エレミヤ書44−46章 「世に戻っても」

アウトライン

1A 退けられない神 44
   1B 終わっていない裁き 1−14
   2B 歪められた救済観 15−19
   3B 成就する御言葉 20−30
2A 命の救い 45
3A 世への裁き 46
   1B 砕かれる軍隊 1−12
   2B か弱い国 13−26
   3B 裁きの中の帰還 27−28

本文

 エレミヤ書44章を開いてください。今日は46章まで学びたいと思います。メッセージ題は「世に戻っても」です。

1A 退けられない神 44
 44章は、エレミヤの働きの最後の部分になります。私たちは前回、バビロンによって滅ぼされたユダに、わずかに残されたユダヤ人がエジプトに下ったところを読みました。おそらく彼らが定住して、数年経った後にエレミヤが預言したものだと思われます。

 エルサレムでバビロンに投降し捕らえ移された、離散のユダヤ人がいる一方で、このエジプトに下った離散のユダヤ人もいるわけです。バビロンに捕らえ移された人々に対しては、主は災いではなく幸いの計画を約束されました。けれどもエジプトに下った人々には、その逆です。

 それは、彼らがバビロンに服するという神の御心を損なったことがありますが、それだけではなく、偶像礼拝に専念し、完全に主の御名を捨ててしまったこともあります。44章は、この悲しいユダヤ人の結末を読むことになります。

1B 終わっていない裁き 1−14
44:1 エジプトの国に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパヌヘス、ノフ、およびパテロス地方に住む者たちについて、エレミヤにあったみことばは、次のとおりである。

 タフパヌヘスは、前回の学びで出てきましたが、今のスエズあたりにある、エジプトの入り口にある要塞の町です。ミグドルはその東に隣接する、エジプト国境の町です。ノフはメンフィスとも呼ばれ、ナイル川沿いの町ですが、この三つは下エジプトと呼ばれてエジプトの北部地域です。そしてパテロス地方は、ナイル川のはるか上流にある地域で、上エジプトと呼ばれます。

 ですから、エジプトの北部から南部までユダヤ人がその全域に住んでいたことが、ここから分かります。

44:2 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下したあのすべてのわざわいを見た。見よ。それらはきょう、廃墟となって、そこに住む者もない。44:3 それは、彼らが悪を行なってわたしの怒りを引き起こし、彼ら自身も、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ。44:4 それでわたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送り、どうか、わたしの憎むこの忌みきらうべきことを行なわないように、と言ったのに、44:5 彼らは聞かず、耳も傾けず、ほかの神々に香をたいて、その悪から立ち返らなかった。44:6 それで、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムのちまたに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となり荒れ果ててしまった。』

 エレミヤが歴史からの教訓を学びなさい、と言っています。一つは、「なぜ、エルサレムが滅んだのか」という問いです。その理由、解釈は人間的にはいろいろあるかもしれませんが、神の目からは、「神々に仕えたからだ」というものです。

 もう一つの教訓は、「預言者の言うことを聞きなさい」ということです。主は、私たちが道をそれて歩んでいる時に、必ず、ご自分に立ち返るように警告をしてくださいます。主が私たちをご自分のところにいるように、たくさん語ってくださいます。けれどもユダの民はそれを無視してしまいました。

44:7 それで今、イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招こうとしているのか。なぜユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断ち、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたの手のわざによってわたしの怒りを引き起こし、寄留しに来たエジプトの国でも、ほかの神々に香をたき、あなたがた自身を断ち滅ぼし、地のすべての国の中で、ののしりとなり、そしりとなろうとするのか。

 ユダヤ人たちは、自分自身で自分自身を滅ぼすようなことをしています。私たちが罪を犯すときに、もちろんその罪は神の心を傷つけますが、それは神が私たちのことを思って傷を受けておられます。私たちが罪を犯すときは、それが私たち自身を傷つけるのです。私たちが自分たちに与えられた幸福から自ら引き離し、滅びへと向かわせているのです。神は私たちに最善のものを願っておられます。

44:9 あなたがたは、ユダの国とエルサレムのちまたで行なったあなたがたの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、あなたがたの悪、妻たちの悪を忘れたのか。44:10 彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と定めに歩まなかった。』

 心を砕くこと、これが大事です。ダビデが、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17」と言いました。

