レビ記13章1-8節 「らい病と罪」

アウトライン

1A 罪の特徴
   1B 皮膚より深い
   2B 広がる
      1C 麻痺
      2C 損傷
   3B 隔離
2A 清め
   1B 祭司の宣言
   2B いけにえ

本文

 レビ記13章を開いてください。私たちはレビ記を学んでいますが、明日、第二礼拝では12章から14章まで学んでみたいと思っています。今晩は、131-8節を中心にして学びます。

13:1 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。13:2 「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。13:3 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。13:4 もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患者を七日間隔離する。13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。13:7 もし、その者が祭司のところに現われ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはらい病である。

 私たちは前回の学びから、「清いものと汚れたもの」の区別について学んでいます。いけにえを捧げる祭司のうちで、アロンの息子ナダブとアブフが、主に命じられなかった異なった火を主の前に捧げたために、彼らが主からの火で焼き尽くされてしまいました。そこで主はアロンに、聖なるものと俗なるもの、汚れたものときよいものを区別するため、掟を与えると教えられました。

 そして主が初めに教えられたのは、清い動物と汚れた動物です。何を食べてよいのか、いけないのかの食物規定を与えられました。それら自体が衛生的に汚れているということよりも、その動物の形態が、心の態度を表す清さと汚れを映し出しているものでした。そこで主は続けて12章において、出産後、その出血によって汚れる母親についてについて教えられます。そして13-14章は、癩病について教えます。15章は、漏出する体液についての教えです。これらも、私たちの内にある罪や汚れを指しています。

 ところで、私は新改訳第二版から読んでいますが、皆さんの多くが第三版の聖書をお持ちだと思います。そこには「ツァラアト」となっていますね。これはヘブル語תצָרָ֫עַをそのまま読んでいるものです。新共同訳では「重い皮膚病」と訳されています。なぜかと言うと、13章と14章に出てくる様々な症状は必ずしも「らい病」「ハンセン病」とは言えないからです。特に、衣服にらい病がある、また家にらい病があるという言葉も出てきますが、これは明らかに「かび」です。

 けれども、らい病あるいはハンセン病にある症状は、実に「罪」という性質を如実に表しています。らい病そのものに罪があるのでは決してありません。そうではなく、らい病の症状が目で見える形で、私たちの内に潜む罪を否が応にも写し出しています。 

1A 罪の特徴
1B 皮膚より深い
 2節をご覧ください、「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったとき」とあります。

 みなさんは、らい病についてどれだけご存知でしょうか?日本では今や、年に数人しか感染しませんが、発展途上国ではまだまだ多くの人がこの病気を患います。らい病の問題は第一に、感染経路が分からないことです。ハンセンという医者が「らい菌」を発見したので「ハンセン病」と呼ばれていますが、未だに感染経路が分かっていないのが特徴です。いわゆる他の伝染病とは全然違って、感染源である癩病患者と一緒にいても容易に移ることはありません。「いつの間にか」というのが、らい病です。

 そして、症状が出るまでの潜伏期間は、3年から5年、また10年あるとも言われています。このとてつもない長さが、ある意味で罪の性質をよく表わしています。聖書では罪は生まれた時からあることを教えています。ダビデは、「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5」と言いました。彼は壮年の時に犯した姦淫の罪であるにも関わらず、生まれた時から内に宿していた罪が、現われたことを言っています。いつまでも内に潜んでいるのが罪であります。

 そして発症する時には、いま読んだように、腫物(はれもの)、瘡蓋(かさぶた)、あるいは斑点のような皮膚の変色から始まります。私たちは頻繁に、皮膚に何かができますね。おできやニキビが出来たり、日焼けをして赤くなってしまったり、汗をかいて発疹が出来たり、ちょっとけがをしてそこにちょっとした膿ができることもあるでしょう。そうした症状と初めは何も変わらないのが、らい病です。

