エレミヤ書6−7章 「主の家の門にて」

アウトライン

1A 北からの民 6
   1B 大いなる破滅 1−9
   2B 無割礼の耳 10−21
   3B 産婦のような苦しみ 22−30
2A 「主の宮」の偽り 7
   1B 強盗の巣 1−15
   2B 天の女王 16−28
   3B トフェテの虐殺 29−8:3

本文

 エレミヤ書6章を開いてください。今日は6章と7章を学びます。今回のメッセージ題は、「主の家の門にて」です。

 私たちは今、エレミヤの二つ目のメッセージを読んでいます。彼が自分の町、ベツレヘムのアナトテからエルサレムの町に来て、主の言葉を語りました。それは、イスラエルの背信とユダの裏切りについてでした。すでにアッシリヤに捕え移された北イスラエルに対しては、悔い改めへの呼びかけと回復の約束を与えられました。けれども、既にイスラエルが神に裁かれたのを見ていながら、イスラエルと同じことをしているユダに対して、バビロンからの攻撃があることを預言しました。

 私たちは、他の人たちが災いを受けている時、自分も同じことをしていたら同じことに遭うかもしれないと恐れるのではなく、まさか自分も同じ災いには遭わないと安住する傾向を持っています。このことを主は、ユダに教えられているのです。

1A 北からの民 6
 そして6章では、そのメッセージの最後の部分、バビロンによる破滅をさらに強い語調で主が語られています。

1B 大いなる破滅 1−9
6:1 ベニヤミンの子らよ。エルサレムの中からのがれよ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハケレムでのろしを上げよ。わざわいと大いなる破滅が、北から見おろしているからだ。

 エレミヤの出身地であるベニヤミンに対して、呼びかけています。北、つまりバビロンが北から襲ってきます。ベニヤミンはエルサレムの北に隣接しているので、普通に考えたら、南に逃げて、そして城壁で囲まれているエルサレムの中に隠れるのが妥当です。

 けれども、今、「テコアで角笛を吹きなさい」と命じられています。テコアはエルサレムから南に18キロ程離れたところにあります。私もエルサレムにいたときに、南側に小さな丘のところに家々が建てられているその町を見ました。だから、エルサレムの中に入るのではなくて、さらにその南に行き、そこに逃れるように呼びかけなさい、と命じているのです。 

理由は、エルサレムがバビロンに包囲されるからです。包囲された後の悲惨を思えば、エルサレムの中にいるよりも、外にいたほうがまだ良いのです。

これを現代版に言い換えると、罪の中にいる背教の教会の中にいるよりは、教会に行かないで罪を犯さないほうがまだいい、ということです。宗教制度の中にいることが私たちを保証するのではなく、私たちが主に個人的につながっていることが救いの保証となるのです。

 ベテ・ハケレム」はエルサレムとテコアの間にあるどこかであると言われています。そこで「のろしを上げよ」と言っているのは、つまりベツレヘムの人々にこっちの方向に逃げて来い、という合図を送っているのです。

6:2 私は、シオンの娘を、麗しい牧場になぞらえる。6:3 羊飼いは自分の群れを連れて、そこに行き、その回りに天幕を張り、その群れはおのおの、自分の草を食べる。6:4 「シオンに向かって聖戦をふれよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕べの影も伸びる。」6:5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」

 この羊飼いはバビロン軍を表しています。羊飼いが、羊の群れが草を食べるための野原に導くように、エルサレムを自分たちが食い尽くすことを求めて待ち構えている姿を描いています。

 4節と5節の会話は、自分たちの間で、いつ攻め入るか議論しているものです。初めは昼に行こうといいました。けれども、なにやらかにやらしているうちに日が暮れてしまいました。そして夜が明ける前に、夜の間に攻め上ろうという結論に至りました。

