レビ記1−3章 「主に捧げる物」
アウトライン
1A 全焼のいけにえ 1
1B 会見の天幕 1−2
2B 雄牛 3−9
3B 羊と山羊 10−13
4B 家鳩 14−17
2A 穀物の捧げ物 2
1B 上等の小麦粉 1−3
2B 作った物 4−10
3B 塩の味付け 11−13
4B 炒った穀粒 14−16
3A 和解のいけにえ 3
1B 牛 1−5
2B 羊と山羊 6−13
3B 主の脂肪 14−17
本文
レビ記の学びが始まります。これでモーセ五書の三冊目に入りました。創世記、出エジプト記、そしてレビ記です。さっそく本文を読んでみましょう。
1A 全焼のいけにえ 1
1B 会見の天幕 1−2
1:1 主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。1:2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
レビ記は、出エジプト記の続きです。私たちは前回、モーセが幕屋を組み立てて、その幕屋に栄光の雲が満ちたところを読みました。そしてすぐに、主がモーセをその幕屋から呼び寄せてお語りになったのがレビ記です。元々のヘブル語の書名はレビ記ではなく、「そして主は呼び寄せた」となっています。
ですから出エジプト記ではシナイ山の上において、主がモーセにお語りになっていました。けれども今は、イスラエルの宿営の真ん中にある幕屋の中からモーセを呼び寄せておられます。すでに神はイスラエルの民と、この民の咎について和解を果たされました。金の子牛の事件の時には主は、「わたしはあなたがたと行かないからだ」と仰いましたが、今は彼らの真ん中にとどまっていてくださっています。
そしてレビ記の特徴は、ここで主がお語りになる言葉だけが書き記されていることです。イスラエルは宿営にとどまっており、モーセが主から語られているだけです。つまり、神中心の書物です。会見の天幕において主がその栄光をもって語られているので、人の考えや主張が一切入っていない書物です。
そしてレビ記は、「あなたがたは聖なる者となりなさい」という呼びかけが中心になっています。出エジプト記において主はモーセとイスラエルの民に対して、ご自分が聖であることを示されました。そして今、主は彼らにご自分の中に入ってきなさいという招きを行われています。ゆえに、彼らに聖さが求められるのです。主が聖なる方であるのだから、自分たちも聖くならなければいけません。出エジプト記がエジプトからイスラエルを贖い出す、贖いの書であるならば、レビ記は神と共に要るところの聖めの書と言うことができるでしょう。
ですからすでにイエス様を自分の救い主として心に受け入れ、この地上で主に仕えている人々にとっては、もっとも身近な書物ということができると思います。天に入るまでの地上での生活は、罪から救われた者としてふさわしい、罪から離れた生活が特徴となっていなければいけません。その聖潔はどのようにして得ればよいのかを教える書物になっているからです。
レビ記は主に二つに区分することができます。1章から16章までと、17章から27章までです。どちらも「聖め」について教えています。1章から16章までは、「いけにえによって神に近づく」ことを教えています。自分が聖くなるというのは、自分の道徳的な行いによって達成できるものではありません。自分の代わりに死ぬ犠牲が必要です。犠牲によって、神に近づく道を教えています。そして17章から27章までは、「聖別によって神と歩む」ことについて教えています。生活の具体的な場面において、罪や汚れから離れて生きることによって神との交わりを保つことができます。
そして1章から7章までに、家畜によるいけにえについての教えがあります。いけにえは主に五つ書いてあります。全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、そして罪過のためのいけにえです。私たちは今日、初めの三つ、全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、そして和解のいけにえについて学びます。
2B 雄牛 3−9
1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。1:5 その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。
レビ記の始まりは、全焼のいけにえを捧げるところから始まります。全焼のいけにえは、既に創世記8章から始まっています。ノアが洪水の後に全焼のいけにえを捧げました。これは9節に説明が出ていますが、「全部を祭壇の上で焼く」ことに特徴があります。ゆえに「全焼のいけにえ」と呼ばれています。
初めにこれは、自ら進んで行ういけにえであることに注目してください。「牛をささげたい。全焼のいけにえとして捧げたい。」と願う者が会見の天幕の入口まで持っていきます。3節にある「主に受け入れられる」というヘブル語は、「主の前で自発的に」と訳すこともできます。喜んで捧げる、と訳すこともできるでしょう。2章の穀物の捧げ物もそうですし、3章の和解のいけにえも同じく自発的に捧げるものです。4-5章にある、罪と罪過のためにいけにえは異なります。それは、しなければいけないことです。
聖めの始まりは、このような自発的な献身があります。だれに押されてでもなく、自らがこの方に自分をお捧げしたいと願うことから始まります。本当はしなくても良いのです。けれども、主との交わりを始めるのであれば、まず自分自身を主にすべてお捧げする決意が必要なのです。
そして牛であるなら、「傷のない雄牛」でなければいけません。欠陥のあるもの、傷のついているものは捧げることはできません。なぜなら、主が受け入れられるものだからです。聖なる神が受け入れるいけにえは、完全なものでなければいけません。イエス様は、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)」と言われました。けれども、私たちは完全になることはできません。では、どうすればよいのでしょうか?
