レビ記23章節 「主の例祭」

アウトライン

1A 祭り
   1B 年と季節
   2B 収穫
      1C 神への依存
      2C 忍耐
2A キリストの御業
   1B 初臨
      1C 十字架
      2C 復活
      3C 聖霊降臨
   2B 再臨
      1C 教会の携挙
      2C イスラエルの救い
      3C 神の御国

本文

 レビ記23章を開いてください。私たちは第二礼拝で21-23章を学びますが、今晩は232節を読んで、そこから「主の例祭」について学んでみたいと思います。

イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。

 私たちは、「聖別による主との歩み」をレビ記17章以降から学んでいます。聖なる主と共に歩むためには、私たちが聖めの中に留まっていなければいけません。それで、この世にあるものから別たれて、主に属する者として生きていくことを学んでいます。

 そこで23章は、「聖なる祭り」が出てきます。異邦人も数ある祭りを行なっている中で、主はイスラエルには、ご自分に属する民として新たな祭りを与えておられます。「例祭」とありますが、これはもちろん、例年行なわれる祭りということです。年中行事のことです。日本にも、正月を初めとする数々の祭りがありますね。正月の後は節分、ひな祭り、お彼岸、端午の節句があり、夏には七夕、そしてお盆があります。そして秋には今はあまりお祝いされませんが、中秋の名月があります。中国や韓国では今でも盛んにお祝いされています。そして各地の収穫祭があり、そして新しい年を迎える師走を迎えるのですが、イスラエルの周辺の民も同じように祭りがあったのです。そこで、主がイスラエルにだけ与えられる祭りがあるのです。

1A 祭り
1B 年と季節
 祭りというのは、私たち人間の生活と人生に大きな役目を果たしています。それは暦にしたがって行っていますが、カレンダーとしては私たちには太陽暦と太陰暦がありますね。現代の日本では太陽暦が使われていますが、中国や韓国では太陰暦にしたがって正月やその他の祭りを祝っています。そしてイスラエルも太陰暦です。ですから、過越の祭りがある時は三月の終わりになる時もあるし、四月の半ばになる時もあります。

 私たち人間は決して、時間を物理的に、24時間、60秒というように考えていません。ある時は時間が長く感じるし、とても短く感じる時があります。物理的な長さよりも、その区切りが大切なのです。その区切りをつけているのが、いま話した太陽や月の運行であり、その運行にしたがって祭りを行なうことによって、私たちは「時」を意識します。例祭あるいは年中行事においては、一年におけるリズムを与え、そしてその中で生活の流れを作り、さらに人生観や死生観までも形成します。

 創世記1章には、興味深いことに、光の創造の他に、天体の創造のために神は一日を費やされました。第一日目に光を造られたのに、空と陸また植物を造られた後、四日目に太陽と月と星を造られているのです。その目的を主はこう仰っています。「ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。(創世1:14-15」光を天体に集めさせ、そこからの光によって昼と夜を区別するだけでなく、季節、日、そして年のために役立て、と命じられています。神は、天体によって私たちに時間の流れという賜物を与えてくださっているのです。

2B 収穫
 そして「祭り」についてですが、祭りの多くのものは収穫に関するものであります。それは世界中の祭りに共通しているものですが、なぜでしょうか?

1C 神への依存
 それは農耕というものは、自分の意思や力で何とかなるものではないからです。皆さんがテレビを見ると、芸能人が作物を育てて苦心している番組がありますね。農林水産省の官僚が、わざわざ千葉県で畑の一区画を農家の人に提供してもらい、時間があればそこで農作業をしている人の話もテレビで見たことがありました。近所の農家の人々は「これで、私たちの苦労も分かってくれるだろう。」と言っていましたが、私たちはいつもお店で野菜や果物を買っているので、まるで工場で製造されているように機械的に育てられていると思いがちです。けれども、天候状況はもちろんのこと、害虫などの問題もあります。自分では支配できない、自分の力ではどうしようもない部分が非常に多いので、それを天からの恵みとしてお祭りをするわけなのです。

 つまり農耕には、自分の力を超えた神の存在を意識する機会が多い、ということです。私たちの社会は都市文化です。ちょうどバベルの塔のように、煉瓦で家を建て、その壁にはアスファルトを塗り、そして都市を発展させ、天に届く塔まで建てられると思っています。自分たちで何とかできる、また自分たちで何とかしなければいけない、という錯覚に陥っています。皆さんが会社生活をしていて、いかがでしょうか、自分の思惑ですべてうまく行きますでしょうか?会社は自分たちの計画や予算でうまく行くでしょうか?そうではないことは明らかであるにも関わらず、神に祈ることをせずに、自分たちで何とかしようとする計画をすぐに立てようとします。高度な文明社会の中でこそ、鬱病が多いのもそのせいです。状況が決して許さないにも関わらず、自分で何とかしなければいけないと思い込んでいるからです。神への信仰、神の力への信頼、そして神に知恵を仰ぐことをしていないのです。