 ですから、エルサレムの住民は自分たちが眠っているうちに突如の滅びを経験するのです。この夜のうちの急襲は、主の日における破壊を明らかに暗示しています。パウロが、テサロニケ人にこのように話しました。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(1テサロニケ5:2-3

6:6 まことに万軍の主はこう仰せられる。「木を切って、エルサレムに対して塁を築け。これは罰せられる町。その中には、しいたげだけがある。

 バビロンが獲物を狙う獅子のように、エルサレムを食い尽くそうとしているのですが、実はこのことを命じているのは主ご自身であることが、ここから分かります。

6:7 井戸が水をわき出させるように、エルサレムは自分の悪をわき出させた。暴虐と暴行が、その中で聞こえる。わたしの前には、いつも病と打ち傷がある。

 ものすごい形容です、悪がわき出ていることを、井戸から水がわき出ていることに例えています。悪というのは、こういうものです。私たちは表面的に、悪を矯正しようとしますがそれは無理です。内側から際限なく出てくるものだからです。イエス様が言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23

 そして、これを主は「病と打ち傷」と呼ばれています。イザヤ書でもそうでしたが、罪や咎のために、メシヤが打ち傷を負われたことが書かれていますね。また病の人であった、とも書かれています(53章)。

 このように、不義や罪を犯すことは自分の身に傷を負わせ、病を抱かせるものであることを聖書は教えています。今日、私たちは心的外傷であるとか、また自傷行為であるとか、精神的な領域で「傷」ということを語りますが、それよりも知っておかなければいけないのは、私たちが悪を行なうことこそが自分自身を傷つけていることです。神のかたちに造られたこの自分を痛めていることを忘れてはいけません。

6:8 エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」

 ここの主の心が「離れる」という言葉は、「引き裂かれる」と訳すことができるものです。つまり、主はエルサレムを滅ぼしたくはないのです。けれども主の義のゆえに、滅ぼさなければいけない。だから、エルサレムを愛するその心が引き裂かれていくと言い表しておられます。

6:9 万軍の主はこう仰せられる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」

 バビロンに対して主が命じておられます。残っているユダヤ人がいないように、隅々まで滅ぼしてしまいなさい、という命令です。理由は11章以降に出てきますが、罪を犯しているのは一部の人ではなく、あらゆる年齢層、職業を含む全体に広がっていたからです。

2B 無割礼の耳 10−21
6:10 私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。6:11a 私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。

 エレミヤ書で、エレミヤは自分の気持ちを包み隠さず話しています。これはとても大事なことで、エレミヤの心はすなわち、神の御心を表していました。エレミヤは、エルサレムと同胞の民を本当に愛していました。だから、この町が滅びることを聞くと、もう気が狂いそうになってしまって、どうしようもなかったのです。

 これは、人々がご自分に反抗している時の神のお気持ちであり、私たちの主イエス様の感情です。私たちが意識的にも、無意識的にも罪を犯している時、すなわち神に反抗している時、どのような気持ちになっておられるのかを、エレミヤの言葉を通して知ることができます。

 まず、エレミヤの葛藤は、「彼らの耳が閉じたままになっている」ということでした。これの直訳は「耳に割礼がない」です。前に4章4節でも、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」との命令がありました。いつまでもかたくなにイエス様をメシヤと認めないユダヤ人指導者らに対してもステパノは、「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。(使徒7:51」と言いましたね。

 そして「彼らにとって、そしりとなる」というのは、彼らがエレミヤの言葉に反発していることを意味しています。人は自分が認めない時に、嘘をついてでも、とにかく相手を非難して、責めますね。今のステパノのことを取り上げても、彼は、「この人は、この聖なる所と律法とに逆らう言葉を語るのをやめません。(使徒6:13」という廉(かど)とサンヘドリンに連れて来られていました。

