同じように神の裁きを受けているかのような衝撃を感じています。

 自分の同業者が、スキャンダルなど罪を犯したことを聞くとき、自分自身が犯しているわけではないけれども、まったく汚されたという気持ちになります。その衝撃が自分に強く伝わってくるからです。

23:10 国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。23:11 実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。・・主の御告げ。・・

 国全体が悪を行なっているのですが、その同じ悪を預言者や祭司らも犯している、ということです。しかも、神の家、神殿の中でも一般社会で行なっていることを行なっている、ということです。

23:12 それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。・・主の御告げ。・・

 偽預言者らに対する怠りない裁きです。

23:13 サマリヤの預言者たちの中に、みだらな事をわたしは見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。23:14 エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。

 かつて北イスラエルでは、バアルの預言者がみだらなことをしていました。けれども彼らはあくまで、異なる神を代表する預言者だったのです。ところが同じことをエルサレムにいる、ヤハウェの預言者であるはずの者たちが行なっているのです。

23:15 それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。」

 苦よもぎは、麻酔の効用のある草ですが、精神撹乱の作用もあります。非常に苦々しい経験をさせる時に、主が使われる表現です。黙示録にて、ラッパの災いの中に苦よもぎがあって、その水を飲んで多くの人が死んだ、とあります(8:11)。

 そして「汚れが預言者たちから、全土に広がった」とありますが、預言者ら、霊的指導者らが犯す罪は非常に大きな衝撃を与えるため、全ての人に影響を与えます。ただ一人の罪では済まされないのです。

 そして次、16節から預言している内容に入りますが、偽預言者に対して主が語られる時に、彼らが語っていることより前に、彼らが行っていることを神が始めに取り上げておられることに注目してください。新約聖書の中でも、ペテロ第二の手紙、ユダの手紙の中で偽預言者について取り上げられていますが、やはりそこでも彼らの好色の行ない、金銭への愛、権威ある者をそしること等が挙げられています。

 偽預言は、その語る言葉から始まるのではなく、その人の行ないの実から始まっていることを知るべきです。イエス様は、偽預言者は「実によって彼らを見分けることができる(マタイ7:20」と言われました。そして使徒パウロは若い牧者テモテに対して、「自分自身にも、教える事にも気をつけなさい。あくまでもそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。(1テモテ4:16」と言いました。教える事もさることながら、自分自身にまず気をつけるのです。

2B 自分の心の幻 16−40
1C 悪者への平安 16−24
23:16 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。

 預言者と偽預言者の違いは、その出所が違うことです。自分が思っていることを語れば、それは偽預言になるということです。預言者は語ることがその仕事ではありません。語る前に聞くことがその務めの始まりです。「主の口から」とありますね。主が語られることを聞いて、始めて自分自身が語れるのです。

23:17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた。』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない。』と言っている。」

 あやまった安心感、間違った保証を与えています。神を喜ばせるのではなく、聞く人々を喜ばせるために、聞く人々が聞くのを嫌がることは避けて話します。神の裁き、神の災いが下るという言葉は、誰も語りたくありません。けれども、最も悲惨なのは、本当のことを伝えないで、後になって気づいた時にはもう遅くなることです。自分は天国に行くと思っていたのに、地獄に来てしまったという人が、実に多いことでしょう、それよりもここままだと地獄に言ってしまうとその人が生きている間に話して、その人が神に立ち返る機会を与えることのほうが、はるかにまさっているのです。

 パウロは、福音宣教者、教師が、神ではなく人々を喜ばせる誘惑があることを話しています。「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(1テサロニケ2:3-4

 また、こうテモテに話しています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4」聞いている人々からの圧力を感じるのです。けれどもそれに屈してはいけない、御言葉をまっすぐに語りなさいとパウロはテモテに命じています。

