レビ記15−16章 「罪の総清算」

アウトライン

1A 漏出する体液 15
   1B 男の漏出 1−18
      1C 性病 1−15
      2C 性行為 16−18
   2B 女の漏出 19−33
      1C 月経 19−24
      2C 不正出血 25−33
2A 贖罪日 16
   1B いけにえの準備 1−10
   2B 贖罪 11−28
      1C 至聖所の聖め 11−19
      2C アザゼル 20−28
   3B 全き安息 29−34

本文

 レビ記15章からです。私たちは、清めと汚れの区別について学んでいます。初めは、食べてもよい清い動物か、それとも食べてはならない汚れた動物かの区別を見ました。次に女の出産における出血を見ました。不浄の期間とされました。そして、らい病の汚れです。

1A 漏出する体液 15
1B 男の漏出 1−18
1C 性病 1−15
15:1 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。15:2 「イスラエル人に告げて言え。だれでも、隠しどころに漏出がある場合、その漏出物は汚れている。15:3 その漏出物による汚れは次のとおりである。すなわち、隠しどころが漏出物を漏らしても、あるいは隠しどころが漏出物を留めていても、その者には汚れがある。

 15章に出てくるのは、性器からの漏出物です。1節から18節までは男性の性器からの漏出物、19節以降は女性からの漏出物ですが、それは月経や不正出血のことです。男性からの漏出物は、16節から18節は精が出てきます。では、1節から15節までのここの漏出物は何でしょうか?原語辞典を調べますと、ほとんどが「性病」特に「淋病」と書いてありました。前回の学びからそうですが、まるでお医者さんのような気分がしますが、性病科のサイトには、淋病の症状についてこう説明しています。

男性での典型的な症状は感染の機会があってから27日くらいの後に、灼熱感を伴う排尿痛、尿道口よりだらだらとした黄緑色の排膿をもって発症します。放置した場合、何日かすると自然に排尿痛や排膿が治まる場合もありますが、淋病が治癒したわけではなく尿道内にいつまでも潜伏しているので相手にも感染させることになります。

 主がここで、「汚れている」と言われているのは、この「だらだらとした黄緑色の排膿」というのがここで言っている漏出物です。そして漏らしている時だけでなく、「溜めていても」汚れているというのは、尿道内に潜伏していることを意味しています。そして男性であることも大事です。ここで「その者」となっているのは「イシュ」つまり「男」です。女性の場合は症状が表に出てこないそうです。

15:4 漏出を病む人の寝る床は、すべて汚れる。またその者がすわる物もみな汚れる。15:5 また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。15:6 また漏出を病む人がすわった物の上にすわる者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。15:7 また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者も、自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。15:8 また、漏出を病む者が、きよい人につばきをかけるなら、その人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。15:9 また、漏出を病む者が乗った鞍はみな汚れる。15:10 また、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらの物を運ぶ者も、自分の衣服を洗わなければならない。水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。15:11 また、漏出を病む者が、水でその手を洗わずに、だれかにさわるなら、さわられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。15:12 また、漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない。木の器はみな、水で洗われなければならない。

 この漏出の汚れが、極めて強い伝染力で他の人に移します。確かに、淋病は感染力が強いです。これらの教えを守れば、確かに性病が移ることは避けられるでしょう。けれども、もう一度確かめますが、レビ記の「汚れ」は衛生や医学の見地から汚(よご)れていることを話しているのではなく、霊的現実を目で見える形で表しているものとして取り扱っています。ですから、汚(よご)れではなく、汚(けが)れなのです。

 12章からここに至るまで、私たちは詳しく「罪」について学ぶことができています。母親の出産に伴う悪露という出血は、原罪を表していました。つまり、アダムが罪を犯したことによって、その子孫が罪を受け継いでいる状態です。母の胎にいるときから、私たちは罪ある者だったのです。罪を犯すから罪人になったのではなく、生まれながらにして罪人だったから罪を犯します。

 そして「らい病」については、「内にある罪の性質」を表していました。私たちの内にある罪は、長いこと表に現れず潜伏します。そして表に出たときも、他のかさぶたや膿、火傷の跡のように、他の軽い症状と変わりません。私たちの罪もごく些細なことのように思われます。ところが、それが広がります。広がりを見せた時には、もう遅いです。末梢神経は麻痺し、無感覚になるため、自分の手足、鼻や耳がどうなるかも分かりません。同じように、罪は私たちの良心を麻痺し、自分が知らないうちに私たちを破壊しているのです。