 そして「私の身には主の憤りが満ち」ていると言っています。この憤りは、愛しているから抱く感情です。自分がその対象に愛着を持っているからこそ抱く感情です。

皆さんが、誰か愛している人が、神の福音に反抗的になっていて、悲しみ、憤り、涙を流したことはあるでしょうか?自分だけではなく、それはエレミヤも通ったことであり、何よりも私たちの主が通られました。主はすべてを知っておられ、そのように疲れ果ててしまっている私たちのそばにいてくださいます。

6:11b「それを、道ばたにいる子どもの上にも、若い男の集まりの上にも、ぶちまけよ。夫も妻も、ともどもに、年寄りも齢の満ちた者も共に捕えられ、6:12 彼らの家は、畑や妻もろともに、他人のものとなる。それは、わたしがこの国の住民に手を伸ばすからだ。・・主の御告げ。・・

 主は、あらゆる年齢層の人々に憤りが下ることを告げられておられます。私たちの日常生活を思い出してください、ここに描かれているのは日常の風景です。子供たちが道ばたで遊んでいますね。若者はどうですか、コーヒーショップやボーリング場や、カラオケボックスなどに集まっていますね。そして、夫婦はどうでしょうか?一緒にいる姿は麗しいです。そして年寄りですが、ここでは「年寄り」と「齢の満ちた者」と分けています。今で言うなら、前者が6070歳代、後者が80歳以降でしょう。

6:13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。

 「利得をむさぼる」・・これほど醜いものはありません。パウロはローマ人への手紙16章で、つまずきや分裂をもたらす人に警戒して、遠ざかりなさいと勧めた後、「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲(あるいは「腹」)に仕えているのです。(18節)」と言っています。

 真実な愛、喜び、平安は、私たちそれぞれが自分ではなく、キリストを求める時にやって来ます。自分ではなくて、隣人の徳を高め、益になることを望む時に、与えられます。ここで自分の益のために動こうとすると、そこに相手を傷つけ、つまずかせ、貶めることにつながるのです。ですから、先ほど、井戸から水がわき出るように、虐げ、暴虐、暴行が出てきているとあったように、物理的に人に暴力を振るっていなくても、自分の益を求めていれば、ある意味、振るっていることになるのです。

6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。

 ここは今日、もっとも深刻な問題になっています。平安への道はただ一つしかないのに、それを通らないで他の方法で、何とか平安や平和を得ているように見せかけているという問題です。

 その傷がいやされ、平安を得るための道は何でしょうか?先ほど引用したイザヤ書53章によれば、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(5節後半)」です。私たちのそむきの罪、私たちの咎が、キリストが代わりに傷と懲らしめを受けてくださることによって、もたらされます。

 大事なのはこの二つです。一つは、「罪を認める」ということです。これを認めずに、他の周辺的な、表面的な方法で解決しようとしても、平安は得られません。そしてもう一つは、「キリストがその罪を負ってくださった」ことを信じることです。罪意識で苦しんでいる人が、なかなかキリストの十字架の贖いを受け入れることができません。教会に通っている人でさえ、罪責感から熱心に奉仕したりします。自分の罪を認めること、そして神が完全な罪の赦しを与えておられるということ、この二つを魂の奥底から信じ、完全に神に自分の身を明け渡してください。

 またこの箇所は、終わりの時、主の日についてパウロが語っているとき、彼が引用した箇所です。先ほど引用したテサロニケ第一5章ですが、「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」です。キリストにある神との和解のみが平和をもたらすのに、それ以外の方法で気軽にいやしているから、間違った保証、間違った安心感を抱いているのです。神の福音を拒んでいながら世界の平和を求めれば、必ず、偽者の平和の君である反キリストに騙されます。

6:15 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。

 「」というのは、自分が悪いことをしているところを、急に明らかにされた時に襲う羞恥心です。私の母がまだ信者ではない時にあった出来事だったのですが、教会には顔を出して見たことのある人が、ある病院でしょうか、その駐車場で他人の車に八つ当たりをして足で蹴っていたそうです。母が、「あなた、何々教会に通っている人ですよね。」と言ったら、顔が青ざめたそうです。この種類の恥のことを言います。

