エレミヤ書34−36章 「御言葉への応答」

アウトライン

1A 定まらない心 34
   1B 安らかな死 1−7
   2B 契約の破棄 8−22
      1C 奴隷解放 8−17
      2C 二つに分けた子牛 18−22
2A 妥協しない心 35
   1B 遊牧のレカブ人 1−11
   2B 言い伝えへの従順 12−19
3A 御言葉の否定 36
   1B 預言の書記 1−8
   2B 御言葉を恐れる首長たち 9−20
   3B 襲いかかる災い 21−32
      1C 御言葉への嫌悪 21−26
      2C 破壊できない御言葉 27−32

本文

 エレミヤ書34章を開いてください、今日は36章までを学んでみたいと思いますが、ここでのテーマは、「御言葉への応答」です。

 私たちはこれまで、終わりの時における神の回復について読んできました。ユダの民がバビロンに捕え移された後、彼らが必ず帰還することができる。彼らは平穏に生きることができるという慰めの預言があり、そして終わりの時にも世界中に散らされた国々からエルサレムに戻ってくると神は約束してくださいました。その時に彼らは、神から離れた生活ではなく、神を畏れる生活を送ることができると約束してくださっています。神が、石の板の上の戒めを基準とする古い契約ではなく、心の板に律法を書き記すという新しい契約を与えてくださるためです。

 そして34章からですが、再びバビロン捕囚の前の時代に戻ります。この34章から39章まで、バビロンがユダを従属させて、エルサレムを包囲し、そして捕え移すという歴史を描いています。そしてバビロン捕囚の話が39章で終わり、40章以降に捕囚後の生活が描かれています。

 そして34章、35章、36章の中で、神の言葉を聞いたユダヤ人たちがどのように反応しているか、応答しているかを、三つのグループの人たちから観察することができます。初めは、ゼデキヤの時代の人々です。

1A 定まらない心 34
1B 安らかな死 1−7
34:1 バビロンの王ネブカデレザルと、その全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての国々の民が、エルサレムとそのすべての町々を攻めていたとき、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。34:2 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。行って、ユダの王ゼデキヤに告げて言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼こう。34:3 あなたはその手からのがれることができない。あなたはかならず捕えられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。』

 ゼデキヤは、ネブカデネザルが王エホヤキンあるいはエコヌヤをバビロンに捕え移した後に、代わりに立てた王です。つまり、バビロンが立てた王であり、始めからバビロンに従属しなければいけませんでした。

 けれどもゼデキヤの心には葛藤がありました。バビロンの支配を受けているが、それから解放されたいという葛藤です。バビロンから必ず解放されると預言していたのが数多くの偽預言者です。その中で、エレミヤは「バビロンに服しなさい。」と教えていました。

 この話をゼデキヤは聞いていましたが、心は定まっていませんでした。彼はバビロンに降伏する姿勢を最後まで見せることはありませんでした。そのためバビロンが再びエルサレムに戻り、城壁を破りました。ゼデキヤは逃げましたが、捕まえられ、リブナまで連れてこられ、そこでネブカデネザル王に顔と顔を合わせます。そしてネブカデネザルは、彼の息子たちを彼の目の前で虐殺し、そしてゼデキヤの目をえぐり出し、青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行きました。

34:4 ユダの王ゼデキヤ。ただ、主のことばを聞きなさい。主はあなたについてこう仰せられる。『あなたは剣で死ぬことはない。34:5 あなたは安らからに死んで、人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむ。このことを語るのはわたしだ。』・・主の御告げ。・・」

 ゼデキヤは、神の御言葉に背き、バビロンに反逆した王でありますが、彼の前の前の王であるエホヤキムに比べると、御言葉への態度が異なっていました。エレミヤを個人的に呼び寄せて、彼から神の言葉を聞き、王の監視の庭で彼を監禁することによって、エレミヤの命を狙っている者から守ることもしました。それで、エホヤキムはエルサレムの町の外で、しかばねが捨てられて、彼を悼む者はいないと預言されたのに対して、ゼデキヤはバビロンの地で安らかに死に、彼を悼む人もいるとエレミヤは預言したのです。

