エレミヤ書26−28章 「服従する心」

アウトライン

1A ユダの首長たち 26
   1B 宮の破壊 1−19
      1C 怒る祭司と預言者 1−11
      2C エレミヤの弁明 12−19
   2B 逃げる預言者 20−24
2A バビロンの枷 27
   1B 諸国に対して 1−11
      1C 神の主権 1−7
      2C 反逆への警告 8−11
   2B 王に対して 12−15
   3B 祭司に対して 16−22
3A 公の対決 28
   1B 引き下がるエレミヤ 1−11
   2B 偽預言者の死 12−17

本文

 エレミヤ書26章を開いてください、今日は26章から28章まで学びたいと思います。ここでのメッセージ題は「服従する心」です。

 私たちはこれまで、エレミヤが語っていった預言の内容を見てきましたが、26章からその内容に人々がどのように反応するかを見ることになります。ここまで厳しい神の宣告に対し、人々がはたして悔い改めるのかどうか?そして預言の内容からエレミヤは迫害も経験しているようでしたが、実際にどのような類のものであったのか、具体的な出来事の中で見ることができます。

1A ユダの首長たち 26
1B 宮の破壊 1−19
1C 怒る祭司と預言者 1−11
26:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。26:2 「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。26:3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。26:4 だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、26:5 わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、・・あなたがたは聞かなかった。・・26:6 わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」

 思い出せるでしょうか、主がエレミヤに、神殿の中で起こっていることを預言しなさいと命じられた箇所がありました。7章です。「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮。』と言っているが、宮があるからといって安全なのではない。行ないを改めなければ、この宮はシロのようになる。」というものです。神殿という建物があり、またそこで礼拝という儀式があるから、バビロンからも守られるだろうという安心感を人々は抱いていました。けれども、同じような信仰をもって、かつてのイスラエル人はシロにあった契約の箱を持ち出して、ペリシテ人と戦ったのです。それでことごとく負け、神の箱はペリシテ人に奪い取られました。

 このように神殿そのものに力があるという信仰は捨てなさい、という内容の預言をエレミヤは行なっていたのです。そこで26章では、これを聞いた人々の反応が出ています。

 ただ次の節を読む前に、2節にある「一言も省くな」という言葉に注目したいと思います。「主が命じられたことを残らず語れ、一言も省くな」という命令です。語っている者にとっては語りたくない内容のものも含まれています。もし語ってしまったら、相手がどんな反応をするか不安です。強い反発をするかもしれません。また関心を持って聞いてくれないかもしれません。けれども、そのようなことは関係なしに、すべてを語りなさいというのが主の命令なのです。

 これは聖書のほかの箇所でも数多く命令されています。ヨシュアが約束の地を占領したときも、「祝福とのろいのことについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。(ヨシュア8:34」とあります。パウロがエペソから来た長老たちに対して語った時も、「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。(使徒20:27」と言いました。そして聖書の最後、黙示録22章においても、「また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(19節)」とあります。私たちは、主の命令のすべてを聞かなければいけないのです。

 ですから聖書を創世記から順番にすべてを読み、聞いていくということが本当に大事です。そのことで、私たちは神がどのようなことをお考えになり、そしてどのようなことを神が私たちに願っておられるかを正確に知ることができます。自分勝手に、自分の望むことだけを聞くという過ちを避けることができます。

26:7 祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。26:8 主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕えて言った。「あなたは必ず死ななければならない。26:9 なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。

 エレミヤを攻撃した人々の順番に注目してください。まず「祭司」です。宮で仕えている人々ですから、宮がシロのようになるという言葉に一番反応しているわけです。次に「預言者」です。彼らがエレミヤ書においては一番の悪者です。主が命じられていることではなく、人々が聞きたいと望んでいることを語っているのが彼らだったからです。そして三番目に「人々」です。彼らは祭司や預言者が語っていることに聞き従います。

26:10 ユダの首長たちはこれらのことを聞いて、王宮から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入口にすわった。26:11 祭司や預言者たちは、首長たちやすべての民に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの町に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」

 祭司や預言者がエレミヤを死刑にするよう、首長たちに訴えています。死刑の判決、またその執行をする権威が与えられているのは、これら首長たちだからです。「新しい門の入口」とありますが、私たちが考えるような門ではありません。当時の遺跡を見ると、町の城壁の門のところには行政的手続きを行なう部屋があります。そこで祭司と預言者が訴えました。