 けれども、この恥があることは良いことなのです。聖霊が私たちの良心に働きかけて、その思いを与えてくださっています。ところがそれさえもなかったら、後は倒れるしかありません。それがエルサレムの中にいる人たちの状態でした。

6:16 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない。』と言った。

 これは、律法のことを述べているものです。「昔からの通り道、幸いの道」とは、モーセの律法のことです。ヨシヤ王の時代にも、既に昔のもの、古いものになっていました。ヨシヤが神殿の改築をしていた時に、律法を祭司が見つけて、それをヨシヤに読ませたら、彼はまったく驚いて、衣を裂き、女預言者フルダのところに行って主に伺いを立てたのです。国会図書館の開架書庫で発見したようなものです。

けれどもこれにこそ「憩い」があると、主は言われます。「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(詩篇119:165」「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23:2」けれども、これを彼らは「歩まない」と拒んでいます。

6:17 また、わたしは、あなたがたの上に見張り人をたて、『角笛の音に注意せよ。』と言わせたのに、彼らは『注意しない。』と言った。

 「角笛」は、人々に注意を引き寄せるために鳴らされるものですが、神の預言者の声を表しています。これも、「注意しない」と拒みました。

 主の御言葉、福音の言葉になると、極端に拒否反応を起こす人がいますね。けれども、信仰を持っていても、私たちの肉が刺激されると、どんな御言葉も神の御声も「要りません」ときっぱり断ってしまう力を持っています。

6:18 それゆえ、諸国の民よ。聞け。会衆よ。知れ。彼らに何が起こるかを。6:19 この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ。

 主は、私たちあらゆる異邦人に呼びかけておられます。ユダヤ人たちに何が起こるかを見ていなさい、と言われました。事実、バビロン捕囚という出来事は私たち日本人の中高の世界史に載っているほど、誰もが知る史実となりました。

6:20 いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

 シェバは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りです。あの「シェバの女王」の国です。

 前にも話しましたが、エルサレムの人々は神殿礼拝をやめたわけではありませんでした。律法に書かれていることを行なっていたのです。けれども、それが形式化し、心が伴ったものになっていなかったというのが問題でした。そしてヤハウェだけでなく、他の神々も、神殿の敷地で拝んでいたというのも大きな問題だったのです。

6:21 それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはこの民につまずきを与える。父も子も共にこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」

 頼るべき一番基本的な単位、親子の関係も、また隣人や友人のような関係も、みな滅んでしまう、なくなってしまう、ということです。

3B 産婦のような苦しみ 22−30
6:22 主はこう仰せられる。「見よ。一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。6:23 彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。シオンの娘よ。彼らは馬にまたがり、ひとりのように陣備えをして、あなたを攻める。」

 第二回目のメッセージがしめくくられますが、まとめに入っています。

6:24 私たちは、そのうわさを聞いて、気力を失い、産婦のような苦しみと苦痛が私たちを捕えた。6:25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐れが回りにあるからだ。6:26 私の民の娘よ。荒布を身にまとい、灰の中をころび回れ。ひとり子のために苦しみ嘆いて、喪に服せ。たちまち、荒らす者が私たちに襲いかかるからだ。

 「シオンの娘」と呼ばれるように、本当にかよわく無防備な存在に対して、残忍さを極める軍隊が襲ってきます。

 産婦のような苦しみと苦痛」とありますが、これも主の日、終わりの時に使われる表現です。先ほどのパウロのテサロニケ第一5章での言葉にもありましたし、イエス様は「産みの苦しみ」と言われました。

6:27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行ないを知り、これをためせ。」

 これは、主がエレミヤ個人に命令されていることです。主の御言葉を彼らの前面に出しなさい、という意味です。そして彼らが自分自身を御言葉に照らすことができるようにしなさいということです。