23:18 いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。

 興味深いですね、預言者は主から聞いてそれから話すことを、「主の会議に連なる」と表現しています。王が玉座に着いて、その周りに側近が集まっている状態です。

23:19 見よ。主の暴風、・・憤り。・・うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。23:20 主の怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう。

 まことの預言とそうではない預言は、実際にそうなるかならないかの違いです。エレミヤは、本当の預言者であることが証明されました。なぜなら、エルサレムが破壊されるという言葉はその通りになったからです。バビロンから救われるという言葉は実現しなかったので、彼らは偽預言者です。

23:21 わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。23:22 もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。

 主の会議に参加するということは、じっくりと王の意向を聞くことに他なりません。主が何と語られているのかじっくりと聞いて、つまり主との時間をしっかり持っていることが条件です。けれども偽預言者らは、勝手に走り続け、勝手に預言しています。

 聖書に出てくるまことの預言者と偽預言者の違いは、召命を受けた時に存在します。エレミヤは、「私はまだ若いです。」と躊躇しました。モーセは、「私は口べたです」と躊躇しました。自分から走り出る人はいないのです。まことの預言者には、慎み深さがあります。けれども偽預言者は自分を売ります。人々に認めてもらおうと自分を宣伝します。

23:23 わたしは近くにいれば、神なのか。・・主の御告げ。・・遠くにいれば、神ではないのか。23:24 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。・・主の御告げ。・・天にも地にも、わたしは満ちているではないか。・・主の御告げ。・・

 悪い行ないから立ち返らせることが主の御心ですが、それらを主は知ることができない、自分は主からそれらの行ないを隠すことができると私たちは考えてしまいます。けれども、主は天にも地にも満ちておられる方です。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。(ローマ2:16

2C 藁のような夢 25−32
23:25 「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いた。23:26 いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。

 「夢」を見て、それを語ることの問題です。もちろん主は、夢によってご自分のことを啓示される時があります。ヨセフのことを思い出してください、彼は若い時から多くの夢を見、またパロの夢を解き明かしました。ダニエルも多くの夢と幻を見、またネブカデネザルの夢を解き明かしました。ヨエル書には、「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。(2:28」とあります。主は夢によって語られるのです。

 けれども「夢」を見たら、それがそのまま神からの啓示なのでしょうか。いいえ、伝道者の書には「仕事が多いと夢を見る。(5:3」とあります。仕事で忙しいと神経が興奮しているので、睡眠が浅いから夢を多く見ることもあるのです。けれども、彼らは見た夢をそのまま神の預言として語った、これが問題でした。

23:27 彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。

 夢を語ることによって、かえって主の名から離れさせるという現象が起こります。主につながるように人々に勧めるのではなく、かえってさまよい出るように導くのです。コロサイ書218節には、「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしら(=キリスト)に堅く結びつくことをしません。」とあります。

23:28 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。・・主の御告げ。・・

 夢そのものが悪いものではありません。夢を見たから罪ではありません。夢を主からの言葉とすることが間違っているのです。だから、夢と主からの言葉を分けなければいけません。

 そして主は、「麦はわらと何の関わりがあろうか」と言われています。麦は栄養のある部分です。藁は、「殻」と訳した方がよいでしょう、脱穀の時に出てくる殻です。実質的な物は何もありません。主からの言葉は麦であり、夢は殻でしかないということです。

 私たちが説教を聴くときに、何を期待しているでしょうか?説教者が語る例話や、その話の面白さを期待しているのであれば、それは自分の霊的成長にとって藁でしかないと悟るべきです。気持ちは良くなるでしょう。けれども気持ちを良くしたいのであれば、テレビの面白い番組でも、また質の良い映画や小説でも観たり、読んだりすればよいのです。実質的な霊的成長は、御言葉を、信仰を持って聞くことによってのみ与えられます。