ここで大事な原則は、「私たちが捧げる前に、主がご自分を捧げてくださった」ということです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」神を愛すること、神に捧げることは、まず神がご自分の御子を与えてくださった、ささげてくださったということに基づくのです。そして、その愛に触れた者だけが、応答として主にわが身を捧げることができます。
ですから、レビ記に出てくる各種の捧げ物は、第一義的に、神の完全な捧げ物であるイエス・キリストご自身を表しています。主イエス・キリストは、父なる神にすべてのことを委ねられました。人として来られた主は、ご自分の意思で行ったことは一つもありません。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19)」
そして、最後の最後まで、実に十字架の死に至るまで、ご自分を父なる神に従わせました。動物の全焼のいけにえでは完全にすることのできなかった罪の赦しを完成されるために、主はこのように父なる神に対して言われます。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:6-8)」ご自身がいけにえとなって、父のみこころを行われたのです。
そして次に行うことは、牛の頭に手を置くことです。そして、自らの手で牛を屠ります。これが、「彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるため」とあります。ぜひ第一礼拝の説教をお聞きください、手を置く儀式は、自分の罪を告白して、そしてその罪が牛の上に置かれたことを表すものです。そして、牛の行く末は本当は自分の行く末である、自分はこの牛と同じようにならなければいけなかったのだ、ということです。罪が牛に転嫁され、そして牛が自分の代わりになったのです。
そして自分の手で屠ることは、確かに自分の罪がこの牛を殺したのだ、という重大さを表しています。自分が神の前に立つときに、キリストの十字架は他人事ではなく、まさに私の罪がその十字架に置かれているのだと悟ることです。
そして5節には、祭司が祭壇の回りに血を注ぐことが書かれています。これは、バケツの水を放り出すような行為であり、祭壇の側面にバサッと血をぶっかけるのです。確かにこれで、自分の罪が贖われたこと、罪が赦されたことを確信します。
こうした罪の赦しの確信があってこそ、私たちは主に献身することができます。ペテロ第一1章2節に「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。(1ペテロ1:2)」イエス・キリストに従うように、血の注ぎかけを受けたとあります。そして使徒パウロは、私たちを神の憐れみのゆえの献身を勧めています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)」
1:6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。1:9 内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
屠ったいけにえは、まず祭司らがその皮を剥ぎます。その皮は祭司のものとなります。そして、いけにえを部分に切り分けます。かつてアブラハムもいけにえを切り分けたのを思い出せますか?彼はいけにえを真っ二つに切り分けましたが、その間を主が通られて契約を結ばれました(創世15章)。
そして祭壇の上に薪をくべて、その上でいけにえを置きます。肢体は切り分けられています。頭、足は切り分けられ、内臓と足は汚れているので水で洗ってからその上に載せます。ここに、あらゆる体の部分が主に捧げられている姿を表しています。もっとも大切な頭も、主の思いで満たされます。足は自分が行くべきところはすべて主に捧げられていることを表します。そして内臓は、心のうちにあるはかりごと、動機ですが、これもすべて主に捧げられていることを表しています。
そして最後に、これが「宥めの香り」として主に受け入れられます。主が快く受け入れられたことを表しています。キリストご自身が、主の前で香ばしいかおりを放っておられました。「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:2)」ゆえに、私たちが愛のうちを歩むことによって、私たち自身も主への香ばしいかおりになることができます。
そして第一礼拝でもお話しましたが、「主の前で」という言葉が繰り返し出てきます。イスラエル人は祭司の前に持ってくるのではなく、主の前に自分が立っていることを意識していました。私たちの信仰はすべて自分が主の前に出て行くことです。他の人は眼中にありません。もちろん共同体として私たちは、心を一つにして主をあがめますが、究極的にはたった独りで主の前に立つのです。
3B 羊と山羊 10−13
1:10 しかし、もし全焼のいけにえのためのささげ物が、羊の群れ、すなわち子羊またはやぎの中からなら、傷のない雄でなければならない。1:11 その人は祭壇の北側で、主の前にこれをほふりなさい。そして祭司であるアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。1:12 また、その人はそれを部分に切り分け、祭司はこれを頭と脂肪に添えて祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。1:13 内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