6:28 彼らはみな、かたくなな反逆者、中傷して歩き回り、青銅や鉄のようだ。彼らはみな、堕落した者たちだ。

 試してみましたが、結果は燦々たるものでした。

6:29 ふいごで激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、むだだった。悪いものは除かれなかった。6:30 彼らは廃物の銀と呼ばれている。主が彼らを退けたからだ。

 「ふいご」というのは、金属の精錬に使われる送風器です。火が激しく燃え、高温化し、それによって金属から不純物をあぶだすことによって精錬しますが、それをエレミヤは試みました。けれども、悪いものは取り除かれなかった、と言っています。

2A 「主の宮」の偽り 7
 次、7章から三回目のエレミヤのメッセージになります。7章から10章まで続きます。まず1,2節を読んでみましょう。

1B 強盗の巣 1−15
7:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。7:2 「主の家の門に立ち、そこでこのことばを叫んで言え。主を礼拝するために、この門にはいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。

 第二回目は、エルサレムの町におけるものでしたが、今回はさらに中心部へと進んでいます。エルサレムの中心はもちろん神殿です。そこの門の一つのところで、礼拝のために入っていくユダヤ人に主の言葉を語りました。

 時はすでにヨシヤが死に、エホヤキムが王となった頃であると考えられます。なぜなら、エレミヤ書26章にて、主の宮に礼拝しにくる人々にエレミヤが語っていたところ、祭司、預言者、一般の民が押しかけて、エレミヤを攻撃したことが書かれているからです。

 ヨシヤは抜本的な宗教改革を行ないました。けれども彼は、エジプトのパロ、ネコと戦ってメギドで死にます。その後、エホアハズが王になりますが、三ヶ月後にネコによって、エホヤキムに挿げ替えられました。宗教改革は行なっていたけれども、私たちがずっと1章からここまで読んできたのを見て分かるように、彼らの心までは改革が行なわれていませんでした。

 それでヨシヤの死後、エホアハズ、エホヤキムの治世になると偶像礼拝が復活しました。その詳しい神殿の敷地内での様子を私たちはこれから読んでいくことができます。そして、ユダの人々の根っこにある問題を、さらに鮮やかに理解することができます。

7:3 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。7:4 あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。7:5 もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、7:6 在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7:7 わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

 先の章で、主がベニヤミンの人々に、エルサレムからは逃れなさい、というメッセージを語られました。けれども、エルサレムは城壁に囲まれた堅固な町です。ヒゼキヤも地下の水道を作り、アッシリヤの包囲に耐えました。さらにマナセも高い壁を建築しています。だから、人間的にはエルサレムの中に逃げ込むほうが妥当なのです。

 けれども、実はエルサレムにいるほうが危険でした。すべては主の関係、主の前にへりくだって歩み、誠実をもって生きることが本当の安全保障だったのです。

 6章では物理的な壁を頼りにするという過ちがありましたが、今度は、宗教的な建物、またその宗教制度そのものを頼りにするという過ちです。

 ヨシヤが神殿を改築したので、見た目もしっかりしたものであったでしょう。そこで彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と三度繰り返して、その建物の強固さを強調しています。「建物があるということは主がここにおられる。だから外敵からも守られて、安心だ。」という考えです。そして彼らは律法も持っている。アブラハムを自分たちの父としている。契約の民だ。だから、どんな敵からも守ってくれる。特にここ神殿はもっとも強固な牙城だ・・・と。

 いかがでしょうか?彼らは、表向きは敬虔でした。しっかりと主に礼拝をささげていました。けれども、主から声を聞くことよりも、これら外面のこと、いはば「箱」のほうを重視して、それで自分は大丈夫だと言い聞かせていたのです。