23:29 わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。・・主の御告げ。・・

 麦のように霊的栄養を与えるだけでなく、「火のよう」に清めを与えます。私たちの心の隠された部分を明るみにし、実質的にその汚れを精錬してくれるのも神の御言葉です。

 そして「金槌のよう」でもあります。砕かれた魂にのみ、神の御言葉は有効です。自分の願っていることを是認してもらうために説教を聴いたのでは、何も得るものがありません。むしろ、自分のあり方が間違っていると気づき、自分が誤っていた、罪を犯していたことを悟って、真理を受け入れるのです。

23:30 それゆえ、見よ、・・主の御告げ。・・わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。

 新共同訳では、「仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う」となっています。なぜ偽りの教えが教会の中にはびこるでしょうか?自分で勝手に考え付いたことを話すだけでなく、他の人が言っているものを盗作するからです。「これは人々に聞き入られそうだ」と思ったら話すのです。

23:31 見よ。・・主の御告げ。・・わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。23:32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。・・主の御告げ。・・彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。・・主の御告げ。・・

 「自慢話」は新共同訳で「気まぐれ」と訳されています。説教壇は、とてつもなく重要な位置を占めています。そこで自分の気まぐれで物事を語るのなら、主の知識が会衆の心に枯渇します。預言者アモスが言ったように、「主のことばを聞くことのききん(8:11」が起こるのです。

3C 主への重荷 33−40
23:33 この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。・・主の御告げ。・・23:34 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」

 「宣告」と訳されている言葉ですが、英語ではburdenと訳されています。「重荷」です。ヘブル語のמַשָּׂאマサ)は、もともと「荷物」であるとか「運ぶ」という意味を持っています。主からの言葉ではないのに、たやすく「主の宣告」という言い回しを使う姿を主は描いておられます。かえってそれが主にとって大きな負担となっていることを、同じ言葉を使って「あなたがたが重荷だ」と言われているのです。

 「主がこう言われます」という言葉を使ったり、あるいは「主があなたにこう語られました」という人がいますね。本当に語られたのでしょうか?多くの場合、その人が考えていること、願っていることを、他の人に押し付けるために主の名を借りているのです。

23:35 あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。23:36 しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。

 非常に大切な姿勢です。私たちが主の御心が分からなかったら、素直に、「主は何と答えられたか、何と語られているか。」と共に考え、祈り求めればよいのです。

 私たちが簡単に答えを与え、主の御心を単純化させることによって、人にはかえって重荷となるのです。ヨハネ第一には「その(神の)命令は重荷とはなりません。(5:3」とあるのに、かえって自分たちに重い荷物を負わせ、足かせを自分の足にはめるようなことをさせます。それは人の言葉を神の権威付けをして、人を縛るからです。

 次の章に出てきますが、主の御心はこの時点で、バビロンに服することです。バビロンに降伏すれば、捕囚の地で比較的平穏に暮らすことができる、という約束があります。だから主の命令は重荷ではなく、私たちに安らぎを与えるのです。ところが、バビロンから救われると信じてバビロンに抵抗すれば、あらゆる災いを自分の身に被らせることになるのです。

 私たちは簡単に、人が置かれている境遇について答えを出してはいけません。それよりも、「一緒に祈っていきましょう。」と言って、主の御心をさらに求めていくことを行ないます。そうすれば、主ご自身がその人に戒めを与えてくださるので、その人が自ら主に仕えていくことができるようになる余裕と自由を与えるのです。

23:37 「あの預言者たちにこう言え。主は何と答えられたか。主は何と語られたか。23:38 もし、あなたがたが『主の宣告。』と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。『わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告というこのことばを語っている。23:39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、23:40 永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

 「全く忘れる」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないということです。イエス様が、偽預言者について終わりの時に、「わたしはあなたがたを全然知らない。(マタイ7:23」と言われている箇所があります。彼らが主の名によって預言をして、悪霊を追い出したのに、「全然知らない」と言われるのです。

2A 二かごの無花果 24
1B 良くされる捕囚の民 1−7
24:1 バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕え移し、バビロンに連れて行って後、主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。24:2 一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」24:3 そのとき、主が私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」