2B 広がる
 ところが、これが徐々に広がっていきます。七日間祭司がその患者を隔離しますが、七日目に調べて、そのままに見えて患部が皮膚に広がっていないなら、さらに七日間隔離します。それで、患部が薄れていて、広がっていないなら、それはかさぶたに過ぎないので「清い」と宣言します。

 ところが、その後で進行するのがらい病です。7,8節を見てください。「もし、その者が祭司のところに現われ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはらい病である。」このように「らい病」は、初め出てきて直ったかと思わせて、一時期、引っ込むという悪さをします。

 ここに、罪の特性がよく現われています。初めから大きく罪が現われるのではありません。少しだけその悪を出すだけです。そして、いつも出ているのではなく、少しだけ悪さをしては、また状況や環境が変わると引っ込みます。ところが、その間、どんどん体を蝕んでいます。けれども私たちは、表面的な現われしか見ていないので、また、時々した自分を悩ますことはないので、「たいしたことはない」と思います。

 けれども、はっきり罪が現われた時には自分はかなり大きな傷を負っているのです。初めからはっきりと現われていれば、そこで私たちは治療を受けることができますね。1313節をご覧ください。「祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。」なんと、全身が吹き出物で覆われたら、汚れたのではなく、「清い」という宣言を受けるのです。

 自分はまったくの罪人であり、頭から足まですべて罪に侵されているのだという悟りがある人は、神の前では正しいと認められる一歩手前にいる人なのです。神殿の中にも入らず、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、取税人が自分の胸を叩いて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。(ルカ18:13」と言いましたね。その後、義と認められて家に帰ったとあります。

 ですから、明らかに罪を犯していると認められるのを「罪」と考えたら、自分を欺いていることになります。ちょっと出ては引っ込み、その間に体を蝕む陰湿な潜行性が、神の目には「汚れている」とされているのです。

1C 麻痺
 そして、次からハンセン病の恐ろしさが始まります。その「らい菌」は、手足などの外側にある空だの器官の末端神経を麻痺させます。らい病患者の多くが手足を失いますが、それは「らい菌」が行うものではありません。あくまでも末梢神経を麻痺させて、それで痛みを感じさせないようにするために、手足を自ら痛めるのです。

 私たちは、「痛い」という感覚を嫌います。風邪を引いて頭痛がすると、憂鬱な気分になりますね。けれども、それは体が「あなたは休みなさい」という信号を送っているのです。もし働きつづけたら、体をさらに壊すよという警告を発しているのです。もし「痛い」という感覚がないと、どうなるか私たちは知っているでしょうか?それがらい病の患者に起こることです。手が、沸騰しているやかんに触れても、気づきません。足に棘が刺さっても、痛くないのでそのままにしています。そこから当然、ばい菌が入ります。

 聖書では、「良心の麻痺」という言葉が使われます(1テモテ4:2)。罪は、私たちの意志の力を削ぎ落します。私たちがはっきり罪を犯す時には、初めは非常に良心が痛みます。「私はなんでこんなことをやってしまったのだろう。」という強い後悔が残ります。ところが二回目に同じ罪を犯す時には、それほど痛みません。そしてそれ以降に同じ罪を犯す時には、重度のやけどと同じように良心が麻痺してしまい、最後には無感覚になってしまうのです(エペソ4:19参照)。

 そうすると、自分自身では罪に抵抗できなくなっています。罪をやめたいと思っても、もはややめることができません。「しまった、私は罪にがんじがらめになっている。」と気づいた時には、もう遅いのです。それに抵抗する力を自分のうちに有していないです。

2C 損傷
 そして、らい病によって体の各部分が損なわれます。らい病の進行を簡単にまとめた文章をお読みします。 

・手足の機能の変調が見られ、顔の容貌が明らかに変わってくる。
・その後、耳や鼻が萎縮し、見た目にもはっきり醜い形相となる。
・また指や手足の硬直が始まると、歩き方や動作がぎこちなくなってくる。
・知覚障害も起き始め、転倒することが増えてくる。それに伴って傷などが増え、
 免疫力が低下しているため治りも遅く、ほおっておくと化膿し、膿を持つ。
 同時に強烈な悪臭を放つ。
・たえず神経痛に襲われ、そのうちに歩くことも動くことも困難になってくる。
・そして全身がらい菌に冒され、死に至る。