 私たちは、非常に容易に、この過ちに陥ります。自分は主にしっかりつながるつもりで聖書通読をし、祈りの時間を持ち、それから教会にも通います。ところがいつの間にか、その活動そのものに自分が頼り、自分を結び付けています。主は、私たちが心砕かれ、もっと成長するように願っておられます。けれども、今の自分の活動、自分の形式を守るがため、現状維持を保つため、かえって主が語っておられることを拒むことがあるのです。

7:8 なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。7:9 しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。7:10 それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている。』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。

 私たちは、自分たちが主を礼拝しているので、他に違う神々を拝んでいることを見落とすことがあります。私たちの神と、私たちの間に何かを置けばそれが偶像です。今の自分の安定した生活かもしれません。人間関係、家族関係が偶像になっているかもしれません。自分が信仰生活、教会生活を送れば未信者の家族に不便を強いる、とか・・・けれども、今、自分は祈るし、聖書は読むし、「だから救われている」と思います。いいえ、そのような行為を、主の命令に従うことと取り替えることはできないのです!

7:11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。・・主の御告げ。・・

 この「強盗の巣」というのは、アジトのことです。強盗たちが身を隠すために集まっている場所です。イエス様が宮清めの時にこの御言葉を引用されましたね。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。(マタイ21:13

7:12 それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ。

 「シロ」は、エルサレムの北、ベテルとシェケムの間にある、以前神の幕屋があった場所です。覚えていますか、サムエルの両親はシロに上って、主を礼拝していました。その時の祭司はエリです。彼らの時代に、イスラエルにとっての悲劇が起こりました。契約の箱がペリシテ人に取られてしまったことです。今、主はエレミヤを通してその出来事を思い出させています。

7:13 今、あなたがたは、これらの事をみな行なっている。・・主の御告げ。・・わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった。7:14 それで、あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行なおう。7:15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたを、わたしの前から追い払おう。

 エレミヤの時代のユダヤ人と、当時のイスラエル人には二つの共通点があります。一つは、堕落していたことです。エリの息子、ホフニとピネハスは主の幕屋の奉仕において悪を行なっていました。民のいけにえを奪い取ったり、会見の天幕の入口で奉仕している女たちと寝ていたりしました。

 そしてもう一つは、イスラエルが契約の箱そのものに信頼を置いていたことです。ペリシテ人と戦う時に、契約の箱を持って行きさえすれば主が共におられて勝つことができる、と思いました。けれども結果は燦々たるものであり、契約の箱は奪われ、神の栄光は去っていってしまいました。(以上、1サムエル2−4章参照)。

 彼らは、何をもってペリシテ人に打ち勝つことができたでしょうか?神の箱が、キルヤテ・エリアムで祭司の家に安置されて、二十年経ちました。それから彼らは、「主を慕い求めていた(1サムエル7:2」とあります。そしてサムエルは励ましました。「『もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。』そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。(1サムエル7:3-4

 分かりますか、心の変化です。彼らの心に、二十年と言う月日をかけて、飢え渇きが生じました。神の箱そのものではなく、主を心の中で一番にすることをようやく理解しました。そして、主以外に神々としていたものを捨てました。そうしたらペリシテ人が彼らに襲ってきても、主が勝たせてくださったのです。

 ここから私たちがいかに、主の前で悔い改めの時間を持つことが大切であるかを思わされます。気軽に宗教活動に参加することではなく、真剣に主の前で悔い改めるその時間が必要です。

2B 天の女王 16−28
7:16 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。

 何という命令でしょうか!私たちは、他の人々のために祈ることが常に神の御心であると思っています。けれども今、主は、「祈ってはならない」と言われます。その理由を次に主は語られます。

7:17 彼らがユダの町々や、エルサレムのちまたで何をしているのか、あなたは見ていないのか。7:18 子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて、『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。

 「彼らが悔い改めずに、心をかたくなにして反抗しているのに、どうしてわたしはこの民を救うことができようか。」というのが、エレミヤに対する神の返答です。私たちは、罪を犯し、反抗的な人に対して、主が祈られたように、「彼らの罪をお赦しください。」と祈ることはできます。けれども、それはあくまで彼らが罪を悔い改めることによって、与えられるものです。事実、主の祈りは、ペテロの説教で心刺され、三千人がバプテスマを受けて弟子になったことで聞かれましたが、彼らは悔い改めました。

 悔い改めなしの救い、いやし、平安は存在しないのです。

 そして、ここで彼らが行なっている偶像礼拝の細部を神は明らかにしておられます。拝んでいたのは「天の女王」です。これは、バビロンのイシュタルであると考えられます。カナン人の「アシュタロテ」と同じです。豊穣の神であり、当時の云わばポルノでした。

 興味深いことに、世界の宗教では必ず「女神」が持ち込まれます。神道では天照大神、仏教では観音は女性化するという経緯がありました。キリスト教もまたそうですね、マリヤが神の母となり、実質、イエス様以上の存在にカトリックではなっています。

 そしてエルサレムの人々は、何と家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。主は、かつてモーセを通して、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛することを、「子どもたちによく教え込みなさい。(申命6:7」と命じておられました。今、その逆のことを行なっているのです。

7:19 彼らはわたしの怒りを引き起こすのか。・・主の御告げ。・・自分たちを怒らせ、自分たちの赤恥をさらすためではないか。」

 神の怒りは、私たちが考えるような、「地震、雷、火事、親父」ではありません。私たちが何か失敗をしでかして、それで神が怒られ罰を与えられる、というものではありません。それは異教の神の概念です。神の怒りは、ご自分の義に照らし合わせて、人々を取り扱うことです。ちょうど裁判官が刑罰を法廷で言い渡すように、ご自分の義を執行されているにしか過ぎません。

 偶像礼拝などの悪を行なっていれば、傷を与えているのは神ではなく自分自身なのです。偶像に仕えることによってもたらされる結果から免れさせるために、主はそこから離れなさいと、私たちを守るために命じておられます。

7:20 それで、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所と、人間と、家畜と、畑の木と、地の産物とに注がれ、それは燃えて、消えることがない。」7:21 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたの全焼のいけにえに、ほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

 ここから再び、彼らが行なっている形式化した宗教行為に対して語られます。ここからの主のご説明は非常に重要な部分です。

7:22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』

 確かに、全焼のいけにえ等は、主が行ないなさいと命じられたことです。けれども、出エジプト記を注意深く読めば、彼らがそれらのいけにえの儀式の戒めを受ける前に、主は初めに言われた大前提を発見するはずです。

 それは、出エジプト記19章、イスラエルの民がシナイ山のふもとにたどり着いて、モーセがシナイ山に上って、主から語られたことを降りて、民に伝えたものです。19章5節です。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」ですから、主の命令に聞き従うことが全てであり、その主との交わりの中でいけにえをささげる制度が設けられているのです。でも、主との交わりはあくまでも、神の御声を聞いてそれに従うところで成り立っています。

 ヘブル書11章6節には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。そしてローマ1017節には、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。神の御声を聞いて、神を全面的に信頼しているがゆえにそれに従っていく、というのが信仰です。これは新約時代から突然始まったのではなく、ヘブル書11章が旧約時代を描いているように、世の初めからそうなのです。

7:24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

 後退、これが悲劇です。私たちは、前進するためには、聞き続けなければいけません。神の御声を聞いて、心砕かれ、へりくだり、そして従順にならなければいけません。

7:25 あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、7:26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。

 モーセから始まり、さまざまな預言者が彼らに与えられました。それを朝ごとに聞いていれば、彼らは大いに変わり、祝福された人となったことでしょう。けれども、結果は逆でした。私たちに対する警告です。御言葉を聞いて、それに応答していれば、どれだけの祝福があったことでしょうか?聞いているだけで、実行していないでいる時間がどれだけ多いことでしょうか。

7:27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。7:28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。

 懲らしめの後は裁きです。主の懲らしめは、注意を引き寄せるものです。それによって、最終的な滅びから免れるようにするものです。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32」これを無視したら、残りは神の恐ろしい怒りしかありません。

3B トフェテの虐殺 29−8:3
7:29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。主は、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ。』

 彼らが裁きを受けた後に、彼らが歌う哀歌です。

7:30 それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。・・主の御告げ。・・彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。7:31 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。

 神殿の中に天の女王を拝んでいるという事実を主は語られましたが、もう一つ、エルサレムでは忌まわしいことがありました。それが、ここにある乳児のいけにえです。これはカナン人などが行なっていた習慣であり、バアルやモレクに生まれてきた乳児をささげます。鉄でできたその偶像を火で真っ赤になるまで熱くして、その両腕に乗せて焼くのです。この忌まわしいならわしのゆえに、カナン人は聖絶しなさいと主は、約束の地に入るイスラエルに命じられていたのです。

 そのヒノムの谷の、乳児をささげた地点を「トフェテ」と言いましたが、トフェテは「燃やす」とも訳すことができるし、「太鼓」とも訳すことができる言葉です。子供を火で燃やす時に、その泣き声をかきけすために太鼓を打ち鳴らしていました。

 ヒゼキヤの死後、マナセがこの習慣を大体的に導入しました。エルサレムは、神殿の丘の南に、ヒノムの谷というのがあります。ちなみに東はケデロンの谷があり、オリーブ山との境目になっています。ヒノムの谷とケデロンの谷は、神殿の丘の南、ダビデの町の南の所でぶつかっています。

 このヒノムの谷で、これら忌まわしいことを行なっていました。ヨシヤはそこを汚したと列王記第二にはあります。そこをゴミ捨て場に変えたのです。そこからそこは、火が消えることはなくごみ焼却所となりました。

 このヒノムをギリシヤ語では「ゲヘナ」といい、イエス様は、最終的な裁き、永遠の刑罰を受ける地獄を「ゲヘナ」と呼ばれたのです。

7:32 それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。7:33 この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。

 彼らは、バビロンの攻撃を受けた時、今度は自分たちが殺される番になります。その谷に死体が積み上げられます。

7:34 わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。

 これは、黙示録18章、バビロンに対する神の裁きにおいても使われている表現です。私たちが日常生活において楽しんでいるその一場面は一切なくなるという宣告です。永遠の命を持っていなければ、持っているものまでも取り上げられる、ということです。

 そして8章の最初の3節も読みましょう。続きになっています。

8:1 その時、・・主の御告げ。・・人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、エルサレムの住民の骨を、彼らの墓からあばき、8:2 それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。

 死んだから、この神の裁きから免れると思ったら大間違いだ、ということです。ユダヤ人の人たちは、死体を丁重に葬ります。死体に対しても、その尊厳を認めます。ですから、骨を掘り起こされるというのは、屈辱以外の何でもありません。

 そして、主は、これが偶像礼拝の結果であることを告げておられます。拝んだ日や月や天の万象は、あなたに対して、あなたの屍を眺めるという残酷なことをするだけなのだよ、ということです。

8:3 また、この悪い一族の中から残された残りの者はみな、わたしが追い散らした残りの者のいるどんな所でも、いのちよりも死を選ぶようになる。・・万軍の主の御告げ。・・」

 あまりにも状況が悲惨なので、死を選びたくなるということです。この裁きも、黙示録9章にて、さそりのような尾を持つ、いなごのような悪霊にかまれた人々が、五ヶ月間、激しい痛みのために死を望むが、死が彼らから逃げていくということが書かれています。死んだほうがまし、という苦しい状況です。

 以上ですが、私たちがいかに、主の前にへりくだって、御言葉におののき、そして従っていくことが必要であるかを教えられたと思います。エルサレムの城壁でもなく、そして何よりも神殿そのものでなく、主の御声、これが全てなんだということです。


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