34:6 そこで預言者エレミヤは、これらすべてのことばを、エルサレムでユダの王ゼデキヤに語った。34:7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。

 ラキシュとアゼカは、ユダの国にとって要塞の町です。エルサレムよりは南で、南北に走る山地と地中海沿岸地域の間にある低地である「セフェラ」にあります。イスラエルの北の勢力と南の勢力がぶつかる戦略的な場所だったので、南ユダの初代王レハブアムが要塞化しました(2歴代11:9)。ヒゼキヤの時代、アッシリヤの勢力がユダを覆ったとき、エジプトと連絡を取ったのもここの町であったと言われています。ですから、バビロンがこの町を攻めているということは、エルサレムの陥落がかなり近づいていることを示唆しています。

 そしてここは、聖書の記述がいかに正しいかを確かめることのできる箇所です。1935年にラキシュの町の遺跡の中で、ちょうどこの時期のことが書かれている陶器の破片が見つかりました。ラキシュにいる指揮官に対して、アゼカが倒れたことを示唆する文です。

2B 契約の破棄 8−22
 そして次に、ゼデキヤの定まらない心と、その心を代表するかのようなユダヤ人たちの動きを映し出す出来事が記録されています。

1C 奴隷解放 8−17
34:8 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。34:9 ・・それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。34:10 契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。34:11 しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。・・34:12 そこで、主からエレミヤに次のような主のことばがあった。34:13 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。34:14 七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。34:15 しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。34:16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』34:17 それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに・・主の御告げ。・・剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。

 ヘブル人の奴隷解放は、出エジプト記21章に出てくる神の定めです。イスラエルがシナイ山で神から十戒が与えられた後、神が続けてモーセにお語りになった定めの始めに、この奴隷解放があります。六年間仕えた後は、七年目には自由にしなければいけないというものです。

 けれども、ユダはずっと守り行なっていませんでした。そこでゼデキヤが民に契約として結ばせ、奴隷解放宣言を出しました。ここまでは良かったのです。けれども、おそらくエジプトが軍隊を北に動かして、バビロンがエルサレムの包囲を一時的に解除したからなのでしょう、彼らは心を翻したのです。再びヘブル人を奴隷として使役したのです。

 そこで神は、彼らの行ないに報いて、これまでユダに与えておられた敵からの守りを解き放ち、バビロンの包囲と攻撃にさらされるままにし、彼らに「剣と疫病とききんの解放」を宣言されました。

 ここにゼデキヤとユダの民の、御言葉に対する中途半端な心、定まらない心が表れています。ゼデキヤは基本的に、神の御言葉に聞き従わない者でした。聞きはするのですが、従って行動に移すまでのことをしません。

 けれども今、バビロンがエルサレムを取り囲んでいます。確かにエレミヤが言っている通りになっています。こうしたプレッシャー、心理的圧迫から、神の戒めの一つでも守り行なおうとしたのです。ところが、状況が好転したかに見えました。エジプトが動き始めました。そこで一気に緊張が解け、前からの行ないを、つまりへブル人を奴隷にすることを再び行ない始めたのです。

 つまり、心を入れ替えていない姿がここに表れています。「神の怒りが見えてきているから、それが怖いから罪から離れなければいけないが、状況が許せば罪を犯し続けたい。」という思いです。「主が命じられているのにそれを守り行なっていない、これが心苦しい。主を悲しませている。私はこの罪から離れたい。」という強い思いが悔い改めの始めです。だから罪のために泣き悲しみ、神の前に出て罪の告白の時間を過ごします。前者は自分の都合を優先し、後者は神との関係の回復を願っています。

 ヤコブがこの違いをこのように言いました。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:8-10」私たちが本当にへりくだって悔い改めているのか、それとも今の状況が改善してくれることだけを願っているのか、よく考えてみなければいけません。

2C 二つに分けた子牛 18−22
34:18 また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。34:19 二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。34:20 わたしは彼らを、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。34:21 わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。34:22 見よ。わたしは命じ、・・主の御告げ。・・彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」