 そして、らい病の恐ろしさは、「孤独」になることでした。宿営の外に住まなければならず、人が近づいても「汚れている」と叫ばなければいけませんでした。同じように、罪というのは私たちを孤独にします。神との交わりから私たちを引き離します。そして他の人との関係も壊し、私たちを引き離します。

 そして、ここの漏出物です。ここは「外に出てくる罪」と読んだらよいでしょう。汚れが他の人々に移っていく、ということです。もう一度、イエス様が何をもって私たちを汚すか、それを教えられた言葉を読んでみます。マルコ721-22節です。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり・・・」内側から出てくる汚れですが、それは本人を汚すだけでなく、外にいる人にも極めて強い感染力をもって汚していきます。

 例えば「陰口」です。箴言は陰口の悪をたくさん描いていますが、2620-22節を読みます。「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」いかがですか、私たちが陰口を聞くと、それは「おいしい食物」のように「腹の奥に下っていく」ようになります。それで、それが自分の汚れとなり、今度は自分が感染源になっていくのです。

 次に「妬み」です。怒りや憤りも人を汚し、悪影響を及ぼしますが、それ以上に妬みは人々に染みとおるように汚していきます。「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。(箴言27:4」ユダヤ人宗教指導者のイエス様に対する妬みは、数日前まで、「ホサナ」と叫んでメシヤとして迎え入れたユダヤ人群集を、「十字架につけろ」と叫ぶ殺人鬼に変えてしまいました。

 さらに「苦み」また「憎しみ」も多くの人を汚します。本人は穏やかに話しても、心にあるものが出てきて他の人に対して毒矢のように傷めていきます。「憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。(同26:24-26」次はヘブル書1214節からです。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、(14-15節)」聖さを保つために、互いによく監督する必要があります。

15:13 漏出を病む者がその漏出からきよくなるときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びる。彼はきよい。15:14 八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。彼は主の前、会見の天幕の入口の所に来て、それを祭司に渡す。15:15 祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。

 漏出物を患う人にも、希望がありました。出産の不浄においても、らい病においても、必ず清められた時の儀式があったように、ここにも儀式があります。

 七日を数え、衣服を洗い、からだに溜池の水ではなく湧き水を浴びます。御霊によって清められたことを表します。そして八日目には、鳩によるいけにえを、一羽は罪のためのいけにえ、そしてもう一羽は全焼のいけにえとして捧げます。このように、我が身を汚し、他の人も汚してしまう罪でありますが、主が悔い改めと、御霊の洗いによるやり直しを与えてくださっています。

2C 性行為 16−18
15:16 人が精を漏らしたときは、その人は全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。15:17 精のついている衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。15:18 男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。

 先ほどまでは、慢性的な漏出、そして不正常な漏出を取り扱っていましたが、ここでは正常な、単発的な漏出を取り扱っています。精を漏らしたときというのは、夢精のことを話しているのでしょう。そして、男女が寝て交わるというのは、もちろん夫婦関係の性交渉のことです。聖書では、結婚外において寝床は倫理的、霊的にも汚れたものとみなしています。

 興味深いのは、精を漏らしたり、性交渉をしたりした後で、全身水を浴びることです。もちろん、それが一番、きれいさっぱりできる方法ですが、再びこれは霊的な側面を反映している姿です。つまり、私たちが罪を告白すれば、すべての悪から清められる、という真理です。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9

 ある姉妹から、次のような質問を受けました。「私がまだ告白しきれていない、隠れた罪についてはどうすれば良いのですか。まだ意識に上っていない罪があるならば、まだ清められていないのですか。」そこで私は今、読んだヨハネ第一19節を読ませました。「すべての悪から私たちをきよめてくださる。」とあります。

 エゼキエル書にも、こう書いてあります。「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。(18:21-22」今、立ち返っているならば、すべての罪はおぼえることはない、と主はみなしてくださいます。

2B 女の漏出 19−33
1C 月経 19−24
15:19 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。15:20 また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。15:21 また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。15:22 また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。15:23 その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。15:24 また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。

 女性の、ほぼ月に一回起こる生理のことです。出血の期間は平均して三日から七日ですが、主は、「七日間」をその期間をされています。これも実際に出血している期間ということ以上に、儀式的に、完全数である「七」をもって汚れているとされています。