牛ではなく羊や山羊の場合の全焼のいけにえの教えです。牛よりも安価な家畜です。大事なのは自分の家畜の中から捧げることですが、ここでは「羊の群れ」と強調しています。私自身に関わることでなければ、捧げ物がいっさい意味のないことになってしまいます。ダビデが神殿の敷地になるエルサレムの土地の区画、そして全焼のいけにえをアウラナというエブス人から買い取りましたが、初めアウラナは「すべて差し上げます」と言いました。けれどもダビデはこう言いました。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(2サムエル24:24)」私たち自身が、積極的に礼拝に関わるのです。
4B 家鳩 14−17
1:14 もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、山鳩または家鳩のひなの中から、そのささげ物をささげなければならない。1:15 祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。1:16 またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。1:17 さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
牛も羊も捧げる経済的余裕のない貧しい人は、鳩を捧げることができます。分かりますか、主はそれぞれ人々を召されたところで、ご自分に仕えることができるようにしてくださっています。これは逆に、「私は今、これこれの状態であるから、まだ主に捧げることはできません。」という言い訳をいうことはできないということです。主は、今あるもので自分を捧げなさいと呼びかけておられます。"Just as you are"をいう歌があります。「あなたのそのままの姿で、主のすばらしさを味わい見てみなさい。」という歌です。
牛や羊と異なるのは、肢体を部分に切り分けることができないということです。頭はひねり裂きますが、餌袋は水で洗うことをせず灰捨て場に投げ捨てます。そして、翼も引き裂きますが、引き離すことはしません。切り分けることが契約の印であり、各部分が主に捧げられることを強調するには不十分ですが、その現実の中にあっても主にささげることができる枠組みを主は与えてくださっています。
ところで、鳩を捧げている人の話が新約聖書に出てきます。他でもない、イエスの両親ヨセフとマリヤです。「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。・・それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。・・また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。(ルカ2:22-24)」とあります。レビ記12章に、出産後の女がいけにえを捧げるのは羊と家鳩であるが、羊を飼う余裕のないときは二羽の家鳩をささげよ、とあります。主イエスは貧しい家庭にお生まれになりました。
コリント第二8章9節にこうあります。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様が貧しくなられたのは、私たちが霊的に豊かになるためでした。使徒パウロはこれを、惜しみなく捧げ、分け与える恵みにおいて豊かになりなさいという勧めの中で書いています。豊かに分け与える者が富んだ者です。
2A 穀物の捧げ物 2
ですから、私たちが聖なる神との交わりをしたい、自分自身が聖なる者として生きてみたいと願うのであれば、自分自身をキリストにあって全てささげることです。特に、キリストの死をもって捧げるということです。そして2章は、全焼のいけにえ、また和解のいけにえと共に添えて捧げる、「穀物の捧げ物」を教えています。
1B 上等の小麦粉 1−3
2:1 人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、2:2 それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。2:3 その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。
穀物の捧げ物は、それ単独で捧げられている場面は、罪のためのいけにえで非常に貧しい人が捧げる時に出てきますが、ほとんどありません。主に対する捧げ物は、血をもって捧げなければならないというのが原則だからです。
穀物を捧げることは、命を捧げるといって良いでしょう。主が与えてくださった植物にある命を、主にお返しするという意味で行っています。これはまさに、イエス・キリストのご生涯そのものと言ってよいでしょう。イエス様は、「わたしが命のパンです。(ヨハネ6:35)」と言われました。御霊がこの方の上に下り、聖霊によって成し遂げる恵みの業、父なる神への祈り、福音書に出てくる、イエス様の人間模様がそれです。ルカによる福音書が、四つの福音書の中でイエス様の人間性を前面に出しているものです。私たちのために、この方は数多くのことをしてくださいましたが、けれどもこの方が最後の死ななければ、私たちの根本的な必要である贖罪、つまり罪の赦しは与えることはできませんでした。
ちょうどそれは、私たちのためにいろいろなことをしてくれた恩師に例えることができるかもしれません。私たちのために働き、労し、励ましを与え、いろいろなことをしてくれましたが、私たちがとんでもない失敗を犯したとしたら、その人ができる最大のことはその尻拭いをすることです。もしそれをしてくれなかったら、その他の良い働きは無に帰してしまいます。同じように、主は私たちを癒し、私たちの日頃の糧を与えてくださり、私たちの生きる力と知恵を与えてくださいますが、罪の赦しと解放のために死んでくださいました。