 けれども、主はイスラエルに対して、「乳と蜜の流れる地」をイスラエルに与えられました。そしてそこで豊かな生産力を祝福として与えることを約束されました。そして、これらがすべて神から来たものとして意識させるために、収穫を節目にして祭りを行なうように命じられています。

2C 忍耐
 そして農作業においてもう一つの特徴は、「忍耐」することです。実を結ばせるのは、自分では決してできないことを農民は身に沁みて分かっています。自分ができることは、種を蒔き、水を注ぎ、肥しを与え、常にきめ細かい世話をして、養うことだけであり、あとは神が成長させてくださることを知っています。

 そして、実を結ばせるのには「時」があることを知っています。その時を自分で早めることはできません。ですから、じっと待つしか他ないのです。ヤコブはこう信者に勧めました。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。(ヤコブ5:7

 私たちは、信仰の成長をなかなか待つことができません。しなければいけないことは決まっているのに、なかなか成果を見ることができず悩み、がっかりします。私が日本で奉仕の働きを始めた時、カルバリーチャペルで教わったとおりにやっているのに、なんで人が救われないのだ!と嘆くことが何度もありました。私はただ、神には時があることを忘れていたのです。私が何かやった、何かやらなかったということではなく、神がご自分の主権の中で決めておられる時があるのです。その中で神は、私たちに忍耐を身に付けることを教えておられます。ヤコブは、「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(1:4」と言いました。

2A キリストの御業
 けれども、他の国々もそれぞれの偶像に対して祭りを持っているのに対して、主はイスラエルに対しては、ご自分が定めたとおり祭りを行なうことを命じておられました。そこに表れている「聖さ」は何でしょうか?私たちは今、レビ記で「聖さ」を学んでいます。他の人々と異なって、神のみの民族として生きるべく、七つの祭りを与えておられるのですが、そこにある聖さとは何でしょうか?世界にも日本にもそれぞれに暦にしたがった年中行事がありますが、イスラエル人は例祭の中でどのような「時間」を体験してもらうようにしているのでしょうか?

 私たちが旧約聖書を読む時に、それを古代のイスラエルのことを語っているのだ、私たちの信仰生活とはあまり関係のないものだ、と思いがちです。しかし、実は私たちの信仰の対象であられるイエス・キリストが、「これらはわたしについて証言しているのです」と言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39」イスラエルの七つの祭りも例外ではありません。実に、この民は、メシヤの来臨を体験するために祭りを行なうように命じられていたのです。

1B 初臨
 私たち信仰者は、どのような「時」を意識して生きていかなければいけないでしょうか?私たちの始まりは何であるべきでしょうか?そして、私たちの生きてい行く過程はどのようにしていくべきでしょうか?そして、終わりはどうなるでしょうか?これらの質問に対して、七つの祭りは見事に解答を与えています。

1C 十字架
 祭りの初めは過越の祭りです。そして、それに続く種無しパンの祝いです。「第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。(5-6節)」私たちは既に出エジプト記12章において、イスラエルの民がエジプトを出る時に、この祝いを守りなさいと命じられたところを読みました。イスラエルの民が、子羊をほふって、その血を家の門柱と鴨居につけ、そのことにとって初子を殺す御使いが通り過ぎることを読みました。それは実に、イエス・キリストが私たちのために血を流してくださり、その血によって神の裁きを免れることを表していることを学びました。

 その結果、私たちの罪は取り除かれます。すべての罪が取り除かれる姿を、種無しパンが表していることも学びました。パン種は罪を表しています。そのままにしていると粉全体に膨らみます。罪もそのように私たちの生活を支配しますが、イエス様の血がその罪を根こそぎ取り除いてくださり、私たちは雪のように白くなります。

 私たちの全ては、十字架に現れている神の愛に根ざしています。この方が、私たちの罪のために死んでくださったこと、それゆえ罪が赦されました。私たちが生活をしていて、いろいろな問題の渦中の中に入り、そこで忘れられてしまうのがキリストの十字架にある神の愛です。教会の中に偽教師や偽使徒が入り込み、その偽りの教えを教会に入り込むのを許さず、耐え忍んだエペソにある教会に対して、イエス様はこう言われました。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示2:3-4」私たちは初めに戻る必要があります。どこから落ちてしまったかを思い出し、悔い改め、初めの愛に立ち返るのです。