 興味深いのは、その訴状が「彼がこの町に対して預言をしたからだ」と、神の宮に対する預言は抜けていることです。なぜなら、訴えている相手はユダの首長であり、司法的なことしか扱ってくれないことを知っていたからです。

 同じような話が新約聖書にも出てきますね。私たちの主がユダヤ人宗教指導者に訴えられた時に、大祭司がイエス様を死刑にすると決めた時、それはイエス様が神の子キリストであることを認められたからでした。けれども、本当に死刑を執行する権力が与えられているローマ総督ピラトに対しては、「彼はユダヤ人の王だと自称し、カエザルに背いています。」という訴えだったのです。

2C エレミヤの弁明 12−19
 そしてエレミヤが、興味深い弁明をしています。

26:12 エレミヤは、すべての首長とすべての民に告げてこう言った。「主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。26:13 さあ、今、あなたがたの行ないとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。26:14 このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい。26:15 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民とに及ぼすのだということを、はっきり知っていてください。なぜなら、ほんとうに主が、私をあなたがたのもとに送り、あなたがたの耳にこれらすべてのことばを語らせたのですから。」

 ここの弁明をまとめますと、第一に12節、「主が私を遣わされた」というものです。自分勝手に語っているのではなく、主が語っておられるのだということです。第二に、「あなたがたが行ないを改めれば、主も災いを思い直される」というものです。エルサレムが破壊されることを望んでいるのではない、行ないを改めることを訴えているのだ、ということです。

 そして第三に、「私はあなたがたの手の中にあります」と言っています。エレミヤは権威に服従しています。「罪のない者の血の報いを受ける」という警告は話していますが、あなたがたは私に対して行なうことは甘んじて受けます、という態度を取っています。

 ローマ人への手紙13章に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(1節)」とあります。上に立つ権威が悪であるから反発するとか、反乱を起こすとか、そのような態度は慎まなければいけないという戒めです。興味深いことにローマ13章の前には、「復讐は神のすることである。悪に対しては悪に報いず、善で報いなさい」という言葉があります(12:19,21参照)。エレミヤは、血の報いを神に任せたのです。

 このように全てのことを主に任せて、権威に服従するという態度が私たちには必要です。主が命じられていることを行なっているのだから、主が守ってくださるという信仰を持たなければいけません。エレミヤには、「わたしがあなたとともにいる。そしてあなたを救い出す。」という神の約束がありました(1:19等)。そうすれば、全ての権威の源であられる主が全てのことを働かせて益としてくださるのです。

26:16 すると、首長たちとすべての民は、祭司や預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」

 いわば「世俗的」な首長たちのほうが、祭司や預言者たちよりも良識を持っていました。「主の名によって語っているのだから」というのがその理由です。これを理解できるように現代版にするなら、例えば、教会の中で、教会がやっていることについて異議を唱えている人がいるとします。いかに腹が立っても、もしその人が聖書から語っているのであれば、まずは聞く耳を持たなければいけない、ということです。

 そして興味深いのは、ここに「すべての民は」とあることです。さっきまで祭司と預言者と共にエレミヤを攻撃しようとしていたのですよ。急に首長たちの意見に合わせています。

 これが「群集」と言ってよいでしょう。イエス様が十字架につけられる日の最後の週、日曜日にエルサレムに入られた時のことを思い出してください。群集は、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マタイ21:9」と言って、イエス様をメシヤとして喜び迎え入れたのです。ところが四・五日経ったら、「十字架につけろ」と叫びました。祭司長らに煽動されていたからです。

 私たちは「群集」にならないようにすることを、できるかぎり求めるべきでしょう。「だれだれ牧師先生がこう行っていたから。」という根拠で何かを信じるのではなく、ベレヤの人たちのように、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11」という姿勢を身につけなければいけません。ここエレミヤ書でも「すべての町の者に語れ。(26:2」とあります。一人一人が神の御言葉に対して、責任があるのです。

 といっても、霊的指導者には大きな責任が与えられていることには変わりありません。指導者が語れば、人々はそれを信じるのです。ですから、一般の人々よりも、もっと大きな裁きが神から与えられることを聖書は教えています。「ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3:1

26:17 それで、その地の長老たちの幾人かが立って、民の全集団に語って言った。26:18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』26:19 そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」