同じように、私たちの献身は始めに、キリストの死から始まります。そしてキリストにある自分の死から始まります。この体験なくして、私たちがどんなに教会の活動に熱心であっても、自分の人生を捧げますと言っても無意味です。けれども、私たちがキリストと共に死んだことを知っているならば、その献身にはキリストの命があふれます。キリストがよみがえられて、かつてガリラヤでご自分の命の風を吹き飛ばされたように、その後の弟子たちの生活に現れました。使徒の働きがその記録です。
したがって穀物の捧げ物は、キリストご自身の命と、キリストにある私たちの命を表します。この捧げ物にはいくつかの形の捧げ方がありますが、基本は小麦粉そのものを捧げることです。新共同訳には「上等の小麦粉」とあり、彼らの最善を主に捧げます。そして、その上に「油」を注ぎます。この後の捧げ物にも油は用いられます。
さらに「乳香」も捧げます。乳香は、中東地域で採取できる木から取れる樹液を固めたものです。アラブ人は、コーヒーを飲むときに、これに火を焚いて、部屋を甘酸っぱい匂いで立ち込ませるそうです。食べることもできるそうで、グミのようなもので、爽やかな感じがするそうです。イエス様が葬られた時に女たちは、同種の香料である没薬も使った香料を携えたと考えられますが、死臭を打ち消すためにも用いられました。
そして、油を注ぎ、乳香全部を使って小麦粉一掴みを祭壇の上で焼きます。それが「記念」つまり主に覚えられるものとなり、全焼のいけにえと同じく主にとって宥めの香りとなるのです。そして、残りの小麦粉は祭司のものとなります(6:16-18)。
油は、すでに学びましたが、聖書には聖霊の働きとしての比喩として登場します。ゼカリヤ書4章に出てくる燭台のともし火皿に、直接オリーブの木から油が注がれていましたが、それは主の御霊を表していました。イエス様は神の御子でありましたが、完全な人となられました。ゆえにご聖霊の働きが必要でした。イエス様がナザレのユダヤ教会堂にて、イザヤ書61章を朗読されました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(ルカ4:18-19)」そして、これが「あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われたのです。主の御霊の働きによって、イエス様が数ある癒しと福音宣教と、罪の赦しと、束縛からの解放などの恵みを与えられたのです。
そして私たちがキリストのうちにいるなら、このキリストの御霊が私たちの上にいてくださいます。私たちのうちで、私たちを通して御霊の業が力強く行われえるのです。
そして乳香については、私たちは香壇の学びに時に学びました。香壇から至聖所に入る煙は、聖徒たちの祈りを表していました。同じようにキリストは、地上の生活の間、いつも父なる神に祈っておられました。夜を明かして祈られたこともあります。そこから出てくる命は父なる神に覚えられ、まことに芳しかったのです。私たちも同じように、御霊の影響下にある生活を送り、絶えず祈る姿を神がご覧になるときに、それを覚えておられ、快く受け入れておられるのです。
2B 作った物 4−10
次はパンとして焼く場合の捧げ物についての教えです。
2:4 あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物をささげるときは、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れない輪型のパン、あるいは油を塗った、種を入れないせんべいでなければならない。2:5 また、もしあなたのささげ物が、平なべの上で焼いた穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れないものでなければならない。2:6 あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油をそそぎなさい。これは穀物のささげ物である。2:7 また、もしあなたのささげ物が、なべで作った穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉で作らなければならない。2:8 こうして、あなたが作った穀物のささげ物を主にささげるときは、それを祭司のところに持って来、祭司はそれを祭壇に持って行きなさい。2:9 祭司はその穀物のささげ物から、記念の部分を取り出し、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。2:10 穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。
三つの方法が書いてありましたね。一つは、竈で焼いたもの。もう一つは、平鍋で焼いたもの、つまりフライパンです。そして三つ目は鍋で焼いたものです。主は、イスラエル人の各家庭に合わせて、上等の小麦粉だけでなく、自分たちの持っているものから穀物の捧げ物を捧げることができるようにしてくださっています。
ここで共通しているのは、一つはパン種がないことです。パン種とは、イースト菌、あるいは酵母菌です。パンなので大抵パン種が入っているのですが、主に捧げる時はこれを入れてはいけません。なぜパン種を入れていけないのかは、次の11-13節を読んだ後で説明します。