 興味深い幻をエレミヤは見ました。イスラエルではありふれた果物、いちじくの幻です。いちじくは、比較的乾燥し地中海性気候が最も適しています。それでイスラエルの市場では、新鮮ないちじくが売られています。

 いちじくの実は、「初なり」のものが一番おいしいと言われています。八月に実を取ることができますが、それよりも六月下旬にできる初なりのものが最も甘く、おいしいのだそうです。そしていちじくのもう一つの特徴は「すぐに悪くなる」ことです。すぐに腐ってしまいます。この二つのいちじくをエレミヤは見たことになります。

24:4 すると、私に次のような主のことばがあった。24:5 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。24:6 わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。24:7 また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

 すばらしい約束ですね。この幻をエレミヤが見たのは、バビロン第二捕囚の時です。第一回目は、ネブカデネザルが王となったとき、エホヤキンの治世、三年目あるいは四年目の時です。その時にダニエルとその友人三人を含む王族の一部が、捕え移されました。

 そしてここではエホヤキンが捕え移された時です。彼は抵抗せず、そのままバビロンに屈しました。この時に祭司エゼキエルも捕え移されています。この出来事は普通に考えたらとても悲しいことですが、主は無花果の籠の幻をエレミヤに示されることによって、これはかえって良いことであることを教え、慰めてくださっているのです。

 もちろん捕囚の民としての生活は屈辱的であり、極めて辛いものです。けれどもその悲しみは一時的であり、後に平和と義の実を生み出すものです。これが主の懲らしめであり、主の訓練であります。

 いちじくの特徴をもう一つ話しますと、実が結ばれるまで時間がかかることがあります。イエス様の例えの中で、いちじくの実が結ばれないので切り倒してしまえと言っている主人に対して、「どうか、ことし一年そのままにしてやってください。来年、実を結べばよし、それでもだめなら切り倒してください。」と番人が答えているものがあります(ルカ13章参照)。木を植えてもなかなか実を結ばないのです。

 これと同じように、人の生活から実が結ばれるまで時間がかかります。ちょうどユダの民がバビロンの地で何十年も時間を過ごし、それでようやく主を知ることができるようになります。私たちは一足飛びに結果を追い求めるのですが、主が置かれた場所で私たちが主に服する時に、主は必ず、いちじくの木の実のように、実を私たちの生活から結ばせてくださいます。

 ユダヤ人は捕囚の地で、奴隷という身分でありながら、他の居留民と変わりない生活を送りました。そこで富も蓄積することができました。ユダヤ教もバビロンの地で始まったと言っても過言でありません。そして、この地で主を愛し、主に愛された預言者が輩出されました。ダニエルそしてエゼキエルです。

 また七十年後、エルサレムに帰還する時には、ゼルバベルとヨシュアという指導者がおり、学者エズラ、そして総督ネヘミヤがいました。預言者ハガルとゼカリヤもいます。彼らに深い悔い改めの心が与えられているのを、これらの捕囚後の書物を読むとよく分かります。

2B 悪くなる残りの者 8−10
24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、・・まことに主はこう仰せられる。・・わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。24:9 わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。24:10 わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」

 いちじくの実がすぐに腐ってしまうように、彼らはすぐに滅ぼされてしまいました。良い実を結ばせるには時間がかかりますが、実が悪くなってしまうのは一瞬のうちです。自分は大丈夫だと思っても、明日どうなるか分からないのです。これから何年分も安心して、食べて、飲んで、楽しむことができると思っていた金持ちに対して、神が「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。(ルカ12:20」と主は言われました。

3A 万国への裁き 25
 そして次の章は、ユダに対する裁きだけではなく、その周囲の諸国、すべての国に対する裁きが預言されています。

1B ユダに対して 1−14
1C 二十三年の預言 1−7
25:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年、すなわち、バビロンの王ネブカデレザルの元年に、ユダの民全体についてエレミヤにあったみことば。