44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしは、わたしの顔をあなたがたからそむけて、わざわいを下し、ユダのすべての民を断ち滅ぼそう。44:12 わたしは、寄留しにエジプトの国へ行こうと決心したユダの残りの者を取り除く。彼らはみな、エジプトの国で、剣とききんに倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣とききんで死に、のろい、恐怖、ののしり、そしりとなる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したと同じように、エジプトの国に住んでいる者たちを、剣とききんと疫病で罰する。44:14 エジプトの国に来てそこに寄留しているユダの残りの者のうち、のがれて生き残る者、帰って行って住みたいと願っているユダの地へ帰れる者はいない。ただのがれる者だけが帰れよう。』」

 エジプトに下った人は「寄留しよう」と考えていました。つまり、いつかバビロンが倒されるか、何かが起こった時にユダの地に帰ろうと思っていました。エジプトはあくまで寄留地、一時滞在の地であると考えていました。

 けれども、エレミヤは「帰れる者はいない」と言います。わずかに残った避難民だけが帰りますが、ほぼ全員、エジプトの中で、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験すると預言しています。前回もお話しましたが、「自分の命を救おうとするものはそれを失い、主のために失うものは救う」のです。

2B 歪められた救済観 15−19
44:15 すると、自分たちの妻がほかの神々に香をたいていることを知っているすべての男たちと、大集団をなしてそばに立っているすべての女たち、すなわち、エジプトの国とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えて言った。44:16 「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行なって、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行なっていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。44:18 私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた。」44:19 「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか。」

 すごいことを彼らは言いました。「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」です。臆面もなく、はっきりと自分たちが主に従わないことを発言しています。これは、はっきりとした信仰を捨てたことの意思です。

 前回の学びを覚えていますか、彼らはエジプトに下ろうとしていた時に、エレミヤに主の御心を求めました。エジプトに下るなという神の言葉を彼らが聞いた時に、彼らは激しく反発しましたが、それでも、表向きでも主の御名を呼び求めることはしたのです。彼らは初めからエジプトに下ることを決心していましたが、ヤハウェなる神が自分たちの神であることを認めていました。

 ここでは、完全なヤハウェ信仰の遺棄です。彼らに何が起こったのでしょうか?一言でいえば「開き直り」でしょう。罪を犯していて引け目は感じていたところが、もう罪に慣れ親しんで、自分は悔い改めることもしないだろうと考え、「私にはヤハウェは要りません」と開き直ったのです。

 明確に自分の信仰を捨てる人を、私はこれまで見聞きしてきました。「教会に失望した」「聖書にはいろいろな矛盾がある」などいろいろな理由を挙げますが、根本的には「自分の行っている悪があるから」なのです。主はこのように言われます。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19-20」悪いことをするから光のほうに来ません。

 そして、ここに出てくる彼らの拝んでいた偶像の名前が「天の女王」です。すでにエレミヤ書7章13節にも出てきましたが、これは古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていたものでした。愛と性、豊穣を表した神です。バビロンでは「イシュタル」です。エジプトでは「イシス」と呼ばれました。ギリシヤ世界にも「アフロディテ(Aphrodite)」という女神がいますね。そしてローマではあの有名な「ビーナス」です。そしてカナン人は「アシュタロテ」を拝み、また「アシェラ」を木立で拝んでいました。おそらくエジプトにいるユダヤ人は「アシュタロテ」あるいは「アシェラ」を持ち込んで、拝んでいたと思われます。

 不思議なことに世界にある宗教に、天の女王が出てきます。日本では男性であるはずのブッタは、「観音」として女性化しています。日本を象徴する神は誰でしょうか?天照大神ですね。女の神です。(神々を産んだイザナミも女です。)そしてキリスト教において、ローマ・カトリックがマリヤを伝統的に「天の女王(Queen of Heaven)」と呼んでいます。主なる神が英語ならばHeという、男性の代名詞が使われているのに対して、女の神が拝まれるのです。

 理由は、「自分の欲望を満たせるから」です。愛と性の神には、聖さがありません。むしろ情欲を満たすところに礼拝がある、と説きます。だからこれらの神々は常にみだらな行為が伴ったのです。

 そして、この崇拝に女性たちが積極的に関わっていたことにも注目してください。夫が妻が天の女王崇拝を許可したことが書かれていますが、妻が熱心に行っているのを見て、夫はそれを見届けていたのです。これは現代でも起こっている現象ですね。教会に熱心に通うのは妻で、気の利いた夫は教会まで妻を車で連れて行ってあげることもあります。