 このミカは、あのミカ書のミカです。312節にこの預言があります。エレミヤの時代の約100年前の話です。そして以前お話しましたように、私たちはこのような預言を運命論的に受け止めてはいけないということです。主がたとえ「滅ぼす」とおっしゃっても、人々が悔い改めるなら思い直してくださるのです。主は悪者が滅びることを望まず、彼が悔い改めて神に立ち返ることを望んでおられます。

 そこのことが事実、ヒゼキヤの時代に起こりました。ヒゼキヤは、当時の王エホヤキムの曾お祖父さんです。その時代に、ミカが語ったようにエルサレムは滅びたでしょうか?いいえ、ヒゼキヤはこれを聞いて悔い改めたから、主は思い直されたのです。このことを長老の何人かが民に語って聞かせました。

 主がこのように、エレミヤを守ってくださったのはすばらしいことです。この長老たちの言葉は知恵の言葉です。人々が、何が正しいのか分からず混乱している時に、平和と一致を取り戻してくれるような神からの知恵です。

 初代教会にも、同じようなことが起こりました。エルサレムの指導者らが使徒たちに怒って、彼らを殺そうと話していた時、ガマリエルが議会の中で立ち上がり、「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(使徒5:3839」と言い、事態は収拾しました。

2B 逃げる預言者 20−24
26:20 ほかにも主の名によって預言している人がいた。すなわち、キルヤテ・エアリムの出のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの町とこの国に対して、エレミヤのことばと全く同じような預言をしていた。

 エレミヤだけではありませんでした。エレミヤ書だけ読んでいると、エレミヤだけが主の預言をしていると思ってしまいますが、主はいつでも残りの民を置いていてくださっています。預言者エリヤが主に対して、「彼らはあなたの預言者たちを殺し、私だけが残されました。」と言いましたが、主は、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。(ローマ11:4」と言われました。

26:21 エホヤキム王と、そのすべての勇士や、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。26:22 そこでエホヤキム王は人々をエジプトにやった。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を同行させて、エジプトに送った。26:23 彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。26:24 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。

 ウリヤは自分の命を救おうとして、それを失いました。けれども、「私はあなたがたの手の中にあります。(14節)」と言ったエレミヤは、エルサレムの町の中にいながらなお生き延びていました。このことで私たちはウリヤが神に不従順だったと言うことはできません。使徒の働きにも、ステパノのようにユダヤ人議会によって石打ちの刑で殉教してしまう人もいれば、主の守りによって救われる人もいます。けれども、エレミヤについて言うならば、彼は上の権威に対して服従しており、主はその中でエレミヤを守ってくださいました。全てのことを主に任せたのです。

 ところでエレミヤをかばった「アヒカム」という人ですが、実はこの家族には主の言葉を恐れていた人が多かったことを聖書の中で知ることができます。父の「シャファン」は、ヨシヤに神殿の中で見つかった律法の書を持っていって、王の前で読み上げた書記です(2列王22:10)。そしてシャファンの他の息子「ゲルマヤ」はユダの首長の一人で、エレミヤの預言の書を王エホヤキムが焼いているのを「焼かないでください」と願っています(エレミヤ36:25)。ゲルマヤの子「ミカヤ」が、ユダの首長たちにエレミヤの預言を首長たちに持ってきました。さらにシャファンのもう一人の子「エルアサ」は、バビロンに捕え移された人たちに宛てたエレミヤの手紙を、バビロンに持っていた人であります(29:3)。

 そしてアヒカムの子に「ゲダルヤ」がいます。エルサレムが破壊された後に、ネブカデネザルが、彼をわずかに残ったユダヤ人の上に総督として立てました(エレミヤ39:14)。ですから、主を恐れていた人が王の側近の中にもいたということです。主が死なれた後も、その死体をアリマタヤのヨセフが下げ渡しをピラトに願いましたね(マタイ27:5758)。彼はユダヤ人議会サンヘドリンの一員ですから、大きなことは言えませんが、その制限の中でも主を愛していました。同じく夜に一人イエス様に会いに来たニコデモも、死んだイエス様の埋葬を手伝っています(ヨハネ19:39)。

2A バビロンの枷 27
 27章と28章は偽預言についての話です。27章では、エレミヤが偽預言に惑わされるなという神の預言をいろいろな立場の人たちに語ります。

1B 諸国に対して 1−11
1C 神の主権 1−7
27:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがあった。