 24章はエホヤキムの息子エホヤキンがバビロンに捕え移された時の預言ですから、今、時間は戻っています。エホヤキムの第四年です。

 そしてここで大事なのは「ネブカデネザル」が王となったということです。彼を軸として、主は国々に裁きを下されます。

25:2 これを預言者エレミヤは、ユダの民全体とエルサレムの全住民に語って言った。25:3 アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。

 エレミヤが預言者として召されたのは、約20歳の時です。八歳の時に王となったヨシヤも同じぐらいの年でした。同年で、しかもともに主を愛し、主に仕えていた二人でしたが、それからすでに23年経っています。

 この長い期間におけるエレミヤの預言の成果は「ゼロ」でした。23年の間、だれも主のことばを聞きませんでした。私がこのように説教を始めたのは22歳の頃でしたが、それから16年経った今、もし誰も救われなかった、誰も耳を傾けなかったとしたら、どれだけ落ち込んでいたことでしょうか!もう御言葉を伝えるのはよそうと、とっくの昔に思っていたことでしょう。

 ところがエレミヤはそうだったのです。彼自身、もう預言はすまいと考えたこともありました。けれども、御言葉が「骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のように(20:9」なったと言っています。

25:4 また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

 エレミヤの前にも、ユダに対して語った預言者はたくさんいました。同時代では、ハバククとゼパニヤがいます。そして100年ぐらいさかのぼって、預言者イザヤ、アモス、ミカがいます。さらにさかのぼると、ヨエルがいます。数多くの預言者がいたのにも関わらず、耳を傾けようとしませんでした。

25:5 主は仰せられた。「さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行ないから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。25:6 ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そうでないと、わたしもあなたがたにわざわいを与える。25:7 それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。・・主の御告げ。・・それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。」

 主が意図されているのは災いではありません。主はユダの民に災いを与えるのを嫌がっておられます。主が災いを与える時は、その義の性質のゆえに強いて行なうときです。

 ですから災いは自分の身に招いているのです。罪を犯して誰が傷つくかと言ったら、それは自分なのです。もちろん神の心は痛みます。けれども、それは私たちがその罪によって痛んでいる状態を憂いて、痛んでおられるのです。

2C 七十年捕囚 8−14
25:8 それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。・・主の御告げ。・・すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。

 非常に興味深い言葉がここにあります。主がネブカデネザルのことを「わたしのしもべ」と呼んでおられることです。かつて主は、ペルシヤの王クロスを「油注がれた者(イザヤ45:1」と呼ばれました。ネブカデネザルもクロスも異教徒です。意識的に主に仕えている人ではありません。けれども、主がご自分の御心を、特にエルサレムとユダに対する御心を行なわれるのに重要や役割を果たす人物を、このように呼ばれているのです。

 私たちは、不信者をも主が用いられるということをなかなか認めたくありません。主に仕えている指導者であれば喜んで受け入れますが、神を信じておらず、悪を行なっている人であれば、神の支配の枠の外に置きたいと思ってしまいます。けれども、「神によらない権威はない(ローマ13:1」と聖書は明記しています。自分が好きではない政治指導者のことを思い浮かべてください。けれども、神はその人をもご自分のしもべとして用いておられるのです!

 そしてこれらの人々は、何らかの形で神のご目的のために用いられているのです。ご自分の民のために、神はその指導者をご自分の思いのままに動かしておられます。私たちの思いでは、その人を取り除きたいと思います。けれども神の御心は、「その支配に服しなさい」と命じておられるのです。もちろん、ダニエルや三人の友人のように、良心のゆえ王の命令に背くことはあるでしょう。けれども基本的に、私たちはその支配に服するのです。

 その中で私たちは練られ、清められ、主のみこころをさらにはっきりと知ることができるのです。

25:10 わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともし火の光を消し去る。

 日常生活を終わらせ、人生の楽しみのひと時をすべて終わらせます。

25:11 この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。25:12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、・・主の御告げ。・・またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。