そしてもう一つは油が混ぜられている、あるいは上から注がれていることです。私たちの内におられる御霊は混ぜられている油ですが、私たちの上に臨まれる御霊の働きは上から注がれる油です。私たちは使徒の働きで学びましたが、イエス様は復活されて昇天される直前、弟子たちに対して「聖霊があなたがたの上に臨まれると、力を受けます。」と言われました。それは外側に対して働かれる聖霊が、私たちを通してその働きを行われることです。けれども、イエス様を自分の心の内に受け入れた人は、御霊がその人の内に住んでくださいます。救いの確信を与え、愛、喜び、平安を体験することができ、主に心の内での聖霊の働きであります。
そして興味深いのが、平鍋のパンは粉々に砕いて油を注ぐことです。詩篇51篇でダビデが、ベテ・シェバとの姦淫の罪をナタンに指摘された後で歌ったとき、こう言いました。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)」私たちが自分の命を神に差し出す際に、このように砕かれた魂を御前に持ってくる時に主が聖霊で私たちを満たしてくださることが分かります。
3B 塩の味付け 11−13
2:11 あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。2:12 それらは初物のささげ物として主にささげなければならない。しかしそれらをなだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならない。2:13 あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。
穀物の捧げ物で入れてはいけないのは、パン種と蜜です。そして入れなければいけないのは、塩です。12節の初物の捧げ物については、五旬節においては種ありパンを捧げることがありますので、但し書きです。
なぜなのでしょうか?先ほどの乳香ともに考えてみましょう。パン種と蜜はどちらも、私たちの腹を満たしてくれます。パン種はパンを膨らましてくれるし、蜜は私たちに即効で栄養を与えてくれるものです。聖書では蜜は、豊かさの象徴になっています。もちろん乳香と塩も、生活において必需品ですが、その違いは「火」を通すとどうなるか、ということです。蜜はただ焦げてしまい、だめになってしまいます。けれども乳香は火を通すとかえってよい香を出します。塩も炒め物に使う調味料であり、火に耐えるものです。
したがって、私たちがこの地上において試練という火をくぐっても、なおそこに実質的な命が残っているかどうかを考えて見ればよいでしょう。平常は蜜のように甘くても、乳香のように香を強く出すことはないかもしれません。けれども試練の時に、キリスト者の信仰は非常に強い香を放ちます。なぜこんな困難の時に、試金石となるような言葉を話すことができるのですか?と驚きます。私は横田早紀江さんのことを思いますが、娘さんを失った後にヨブ記を読んで受けた信仰から出てくる言葉は、日本国民を揺るがすような強い力を持っていました。
平常の時には聞こえが良い言葉はこの世にたくさんあります。そこで自分の悩みに答えてくれるものはあるでしょう。けれどもイエス様の言葉は、塩気はありますが、甘い食物ではありません。けれども、人生の本質を語っておられるのです。ゆえに、平常時には即座においしいとは言えないかもしれないですが、人生の根本を揺るがされるときには、試金石となるのです。
パン種は、いつも聖書において悪い意味で使われます。パリサイ人や律法学者の教えをイエス様はパン種と呼ばれました。使徒パウロは、コリントにある教会で罪が許容されているときに、「ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくまらせる(1コリント5:6)」と言いました。キリスト者としての生活の中に、悪いものをそのままにしておいてはいけません。パン種は、腐敗を促進させる効果を持っています。その反面、塩は腐敗の進行を遅らせる力を持っています。この世がいかに悪くなろうとも、それが極度に悪くなるのを防いでいるのは、イエス・キリストの福音の中にある聖さなのです。
4B 炒った穀粒 14−16
2:14 もしあなたが初穂の穀物のささげ物を主にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない。2:15 あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添えなさい。これは穀物のささげ物である。2:16 祭司は記念の部分、すなわち、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香全部を焼いて煙にしなさい。これは主への火によるささげ物である。
粉にする前に、初穂の穀物を主に捧げたい時の教えです。穀粒をそのまま捧げるのではなく、まず火であぶらなければいけません。そこにある水分を取り去った後で捧げる必要があります。言うなれば、捧げる前に命をなくさなければいけません。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)」とイエスさまは言われました。ご自分の命を多くの人々に与えるために、まずご自身の命を捨てなければいけないと考えられました。イエスさまは血を流されて、いのちを注がれたから、そのいのちが私たちに与えられています。
イエス様は続けてこう言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネ12:25)」イエス様が命を捨てられたことによって、命を与えられたように、私たちも自分に死んでいくなかで、キリストの命を持っていく生活を歩んでいくことができます。「自分のいのちを愛する」とは、生活全般のことです。自分の大切にしているものを大切にしていきたいために、キリストの命を軽んじるのであれば、その大切にしていると思っていた命さえもが失われます。けれども、キリストの命を重んじるがゆえに自分が大切に思っているものを二番目、三番目のものとするのであれば、自分は失うどころか、永遠のいのちという本質的な、実質的な命を得ることができるということです。