 男の漏出と同じように、生理の血による汚れも伝染します。けれども、実際の菌の感染ではないのですから、あくまでも表象(イメージ)的な意味で神は述べておられます。

 このようなことを見ると、「ずいぶん女性を差別しているな」と感じる方はおられるでしょうか?男性の場合は性病の漏出なのに、女性は健康な体の生理現象なのに、なぜ女性は毎月汚れているとされるのか?と問われるかもしれません。けれども、よく考えてみてください、その間、彼女は家事をすることができません。日本でも、労働基準法に生理休暇というものが定められています。女性の体には非常に優しい掟なのです。夫がその期間に妻と寝るというのは、妻に対して不快感を与えます。それも、自分自身が汚れるということで避ける動機付けになります。

 けれども次の場合は、非常に辛いです。

2C 不正出血 25−33
15:25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。15:26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。15:27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。

 つまり「不正出血」です。生理期間を越えて、あるいは生理でもないのに出血する場合です。子宮がんや子宮筋腫など、いろいろな原因があります。けれども、彼女にも他の汚れた人と同じように希望があります。

15:28 もし女がその漏出からきよくなったときには、七日を数える。その後にその女はきよくなる。15:29 八日目には、その女は山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。15:30 祭司は一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげる。祭司は、その汚れた漏出のために、主の前でその女のために贖いをする。15:31 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。」

 男性の漏出が清められた時と同じ儀式を受けます。ところで、新約聖書で不正出血を患っている女が出てきますね。「長血を患う女」の話です。12年間このような状態でした。けれども、らい病人と同じように、悲惨な状況から主イエスによって直していただいた福音が書いてあります。マルコ526節を読みますと、「この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物を使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。いかがですか、重い病気を患っている方は似たような経験をされているのではないでしょうか?

 けれども、彼女は、会堂管理者ヤイロの家に行こうとしているイエス様のことを耳にしました。イエス様に群集が押し迫っているので、その群集を掻き分けて近づいていったのです。わかりますか、これで何人の人が汚れてしまったことでしょう!彼女はイエス様の着物に触って、「血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」とあります。

 それでイエス様は言いました。「だれがわたしの着物にさわったのですか。」マルコ533節には、「女は恐れおののき、」とあります。そりゃあ、そうです。彼女は衆人環視の中で、自分が大勢の人を汚してしまったことを明かさなければいけなかったのです。けれども、彼女は「自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」とあります。彼女がイエスの着物に触れさえすれば清められる、と思ったのも信仰ですが、主の前にひれ伏して、真実を余すところなく打ち明けたのも信仰の表れです。

 私たちも同じように病があるかもしれません。身体の病気のみならず、罪の病もあります。長期に渡っているかもしれません。幼い時から始まっているかもしれません。そして、それを人に話すものならば、他の人たちを失望させ、苦しめ、悩ますかもしれません。けれども、主イエスには清めの力があります。この方に触れてみてください、その一歩を踏み出してみてください。主は直してくださいます。

15:32 以上が、漏出のある者、また精を漏らして汚れた者、15:33 また月のさわりで不浄の女、また男か女で漏出のある者、あるいは汚れている女と寝る男についてのおしえである。

 15章のまとめです。

2A 贖罪日 16
 次は、レビ記の前半部分の最高峰になります。聖めについて、前半部分は「いけにえによって、神に近づく」ことを学んでいます。私たちが、タバコを吸わないとか、お酒を飲まないとか、そのような行為を控えることで聖められるのではなく、あくまでも犠牲のいけにえを通してであることを知りました。「私は、これらの罪をやめることができない。」ではなく、「私は、これらの罪を犯してしまっています。主よ、どうか助けてください。憐れんでください。」と主に自分のすべてを明かし、介入してくただくのが聖めの始まりです。できるか、できないかの能力ではなく、主に自分の身を任せるかどうかの決断であります。そしてそれは、自分が主に捧げる前に、主ご自身が私たちに捧げてくださったことに対する応答であります。

 そして聖められることにおける最高峰は、神ご自身が人の罪に対してどのように対処されるかという、神の決断であります。16章は、レビ記23章に出てくる七つの祭りの一つである「贖罪日」であります。ヘブル語ですと「ヨム・キプール」です。個々の罪ではなく、イスラエルの全体の罪、その全ての罪に対して神が総清算をされる時です。

1B いけにえの準備 1−10
16:1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。16:2 主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。

 主は、清めと汚れの区別を教えられた後に、再びアロンの息子が行なったことを取り上げておられます。彼らが、主が命じられたものとは異なった火を捧げたとは、どういうことだったのか?ここを読むと、彼らは聖所の中に入り、その火を持って垂れ幕を通り、至聖所の中まで入ろうとしたことが分かります。

