ヨシュア記715節 「持続する勝利」

アウトライン

1A 用意周到な戦い
   1B ヨルダン渡河において
   2B エリコ攻略において
2A 霊的後退
   1B 自信
   2B 人の助言
   3B “神頼み”
   4B 教会の中の罪
      1C 聖絶のもの
      2C 兄弟への欺き
      3C 滅びの刈り取り
3A 霊的再開
   1B 十全な整え
   2B 異なる戦略

本文

 ヨシュア記7章を開いてください。午後に6章から8章までを学んでみたいと思いますが、今朝は71-5節をお読みします。

1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。2 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」4 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。5 アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。

 今読んだところは、アイに対する戦いです。私たちは前回、イスラエルがヨルダン川を渡るところまで読みました。そして午後には、ヨルダン川の向かいにあるエリコを陥落させる部分を読みます。エリコを倒した後に、さらに北西に進んだところにあるアイの町を叩こうと思いました。けれども、いま読んだように、アイの人々を倒すどころか、打ち叩かれ、一目散に逃げかえってきました。

 私たちは前回、信仰による勝利の生活について学びました。勝利を収めることと、勝利しつづけることは別問題です。勝利を収めた時から、すでに次の戦いの始まりを意味しています。勝利は次の勝利を保証するものではありません。聖書時代のイスラエルだけでなく、現代イスラエルの戦争にもそれを見ることができます。1967年に起きた六日戦争は、イスラエル消滅の懼れさえあったのに、何と領土が四倍になりました。エルサレムもイスラエルの主権下に入りました。けれども1973年に起こったヨム・キプール戦争では、イスラエルは苦戦を強いられました。六日戦争における奇跡的勝利に酔いしれていたため、と言われています。神がそうしてくださったのではなくて、自分たちの戦力や士気が戦ったからだと思っていたからです。

 私たちの信仰生活においても、同じことが言えます。信仰によって勝利を収めると、その勝利の中にいつのまにか酔いしれていて、自分の立っているところが神ご自身ではなく、自分自身になっていることがあります。ガラテヤ書33節には、「御霊に始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」とあります。そして525節には、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とあります。イエス様を信じて、この方を主として生きていく時に、御霊によって力ある生活を送ることができます。そこに留まることができるのかが、私たちの生活が持続して勝利していくかどうかの決め手になります。

1A 用意周到な戦い
1B ヨルダン渡河において
 もう一度、イスラエルが勝利の道を歩み始めたことをおさらいしましょう。6章において彼らはエリコを攻略しますが、彼らの勝利はそこにはありませんでした。用意周到な備えがあり、そこですでに勝利を収めていたと言っても過言ではありません。その勝利は、ヨルダン川を渡るところに表れていました。ヨルダン川は自分に対する死を意味しています。川を渡れば、後は戦うしかありません。後戻りできません。けれども相手は強大な敵です。したがって、自分自身に拠り頼まず、主に拠り頼む生活をすることを決断したのです。

 まず、彼らは契約の箱を先頭にして歩み始めました。契約の箱は、神の臨在を表していました。神の臨在があるところに彼らは付いて行ったのです。そして契約の箱から距離を保っていました。それは、神の聖さを表しています。私たち一人一人が、イエス・キリストから目を離さず、神の聖さを自分自身の生活の中に求めることが必要です。

 それから、契約の箱を運ぶ祭司が足を水に入れました。入れたら、川が堰をなして立ったのです。信仰というのは、まだ徴が与えられていないところでも、主が命じられたというだけの理由で前進することです。

 そして彼らは渡り終わった後に、川底にある石を運び出しました。そしてそれを積み上げて、記念にしました。ヨルダン川の渡河をいつまでも思い出すためです。私たちは、神がキリストによって成し遂げた御業を思い出すことによって、自分がどこに立っているのかを確認して、そこから力を得ます。

 さらに割礼を受けたことを思い出してください。割礼は肉の包皮だけでなく、心の包皮を神の御霊によって取り除いていただくことを表していました。さらにその後で過越の祭りを祝いました。それはもちろん、イスラエルにとってすべての始まりです。エジプトから出てきましたが、その時に子羊をほふって、その血を家の入口に付けるのです。つまり、キリストが流された血によって私たちが罪から解放されたことを覚える時に、私たちは勝利の生活を歩むことができます。