 ゼデキヤは、先の契約を守らせるために、子牛を真っ二つに断ち切り、その間を通るという昔からの慣わしを行なったようです。覚えていますか、主がアブラハムと契約を結ばれる時に、主はこれを行ないなさいと命じられました。そして夜になったときに、その間を、燃え立つかまどとたいまつが通りました。そして主はアブラハムに、「エジプトの川からユーフラテス川までの土地を、あなたに与える。」と約束されたのです(以上、創世記15章参照)。

 この慣わしは、その間を通る者がもし契約を破れば、この牛のようになるという意味がありました。それだけ契約は履行されるものであり、真剣なものであることを示すものでした。アブラハムの場合は、彼はその間を通らず、神が一方的にそこを通られたので、神のみがその契約に縛られる無条件の約束となっています。

 これをゼデキヤはユダヤ人に行なわせたのですが、彼らは契約を破りました。そこで神は、彼ら自身をこの子牛のようにすると言われました。敵の手に渡す、とおっしゃられています。

2A 妥協しない心 35
 次、35章には、二つ目のグループの人たち、レカブ人という遊牧民が出てきます。

1B 遊牧のレカブ人 1−11
35:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。

 時代は先に戻ります。ゼデキヤの前がエホヤキン、エホヤキンの前がエホヤキンです。だいたい20年ぐらい前の話です。

35:2 「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」35:3 そこで私は、ハバツィヌヤの子エレミヤの子であるヤアザヌヤと、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、35:4 彼らを主の宮のイグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルムの子マアセヤの部屋の上にあった。35:5 私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに「酒を飲みなさい。」と言った。35:6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。35:7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。35:8 それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、35:9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。35:10 私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。35:11 しかし、バビロンの王ネブカデレザルがこの国に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデヤの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう。』と言って、エルサレムに住んだのです。」

 レカブ人と彼らが呼ばれているのは彼らに「レカブ」という先祖がいるからですが、彼らのルーツは、モーセの姑イテロです(1歴代2:55)。ミデヤン人ですが、モーセたちがシナイ山から約束の地へ荒野の旅を始めるとき、モーセは道案内してほしいとイテロの息子ホバブに頼みました(民数10:29)。それ以来、彼らはイスラエルと共に行動し、生活をともにしたのです。

 彼らはケニ人と呼ばれます。彼らはネゲブ砂漠を中心に遊牧をしていました(士師1:16)。いわゆる先祖の言い伝えを忠実に守るベドウィンとして生きてきたのです。そして列王記の時代、北イスラエルがアハブによってバアル信仰に陥っていた時代に、神がエフーを立てられ、彼が猛烈にバアルを信仰している王や祭司を殺していきました。このエフーを迎えに、ヨナダブがやってきました。そしてエフーの急進的な宗教改革に彼も加わります(2列王10:1517)。

 このヨナダブが自分の一族に、ここで話しているような言い伝えを残しました。ぶどう酒を決して飲んではならないこと。そしてどこかに定住してはならず、天幕に住まなければならないことを命じました。これが、200年以上前の話です。200年以上、レカブ人の一族は先祖ヨナダブの言い伝えを堅く守り行なっていたのです。

 エレミヤは、彼らに「ぶどう酒を飲みなさい」と言っていますが、それは彼らが堅く断わるのを良く知っていたからです。それでユダの人を教育するために、これを教材として使います。

2B 言い伝えへの従順 12−19
35:12 そこで、エレミヤに次のような主のことばがあった。35:13 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。・・主の御告げ。・・35:14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。35:15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送って、さあ、おのおの悪の道から立ち返り、行ないを改めよ。ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない。わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住めと言ったのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。35:16 レカブの子ヨナダブの子たちは、先祖が命じた命令を守ってきたのに、この民はわたしに聞かなかった。』35:17 それゆえ、イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らが聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らが答えなかったからだ。』」

 ここでエレミヤが行なっているのは対比です。レカブ人が守っているのは先祖の命令です。対してユダの民が守らなければいけなかったのは、主ご自身の命令です。先祖という人間と主の命令では、もちろん主の命令のほうがはるかに重要です。