2C 復活
 そして過越の祭りの三日目、初穂の祭りを行ないます。10節です、「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。」これは、大麦の収穫です。イエス様が死なれたのは、過越の祭りの日でしたが、三日目によみがえられました。まさに初穂の祭りの日に、主はよみがえられたのです。

 そこで聖書には、イエス様の復活が「初穂」として描かれています。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20」初穂は、単に初めての収穫という意味だけではなく、収穫全体の代表になっています。主に捧げるその穂が、それに連なるすべての収穫が主のものであることを暗示しています。同じように、キリストがよみがえられたということは、同じようにキリストに連なる者すべてが復活することを表しています。

 もし私たちが、キリストの死だけを見つめているのであれば、力がありません。救いがありません。希望がありません。この方は私たちの罪のために死んでくださいましたが、罪の報酬である死に打ち勝たれて、よみがえられたのです。この方が単なる優れた人間ではなく、よみがえられたことによって、実に神の御子、神ご自身であられたことも明らかにされました。この方がよみがえられたことによって、私たちも罪に打ち勝つ命と力が与えられたことを知ります。この方がよみがえられたことによって、私たちも、死そのものに打ち勝ち、復活するのだという希望に燃えることができます。この方がよみがえられたことによって、私たちは天においてキリストと永遠の共に生きる希望が与えられました。

3C 聖霊降臨
 そして五旬節が五十日後にあります。初穂の祭りから七週を数えて、その翌日が五旬節です。この日は小麦の収穫の初穂を主にささげます。私たちは、主が復活されて、その後どうなったかの話を思い出さなければいけません。復活された後に、イエス様は四十日間、弟子たちの中に現れて、神の国の証言をなさいました。そして、「聖霊があなた方の上に臨まれ、あなたがたは力を受けます。」と約束されました。そして天に昇られたのです。

 弟子たちは十日間、屋上の間で一つになって祈りを捧げていました。そして五旬節が満ちた時に、驚くべきことが起こったのです。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:2-4」イエス様の約束通りに、弟子たちに聖霊が臨まれました。

 私たちが、十字架の愛でいつも始まり、そして復活にある新しい命と力によって生きていくのは大切です。けれども、それだけであれば主の目的を全うすることはできません。イエス様は、いつもいっしょにおられた弟子たちに対して、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。(ヨハネ14:16」と言われました。私たちは、イエス様が弟子たちと共におられたように、ご聖霊によって私たちの共におられて、そして私たちを通して力強い働きをしたいと願われているのです。

 もし私たちが、ご聖霊の力を強調しないのであれば、そこには「語られた福音」のみがあり、「証言する福音」がなくなります。言葉によっては、福音は語られているのですが、その福音にともなう徴を見なくなります。私たちには聖霊の賜物が必ず必要です。そして御霊の賜物によって、福音の力を証言しなければいけません。お行儀よく、「福音」が私たちの教会の中には展示されているかもしれませんが、教会の外にあふれ出て、この世に対して影響を与えるダイナマイトにはならないのです。イエス様は、「あなたがたは、力を受けます」と約束されたとき、その力はダイナマイトの原語になっている「デュナミス」でした。

2B 再臨
 このように、五旬節は聖霊降臨を表しています。これで四つの祭りを見てきましたが、これらは春の祭りです。多くの教会は、これだけで生きようとしています。つまり、主が二千年前に来られて、十字架につけられ、復活されたこと、そして聖霊が与えられたことだけで生きています。けれども、メシヤの働きはそれだけでは終わりません。私たちの前に置かれている、将来の希望にもなってくださっています。それは、主が再び来てくださること、再臨によってです。

 次に出てくるのは秋の祭りです。太陽暦ですと九月半ばから始まります。春の祭りと秋の祭りには四か月ぐらいの期間が空いています。秋にはすべての作物の収穫があるのですが、それまでは夏の季節を過ごして忍耐して待っていなければいけません。この期間を、聖書では何と言うでしょうか?イエス様は、「天の御国の奥義」と呼ばれました(マタイ13章)。その時は、種が蒔かれて、それから実が結ばれ、収穫の時期に向かって行く時期です。

 つまり、今の教会の時代です。私たちは、将来の希望である再臨の話を聞いています。けれども、待っても戻って来られません。それで私たちは、その希望から目を離して、この世の楽しみに目が向きます。そして肉の欲望の中に、世の楽しみの中に溺れてしまうのです。

 そのことをペテロは第二の手紙の中で警告しました。主イエスの再臨を、「昔のままではないか。」と言ってあざける者が出てくる、と予告しています。けれども必ず主は戻って来られることを述べて、こう言っています。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。(3:8-9」主にとっては千年は一日のようなのです。ですから、主にとってはまだ二日しか経っていないのです!主の日はすぐに来ます。春と秋の祭りに間隔が空いているように、そこには教会による神の働きかけがあります。