3A 和解のいけにえ 3
1B 牛 1−5
3:1 もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前ににささげなければならない。3:2 その人はささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の入口の所で、これをほふりなさい。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。3:3 次に、その人は和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、3:4 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。3:5 そこで、アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上のたきぎの上にある全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
「和解」という訳は、他にもいろいろあります。「平和」とも訳すことができるし、「交わり」とも訳すことができます。これは、神の恵みに感謝して神との交わりを深めようとするものです。これは、私たちが全焼のいけにえと穀物の捧げ物によって確立された、個々人の神への献身の後で、主との平和を楽しみ、その豊かさに浸り、喜び楽しみます。
和解のいけにえの特徴は、その一部を捧げた人も食することができることです。ここには書いてありませんが、7章に食べるときはその日のうちに食べなさいという教えがありますが、これは「神との食事」を表しています。ここに書かれているとおり、脂肪や腎臓や肝臓の上の小葉は祭壇の上で焼きますが、それは主が食する部分です。そして肉のうち、胸と右ももの肉は祭司が食しますが、残りの肉は捧げた人が食べます。これは、人が食する部分です。一つの動物を神と人の間で分かち合い食べることによって、神と一つになっていることを表しています。
聖書の中には、また中東においては、食事は人との平和を表します。ヤコブがラバンの家から出て行き、ラバンが追いついて危うくラバンがヤコブに危害を加えようとしましたが、そこで石塚を立てて「ミツパ」と呼びました。お互いにその境界線を越えて危害を加えてはいけない、という証拠です。そしてその契約を結んだ後でヤコブとラバンはいけにえをささげて、食事を共にしています(創世31:54)。
いかがでしょうか、私たちが礼拝の後でお菓子とコーヒーを飲みながら交わりの時を持ちますが、その時に自分の思いを分かち合うことができ、単なる学びでは味わえない一体感を共有することができます。さらに食事であればなおさらのことです。日本食や西洋の食事では分からないかもしれませんが、韓国や中国の食事では同じ皿から食べます。同じものがそれぞれの腹に入ることによって一体感を生み出します。そして、腹八分どころか腹十二分に食べることのできるほどの量を見て、私たちはその豊かさにある喜びと平安を分かち合うことができるのです。
イエス様も、ラオデキヤにある教会に対して、熱心に悔い改めることを命じ、その後で、イエス様の叩く戸の音を聞いて開くなら、イエス様が来て食事を共にしてくださると約束されています(黙示3:20)。イエス様がなぜ、聖餐を行うように命じられたかと言いますと、食べることこそがキリストの流された血と、また裂かれた肉との間に一体感が生まれるからです。
こう考えると、私たちの考える平和というのは、非常に乏しいものであることがわかります。単に平穏であるからといって私たちは一体感を持っているでしょうか?そこにある豊かさを満喫しているでしょうか?私たちがそれぞれ自分で作り上げた空間の中に生きていて、それぞれに接触する摩擦もなく、その接触が希薄であれば、それは聖書の定義する平和とは程遠いものです。
1節をご覧ください、全焼のいけにえでは雄牛と指定されていましたが、ここでは雄と雌の牛のどちらも良いことになっています。ここから、一つの御言葉を思い出します。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)」私たちの間にはさまざまな隔ての壁があります。性別の違い、民族や宗教の違い、経済的格差などがあります。けれども、各人がキリストを主とあがめているのであれば、そこにある壁が一気に崩れて、その他の方法では決して味わうことのできない一体感を味わうことができます。
私たちは他民族の人々、他言語の人々、他国家の人々としばしば交わりますが、キリストにある一体感は何ものにもまして尊いものです。それは、同胞の日本人の人々とも味わうことのできない一体感であり、あらゆる違いを超えるものです。それはかつて敵であった者同士であっても、兄弟と呼び合うことのできるような和解をもたらすことができます。これはキリストのなせる業であり、まず私たちそれぞれが神との和解を果たしたことによって、二人が一人になることができるのです。
パウロはユダヤ人とギリシヤ人の間にある壁をキリストが打ち壊されたことを、こう話しています。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(エペソ2:14-16)」
キリストの十字架において私たちは一つにされました。聖餐式は、それを実体にするために行われます。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(1コリント10:16-17)」ですから、私たちはキリストとの交わりのみならず、同じキリストにあずかることによって、互いとの交わりも行っているのです。