 そしてレカブ人は、ただ一度、ヨナダブが命令したことをとことんまで守り通しました。対してユダの民は、主が何度も同じことを命じられているのに、ずっと聞いていません。一度語ったことをきちんと聞いて、守っているのに対して、何度も語っているのに聞き従っていない、という違いです。

 レカブ人のように長いこと、忠実に守ることは私たちにはないかもしれませんが、けれども、人の言い伝えやしきたりには、私たちは比較的容易に聞き従うことができます。私たちの父が亡くなったとき、妻の弟は、葬儀に数珠を持たないと良い気持ちがしないというようなことを言っていました。その意味を私は尋ねましたが、知りませんでした。そして葬儀は、しきたりからしきたりの連続です。それを一つでも守らないと、大変な事になります。私たちが初七日で、焼香をするために出て行かなかった時、隣に座っていた親族の方はものすごく怪訝な顔をされていました。

 けれどもこの人々に、「お坊さんが唱えている、お経の内容は分かっているのですか。」「私たちの父とどのような別れをしなければいけないと、僧侶の方はおっしゃったか覚えていますか。」と聞くならば、おそらく参加した全員が知らないと言うでしょう。私たち夫婦は、お坊さんが語っていることに必死に耳を傾けました。基本的に、「これは永遠の別れである。別れができない気持ちも思い煩いの一つであり、これを断ち切らなければいけない。」という内容であったかと思います。これこそ肝心要の事柄なのに、誰一人として理解せず、必死にその細かいしきたりだけを守っているのです。

 このように人の言い伝えは守ることはできても、神がお語りになっていることは聞けないというのが、私たち人間です。イエス様が地上におられた時代には、パリサイ人や律法学者が、人のしきたりを守ることによって、かえって神の戒めをないがしろにするという過ちを犯しました。

 なぜ私たちは、神の戒めを守ることができないのでしょうか?理由は、「行ないを改めよ」とエレミヤがここで言っているとおり、私たちのあり方を根本的に変えることを御言葉は迫るからです。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3:16」教えだけでなく、戒め、矯正、そして義の訓練です。自分を変えなければいけません。

 そして、イエス様は弟子たちに、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63」と言われました。人が語ることは、せいぜい私たちの外側の行動の規定です。けれども神が語られることは、霊に関することです。私たちの根幹である霊を揺さぶります。そして命に関することです。自分のあり方を捨てて、まったく新しく生きることを迫ります。

 だから私たちは、例えば「教祖様のだれだれ先生の本を10冊読めば、会員になれます。」と言われれば、読むことができるのですが、例えば「キリストがあなたを愛されたように、あなたも兄弟を愛しなさい。」と命じられてもできないのです。主の命令はあまりにも極端なのです。自分の霊が砕かれて、自分の罪深さを嘆き、主の憐れみにすがることによってのみしか、守ることのできない命令なのです。

35:18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』35:19 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」

 この約束の通り、レカブ人はバビロン捕囚後、ネヘミヤの時代にエルサレムの城壁を再建する時、彼らが工事に加わっている姿をネヘミヤ記で見ることができます(3:14)。

 主が尊ばれたのは、彼らの忠誠心です。どうでしょうか、私たちキリスト者がレカブ人のようにキリストの命令に誠実を尽くしているでしょうか?キリストが命じられた言葉を真剣に受け入れずに、「ああ、これは以前にも聞いたことがある言葉だ」と、慣れっこになってはいないでしょうか?これが、神がユダの人々に警告されたことなのです。たびたび語っても、彼らは聞かなかったのです。

 私たちには、御言葉に対する極端さが必要です。とことんまで信じるという極端さが必要です。そのまま、まじめに信じて、受け入れてはじめて、私たちは地の塩、世の光としての神の使命を果たすことができます。

3A 御言葉の否定 36
 そして36章は、御言葉に対する三つ目のグループで、エホヤキムとその取り巻きです。

1B 預言の書記 1−8
36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなみことばがあった。

 再びエホヤキムの時代です。そして第四年目の話です。これまでも何回か、第四年に行なわれた預言が記されていましたが、ネブカデネザルがバビロンの王となったその元年でもあります(25:1)。そして同じ年に、カルケミシュでエジプトがバビロンに敗れました(46:2)。