 体が徐々に損なわれていき、最後は死に至るのです。次のらい病人による手記は、その悲惨さを物語っています。

そばに寄ると臭かった。ほおっておけば蛆(うじ)が生じ、包帯が汚れたままだと、夜、寝てからネズミにかじられた。指を脱落させ、足を断ち、日増しに顔相が変わり、顔なのか何なのか分からなくなっていった。神経痛に切り刻まれる思いをし、熱こぶの汗が布団を貫き、骨が腐るほど痛み、すべての部位を冒された挙げ句に視力を失い、そこからウジ虫が生まれても、ただ無抵抗に祈るしかなかった。

ひたすら他の病気で死にたいとねがいながら長らえ、結局、指は曲がり、あるいは脱落し、髪の毛がごっそり抜け、鼻梁(びりょう 鼻柱のこと)も没落、そこには1つないし2つの、高さというもののない孔だけが残る。血のにじんだような赤い眼もやがて白濁し、かつては敬遠した鏡の中の自分の顔も見られなくなる。(「無菌地帯」大竹章著)

 ヤコブの手紙には、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 1:14」とあります。らい病と同じように罪も徐々に進行し、最後は死に至らせるのです。

 ちなみに現代の医療技術では、ハンセン病は治癒できるものになりました。薬の投与によって可能です。けれども、進行してしまったものについては時計の針を戻すことはできず、後遺症は残ります。

3B 隔離
 そして、らい病は人を隔離させます。1345-46節を読みます。「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。(13:45-46

 このように、共同体から疎外された生活を送らなければいけません。そして彼らは大抵、ゴミ捨て場の辺りにいました。そこで捨てられたものから食べ物を得るためです。サマリヤがアラム(シリヤ)に包囲された時に、食べ物がなくなって、らい病人四人がアラム軍の陣営に行った時のことを思い出してください。その時は、町に食べ物がなくなったので、ゴミさえもでなくなったからです。

 このように、罪は私たちを隔離させます。私たちを交わりから引き離し、私たちを孤独にします。神との交わりはもちろんのこと、他の人々との関わりも引き離します。そして、罪がとどまっているなら、神のご臨在から離れたところ、つまり永遠の地獄にとどまらなければいけないのです。

2A 清め
 けれども、ここからが福音です。レビ記13章は、らい病患者の悲惨な状況を教えていますが、14章はらい病人がきよめられている姿を読むことができます。142節を読みます。「「らい病人がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。

 私たちは、罪の奥深さを知らなければいけません。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9」それが今見てきた、らい病が表している罪の姿です。けれども恵みの福音の力も知らなければいけません。イザヤが言いました。「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(1:18」人には決して治癒することのできないらい病を、神は、それを癒される恵みも備えておられるのです。

1B 祭司の宣言
 まず、祭司が宿営の外にいるらい病人のところに行きます。らい病人は宿営に入ることはできないので、祭司が出て行きます。同じように、私たちの罪の清めも、私たちがすでにいる所までイエスが来てくださいます。主は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10」と言われました。私たちが必要なのは、自分を清めることではありません。私たちのありのままを主に見ていただくだけです。ただ主が、自分のところまで来てくださったことをお迎えするだけです。

 そして祭司は、癒されているのを確認したら、二羽の清い小鳥を用意します。さらに、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを用意します。土の器に湧き水を入れます。そして、小鳥のうち一羽を湧き水の上でほふります。その血の混じった水の中に、杉の木と緋色の撚糸とヒソプを入れ、そしてもう一羽の生きた小鳥を入れるのです。そして、その水をらい病人に七度振りかけます。それから小鳥を空に放ちます。