 もちろん教会であれば、まことの神、キリストをに仕えているのですが、夫たちが妻の必要を完全に満たせない状態のところで、妻はその心の不安を宗教や神々に求めるのです。男は自分に不足があるのを知っています。それで彼女が熱心になるのを許しているのです。エジプトにおいては、寄留の生活における不安があります。それでかつてエルサレムで行っていて天の女王崇拝をエジプトにおいても行っていたのです。

 さらに、彼らの発言の中で注目すべきは、「災いは、天の女王にいけにえをささげるのを止めた時から起こった」とするものです。これはおそらくヨシヤの宗教改革のことを指しているのでしょう。ヨシヤがアシェラの像や祭壇をことごとく破壊しました。ヒゼキヤの子マナセが導入していたのものです。ヨシヤの死後、再びこれらの行ないを始め、それが原因でエルサレム破壊を招きました。けれども彼らは、ヨシヤが破壊したから、これらの災いが来たと言い張っています。

 罪を犯し、その中にずっと浸っている人は、自分の過去の記憶さえ歪めます。今、自分に降りかかっている災難は、自分の罪によるものではなく、自分が神やキリストに関わったから起こったことだと言い張るのです。エジプトから出てきたイスラエル人のことを思い出してください、エジプトの食生活がいかに豊かであったかを懐かしがっていますが、自分たちがエジプト人によってどんな酷い仕打ちを受けていたかはすっかり忘れているのです。

 自分が自分にやり方を捨てない決心をすると、それは神そのものを捨てる道へと進み、それから神のために今、自分はやっかいな境遇に置かれているのだ、という思いになります。

3B 成就する御言葉 20−30
44:20 そこでエレミヤは、男女のすべての民と、彼に口答えしたすべての民に語って言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムのちまたで、あなたがたや、あなたがたの先祖や、王たちや、首長たち、それに一般の人々がいけにえをささげたことを主は覚え、心に思い浮かべられたのではないか。44:22 主は、あなたがたの悪い行ない、あなたがたが行なったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった。44:23 あなたがたがいけにえをささげ、主に罪を犯して、主の御声に聞き従わず、主の律法と定めとあかしに歩まなかったために、あなたがたに、このわざわいが今日のように来たのだ。」

 主に、ヤハウェの神にいけにえを捧げていた時のことを思い出させています。主に仕えていたときに彼らが幸せであったことを思い出させています。

44:24 ついで、エレミヤは、すべての民、すべての女に言った。「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。44:25 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束したことをその手で果たせ。あなたがたは、私たちは天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かに果たし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』

 これはもちろん命令ではなく、主が「そんなに行いたいなら、その通りにしなさい」と突っぱねておられるのです。主は、私たちに対してご自分のもとに帰ってくるように強く促されますが、もし私たちがそれをはっきりと断るなら、ある時点でこのように明け渡されます。そして私たちが、自分たちの行ないの結果を自分たちで刈り取るままにさせるのです。

44:26 それゆえ、エジプトの国に住むすべてのユダの人々。主のことばを聞け。『見よ。わたしはわたしの偉大な名によって誓う。・・主は仰せられる。・・エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。

 ああ、悲しい出来事です。神に選ばれた、契約の民が完全に異邦人のようになってしまうという出来事です。

44:27 見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。44:28 剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。44:29 これがあなたがたへのしるしである。・・主の御告げ。・・わたしはこの所であなたがたを罰する。それは、あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばは必ず成就することをあなたがたが知るためである。』

 どちらが真実を語っているか、実際に成就することによって知るのだ、ということです。ユダヤ人が主なる神を否定しても、それで主がいなくなるのではなく、確かに主がおられることを、彼らに対する裁きによって示されます。

 パウロが、ローマ人への手紙で、ユダヤ人について論じている時にこう言いました。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。(ローマ3:3-4

 今のユダヤ人の多くが世俗的で、神の存在をも信じていない人が多い中で、ならばこの神はおられないのか?という疑問に対する回答がこれです。主は確かに裁きによって、ご自分が生きていることを明らかにされました。ユダヤ人が通った数多くの苦難、迫害、虐殺の歴史は、古くはモーセから、そしてエレミヤなどの歴代の預言者たちが語った通りでした。