 つまり、バビロンがネブカデネザルによって強くなり、エジプトよりも優勢になり、イスラエルとその周囲の全領域に勢力を伸ばす大事な年になったということです。この時に主はエレミヤを通して、ユダにさらなる警告を行なわれました。

36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。

 私たちはずっとエレミヤ記を読んできましたが、こういう形で文書化されたのはここが初めてです。この時まではエレミヤは口で預言を行なっていて、文書には残していませんでした。

 そして残された巻き物が、神からのものとしてユダヤ人の間で正典となりました。第一次捕囚の民としてバビロンにいたダニエルは、既にエレミヤ書を入手していました。これを読んで、エルサレムの荒廃が終わるのが70年であることを知りました。もう間もなくエルサレムに帰還できることを知ったダニエルは、イスラエルが行なった罪の告白をして、その間にガブリエルがやってきて、七十週の預言を行なったのです(ダニエル9章参照)。

 ここから、書き記された聖書の言葉が、神からのもの、神の霊感を受けたものであるという大切な真理を学ぶことができます。ダビデも、「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。(2サムエル23:2」と言って、預言を行ないました。人の言葉ではなく、神の御霊による言葉です。

 パウロはテモテに対して、「聖書はすべて、神の霊感によるもの(2テモテ3:16」と言いました。神の霊感であるからと言って、それを語っている人間の個性が無くなる、ということではありません。聖書を読めば分かるとおり、例えばペテロが書いた手紙とパウロが書いた手紙、そしてヨハネが書いたものとでは文体が全然違います。それぞれの個性は表れているのです。けれども、最終的に書かれたものは神の霊感によるものであり、そこには誤りがありません。

 そしてペテロも聖書の霊感説についてこう話しています。「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21」人間の意志ではなく、聖霊に動かされたのです。

36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、主の宮に行けない。36:6 だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。36:7 そうすれば、彼らは主の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。主がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」36:8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、主の宮で主のことばの巻き物を読んだ。

 書き記した預言は、まず、すべての民に聞かせました。ちょうど断食をして、主の宮に人々が集まる時に、全ての人に聞こえるように語りました。

 その内容は、「主が彼らを赦したい」というものです。エレミヤ書を読めば、そこには主の怒りと憤りの宣告に満ちています。次の大預言書、エゼキエル書も同じです。けれどもエゼキエル書にも書いてありますが、主は悪者が滅びることを喜ばない、かえって、彼が立ち返って、生きることを願う、ということが書かれています(18章参照)。ですから、たとえ神の怒りと憤りの宣告をしても、彼らが悔い改めたら、それをただちにお止めになるのです。

2B 御言葉を恐れる首長たち 9−20
 そしてこの言葉を、今度はユダの首長たちが聞くことになります。

36:9 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第五年、第九の月、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、主の前での断食が布告された。

 主がエレミヤに預言を書き記すことを命じられたのはエホヤキムの第四年で、今は第五年です。すべてを書き留めるのに、かなりの時間がかかりました。

36:10 そのとき、バルクは、主の宮の、書記シャファンの子ゲマルヤの部屋で、・・その部屋は主の宮の新しい門の入口にある上の庭にあった。・・すべての民に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ。36:11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての主のことばを聞き、36:12 王宮の、書記の部屋に下ったが、ちょうど、そこには、すべての首長たちがすわっていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナヌヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。36:13 ミカヤは、バルクがあの巻き物を民に読んで聞かせたときに聞いたすべてのことばを彼らに告げた。

 ゲマルヤという人が、バラクに自分の部屋を貸します。そしてゲマルヤの息子ミカヤが、この言葉を聞いて、その重大性を悟り、首長たちにそれを告げます。この家族はエレミヤの言葉を深刻に受け止めていました。

 ゲマルヤの父がシャファンです。彼が、エホヤキムの父であるヨシヤの前で、主の宮で見つかった律法を読み上げた人であることを思い出してください。列王記第二にこう書いてあります。「ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。『祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。』そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。(22:10-11」律法の言葉を真面目に受け止めたヨシヤは、これをもって宗教改革をユダの国に断行しました。

36:14 すべての首長たちは、バルクのもとにクシの子シェレムヤの子ネタヌヤの子エフディを遣わして言わせた。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻き物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻き物を手に持って彼らのところにはいって来た。36:15 彼らはバルクに言った。「さあ、すわって、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。36:16 彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない。」

 とても良い反応をしています、御言葉に対して恐れを抱きました。私たちが聖書の言葉を読むときに、これを自分に対する言葉であると受け止めて、恐れを抱くでしょうか?イザヤ書にはこう書いてあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2」私たちが恐れを抱く時、その時に主は私たちを顧みてくださるのです。

 ハガイ書でも、ユダの民が御言葉に恐れています。「そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。(ハガイ1:12」恐れを抱いて、その言われるとおりを行なう時に、主は私たちに大きな憐れみと、慰めを与えてくださいます。

 そして首長たちは、これは国に関する一大事であるから王に報告しなければいけないと思いました。

36:17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」36:18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」36:19 すると、首長たちはバルクに言った。「行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるか知られないように。」36:20 彼らは巻き物を書記エリシャマの部屋に置き、庭の王のところに行ってこのすべての事を王に報告した。

 首長たちにとって、エレミヤとバルクが、この預言のゆえに危害が加えられることは目に見えていました。それで隠れることを強く勧めています。

3B 襲いかかる災い 21−32
1C 御言葉への嫌悪 21−26
36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。

 第九の月は11月の終わりから12月です。

36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。36:25 エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れなかった。

 これが、御言葉に対する応答として、三つ目のグループの人の態度です。一つ目は、心の定まらない人々でしたね。二つ目は、レカブ人に代表される、命令にとことんまで従う姿勢です。そして三つ目は、御言葉を嫌悪し、憎み、あまりにも憎んでいるので、それを文字通り焼いてしまう態度です。エホヤキムは、父ヨシヤとは対照的に、衣を裂かず、かえって巻き物を切り裂いてしまいました。

 これが実際に、歴史の中で、また現代においても行なわれています。聖書の焚書です。焼きつくすまではしないかもしれないけれども、信者に迫害を加えている家族では、家から投げ出してしまう、捨ててしまうことはたくさん起こっています。家族は、聖書が書棚においてあるのを見るだけでも虫唾が走り、それを取り除けと信者に迫るわけです。

 そして、キリスト教の世界の中でもこのことが起こっています。聖書の言葉は神からのものではなく、人による記録だとする考えです。一部は神からのものかもしれないが、他の部分は人間の言葉である、と言って、権威を神ではなく自分自身にしているのです。

 なぜ、このようなことを行なうのでしょうか?自分の行ないが悪いからです。そして単に悪いだけでなく、自分は正しいとしたいからです。思っているからです。悪いと分かっていても行なっていたゼデキヤとは別に、エホヤキムは自分の悪は当然行なってもよい、と決め込んでいました。

 ある有名はキリスト教指導者の息子が、自分の半生についての自伝を出したことをあるブログで読みました。内容は自分がいかに堕落したかを赤裸々に描いているそうですが、それを間違っているとするのではなく、かえって父の聖書信仰に対する姿勢を批判的に、懐疑的に描いているそうです。このように、聖書懐疑主義の背後には、自分の行ないが間違っていることがあります。けれどもそれを正当化するために、聖書の言葉が間違っているとするのです。

36:26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕えるよう命じたが、主はふたりを隠された。

 すばらしいですね、主が彼らを隠されました。ここで見ることができるのは、主に用いられている時は、主が守ってくださる、ということです。黙示録11章にも、エルサレムで火を噴いて預言している二人の証人がいます。1430日、三年半の間、預言しました。彼らを人々が憎み、そして獣が底知れぬ所から出てきて二人を殺します。そして三日半の後に彼らはよみがえり、天に引き上げられます。