 エレミヤによる驚くべき預言です。捕囚の期限を明確に、七十年であると告げている箇所です。この箇所と29章を読んで、年老いたダニエルは、今すぐにでも自分たちはエルサレムに戻ることができるのだと気づきました。

 なぜ70年なのか?「7」という数字は聖書ではいつも、完全数を表しています。神の数字と言っても良いでしょう。そして聖書のほかの箇所では、また別の目的も書かれています。歴代誌第二の最後に、安息年のことが取り上げられています。「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(2歴代誌36:21

 レビ記の戒めの中で、土地に作物を育てることをしない年を七年に一度与えなさい、という命令があります。それをイスラエルの民は長いこと怠っていた。それで主は強制的に、彼らを他の地へ移すことによってご自分の土地を休ませた、というものです。

 このような神の思いと知恵は、測り知ることはできません!あまりにも深く、思いもよらないことだからです。バビロン捕囚という一つの出来事の中に、いろいろな目的を果たしておられます。

25:13 わたしは、この国について語ったすべてのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす。

 エレミヤはユダとエルサレムへの預言者であるだけでなく、「国々への預言者(1:5」として召しておられました。だから46章以降は諸国の民に対する預言となっています。

25:14 多くの国々と大王たちが彼らを奴隷に使い、わたしも彼らに、そのしわざに応じ、その手のわざに応じて報いよう。」

 イスラエルに対して行なったこと、ユダに対して行なったことに応じて裁きを行なうと神は言われます。ここに神の主権とその不思議があります。主はネブカデネザルをご自分のしもべと呼ばれるほど、ユダを裁くために彼を用いられたのですが、だからと言って彼が行なったことが正しいことではなかったのです。むしろ、彼がユダに対して行なったそのことのゆえに、バビロンは永遠の滅びを刈り取らなければならなくなります。「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世12:3」と主がアブラハムに言われました。

2B 異邦人に対して 15−38
 「始めにエルサレム、そして諸国、最後にバビロン」という神の裁きの順序を次から詳しく見ることができます。

1C 怒りの杯 15−29
25:15 まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。25:16 彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」

 「憤りのぶどう酒」という言葉は、黙示録14章等にも出てきます。神の怒りの衝撃をまともに受けることを、アルコール度の強い酒を飲んで、酔って倒れることによって形容します。

25:17 そこで、私は主の御手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。

 エレミヤがこれをどのようにやったのか、よく分かりません。彼が国々を歩き回って杯を飲ませたのでしょうか?おそらくは、バビロンの脅威を感じて、連合して戦おうと考えた周辺の諸国の使者がエルサレムを訪れた時に彼がその杯を回したと考えられます。

25:18 エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。・・彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった。・・

 ネブカデネザルによって倒れた国々をこれから主は列挙されます。始めはエルサレムです。

25:19 エジプトの王パロと、その家来たち、つかさたち、すべての民に、25:20 すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち・・アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者・・に、

 南のエジプト、それからイスラエルの南西にいるペリシテ人の町々です。彼らもバビロンによって倒されました。

25:21 エドム、モアブ、アモン人に、

 イスラエルの東、ヨルダン川を越えたところにある国々です。

25:22 ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たちに、

 ツロ、シドンは今のレバノンです。そして「海のかなたにある島」とは地中海の島のことです。これらはみな、バビロンが征服した国々の歴史の中で確認できます。

25:23 デダン、テマ、ブズ、こめかみを刈り上げているすべての者に、25:24 アラビヤのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たちに、