 これが意味しているのは何か?第二礼拝で詳しく説明しますが、結論から言いますと、「キリストの十字架の死とよみがえり」です。死んで血を流した小鳥が十字架です。そしてそこから生きて空に飛び立ったのは、死者からのよみがえりです。らい病人が、その水を振りかけてもらったように、私たちはキリストとともに水のバプテスマを受けました。キリストの死とよみがえりの力が、私達ではどうすることもできない罪を根こそぎ取り除くことになるのです。

2B いけにえ
 そして、彼は衣服を洗い、体毛をみな剃り落します。赤ちゃんのように、まったく新しく生まれたことを表しています。そして七日間待ちますが、それからいけにえを用意します。罪過のためのいけにえ、罪のためのいけにえ、そして全焼のいけにえです。それを捧げる時に、なんと、血を彼の右たぶと右手の親指と、右足の親指に付けます。また用意した油をさらにその上に付けます。そして残りの油を頭の上にかけます。

 これは、祭司が任命を受けた時ととても似た行為です。つまり、らい病人は、単にイスラエルの共同体の一員になれただけはなく、イスラエルの礼拝生活の中心に招き入れられたのです。祭司と同じように、主への礼拝に大胆に、自由に集うことのできる者へと回復してくださったのです。放蕩息子が父親のところに戻ってきた時に、しもべとして働くのではなく、父は彼を息子として盛大な祝会を持ちました。これを聖書では「恵み」と言います。罪が清められ、赦されただけではなく、神の相続者として、とてつもない祝福を受けているのです。

 そして最後に、マタイ8章を開いてください。1-4節までお読みします。「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」」これは、イエス様は山上の垂訓を語られた後での出来事です。

 レビ記14章においては、すでに清められた人の所に祭司が赴いて、清められたことを宣言しましたが、あくまでも宣言であり、それを癒すのはあくまでも神ご自身でした。祭司は共同体の中に招き入れる儀式は執り行いましたが、共同体の中に入ることのできる力は与えませんでした。律法には、神の恵みの力が働く余地を残していますが、力そのものではなかったのです。けれども、イエス・キリストはその力を持っておられます。この方がおられるので、レビ記14章の律法を初めて実行することができるのです。

 この箇所で、イエス様のほうが手を伸ばしていることに注目してください。これは、決してしてはいけない行為です。汚れがその人に移るからです。けれども、イエスはかえってその人に触れられました。イエスはただ語られるだけでも、人を癒すことがおできになります。遠くにいる人でも、その言葉で癒すことができます。ところが、イエス様はあえて彼を触られたのです。ここに福音があります。私たちはイエスを汚すことはできません。イエスに触れられる人は、イエスを汚すことはなく、イエスが私たちを清めるのです。イエス様が私たちに影響されることはなく、私たちがイエス様に影響されるのです。

 決して人には触れられたくない傷と罪をお持ちでしょうか?そして罪と傷の中で打ちのめされるときはあるでしょうか?ダビデは心と体の苦悩を、次のように言い表しました。「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。…私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。…私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。…私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:3,5,7,17,18」イエス様はそこの部分にまで手を伸ばすことがおできになります。この方こそが私たちを癒す医者です。

 そしてこの方は、らい病人を癒されただけでなく、ご自分がらい病人と同じようになられて、その傷で私たちを癒されました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(53:4」とイザヤは預言していますが、ウルガタというラテン語訳では、らい病に当たる言葉を使っています(Leprosum)。イエス様は傷を全身に受けられ、そして人々から引き離されました。それが、私たちがらい病人のように傷を負い、神から人から引き離されているのを癒されるためです。

 こうした主がおられます。主が受けられた傷は、まさにあなたの身代わりだったのです。この方が手を伸ばされています。「わたしの心だ。清くなりなさい。」と言われます。この方に触れていただきましょう。

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