 主が私たちを用いられる時、主が必ず守ってくださいます。そして時が来れば、彼らのように死ぬこともあるでしょう。けれどもそれは使命を全うした後のことです。

2C 破壊できない御言葉 27−32
36:27 王が、あの巻き物、バルクがエレミヤの口述で書きしるしたことばを焼いて後、エレミヤに次のような主のことばがあった。36:28 「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

 御言葉は決して破壊されません。ある国が聖書を禁止しても、どんどん聖書がまず、物理的に聖書が無くなることはありませんでした。このことについて有名な逸話があります、フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人がこれを50年間で破壊できることを示そう。」と言いました。けれども彼が死んで20年経ってから、ヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が購入し、そこで聖書を印刷し始めたそうです。

 そして聖書の信憑性も決して無くなることはありません。ある記述を歴史的に間違っているとする聖書批評家の意見は、考古学の発達や発見とともにいかに誤りであるかを物語っています。例えば、イエス・キリストに十字架刑を処した総督ポンテオ・ピラトは、長い間、存在しない人物だとされていました。ところが、地中海沿いにある、かつてのユダヤ属州の首都カイザリヤで、彼の名前が刻まれている石版が発見されたのです。

 私たちが聖書について、神について懐疑的になったとしたら、どうか次の聖書の言葉を思い出してください。ローマ書33節です。「彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」不真実なのは私たちのほうであって、神ではないのです。誤っているのは自分で、神は誤っていません。

36:29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。主はこう仰せられる。あなたはこの巻き物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの国を滅ぼし、ここから人間も家畜も絶やすと書いたのか。』と。

 具体的には、エホヤキムはバビロンがユダを滅ぼすという預言が気に入りませんでした。この時にすでにネブカデネザルが王になっており、そしてカルケミシュでエジプトがバビロンに敗れます。主が前から語られていたことはその通りになり、そして実際にその産みの苦しみが始まってから、主はさらにその危機について、強くお語りになっているのです。

 主は今、このことを行なっておられます。イエス様が紀元30年頃に弟子たちにお語りになった、世の終わりについての徴が、いろいろな所で起こっています。戦争とその噂、民族や国家間の対立、地震、飢饉、疫病などです。そしてユダヤにいる人が荒らす憎むべき者について注意するように喚起されました。これらも、イスラエルの建国、世界のグローバル化、世界平和をもたらす使者のような指導者の登場など、いろいろな形で、もう既にその徴候を見ることができるのです。

 だから、神の預言についてますます耳を傾けなければならないのに、むしろ聖書預言を忌み嫌い、だから偏狭なのだと責める声が世界で、そしてキリスト教の中でさえ起こっています。

 主がお語りになったことをそのまま受け入れて、実際に、その通りになっていることを見ることによって御霊によって奮い立ち、ますます主への奉仕に励むのが主のみこころです。これを、自分の考えや意見によって間違っているとすることは、このエホヤキムが犯した過ちと同じなのです。

36:30 それゆえ、主はユダの王エホヤキムについてこう仰せられる。彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。

 34章で見たゼデキヤに対する神の約束と対照的です。ゼデキヤはバビロンの地で王として葬られ、悼まれますが、彼のしかばねはただ捨てられるだけです。

36:31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に、彼らが聞かなかったが、わたしが彼らに告げたあのすべてのわざわいをもたらす。」

 彼の息子エコヌヤは、王となってたった三ヶ月後に、バビロンに捕え移されました。

36:32 エレミヤは、もう一つの巻き物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしるした。さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた。

 この時点までの預言だけでなく、それ以後の預言も書き加えました。そのため、私たちはエコヌヤのことも、またゼデキヤのこと、そして捕囚後の記録もエレミヤ書の中で読むことができます。

 私たちは今、神の御言葉についてどのグループに属しているか考えてみましょう。何となく従わなければと思っているが、基本的に自分の生活を変えるつもりはないと考えていますか?それとも、とことんまで神の御言葉に従ってみたいと思っていますか。あるいは、まともに御言葉は信じるのはよそう、これを拒否しようと考えていますか?この終わりの時に生きている私たちは、この三つの選択が与えられています。


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