 そしてヨシュアがエリコの城壁の近くまで行きました。そこで出会った方は、主の軍の将であられました。ヨシュアは自分自身が将軍ではなく、主ご自身が将軍であられることを知りました。彼はその場で履物を脱いで、主を礼拝したのです。自分自身を主に明け渡すこと、主を礼拝することこそが、勝利の生活であります。

2B エリコ攻略において
 そして6章では、エリコの城の周りを一日一周歩きます。七日目に七週歩きます。なぜこんなことが、当時、強固な城と言われていたエリコを倒すことができるのか、まったく理解できなかったに違いありません。けれども、自分には不自然に見えるこのような働きも、主が命じられるのだからという理由だけで従順に行うことが必要です。そして彼らはときの声をあげます。すると城壁が崩れます。彼らはエリコの町が崩れることを、主にあって信じていたのです。

 そして主は、そこにあるものは略奪物として取ってはならないと厳しく命じられました。金や銀は主の幕屋において礼拝のために用いますが、それ以外のものはすべて手を触れてはいけませんでした。「聖絶」したものであると主は言われます。これは新改訳の造語でありますが、主が裁き、主のみに属するものになった、というものです。これはこの戦いの勝利は主のものであって、だれもその栄光を奪い取ってはいけないことを表していました。

2A 霊的後退
 けれども今読んだように、アカンという男がその中にあるものを取ってしまいました。その後で起こった話を見ていきましょう。

1B 自信
 2-3節をもう一度見てください。「ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」

 ここの間違いは何でしょうか?それは、「自分たちの戦力によって、勝敗が決まる。」という考えです。エリコにおいて、彼らの力によって打ち勝ったのでしょうか?いいえ、違いますね。主が戦ってくださったものを、自分たちが戦って勝ったのだと勘違いしているのです。

 主の御力で事が進んだのにも関わらず、私たちの心というのは不思議なもので、次第に自分の力で今の自分がいるのだという自信に変わってきます。試練の中にいる時は、主に叫び求めます。そして、主の前で自分自身を全て明け渡しました。「私はこの困難の中にいても、すべては主の御手にあるのですから、これを受け入れ、自分自身を捧げていきます。」と祈ります。すると主は真実な方ですから、私たちを救い出してくださいます。そして私たちは平らな道を歩むようになるのですが、その時にその比較的良い環境の中で、神ではないものに拠り頼み始めるのです。

 私たちの危険は、自分の弱さにあるのではありません。むしろ強さにあります。自分はこの問題については、問題はないと思って、主に拠り頼むことをしないので危険です。自分に弱さを感じる時には、私たちは必死にキリストに拠り頼みます。使徒パウロが言いました。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9

 そこで主は、私たちの力を少しずつそがれる時があります。自分自身では何もできないところにまで導かれる時があります。イエス様は弟子たちに言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5」私たちは反発します。「いいえ、“何も”することができない、というのは言いすぎです。確かに不足していると思いますが、何かはできるはずです。」そう思っている肉の力を外すために、主は私たちを試されるのです。

 ペテロは、他の弟子たちがイエス様を見捨てても、自分は命を捨ててイエス様についていくと言いました。本気でそう思っていたに違いありません。けれども、女中の言葉だけで彼はイエス様を否みました。モーセもそうでした。彼はエジプトの宮廷にいながらにして、一人のイスラエル人も救い出すことはできませんでした。羊飼いとして四十年間生きていたことによって、自分には何もできないことを、痛みをもって知りました。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1:17」自分には良いものが何一つありません。あるとしたらそれは全て主から来たものです。したがって、主に心を尽くして拠り頼む営みを絶えず行なわなければならないのです。

 そして思い出せますか、前回の学びで私たちは、勝利すること自体が目的ではない、神の前に出ていくことが目的であるということを知りました。ですから、主の民みながこの戦いに加わらなければいけないのです。けれども、「二、三千ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。」と言っています。中途半端な心なのです。主の前に出る時は、それが大きな人数であろうが、少ない人数であろうが、全き心で臨むべきなのです。