 そこで主が、この至聖所の中に入って贖いを行なう順番と方法を教えられます。私たちは、これまで外庭の祭壇における贖いは見ました。そこで、人の犯す罪が赦されました。けれども、至聖所に血を携えて罪の贖いをするというのは、個々の罪を赦すという類のものではありません。神が御座を持っておられる天が、人間を受け入れる余地があるのかどうか、という問題です。至聖所には、贖いの蓋が、ケルビムが彫られて存在しますが、ケルビムは、創世記3章において、罪を犯してエデンの園から追放されたアダムとエバが、命の木から実を取って食べないように、炎の剣をもって守っていました。神が臨在される所には、人はもはや中に入ることができなくなったのです。

 この問題を根本的に解決するのは、神ご自身がご自分の住まわれるところを人が入ってくることができるように、何か対策を採らなければいけません。これを「聖所をきよめる」と言います。主が住まわれる所が汚くなった、という意味ではなく、人をご自分が住まわれる聖なる所に迎え入れることができるように整える、ということであります。

 このことが詳しく説明されているのが、ヘブル人への手紙です。ヘブル人への手紙は、その名のごとく、ユダヤ人宛てに書かれた手紙です。信仰を持っているけれども、ユダヤ教の中に戻ろうとしている人々に対して、警告を与えています。そして、キリストご自身がユダヤ教において優れているあらゆるものよりも、さらに優れていることを教えています。その中で、ヘブル書の著者は、ここの贖罪日のことをたくさん取り上げています。その一つをお読みしたいと思います。97節からです。
 

9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。(これが至聖所に入ることです。)その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 幕屋はあくまでも模型であり、天を表していたことはすでに出エジプト記で学びました。そして贖罪日に大祭司が行なうことは、今読んだように、キリストが偉大な大祭司としてただ一度、父なる神が座しておられるまことの至聖所に入って、ご自分の血を携えていかれたことを示していたのです。キリストの流された血が、神が座しておられる天が人々を受け入れる大掃除をしてくれた、完全なきよめを行なってくれた、ということであります。したがって、これから読む、大祭司が行なうことは、キリストが天に私たちが入るために用意してくださったことを見ることができます。

16:3 アロンは次のようにして聖所にはいらなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、16:4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。16:5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。16:6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。16:7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。16:9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

 いけにえを捧げるに当たって用意しなければいけないものを、主は教えられました。まず、自分自身また自分の家族のために罪のためのいけにえです。若い雄牛が必要です。そして全焼のいけにえです。その後で、イスラエルのためのいけにえを捧げます。なぜならば、彼はこれから至聖所に入らなければいけないからです。彼自身に罪が残されているならば、滅ぼされてしまうからです。民のために罪の贖いをするためには、自分自身が全き者として主の前に出なければいけません。

 これは、キリストの罪なき姿を表しています。偉大な大祭司であるキリストが、神と人との仲介者であられる主が他の人々の罪の贖いをするには、自分自身に罪があってはなりません。もしあれば自分自身の罪のために血を流さなければいけなくなり、私たちに代わって贖うことができないからです。ゆえに、主は初めから罪の性質を持っておられなかったし、また罪を犯されませんでした。この方が処女マリヤから、聖霊による妊娠でお生まれになったのはそのためです。アダムからの罪を受け継いでいないのです。そして、主は肉体を持っておられましたので、あらゆる誘惑は受けられましたが、けれども罪は犯されませんでした。

 次に、服装を着替えます。いつもの栄光と美を表している装束は脱ぎます。その代わりに、すべてが亜麻布の服を身に付けます。長服も、飾り帯も、かぶり物もすべて亜麻布です。そして、この儀式が終わってからいつもの装束に着替えますが、これはイエス様が天におられる栄光を脱ぎ捨てて、肉体の姿を取られて卑しくなられたことを意味しています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8

 そして、イスラエルの民のための、罪のいけにえは二頭の山羊です。一頭はいつもと同じようにほふります。そして血を至聖所にアロンが携えていきます。けれどももう一頭は、生きたままにします。これは後で荒野に放ちます。これは罪が赦されることだけを意味するのではなく、荒野に放たれた山羊によって、罪が取り除かれたことを表します。キリストが行なわれた贖罪は、私たちの罪を大目に見るということではありません。私たちに罪が全くないようにみなす、ということです。罪は覆われたのではなく、全く取り除かれ、どこかに追いやられ、吹き飛んでいったということです。

2B 贖罪 11−28
1C 至聖所の聖め 11−19
16:11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。16:12 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。16:13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

 いけにえをほふるのは、外庭の青銅の祭壇であることには変わりないですが、そこにある炭火を火皿に入れます。それから、以前、特別な調合をしなさいと命じられた香を持っています。そして聖所に入り、香を炭火に入れて焚きます。それを、煙(ここでは「雲」と書いてありますが)にして、至聖所の中に入るのです。彼自身の罪が祭壇で贖われたことを祈りをもって、主なる神に伝える行為であります。

16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。

 これが「血によるきよめ」です。至聖所の契約の箱の上にある「贖いの蓋」の東側、そして贖いの蓋の前にそれぞれ七度ずつ振りかけます。この「贖いの蓋」は、ギリシヤ語では「なだめの供え物」と訳されているのと同じです。神の怒りの全てがそこで満たされた、ということです。神が罪に対する罰がそこですべて行われた、ということです。贖いの蓋の前で血を振りかけたというのは、私たちの罪に対する神の怒りが、すべてキリストの血にあって満たされたことを意味しています。

16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。

 イスラエルの民のためにも、同じように血を至聖所まで携えて、贖いの蓋の上と前に振りかけます。そして至聖所だけでなく、聖所も、また会見の天幕にも、血のふりかけを行ないます。

16:17 彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

 大祭司は、これらのことをすべて、息子の祭司らの助けを借りず、自分独りで行ないます。イエス様はこれを行なわれました。十字架に至る道はすべて独りで行なわれました。ゲッセマネの園のことを思い出してください。主は三人の弟子、ペテロとヨハネとヤコブを連れて、そばにいてもらい、それからさらに独りで父なる神に祈られましたが、三人は眠ってしまいました。そしてイエスを捕える者たちが来た時は、弟子たちは逃げていきました。ペテロは遠くから付いていきましたが、イエスを三度知らないと言ったのです。ですから、自分独りで贖いを行なわれたのです。

16:18 主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。16:19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。

 残りの血は、外庭にある祭壇の角に塗り、そして祭壇の上にも血を降りかけます。これによって、イスラエルの罪の贖いを成し遂げました。

2C アザゼル 20−28
16:20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。16:21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。16:22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

 これが先ほど用意された、生きている山羊のアザゼルです。英語ですと「スケープゴート」です。民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代りとして、その英語の単語は使われますが、すべてのイスラエルの罪を背負って荒野にいなくなることからそういう意味を持っているのだと思われます。けれどもヘブル語の「アザゼル」は、「出て行く」とか「追放された」とか「取り除く」というような意味があります。

 この山羊の頭に手を置きます。覚えていますよね、按手は手を置いた対象と一体になることを表しています。ここでありったけのイスラエルの罪を告白します。そこで山羊は、イスラエルのすべての罪を負った存在になるのです。そして、その罪が荒野の中で遠く離れて見えなくなります。

 ここの「荒野」とは、イスラエルが約束の地に定住し、エルサレムを都としてからは「ユダの荒野」になります。エルサレムの東にあるオリーブ山を越えると、急に荒地になります。さらに行くと、完全に荒野になります。道路は急降下です。死海のところまで続きますが、そこは世界で最も低い陸地だからです。この荒野にアザゼルを放つようにします。大祭司は神殿から眺めています。そして数人の者たちが、距離を置いて分岐点に経ちます。確かに山羊が荒野に進んでいるのを確認します。そして最も遠くにいる者が、確かにアザゼルが見えなくなったことを確認して、今度はエルサレムに向かって合図を送るのです。伝言のようにエルサレムに合図が伝わります。そして大祭司がその伝言を受け取って、罪が遠くに追いやられたことを宣言するのです。

 このように、主が贖罪日に意図されているのは、一切、これからは持ち出さない罪のことです。ただ罪を覆い隠すだけの贖いではなく、罪を取り除くための贖いです。これで最終的な処置を取ったのであり、これ以上何もしない、残こすところは何もなく、余るものも何もない状態です。これをヘブル人への手紙では、「永遠の贖い」と呼んでいます。キリストがただ一度、血を流されたことによって、いっさいの罪をなかったことにする働きであります。神のほうでこれを決めてしまわれたので、神は罪については、一切不問に付しておられます。

 いかがですか、これを主は行なってくださいました。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12」と言われます。そして思い出さないとも言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43:25」「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:34

 よろしいですか、私たちは過去の犯した罪が赦されただけではないのです。一切の罪が赦されたのです。思い出しも神はなさいません。未来に犯すかもしれない罪のためにも、キリストは血を流されたのです。あなたの前には罪は一切ないのです。取り除かれました。もちろん、私たちは具体的に罪を犯したら、それによって汚れてしまいます。けれども、そのことによって神とあなたとの関係は変わらないのです。ただ、一切を赦してくださった神の赦しを、悔い改めをもって受け入れるにしか過ぎないのです。

16:23 アロンは会見の天幕にはいり、聖所にはいったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。16:24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。16:25 すなわち、罪のためのいけにえの脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。

 着替えは聖所で行なっていました。そこに残してあった装束を再び身に付けました。イエス・キリストは人間の肉体を取られて卑しくなられましたが、けれども、死の中にとどまっていることはなく、よみがえられました。そして、よみがえられただけでなく、天に昇られました。ちょうど大祭司が再び装束を身に付けたように、キリストも初めに持っておられた父の栄光を、昇天によって再び受けられたのです。

 そして、その後に全焼のいけにえをいつものように捧げます。さらに、罪のためのいけにえの脂肪がそこにまで残っていて、火の中で燃えています。

16:26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営にはいることができる。

 山羊が罪を負っていなくなったので、それを見張っていた者たちも汚れを負ったために、宿営に入るには水の洗いをします。

16:27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。16:28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営にはいることができる

 罪のためのいけにえでは、皮、肉、汚物は祭壇の上で燃やしてはならず、宿営の外に捨て場で捨てなければいけません。そして捨てたものが帰ってくるときは、念を入れてからだに水を浴びます。イスラエルのすべての罪を負っているという大きな重みが感じられます。

3B 全き安息 29−34
16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。16:30 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

 贖罪日においては、「身を戒めなければならない」とあります。これは普通、断食と解釈されます。ここで彼らは罪が清められるための悔い改めを行なうのです。レビ記23章には、この贖罪日を含む七つの祭りが教えられています。そこで詳しく学びたいと思いますが、ユダヤ人たちが真に悔い改めてメシヤを受け入れるというのは、主が初めに来られた初臨ではなく、再び来られる時です。

 ゼカリヤ書に、その様子が書いてあります。まず1210節です、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」これは、世界中の軍隊がエルサレムを攻めてきた時に、窮地に陥った住民たちの救いのために主が来られる時の場面です。注意してください、「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」とあります。どのようにして主なる神を、突き刺すことができるのでしょうか?そうです、肉体を取られたヤハウェなる神、イエス・キリストを彼らユダヤ人の先祖は突き刺しました。手足に釘を打ちつけるように仕向けました。

 そこで彼らは初子を失ったように、嘆きます。これが身を戒めること、悔い改めることです。その結果としてゼカリヤ131節には、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」とあります。彼らが、悔い改めに伴う罪の清めを経験できました。彼らが真の意味で御霊による新生を経験するのです。それが国民的に、全体的に実現するのは主が再臨されるときのことです。

 そして、この日は全き安息の日となります。他の安息日よりも、さらに厳しく安息を命じられています。なぜなら、これはキリストが一切の罪を取り除いてくださった、贖いの完成を示しているからです。永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もうこれ以上、救われるためにしなければいけないことは一切になくなったので、その完成した業に留まることしかできないことを意味しています。すでに贖いは完成しました。これ以上、何もすることがないのです。ですから、今から私たちができることは、感謝することです。キリストがしてくださったことを讃美することです。そして、喜んで主に仕えることです。自分の義を達成するためにこれらのことを行なうのではなく、すでに達成されたから行うのです。

16:32 油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。16:33 彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。

 アロンが死ねば、その子が後を継いで大祭司となります。そして同じように、ただ独りでこれらの贖いを行ないます。

16:34 以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。

 繰り返していますが、「永遠のおきて」「年の一度」そして、「すべての罪を」とあります。神の総決算の日です。これが最終であり、一切の罪を取り除く時です。年に一度とありますが、それはたった一度、ということを示しています。なぜなら、永遠の赦しを与えるからです。

 これでレビ記の前半、「いけにえによる神への近づき」が終わりました。聖めへの道がお分かりになったでしょうか?次回から、この聖めをいかに保っていくのか、という課題について学びます。この世から別たれた、聖なる生活によって神と歩んでいくことを学びます。

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