いかがでしょうか?このような、とうてい接点がないような人々とキリストにあって一つになれているということが、神の聖さにあずかっていることになります。神との交わり、神への感謝、そして互いの交わりが、聖い生活から来る良い実なのです。
2B 羊と山羊 6−13
3:6 主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。3:7 もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。3:8 ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。3:9 その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、3:10 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。3:11 祭司は祭壇の上でそれを食物として、主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。3:12 もしそのささげ物がやぎであるなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。3:13 ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。そしてアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。
全焼のいけにえの時と同じように、その人の経済的状況に応じて牛よりも安価な羊また山羊を捧げることができるようにしてくださっています。その手順は牛の場合と同じです。
そして全焼のいけにえの時も、和解のいけにえの時も、犠牲の動物が傷のないものでなければいけません。これは、キリストもご自身に傷やしみのない方、罪を犯されなかったし、罪の性質も持っておられなかった方を表しています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」
3B 主の脂肪 14−17
そして最後に、なぜ主は、脂肪の部分を捧げるように命じておられるのか考えてみたいと思います。まず、14節から最後まで読みます。
3:14 その人は、主への火によるささげ物として、そのいけにえから内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、3:15 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。3:16 祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。3:17 あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。」
血については、私たちは第一礼拝で既に学びましたが、それは命そのものを表しているからです。神のみが命を与え、またそれを取ることのできる方であります。それは完全に神の領域の中にあります。
では脂肪についてはどうでしょうか?聖書の中にある脂肪の単語を調べますと、同じへブル語が「豊か」と訳されているところが多いです。例えば創世記45章18節を読みます。「あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』(創世45:18)」ここの「最も良い物」というのが、「脂肪」と同じ単語です。同じようにモーセは、約束の地の豊かさをこう描写しています。「主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い・・・(申命記32:13)」
したがって、脂肪はひとえに「豊かさ」を表しています。ですから、脂肪は主のものである、という神の発言は、「豊かさはすべてわたしから来るのだ」ということを言い表しています。脂肪を人が食することは、言い換えれば、「私が豊かさをもたらす」ということになります。これは、言わば人の高慢であり、聖書には、人の高慢な心を、脂肪のような鈍い心に例えています(例:詩篇119:70)。
パウロがこう話しました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(1テモテ6:17)」いかがでしょうか、私たちは自分が平均的な生活を歩んでいると思っています。自分が富んでいるとあまり考えません。けれども、もし「私の生活は、私が貯めた金、私が働いた報酬、あるいは家族が与えてくれた金だ。神から来たものだとは考えていない。」と考えているのであれば、それはまさに脂肪を自分で食べる行為であり、神が忌み嫌われることなのです。
豊かになることが罪なのではありません。その富を与えておられる神に感謝していないことが罪なのです。すべての良き物は主から来ています。それに感謝しているでしょうか?それとも、足りないと言って不満を垂れてはいないでしょうか?
今日は、全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして和解のいけにえを学びました。聖なる神に近づくために必要な三段階です。自分をキリストにあってささげ、そして自分の生活をささげ、その中で神と互いとの交わりをすることができる、ということです。次回は、神の民が罪を犯してしまったらどうなるのか?すでにキリストを知っている人が罪を犯したらどうなるのか、聖さを取り戻すために捧げなければいけない、いけにえについて学びます。