 アラビヤ半島の部族です。

25:25 ジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディヤのすべての王たちに、

 バビロンよりもさらに東の人々ですね。エラムが後のペルシヤです。メディヤはイラク北部、今のクルド人がいるところです。

25:26 北国のすべての王たち、近い者も遠い者もひとりひとりに、地上のすべての王国に飲ませ、彼らのあとでバビロンの王が飲む。

 エルサレムとその周囲の国々はバビロンによって神の裁きを受けるのですが、バビロン自身を今度は神ご自身が裁かれます。具体的にはメディヤ・ペルシヤ連合軍によってバビロンが滅びます。

25:27 「あなたは彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。飲んで酔い、へどを吐いて倒れよ。起き上がるな。わたしがあなたがたの間に剣を送るからだ。』25:28 もし、彼らが、あなたの手からその杯を取って飲もうとしなければ、彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。あなたがたは必ず飲まなければならない。

 「イスラエルの神の裁きがあるのだ」という言葉を、現在、どの国が聞き入れるでしょうか?ないですね。けれども終わりの時、彼らは必ず怒りのぶどう酒の杯を飲まなければいけません。黙示録にはっきり預言されています。すべての王国の軍隊がハルマゲドンに集まり、そして小羊と戦うとあります。

25:29 見よ。わたしの名がつけられているこの町にも、わたしはわざわいを与え始めているからだ。あなたがたが、どんなに罰を免れようとしても、免れることはできない。わたしが、この地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ。・・万軍の主の御告げ。・・』

 これが神の順番です。始めに、ご自分の民に対する裁きから行なわれます。そして世を裁かれます。ペテロが第一の手紙の中でこう言いました。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。(4:17-18

 今は終わりの時です。私たちはふるいにかけられています。教会の中で、あってはならない事が起きています。偽りの教えが浸透しています。私たちがきちんと、主と、主の御言葉に献身して、しっかりつながっていないと、この裁きから免れることはできないのです。

2C 吼える獅子 30−38
25:30 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。『主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。25:31 その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。・・主の御告げ。・・

 主が諸国の民と戦いに出てこられる時のことを、ライオンが牧場にいる獲物を取りに行く時に吼えることに形容しています。ほえる声は牧場中に響き渡り、そのために家畜が震えて、恐れている様子を描いています。

25:32 万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。25:33 その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」

 ここの「肥やし」は文字通りには「糞」です。終わりの時、主が全世界の軍隊と戦われる時、その死体が積みあがり、猛禽類が大宴会を設けることが黙示録19章で預言されています。

25:34 牧者たちよ。泣きわめけ。群れのあるじたちよ。灰の中にころげ回れ。あなたがたがほふられ、あなたがたが散らされる日が来たからだ。あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。

 23章は、ユダの王たちを牧者として描いていましたが、ここでは国々の指導者らを牧者として描いています。指導者も神の怒りを免れることはできません。

 あとここで「美しい雄羊」と訳されていますが、新共同訳や他の訳も「器」として訳されています。これが正しいです。美しい器がテーブルから落ちて、そのガラスが床の上で粉々に砕け散るように彼らも砕ける、ということです。

25:35 逃げ場は牧者たちから、のがれ場は群れのあるじたちから消えうせる。25:36 聞け。牧者たちの叫び、群れのあるじたちの泣き声を。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。25:37 平和な牧場も、主の燃える怒りによって荒れすたれる。25:38 主は、若獅子のように、仮庵を捨てた。主の燃える剣、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ。

 主の住まいは天にありますが、そこから主が地上に来られて、地上にあるものを破壊します。私たちは黙示録を読めば、それがどのように行なわれるかを詳細に知ることができます。

 これがまことの、本当の預言です。神の怒りが、神の裁きが近いことを教えるのが本当の預言です。そこから救われることを教えるのが、真の預言者の役割です。私たちはこの切迫感を持っているでしょうか?「救い」という言葉を私たちは軽々しく使っていないでしょうか?何からの救いでしょうか?この神の怒りからの救いです。

 神の裁きが近づいていること、しかも教会から始まることを私たちはこの身に感じながら、畏れおののきつつ主の救いを告げ知らせるのが、今日の生き方です。


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