 この後を読むとすぐ分かりますが、おそらくここの「エホヤキム」という言葉は「ゼデキヤ」の間違いではないかと思われます。私たちは聖書の言葉は誤りがないと信じていますが、原本において誤りがないと信じています。非常にわずかでありますが写本において間違いがあることを認めています。これは、その一つではないかと考えられます。

27:2 主は私にこう仰せられる。「あなたはなわとかせとを作り、それをあなたの首につけよ。

 再び主は、実演によって預言を行なわせておられます。エレミヤに枷をかけて預言をしなさいと命じておられます。もちろん枷は、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるものですが、ここではバビロンに服していなさいという言葉を伝えるためのものです。

27:3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、27:4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたは主君にこう言え。

 今、これらの国々はユダとともにバビロンの圧迫を受けています。もうすでにバビロンとは従属の関係にあります。けれどももしかしたら、自分たちが連合してバビロンに反抗すれば、その枷を解き放つことはできるのではないかと思ったのです。それで、各国の使者がエルサレムにやって来たのです。その機会をつかんで、彼らに対しても神の御言葉をエレミヤは告げました。

27:5 わたしは、大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の面にいる人間と獣とを造った。それで、わたしの見る目にかなった者に、この地を与えるのだ。27:6 今、わたしは、これらすべての国をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカデネザルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる。

 この言葉を聞くのは、天地を創造した神を知らない異教徒たちです。ですから主はまず、ご自分のことを「大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の面にいる人間と獣とを造った」とおっしゃっておられます。

 そしてその創造主が、ご自分の願われるままに、誰かに世界の支配を与えられると言われているのです。その誰かが今回の場合、バビロンの王ネブカデネザルです。再び主はネブカデネザルを「わたしのしもべ」と呼ばれています。彼はもちろん、主を知らない異教徒です。けれどもネブカデネザルが意識していない間に彼を用いられて、ご自分の計画を成し遂げられるのです。

 このほぼ同じ時期に、ダニエルがバビロンにいました。そしてネブカデネザルに、天の神があなたをこのように強くされたことを伝えています。ネブカデネザルが「この大バビロンは、私の権力によって、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。(4:30参照)」と言った途端、天使によって彼は獣のようにされました。七つの時が過ぎてから理性が戻ってきて、ネブカデネザルは神をほめたたえ、「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。(ダニエル4:34」と告白したのです。自分は偉大になったが、それは神がそうされたのだということを、彼自身が認めたのです。

 主はバビロンの前の大国アッシリヤについても、同じような預言を行ないました。アッシリヤは自分たちで強くなったと高慢になりましたが、イザヤ書3726節で主は、「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。」と言われています。その高慢のゆえに主はアッシリヤを倒されました。

 バビロンを倒したメディヤの王ダリヨスもこの神の主権を認め(ダニエル6:26)、ペルシヤの王クロスも主は彼を「油注がれた者(イザヤ45:1」と呼ばれました。

 ですから神は、権力をもっている王をご自分の主権の中で用いておられるのです。これは彼らが行なっていることをすべて是認しておられるのではありません。事実、次の節に出てくるようにバビロンは他の王たちの奴隷とすると主は言われます。是認しておられるのではなく、ご自分の主権の中に置かれているのです。したがって私たちは、「その権威に服しなさい」という命令を神から与えられています。

27:7 ・・彼の国に時が来るまで、すべての国は、彼と、その子と、その子の子に仕えよう。しかし時が来ると、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする。・・

 これがその通りになりました。ネブカデネザルの子、エビル・メロダク(2列王25:27)がいました。そしてネブカデネザルの孫がダニエル5章に出てくる、バビロンの最後の王ベルシャツァルです。その時、メディヤとペルシヤの連合軍がバビロンの町を攻略し、バビロンは倒れました。

2C 反逆への警告 8−11
 ですから、主は二つのことを語っておられます。一つは、「バビロンはわたしから来ているのだから、バビロンに服しなさい」です。もう一つは、「バビロンは永遠に続かない」です。次をご覧ください。

27:8 バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、・・主の御告げ。・・彼らを彼の手で皆殺しにする。27:9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。27:10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。

 興味深いことに、エルサレムだけではなく、諸外国にも偽の預言を行なう者たちがいたということです。彼らは異教を信じていますが、その異教の「占い師、夢見る者、卜者、呪術者」が、バビロンに歯向かって構わないという託宣を告げていたのです。

27:11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。・・主の御告げ。・・こうして、その土地を耕し、その中に住む。』」

 私たちは前回、「良いいちじくと悪いいちじく」の幻から、捕囚の民に対する神の約束を読みました。それはユダヤ人だけに限らず、従属する他の国々、民族に対しても同じようにするということです。

2B 王に対して 12−15
27:12 ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。27:13 どうして、あなたとあなたの民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。27:14 『バビロンの王に仕えることはない。』とあなたがたに語る預言者たちのことばに聞くな。彼らはあなたがたに偽りを預言しているからだ。」

 ゼデキヤも、多くの偽預言者に囲まれていました。その偽預言を取り払うべくエレミヤは本当の預言をゼデキヤに伝えています。

27:15 「わたしは彼らを遣わさなかったのに、・・主の御告げ。・・彼らは、わたしの名によって偽りを預言している。それでわたしはあなたがたを追い散らし、あなたがたも、あなたがたに預言している預言者たちも滅びるようにする。」

 事実その通りになりました。ゼデキヤはネブカデネザルに反逆しました。反逆したので、彼らは追い散らされたのです。

3B 祭司に対して 16−22
 そしてエレミヤは、祭司たちに対しても「偽預言を聞くな」というメッセージを伝えます。

27:16 私はまた、祭司たちとこのすべての民に語って言った。「主はこう仰せられた。『見よ。主の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる。』と言って、あなたがたに預言しているあなたがたの預言者のことばに聞いてはならない。彼らはあなたがたに、偽りを預言しているからだ。

 ゼデキヤは、ネブカデネザルによって立てられた王ですが、その前はエホヤキンまたはエコヌヤが王でしたでした。彼がバビロンに捕え移されましたが、その時に主の宮にある祭具をネブカデネザルはバビロンに持ち去りました。また、第一次バビロン捕囚でも、神の宮の中にあるものを持ち去っていることがダニエル書12節に書いてあります。

 これらの祭具がすぐに今、バビロンから持ち帰られるという偽預言がたくさんあったのです。

27:17 彼らに聞くな。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この町が廃墟となってよかろうか。

 諸国の王にも、ゼデキヤ王にも、そして祭司たちにも「仕えて生きよ。どうして滅びてよかろうか。」と問いかけています。罪を犯している人全てにも、主は、「わたしに従いなさい。どうして滅んでよかろうか。」と言われています。

27:18 もし彼らが預言者であり、もし彼らに主のことばがあるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ。

 偽預言者らは、本当に彼らのことを思って、彼らのことを愛して預言をしているのではありません。骨折って、祭司たちのために祈っているのではありません。ただ彼らを喜ばせ、究極的に自分自身を喜ばせたいのです。

 そして器が持っていかれないように祈り始めるなら、彼らはすぐに主のみこころを示されるはずです。バビロンに服せば、これらの器は持っていかれることはないことを知るようになるはずです。

27:19 まことに万軍の主は、宮の柱や、海や、車輪つきの台や、そのほかのこの町に残されている器について、こう仰せられる。27:20 ・・これらの物は、バビロンの王ネブカデネザルがエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、携えて行かなかったものである。・・

 第一次、第二次のバビロン捕囚のときは、すぐに持ち出せる祭具類、また高価な金で出来たもののみをバビロンは持ち出しました。その他、建物の構造の一部になっているものや、青銅で出来た重い台などは持ち去っていませんでした(2列王24:13)。

27:21 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とエルサレムとに残された器について、こう仰せられる。27:22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。・・主の御告げ。・・そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。』」

 祭司たちに対しては、捕囚期間だけでなく、捕囚が終わってからのことまでの神の約束を与えています。神殿の器具類はずっとバビロンにありました。最後の王ベルシャツァルは、神殿の器をつかって杯を交わし、偶像の神々を賛美したとあります(ダニエル5:24)。それで彼はその日に殺されました。

 そしてエズラ記1章を読むと、ペルシヤの初代王クロスが、自分の神々の宝物倉に保管してある主の宮の用具を運び出し、それをユダの総督に渡したことが記されています。確かに戻ってきたのです。

 私たちは、自分の欲するものをすぐほしいと願います。けれども、主の時と、神の主権があるのです。これに服する時に、主は必ず将来を良くしてくださることを知るべきです。

3A 公の対決 28
 そして28章では、ついに偽預言者とエレミヤが公の場で対決する場面が出てきます。エレミヤは、偽預言者について多くを語りましたが、彼らを表立ってけなすことはしませんでした。けれども偽預言者らが自分たちの行なっていることをさらに大胆に行なっていくにつれて、それを表の舞台で行なわなければいけなくなってきます。

 新約聖書にも、主から離れた働き人についてパウロが具体的な名前を挙げている箇所があります(例えば、1テモテ1:20)。それは彼がそれを欲していたのではなく、それだけ問題が表面化していたからです。ここエレミヤ書28章では「ハナヌヤ」という男が出てきます。

1B 引き下がるエレミヤ 1−11
28:1 その同じ年、すなわち、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主の宮で、祭司たちとすべての民の前で、私に語って言った。

 この「第四年の第五の月」というのが、ここでは大事な言葉です。この章の最後には、ハナヌヤが「第七の月に死んだ」という記録があります。預言の正確性の戦いです。

28:2 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。28:3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。28:4 バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。・・主の御告げ。・・わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。」

 大胆ですね、期日を定めています、「二年のうちに」です。

28:5 そこで預言者エレミヤは、主の宮に立っている祭司たちや、すべての民の前で、預言者ハナヌヤに言った。28:6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。

 本当にエレミヤはそう思ったでしょう。本当に、これらの器が戻ってきたらどんなに良いことかと思っていたでしょう。

 そして私は彼のこの言葉に柔和さを感じます。私だったら、「ふざけるな!この偽預言者め!」と対決姿勢をむき出しにしたくなるところですが、エレミヤはきちんと相手の言うことを聞いて、応答しています。

28:7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。28:8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。28:9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」

 預言者が神から遣わされるのは、主に、国が危機的な状況にあるからです。民が神から離れているから、神に立ち返るように促すのです。だから預言者の預言は、「もし神に従わなかったら、このような戦いと疫病がある」という警告でいっぱいなのです。

 そして預言者には、厳しい試験が課せられています。それは、「その預言がその通りにならなければいけない。さもなければ、その預言者は偽者であり、殺されなければいけない。」というものです。「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。(申命18:22」恐れてはならない、というのは殺せ、ということです。

28:10 しかし預言者ハナヌヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。

 先ほどエレミヤが主から命じられた枷のことです。

28:11 そしてハナヌヤは、すべての民の前でこう言った。「主はこう仰せられる。『このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。』」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。

 ハナヌヤは挑発的に、エレミヤの枷を砕きました。けれどもエレミヤはそのまま立ち去りました。ここにもエレミヤの柔和さ、不要な対立や騒動を好まない姿勢を見ることができます。「あなたがたは、自分に関するかぎり、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18」とあります。

2B 偽預言者の死 12−17
 エレミヤはむしろ、主に促されて、個人的にハナヌヤに立ち向かいます。

28:12 預言者ハナヌヤが預言者エレミヤの首からかせを取ってこれを砕いて後、エレミヤに次のような主のことばがあった。28:13 「行って、ハナヌヤに次のように言え。『主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。28:14 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。』」

 木の枷から鉄の枷に変わります。もっと厳しい、圧迫された支配の下にいなければいけなくなります。バビロンが支配することには変わりないのですが、反逆すればするほど、さらに厳しくなるのです。私たちは主に対してもそうです。主を受け入れず、拒めば拒むほど、自分を苦しめるだけになります。

28:15 そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。28:16 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」28:17 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。

 これでどちらが本物の預言者であるかがはっきりしました。エレミヤは「ことし」と言いました。ハナヌヤが預言をした二ヵ月後、彼は死にました。

 私たちが主に従うこと、そしてあらゆる関係において主を認め、服従させること。これをバビロンへの服従を通して学びました。また、エレミヤの権威に対する態度、また偽預言者に対する態度にさえ、すべてを主に任せるという服従の姿勢が表れています。

 私たちは主にすべてを任せているでしょうか?人間関係において、パウロはこう言いました。、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21」妻に対しては、「夫に従うべきです。(24節)」夫は「自分の妻を愛しなさい。(25節)」子供は「主にあって両親に従いなさい。(6:1」そして奴隷には、「キリストに従うように、恐れおののいて、真心から地上に主人に従いなさい。(6:5」と勧めています。

 それがたとい悪い夫であっても、悪い主人であってもそうなのです(1ペテロ2:18,3:1)。その服従を通して私たちはキリストにある真の自由を得て、その中で主が守ってくださることを知ります。


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