2B 人の助言
 そして、偵察に行った者たちの報告を聞いた後に、ヨシュアが主に助言を求めたという記録がありません。だれが将軍でしたでしょうか?ヨシュアではありません、主ご自身です。ですから彼はこの報告について、主に伺いを立てなければいけませんでした。けれどもヨシュアは、彼らのアイについての評価をそのまま受け入れて、実行に移したのです。

 私がしばしば引用する、箴言の言葉があります。35-6節です。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」そして、その反対のことを述べている警告の言葉もあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(14:12」イスラエル人の目だけでなく、ヨシュア自身の目にも、二・三千人の兵力で十分だと見えたことでしょう。けれども、私たちの目がどれだけ正しいのでしょうか?自分の悟りに頼ってはならないのです、すべてを主に持っていかなければいけないのです。

 もう一つ、しばしば引用する有名な聖句は、ピリピ46節です。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」今注目したいのは、「あらゆるばあいに」という言葉です。ある場合には主に知っていただくのではなく、あらゆる場合に知っていただくのです。私は大学生でイエス様を信じましたが、幸いだったのは、校内にキリスト者の祈りの集まりがあったことです。私は驚きました。人生の深い悩みについてキリストに答えを見出した私だったのですが、先輩クリスチャンが祈っているのは、私にとってはあまりにも日常生活の些細な事柄でした。今でも耳に響いて残っているのは「口内炎を癒していただきたい」という祈りの要請です!私は、「こんなことまで祈るんですか。」と心の中で思っていましたが、すべての事柄において主に関わっていただくことによって、生活全般に主が真ん中におられることを知るようになったのです。

 ヨシュアは人の助言を聞いて主に伺いを立てませんでしたが、けれども人の助言を受けること自体が間違っているということではありません。「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。(箴言15:22」「あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。(24:6」神の御言葉に触れて、祈り、主に捧げている人たちの助言は、とても貴重です。こういう箴言の言葉もあります。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。 27:17」信仰の友がいることは貴重です。自分で主に祈り、また共に祈ってもらいましょう。

3B “神頼み”
 そして次の問題は、6節以降にあります。10節まで読んでみましょう。「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。

 主は、「立て。」と命じられています。彼の祈りを拒まれています。彼が祈っていることが、あまりにも神がお考えになっていることとかけ離れていたからです。そして今、対処しなければいけない問題を取り上げられます。

 祈りを彼が初めに行なわなかった、というのが問題です。祈らずに問題が起こり、そして問題が起こってから祈り始める。これを俗に「困った時の神頼み」と言います。困った時だけの神頼みは聖書的な祈りではありません。ヨシュアは起こった災いについて、神に嘆き、神に訴えています。私たちも同じようなことをしばしば行なわないでしょうか?何か問題が起こった時に、「主よ、どうしてあなたはこのようなことを行なわれるのですか?」と問いただすのです。ちょっと待ってください、主に初めに伺いを立てていたら、主は適切な導きを私たちに与えてくだっていたのです。ヨシュアの時は、おそらくアカンの罪について、アイに戦いに出る前に主は彼に知らせることができたことでしょう。けれども、彼は祈らなかったので判断が鈍ってしまったのです。

4B 教会の中の罪
 そして何よりも、イスラエル軍が後退してしまった最も大きな理由は、アカンの罪です。一節をもう一度見てください。「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。

1C 聖絶のもの
 「聖絶のもの」というのは、大切な概念です。新共同訳が良い訳を行なっています。「滅ぼし尽くしてささげるべきもの」であります。主の前では徹底的に滅ぼされなければいけないものであり、そのことで主が聖なることを示すものであります。

 その中にあるものを取るということは、主に二つのことを意味しています。一つは先ほど話したとおり、主の栄光を自分のものにするということです。エリコにおける神の徹底的な裁きは、神ご自身が行なわれたことでした。主が戦われたものであり、そこには主の聖なる栄光が満ちています。その一部でも取るということは、その功績を少しでも自分のものにしたいと願うからです。アカンの行ったことは、体内を蝕む病原菌のように、イスラエルの宿営に静かに潜行していきました。ただ主の栄光がエリコの滅亡に現れていたのに、それを自分たちの力に拠るものと思わせていたのです。私たちが、肉との戦いにおいて勝利を得られると、または奉仕の働きにおいて大きな前進が与えられると、その神の聖なる栄光を少しでももらおうという欲望が出てきます。

 そしてもう一つの意味は、滅ぼされるべきものに触れると自分も滅ぼされるということです。私たち人間の内には、異様な好奇心があります。神の御霊によって、エリコにあるものはことごとく忌み嫌われていることがはっきりと現われたのに、その忌み嫌われているものを敢えて触れてみようと思ってしまうことです。以前、私がイスラエル旅行から死海の水を少量、持ち帰ってきました。そして大学生の人々に聖書の学びの時にこれが死海の水であることを紹介し、厳しく「ぜったいに舐めてはいけない。」と戒めました。ところが、やはり舐めてみてしまった女の子がいたのです。彼女はそのまま水の蛇口のところに向かいました。絶対に触れてはいけないと言っているのに、それを敢えて行なおうとする好奇心です。

 絶対に触れてはいけない事柄についてパウロは、教会に対して次の警告を発しています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。(コロサイ3:5-6」これらのものを自分の内に取り入れるのは、火を自分のふところの中に入れるようなものです。必ず害を受けます。

2C 兄弟への欺き
 そして、アカンの個人的罪がイスラエルの陣営全体に影響を与えたことにも注目しなければいけません。自分だけの問題ではなかったのです。現代は、個々人が行なっていることは社会の秩序を乱すことがなければ何を行なってもよいとされています。けれども、霊的には違います。テサロニケの信者たちにパウロはこう教えました。「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。(1テサロニケ4:5-6」神のみこころを損なう個人生活は、その生活そのものが教会の他の兄弟に偽っていることであり、欺いていることになります。そうすれば、それらの兄弟たちにつまずきとなり、心に傷を残すのです。

3C 滅びの刈り取り
 そしてアカンは、石打ちの刑に処せられ死にます。自分はこれを手に入れてその時は気分が良くなったかもしれません。けれども、それは滅びへと至ります。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7-8」そして、箴言にはこういう言葉もあります。「だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。(20:17」貪りが出てきた時は、その後にどうなるのかということを考え、自制を働かせる必要があります。

3A 霊的再開
 そしてイスラエルの民は、深く悔い改めた後、改めてアイ攻略に取りかかりました。それが8章に書かれています。

1B 十全な整え
 主は、「戦う民全部を連れてアイへ攻め上れ。(8:1」と命じられました。先ほどの一部の者だけとは異なります。十全な整えをした後に攻めたのです。

2B 異なる戦略
 そして、エリコを陥落させた時とはまったく異なる戦術を神は命じておられます。ときの声で城壁が崩れ落ちるようなものではありません。伏兵をもうけて、おびき出し作戦を取るように命じられました。一般的な攻略法ですね。劇的な勝利ではありません。忍耐と思慮深さを要する戦いです。けれども悔い改めた彼らは、この比較的地味な方法に忠実に従いました。主はいつも同じように働かれるのではありません。そしてしばしば超自然的なことを、ごく自然に行なわれる方です。城壁が崩れ落ちることと同じように、伏兵を配置することは超自然的なことです。

 主が行なわれるのは多様であり、そして私たちはその方法に拠り頼むのではなく、ただ主に拠り頼む必要があります。主イエスも病人いろいろな方法を使って直されました。

 持続的な勝利を得る人こそが、真の勝利者です。ある時に劇的な勝利を得ても、それだけで終わってしまう人が数多くいる中で、安定して信仰の成長を遂げている人、揺り動かされることのない人、失敗してもへりくだって悔い改め、忍耐して事を成し遂げる人。際立った、目覚ましい働きを時には見るかもしれないけれども、いつも変わらず忠実に主に仕えている人。主はこのような、持続的な御霊の働きの中に自分を置いている人を喜ばれます。

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