 ですから私たちは、「世に戻っても、それで神を打ち消すことはできない」ということを覚えておかなければいけません。信仰を否定しても、神は現に存在するのです。

44:30 主はこう仰せられる。『見よ。わたしは、ユダの王ゼデキヤを、そのいのちをねらっていた彼の敵、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡したように、エジプトの王パロ・ホフラをその敵の手、そのいのちをねらう者たちの手に渡す。』」

 どのようにユダヤ人の人たちが裁かれるかと言いますと、彼らが住んでいるエジプトがバビロンの手に渡されるからです。なぜエジプトがバビロンに渡されるかと言いますと、当時のパロがバビロンに反逆したからです。

 ここの「ホフラ」というパロが出てきています。彼が、ゼデキヤがバビロンにはむかうために応援した人物です。ホフラがエジプトから出てきて、それでバビロンがエルサレム包囲を一時解除しました。そして紀元前567年ごろ、彼は将軍アマシスによって殺されます。アマシスが次のパロになります。

2A 命の救い 4
 これがエレミヤの預言は最後になります。もちろんこの後も続きますが、時間的にはこれが最後です。46章から諸国への裁きの預言が始まりますが、その前に一人、エレミヤの預言を筆記したバルクの人生に対して、主がお語りになったことが45章にあります。

45:1 ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。

 時はエホヤキム王治世の第四年に戻ります。覚えていますか、この時に主がエレミヤに命令して、バルクにこれまでの預言を筆記させなさいと命じられました。36章に書いてあります。そして、エレミヤが身動きできない状況にあったので、バルクが神殿のところで、ユダヤ人に聞こえるようにその預言を読みました。そこで次のようなバルクの落胆した言葉があります。

45:2 「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。45:3 あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』

 バルクもエレミヤと同じく、迫害を受けていました。もうこれではだめだとあきらめかけています。この前の学びでも、エレミヤが「ユダの地にとどまれ。エジプトに下るな。」という主の御声を伝えたとき、ユダヤ人たちは聞き従わない理由として、「バルクが、あなたをそそのかした。(42:3参照)」と責めました。

45:4 あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。45:5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。・・主の御告げ。・・しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」

 「自分のための大きなこと」とは、おそらく役人になるとか、重要な地位のことを指しているのでしょう。バルクは預言のミニストリーに非常に疲れ、がっかりしていたので、世の仕事に戻りたい、迫害を免れたいと願っていたのでしょう。

 そこで主は、「これら世のものはすべてわたしがこわすのだ。」と言われます。迫害されるから、世に戻ろうとしても、その世が過ぎ去ってしまうのです。その代わりに主はバルクに、「あなたのいのちを分捕りものとしてあなたに与える」と約束してくださいました。どんなひどい迫害を受けても、必ず命は救い出されることを約束されました。

 「どんなことも、命あってこそ」としばしば私たちは言いますが、まさに主ご自身が言われた通りです。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26

 私たちが、はたしてこの滅び行く世において、自分の命を永らえさせる生活を送っているかどうか、自分を調べなければいけません。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17」御心を行っていれば、この世が滅ぶときも生きながらえるのです。

3A 世への裁き 46
 これで、エレミヤ書においてユダとエルサレムに対する預言は終わりました。次の46章から、「諸国に対する預言」になります。エレミヤは召命を受けた時、「あなたを国々への預言者として定めていた。(1:5」と主は言われていました。

 私たちはとかく、自分たち信仰者や教会に関する以外のことでは、主は積極的に働かれていないと考えてしまいます。自分の職場、学校、社会、そして国、世界において、私たちはいつの間にか、神の世界とこの世と分けて、後者には神を認めない傾向があります。

 けれども私たちは、イスラエルとユダの周りにある国々に対する神の言葉を聖書の中に見ることができます。たとえ神の選びの民でなくても、神はそれらの国々に主権を持っておられるのです。積極的に働かれているのです。

 そして初めに出てくる国は「エジプト」です。ユダはエジプトが加担したためにバビロンによって滅んでしまいましたが、そのエジプトの国に対して、神はどのような思いを抱いておられたのでしょうか?

1B 砕かれる軍隊 1−12
46:1 諸国の民について、預言者エレミヤにあった主のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王パロ・ネコの軍勢について。ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカデレザルはこれを打ち破った。

 エジプトにとって、そしてその周りの国々とって、最も大きな出来事はこのカルケミシュにおける戦いでした。エジプトは何らかの形でイスラエルとその周辺諸国に大国としての影響力を維持していました。けれどもこの戦いにおいて、世界の力はバビロンに移ったのです。

 バビロンがアッシリヤと戦って、その首都ニネベを倒して後、アッシリヤの残党はこのカルケミシュに移りました。ユーフラテスの上流にある町です。そしてバビロンがその残りを滅ぼすためにカルケミシュに行きましたが、その時、バビロンの台頭を牽制したエジプトは遠征しに来たのです。ところが、エジプトは決定的な打撃を受け敗走しました。その様子を、主は3節以降に描いておられます。

 このカルケミシュの戦いに向かおうとしていたパロ・ネコの軍勢に戦いを挑んだのが、ユダの王ヨシヤです。ネコは「お前と戦うために来たのではない」と言いましたが、ヨシヤが言うことを聞かなかったので、戦いになりました。それでヨシヤは打たれて死にました。ユダヤ人にとって霊的な支えであってヨシヤ王が死んでしまったことによって、ユダの国は滅びへの道をひたすら歩んでいったのです。

 ヨシヤが死んだ後にエホアハズが王となりましたが、三ヶ月後にパロ・ネコがエホヤキムに代えました。ところがパロ・ネコがカルケミシュの戦いでバビロンに破れてからは、バビロンに服従する者となったのです。彼はネブカデネザルが王になってから四年目に反逆しましたが、それによって彼の死を早めたことが列王記第二24章の中に書いてあります。

 そして列王記第二24章7節には、「エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王に属していた全領土を占領していたからである。」とあります。バビロンの支配が深く、そして広く及んでいったのです。

46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵よ。馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて部署につけ。槍をみがき、よろいを着よ。46:5 何ということか、この有様。彼らはおののき、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去った。恐れが回りにある。・・主の御告げ。・・46:6 足の速い者も逃げることができない。勇士たちものがれることができない。北のほう、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れた。

 威勢よくエジプト軍がバビロンに対して戦ったにも関わらず、決定的な打撃を受けて敗走している場面です。

46:7 ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返すこの者はだれか。46:8 エジプトだ。・・ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返す。彼は言った。『わき上がって地をおおい、町も住民も滅ぼしてしまおう。』

 勢いよく押し寄せては、同じ勢いをもって引いていくエジプト軍の様子を、主はナイル川に例えておられます。ナイル川はよく氾濫しましたが、そのように威勢ばかりで何の力もないのがエジプトでした。

46:9 馬よ、上れ。戦車よ、走れ。勇士たちよ、出陣だ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引き張るルデ人よ。

 クシュはエチオピヤのことです。当時のエチオピヤは今のスーダンも含んでいます。そして「プテ」はリビアです。ルデはあまり分かりません。エジプトは、外国人の傭兵を雇っていました。

46:10 その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。

 「復讐」とありますが、何に対する復讐かと言いますと、ヨシヤ王でしょう。パロ・ネコがヨシヤを打ち殺しました。歴代誌第二35章を読みますと、ヨシヤがネコと戦ったのは神の御心ではなかったことが書かれています。正義感を持っていたヨシヤは、勢い余って思慮深さを失った様子が描かれていますが、けれども力に任せてヨシヤを殺したことに対しては、エジプトは裁きを受けます。

 ここの「いけにえ」は、エジプト軍が倒されて、死体が転がっている様子を描いています。

 これから諸国の民に対する預言を読んでいきますが、どの国々に対しても共通する点は三つあります。一つは、「自分の財産や軍事力など、物理的な、物質的な力により頼んでいること」。二つ目は、「天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいること」。そして三つ目が、「イスラエルやユダに対して、何を行ったか」です。ユダがたとえ誤った行動を取っている時でさえ、神の民に対して行ったことは神の前で覚えられているのです。神は、諸国の民の悪をもってユダの罪を裁かれますが、その悪は怠りなく裁かれるのです。

 現在、反ユダヤ主義がこれまで以上に勢いを増していますが、反ユダヤ主義者の主張の根拠に、いかにユダヤ人が悪を行っているかというものがあります。それら「悪」と呼ばれているものの信憑性はかなり低いのですが、仮にそうだとしてもユダヤ人に対する悪を正当化することは決してできないのです。ゼカリヤ書2章8-9節にこう書いてあります。「主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。

46:11 おとめエジプトの娘よ。ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を使ってもむなしい。あなたはいやされない。

 ギルアデは、ヨルダン川東岸の、ヨルダン川沿いの地域です。そこに医療に使われる乳香があります。それをもっても癒されない、ということです。

46:12 国々は、あなたの恥を聞いた。あなたの哀れな叫び声は地に満ちた。勇士は勇士につまずき、共に倒れたからだ。」

 エジプトが強大な国であることを誇っていた、エジプトに拠り頼んでいた国々は恥を見ます。

2B か弱い国 13−26
46:13 バビロンの王ネブカデレザルが来て、エジプトの国を打つことについて、主が預言者エレミヤに語られたみことば。

 エジプトがカルケミシュでバビロンに敗れました。けれども、エジプトの国自体をバビロンが攻めにくるのはもっと後です。先ほど呼んだ、ホフラがパロであったとき紀元前567年のことです。

46:14 エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、ノフとタフパヌヘスで聞かせて言え。「立ち上がって備えをせよ。剣があなたの回りを食い尽くしたからだ。

 先ほど見ましたが、ミグドル、ノフ、タフパヌヘスは下エジプト、エジプト北部の町々です。バビロンが北のほうから侵入しています。

46:15 なぜ、あなたの雄牛は押し流されたのか。立たなかったのか。主が彼を追い払われたからだ。

 「雄牛」とありますが「勇士」とも訳すことのできる言葉です。もし「雄牛」であったら、エジプトが拝んでいた雄牛の神だと考えられます。

 そして誰が勇士を追い払いましたか?「」ですね。私たちは歴史の中で、また現在起こっていることについて、「なぜあの戦いでは、この国が勝ったのだろうか。」あるいは「負けたのだろうか」と考えます。それは主が介入されているからです。すべてのことは主がなされたことだ、という認識が私たちを真に謙虚にさせます。

46:16 多くの者がつまずき、倒れた。彼らは互いに言った。『さあ、私たちの民のところ、生まれ故郷に帰ろう。あのしいたげる者の剣を避けて。』

 これは先ほどの外国人の傭兵のことです。これでは絶対に負けるから、生まれ故郷に帰ろうと言っています。

46:17 彼らは、そこで叫んだ。エジプトの王パロは、時期を逸して騒ぐ者。

 傭兵たちは、パロが情勢を何も分かっておらず、威勢よく勝利を宣言しているのを見て嘆いています。空威張りをしている中で、エジプトがその核心から崩壊しているのに気づいていません。

 私は最近、1967年に勃発した六日戦争についての本を読みましたが、近代のアラブ諸国、特にエジプトの国は昔も今も変わっていないという感を深めました。当時はナセル大統領です。彼は王政だったエジプトの国に革命を起こし、カリスマ的な指導者になりました。そして「汎アラブ主義」という、アラブ諸国は一つであるという考えを掲げて、アラブ人たちの夢を作り出しました。

 そこで最も煙たいのがイスラエルです。イスラエルに対しては、1948年の独立戦争のときに屈辱的な敗北を周囲のアラブ諸国は味わっています。それでナセルは、「シオニストの国を地図からなくし、ユダヤ人を地中海に放り投げこんでやる」という、非常に好戦的な言説を繰り返しました。

 結果は、イスラエル空軍による先制攻撃でエジプトの制空権を圧倒的に支配し、シナイ半島にいたエジプト陸軍は壊滅的な打撃を受けました。負けていると分かっている時でさえ、ラジオ放送では圧倒的な勝利を流していたのです。脱走兵は、徒歩で砂漠を歩き、ユダヤ人が地中海を泳いだのではなく、彼らがスエズ運河を泳いで渡っていきました。

 経済はめちゃくちゃ、そして強力な軍備を持ち合わせていたものの戦争の準備をしていなかったエジプトは、昔となんら変わらなかったと言えます。エジプトに限らず、私たちは個人的にも「役に立たない自尊心」があります。どうしようもなくなる前に、なるべく早く捨てるべきです。

46:18 わたしは生きている。・・その名を万軍の主という王の御告げ。・・彼は山々の中のタボルのように、海のほとりのカルメルのように、必ず来る。

 タボル山は、東西に広がるイズレエル平原の東に位置する山です。デボラとバラクがカナン人に対して戦ったとき集結した山ですね。そしてカルメルは地中海に面する、イズレエル平原の西側に位置します。バビロンが北からエジプトに押し寄せる姿を、このイズレエル一体を埋め尽くす様子として描いておられます。

46:19 エジプトに住む娘よ。捕虜になる身支度をせよ。ノフは荒れ果て、廃墟となって住む人もなくなるからだ。46:20 エジプトはかわいい雌の子牛。北からあぶが襲って来る。46:21 その中にいた傭兵も、肥えた子牛のようだった。彼らもまた、背を向けて共に逃げ、立ち止まろうともしなかった。彼らの滅びの日、刑罰の時が、彼らの上に来たからだ。

 エジプトがいかに弱まっているか、いろいろな比喩が使われていますが、「かわいい雌の子牛」です。この子牛にあぶが襲ってきて、刺していきます。そして傭兵を「肥えた子牛」と言っています。

46:22 彼女の声は蛇のように消え去る。彼らは軍勢を率いて来る。きこりのように、斧を持ってはいって来る。46:23 彼らはその森を切り倒す。・・主の御告げ。・・それは測り知られず、いなごより多くて数えることができないからだ。46:24 娘エジプトは、はずかしめられ、北の民の手に渡された。」

  蛇の声は高らかに聞こえますか?シュルシュルと聞こえはしますが、非常に小さく、その音はすぐ消え去ってしまいます。エジプトの声も同じです。

46:25 イスラエルの神、万軍の主は、仰せられる。「見よ。わたしは、ノのアモンと、パロとエジプト、その神々と王たち、パロと彼に拠り頼む者たちとを罰する。

 アモンは、ノ(メンフィス)にある神です。イスラエルの神が、これらの神々を罰します。

 私たちは多元主義の中に生きていますから、日本は神道の神々と仏教があり、西欧はキリスト教だと分けます。けれども、私たちがこれらの神々を拝んでいることにおいて、必ずまことの神、キリストの神から裁かれることを知らなければいけません。ここから救われる日本の同胞の民がたくさん起こされることを私たちは願わずにいられません。

46:26 わたしは彼らを、そのいのちをねらっている者たちの手、すなわちバビロンの王ネブカデレザルの手とその家来たちの手に渡す。その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる。・・主の御告げ。・・

 エジプトはバビロンが崩壊してから、一時的に解放されます。そのことをここで話しています。

 けれどもまた同時に、イザヤ書にもあった預言、終わりの日におけるエジプトの行く末をも暗示しています。イザヤ書19章によると、彼らのところでヘブル人の言葉が語られ、礼拝のしるしも置かれ、エジプト人は主を礼拝するようになるという預言があります。

3B 裁きの中の帰還 27−28
 そこで次のイスラエル人帰還の預言があります。

46:27 わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。

 イスラエルが、終わりの日に世界の各地から帰還します。

46:28 わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。・・主の御告げ。・・わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」

 エジプトに対する激しい神の裁きの預言の中で、このようにイスラエルに対する慰めの言葉があります。この世が滅びる、この世が裁かれるという預言があっても、契約の民は必ず救い出されます。これが私たちキリスト者も知っておかなければいけない神の救済です。

 私たちが生きている世界は、信仰を持っている者にとってはますます困難になってきます。不便が強いられ、ついには迫害も受けるでしょう。けれども、イスラエルに帰還が約束されているように、私たちにも救いが約束されているのです。このことを忘れないようにしましょう。

 そして最後の部分で、「罰せずにおくことは決してないが」とあります。これも大事な神の教えです。神は私たちを愛してやみません。愛してるがゆえに、また神の公義のゆえに、私たちを一時期、罰しないといけない時があります。けれども、それはあくまでも一時的なのです。その懲らしめによって、かえって私たちが神に立ち返ることができるように、神はしてくださるのです。

 こうして「世に戻っても」という主題で学びましたが、世に戻ってもそこには滅びがあるだけです。罪を悔い改めないからといって、世に戻る選択をしないでください。神は悔い改める者には、必ず救いを与えてくださいます。また迫害がつらいからといって、世に戻らないでください。主は必ず命を助けてくださいます。