 私たちは、主が戻って来られるまで、農夫のように忍耐しながら、せっせと作物が実らせるのを見守っていかなければいけないのです。主が戻って来られるときに、主がご覧になることのできる実を結ばせていることができるかどうか考えてみなければいけません。

1C 教会の携挙
 24節をご覧ください。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。」秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らすところから始まります。ラッパによって民を召集するのです。

 終わりの日には神がラッパを吹き鳴らすことを、聖書は教えています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17」教会が一気に引き上げられます。そこで空中にまで降りてこられた主にお会いします。この出来事をもって、私たち一人一人は救いの完成を見ます。朽ちる体が朽ちない体を身につけ、キリストに似た者に変えられるのです。栄光の姿に変えられます。

 したがって、私たちは熱心に主が教会のために来られることを待ち望んでいるのです。「携挙はあるけれども、そんなに強調してはいけない。」という人々が多いですが、それは救いの完成の否定そのものに他なりません。私たちは罪の力には打ち勝つことができますが、罪そのものからはまだ解放されていないのです。この体にはまだアダムから受け継いだ罪が存在するのです。これを取り除いていただくのは、主が来臨された時です。したがって、私たちは主が来られるのを熱心に待つのです。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。(1コリント16:22

2C イスラエルの救い
 そして贖罪日です、27節を見てください。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。」この日は、16章で学んだように、全ての罪が主の前で贖われるための日です。イスラエルの全ての罪のために、大祭司が年に一度、血を携えて至聖所の中に入ります。

 この日が預言的には、イスラエル人が地上に再臨されるイエスを見るときに実現することを学びました。ゼカリヤ書に、戻って来られた主が、彼らが突き刺した方、つまりイエスであることを知って、初子を失った者のように嘆く、とあります。けれども、それは恵みと哀願の御霊の働きによるもので、きよめの泉が開かれるという預言があります。つまり、イスラエルが全国民的にイエス様を自分たちのメシヤとして受け入れるのです。

 ローマ人への手紙11章にはこう書いてあります。「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。(25-26節)」私たちが時間を感じる時に、皆さんは「イスラエル」を思っているでしょうか?あまりにも数多くの教会が、今の時を知る時にイスラエルを考慮にさえ入れません。けれども、イスラエルが動くことによって、異邦人の完成が近づいていることを神は教えておられるのです。事実、イスラエルは1948年に建国し、そして世界中では爆発的な速度で福音が広がっています。それは、イスラエルをお救いになる主イエス・キリストが再臨される時が近づいているからです。

3C 神の御国
 そして例祭の最後は仮庵の祭りでしめくくられます。34節です、「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。」この日には、イスラエルの民が荒野の旅を神が守ってくださったことを思い出すために、家の外に仮庵を作り、そこに住みます。そして、木の実、なつめやしの葉、木の大枝、柳を取って主を喜びます。これは、すべての作物を収穫し終わったことをお祝いしています。

 この仮庵の祭りが、イエス様が再臨されて地上で神の国を建てられた後に守られている姿を、預言者ゼカリヤは語りました。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(14:16」すなわち、仮庵の祭りはすべての物が回復する神の国における喜びを表しているのです。

 イエス様は、世界中の人が来て祝宴を設けることを約束してくださっています。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(マタイ8:11」皆さんには、きちんと将来の幻が心に刻まれているでしょうか?イエス様が、「御国を来らせたまえ」と祈りなさいと命じられましたが、御国が到来するのを願って生きているでしょうか?そこが、最終的に私たちが入る所であり、入るだけでなく、そこを相続するようになるのです。パウロは、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。(使徒14:22」と言いました。神の国の希望なしに、私たちは今の苦しみを耐えることはできないのです。それが希望であるからこそ、私たちは救われているのです。

  このように、私たちの生活と時間は、イエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業に基づいています。そしてこれから行ってくださる救いの完成を待ち望むことによって成り立っています。どれ一つ除いても、不足しています。私たちが生活を送っている時に、主の働きがこれだけ明確になっているでしょうか?それとも、日々の生活の忙しさで、神の時など考える余裕もないでしょうか?

 私たちが空しさを感じた時に、私たちの人生には始まりがあり、そして今があり、そして終わりもあるのだということを知ってください。すべては神が見ておられます。まずはキリストの十字架からです。そしてよみがえりです。この福音の言葉を信じた人は救われます。けれども聖霊の力が必要です。そして主が再び来られることを熱心に待ち望みます。そして神の国が到来することを待っているのです。どうか、イスラエルの民が七つの祭りを祝うように、イエス様の御業を祝い続けてください。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME