ミカ書5−7章 「平安な義の実」

アウトライン

1A ベツレヘムからの支配者 5
   1B 安住の約束 1−4
   2B 敵の征圧 5−9
   3B 罪の除去 10−15
2A 主の訴状 6
   1B 善のみを行われた方 1−5
   2B 主が要求されるもの 6−8
   3B 悪への刑罰 9−16
3A 罪の悲しみ 7
   1B 善人のいない地 1−7
   2B 罪からの立ち上がり 8−13
   3B 祈りの答え 14−20

本文

 ミカ書5章を開いてください、今日の説教題は「平安な義の実」です。

 ミカ書をおさらいしたいと思います。彼はモレシェテという、ユダにある小さな町出身の預言者でした。イザヤなどが預言していた時代、北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされる前に生きていた預言者です。預言は、北イスラエルの首都サマリヤから始まりましたが、すぐにユダに移ります。アッシリヤによってサマリヤが陥落しましたが、その後、ユダの町々をも攻め取っていきます。

 そしてミカは、北イスラエルにあるものと同じものがユダにもあるという神の言葉を伝えました。貧しい者たちから取り上げて富んでいる者たちの姿です。預言者でさえも、自分に報酬を与える者には平安を預言し、そうでない者には災いを預言しました。けれどもミカは、「私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。(3:8」と言います。そしてその地が荒廃することを告げました。

 その中で、ミカは神が残された者を集めてくださるという、回復と憐れみの預言を行います。2章の終わりで、神は、羊の群れのように神は残された者を集めてくださり、主が先頭に立って、敵どもを打ち破ってくださると約束なさいました。そして3章から、イスラエルの支配者と預言者の悪を責めた後、4章から再び、イスラエルが回復する約束を与えておられます。

 そして4章9節から、バビロンに捕らえ移されることを話されます。捕え移された地で、主が彼らをお救いになると約束してくださいました。ペルシヤの王クロスによって実現しました。それから、終わりの日において、同じように異邦人に攻められるけれども、シオンの娘は立って、彼らを粉々に砕くことを知らせておられます。

1A ベツレヘムからの支配者 5
 そして5章です。5章は4章の続きであり、シオンの娘が敵に対して圧倒的に打ち勝つことを神が約束してくださっています。けれどもその人物が、人ではなく、実に神が立てられた王、キリストによって実現します。

1B 安住の約束 1−4
5:1 今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 「しかし」という接続詞が2節の始めに付くと良いでしょう。口語訳には付いています。1節には、バビロンによって包囲されているイスラエルの姿が描かれています。「イスラエルのさばきつかさ」というのは、ユダの最後の王であるゼデキヤのことを指します。バビロンが、彼の頬を杖で打っている、つまり究極の屈辱を味わうようにさせているのです。

 それとは対照的に、人間のイスラエルの王とは対照的に、神がお立てになる支配者が「ベツレヘム・エフラテ」から出てきます。この支配者はもちろんイエス・キリストです。イエス様がベツレヘムでお生まれになってしばらくしてから、東方からの博士がエルサレムにいるヘロデ大王を訪れました。そして、ヘロデは「民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかを問いただし」ました(マタイ2:4)。そして彼らが引き合いに出した聖書箇所が、ここミカ書52節です。

 そして神の方法はいつも、「低いものを高くし、高いものを低くする」であります。ご自分だけが高められ、人に栄光が行かないようにするためです(イザヤ40:4-5)。メシヤが、エルサレムのような最も大きな町からではなく、「ユダの氏族の中で最も小さい」ベツレヘムから出ます。約束の地の割り当てとしてユダ族に与えられた所がヨシュア記15章にありますが、そこにベツレヘムの町は出てきません。同じようにバビロン捕囚後、帰還した民が住みついたユダの町々がネヘミヤ記11章に出てきますが、そこにもベツレヘムがあります。本当に目立たない、平凡な町だったのです。

 そしてこの方が出てくるのは、「わたしのため」であると神は言われます。この王は、神から与えられた明確な使命を持っていました。それは、私たちはすでに福音書で、ご自分の命を私たちの罪の贖いとしてお捧げになるという使命です。

 それから、この王が出ることが「昔から、永遠の昔から」だと言います。ここのヘブル語は、ここまで永遠の昔を言い表せないほど、最も強い語調で永遠の昔を言い表しているそうです。したがって、これは神ご自身が抱かれる子、神の御子であることを示している言葉なのです。

 箴言にこのことを如実に表している言葉があります。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。(箴言30:4」天地創造を行ったのは神であり、またその子であるとはっきりと言っている箇所です。そしてミカと同時代に預言を行っていたイザヤも、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの(男の)子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。(9:6」と預言しました。赤子は神の御子であり、神と等しい方なのです。

5:3 それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。

 「産婦が子を産む」とは苦しみを受ける、ということです。イエス様も世の終わりの時を「産みの苦しみ」と言われましたが、イスラエルの民が苦難を受けて、それから約束の地に帰還できるようになる、という預言です。

5:4 彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。

 主イエス・キリストが再び来てくださり、神の国を地上に立ててくださり、その御名の威光によって、イスラエルの民が羊の群れのように守られ、安らかに住むことができるようになります。その理由が、「威力が地の果てまで及ぶからだ」と言われます。イスラエルの敵は周囲だけでなく、世界に及んでいるからです。

2B 敵の征圧 5−9
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。5:6 彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。

 これは当時の「アッシリヤ」の国のことではなくて、終わりの日にイスラエルを攻めてくる世界の軍隊のことです。なぜなら、エルサレムの宮殿を当時のアッシリヤは踏みにじりませんでした。この箇所は、当時アッシリヤがエルサレムを包囲する差し迫った危険を使って、終わりの日の型としている箇所です。

 そして「七人の牧者と八人の指導者」という表現は、「完全な、有り余るほどの」という意味です。エルサレムが守られるだけでなく、今度はイスラエルが圧倒的な力をもってアッシリヤ全土を征圧するという意味です。つまり終わりの日には、イスラエルを攻め込んでくる軍隊の国々を、イスラエルがかえって征圧するということです。

5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。

 すばらしいですね、ヤコブの残りの者、患難から救い出された残りの者は、人に望みをおかず、人の子らに期待をかけません。そのような者たちは、「主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立」のようです。イスラエルは五月から十月半ばまで雨が降らない乾季です。その時に、朝露は夏の作物を育てるのに死活的になります。人に頼らずに、主のみ、キリストのみに頼る姿は、まさにこの朝露のよう、また夕立のようだ、と言うのです。

5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。5:9 あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。

 主がともにおられるところのユダの軍隊は、異邦人に対して圧倒的な力を持ちます。

3B 罪の除去 10−15
 そしてミカは、この残りの者たちが現れるまでの過程を預言します。

5:10 その日、・・主の御告げ。・・わたしは、あなたのただ中から、あなたの馬を断ち滅ぼし、あなたの戦車を打ちこわし、5:11 あなたの国の町々を断ち滅ぼし、要塞をみなくつがえす。5:12 わたしはあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする。5:13 わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす。あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない。5:14 わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。5:15 わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する。

 主は、確かにイスラエルのために、イスラエルを攻撃する国々に戦ってくださいます。けれどもそれは、主なる神のみに拠り頼む者たちに与えられた約束であり、そうでない者たちは除去されて、その国は洗い清められます。

 神以外のものに拠り頼む要素は、これまでも預言者でたくさん出てきたものと同じです。一つは「馬や戦車」です。物理的に力を持つものに拠り頼むことです。そして、霊的に力を持つものが「呪術師」や「占い師」です。将来のことが分からない、不安になっている時に主に拠り頼むのではなく、これら占い師に向かいます。

 それから精神的なもの、宗教的なものに拠り頼んでいました。「刻んだ像と石の柱」です。この世的なものと言ってもよいでしょうか。以前、ある人から聞いたことですが、国が危機的状況に陥った時に何を信用しますか?という質問をアメリカ人にしたところ、多くの人が「教会だ」と答えました。事実、2001年の米同時多発テロの後に数多くの人が教会に行きました。同じ質問を日本人にすると、「主要新聞」だと答えたそうです。朝日新聞や読売新聞など、大手の新聞の情報を頼りにする、ということです。ですから、日本人にとってはマスコミが刻んだ像や石の柱かもしれません。 

 そして「アシェラ像」を主は根こそぎにされます。これは乳房がたくさん付いている豊穣の女神です。つまり性欲の神であり、今でいうポルノです。自分が拠り頼む対象として肉体的なものを選んでいる姿です。

 これらのものを主がすべて取り除くことによって、これらの罪から離れない者たちは滅ぼされますが、それら罪から離れて主の御名を呼び求める者には救いが与えられます。ですから、これはすべての人に適用できます。試練に遭うとき、私たちはいったい何に拠り頼んでいるかを吟味できるということです。そして、まことの神、主にのみ拠り頼むことを学び取ります。

2A 主の訴状 6
1B 善のみを行われた方 1−5
6:1 さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。

 ここからミカ書の三つ目の部分に入ります。「聞け」という主の呼びかけが、12節、31節にありました。1章から2章までが一つ目、3章から5章までが二つ目の区分です。それぞれが主の裁きの次に回復を預言しています。そして三つ目の区分が始まります。

6:2 山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。

 預言書の中で、法廷の場面を描いている部分が沢山あります。ここでは天地を証言台に立たせて、主がご自分の民に訴状を突き付けている場面です。なぜ天地を証人に立てておられるのか?それは、イスラエルが行ったことは人の目に隠せても、自然には隠すことはできないからです。どこかの地面が、どこかの空が彼らの悪い行いを見ていたからです。日本人が昔は、「お天道様が見ている。」という表現を使いましたが、それと似ています。もちろん、日本人の場合は、太陽を神にしてしまっているのですが、聖書ではあくまでも被造物です。

6:3 わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。6:4 わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った。6:5 わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。

 イスラエルがまことの神から離れてしまったけれども、神の側に何か非があったのだろうか?という問いかけです。神が、イスラエルの民につまずかせるようなものを彼らの前に置いて、それで離れてしまったのであろうか?ということです。

 神が彼らに関わられたことはすべて、良いことばかりでした。エジプトの地から、奴隷であった彼らを買い戻されたこと。そのためにモーセ、アロン、ミリヤムを送られたこと。そして、モアブ人の王バラクがイスラエルを呪うためバラムを雇ったのですが、バラムの呪いを主は祝福に変えてしまわれました。そして「シティムからギルガル」とありますが、シティムは民がヨルダン川を渡る前に、最後に宿営したところであり、ギルガルは渡った後に最初に宿営した所です。つまり、ヨルダン川を堰きとめて、無事にそこを渡らせてくださった神の御業を表しています。

 どこをどう見ても、主がイスラエルにつまずきを与えるようなことは一切ありませんでした。むしろ、イスラエルが神に感謝し、神を敬う良い業しか行っておられません。それにも関わらず離れていったのです。これは私たち人間の姿でもあります。信仰を離れた多くの人々が、自分の背信についていろいろな理由をつけます。けれども、圧倒的に多い神の恵みの御業を思い起こすことなく、二・三の不快な出来事の為だったりするのです。

2B 主が要求されるもの 6−8
6:6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。6:7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 今、ミカが神に代わって、「神が求めておられるのは何だと思いますか?」と問いかけている部分です。イスラエルの民には、ここにあるように「全焼のいけにえ」が命じられていました。そして彼らはそれを行っていました。エレミヤの時代、エルサレムが破壊される直前でさえ、彼らは神殿における犠牲のいけにえを絶やすことはありませんでした。 

 そして彼らは、さらに行き過ぎたことを行いました。「私の長子をささげるべきであろうか。」「私に生まれた子をささげるべきだろうか。」とあります。これは、異教徒が行っていた習慣であり、例えばモアブ人の王が、攻め入ってくるイスラエルに対して、彼らの目の前で自分の長男を取って、城壁の上で全焼のいけにえとして捧げました(2列王19:27)。自分の大切にしているものを捧げるということで、犠牲の精神が表れていますが、けれども人間をいけにえにすることは断じてあってはならないと神は戒めておられました(申命12:31)。けれども、アハズ王やマナセ王などエルサレムの中で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせる、忌み嫌うべきことを行いました(2歴代28:333:6)。

 当時のユダヤ人は危機が近づけば近づくほど、これら犠牲のいけにえを熱心に捧げていったのです。ところが主は、このようなことを要求しておられませんでした。主が願っておられたのは、「ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」だったのです。

 これを今の時代に当てはめればどういうことになるでしょうか?「熱心に教会に通いながら、神の裁きを受けることがあり得る。」ということです。なぜか?それは、「生活を変えることをなくして、宗教的に熱心になることができる。」ということです。公義、誠実、へりくだりを忘れて、献身的な働きを行うことができます。

 主がイスラエルに対して全焼のいけにえを命じられたように、信者に対しては、自分の体を生けるいけにえとして神に捧げなさいと命じられています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1」とあるとおりです。そして互いに仕え合い、神の恵みによって与えられた賜物を用いて熱心に奉仕しなさい、と使徒パウロは勧めています。ですから、教会生活を離れて信仰生活を確立することは決してできません。

 けれども、私たちがもっと大事なこと、ミカがここでイスラエルの民に訴えている「公義」「誠実」そして「へりくだり」を忘れてこれらのことを行っていたら本末転倒であることを教えています。イエス様が同じことをパリサイ人たちに対して言われました。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23

 私たちは、自分自身で、自分の目標設定を、神が命じられておられないのに立てることがあります。それを律儀に行っていくことによって、私たちはもっと大切な事を忘れることがあります。エペソにある教会のように、偽りの教えを排除するのに一生懸命で「初めの愛から離れる」ことがあるのです(黙示2:1-7)。

 私たちが神の御心は今どこにあるのか悩んでいる時、これからどの選択をしていけばよいのかどうか迷っている時、ここの8節の箇所を覚えておきましょう。一つ目は「公義」です。他の人々に対して、すべての関わりにおいて、公平に公正に対応することです。例えば、教会でみすぼらしい格好をしている人を見下げて、きちんとしている人をもてなすことを、ヤコブが手紙の中で「えこひいきをしている」と責めています(2:1-9)。また、私たちが人に恨まれていることを思い出したなら、自分が捧げようとしている供え物を置いて、その兄弟と仲直りしなさいと主は命じられています(マタイ5:23-36)。他にも数多くの状況があるでしょう、正しく接していきます。

 そして二つ目は「誠実」です。これは、「憐れみ」と言い換えてよいでしょう。イエス様が言われた、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7」という命令です。私たちは正しくなろうとするあまり、人への憐れみを疎かにすることがあります。けれども、むしろ私たちは、恵みによって与えられたその強さを、弱い人の弱さをになうために用いるべきです(ローマ15:1)。ガラテヤ書には、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(6:2」と命じられています。

 そして三つ目は「へりくだって、神と共に歩む」ことです。主と共に歩むには、へりくだりが必要です。神の前に立つときに、自分が行いたいと思っていること、強く願っていること、良いと思われることも含めて、すべてを投げ打って、ひれ伏さなければいけません。祈ることも、へりくだる行為です。自分には力がないこと、自分には知恵がないことを告白する行為です。

3B 悪への刑罰 9−16
6:9 聞け。主が町に向かって叫ばれる。・・御名を恐れることがすぐれた知性だ。・・聞け。部族、町を治める者。6:10 まだ、悪者の家には、不正の財宝と、のろわれた枡目不足の枡があるではないか6:11 不正なはかりと、欺きの重り石の袋を使っている者を罪なしとすることがわたしにできようか。6:12 富む者たちは暴虐に満ち、住民は偽りを言う。彼らの口の中の舌は欺く。

 主は彼らの行っている悪を責めておられます。「御名を恐れることがすぐれた知性だ。」と主は付け加えておられますが、私たちが、頭が良くなりたければ、賢くなりたければ、神を恐れることから始めなければいけません。

 けれども彼らが行っていたのは「狡賢さ」でした。上手に目方のはかりを変えて、不正に儲けていました。上の連中がこういう悪いことをやっていたのに、支配されている住民も嘘をつくことに慣れていました。

6:13 わたしもそこで、あなたを打って痛め、あなたの罪のために荒れ果てさせる。6:14 あなたは食べても満ち足りず、あなたの腹は飢える。あなたは、移しても、のがすことはできない。あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。

 「移す」というのは、妻や子供を敵から逃すために移すということです。それをやっても、敵が見つけて彼らを殺します。

6:15 あなたは種を蒔いても、刈ることがなく、オリーブをしぼっても、油を身に塗ることがない。新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない。

 自分たちが汗を流して労苦しても、その実を楽しむことができないということです。これは敵によって奪い取られるからです。

 これが、私たちが罪を犯しているときに神が懲らしめのために行われることです。自分が行っていることに成果が出ないのです。実が結ばれず、空しいのです。努力すればするほど、自分が願っているものから離れてしまうのです。けれどもそれは、神が与えておられる注意喚起であり、私たちは立ち止まって、主にあって自分自身を吟味することができます。

6:16 あなたがたはオムリのおきてと、アハブの家のすべてのならわしを守り、彼らのはかりごとに従って歩んだ。それは、わたしがあなたを荒れ果てさせ、住民をあざけりとするためだ。あなたがたは、国々の民のそしりを負わなければならない。

 北イスラエルにおいて極悪な王と言えば、オムリ家のアハブです。シドン王の娘であるイゼベルを妻に迎え、偶像礼拝をイスラエルに取り入れた王です。そして彼は、宮殿の隣のぶどう畑を欲しがって、ナボテを殺すという流血の罪も犯しました。この偶像礼拝や貪欲の罪が、いま、ユダにもはびこっているので、ユダの地も荒れ果てさせると神は宣言されています。

3A 罪の悲しみ 7
 そして次から、語り手が「私」になります。神ご自身の「わたし」ではなく、預言者ミカが「私」と言っています。主が与えておられる裁きの預言に対して、へりくだって、悔い改める者たちを代表して祈りを捧げています。

1B 善人のいない地 1−7
7:1 ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。7:2 敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕えようとする。

 ミカは、敬虔な者、正しい者がいっさいいなくなったことを悲しんでいますが、それを「夏のくだものを集める者」として形容しています。収穫が終わった後の畑の姿です。

 「正しい者はひとりもいない。」という言葉は、ローマ人への手紙3章に出てくるものを思い出します。「義人はいない。ひとりもいない。(10節)」ここまでキリスト教は厳粛に人の姿を描いているのか、と私は初めてこの箇所を読んだ時に驚きました。そしてそれに続く、「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(同19節)」と言う言葉には、少し反発しました。「いや、全世界には良い人たちがたくさんいるはず。」と思ったものです。

 けれども、信仰の歩みが長くなるにつれて、自分自身の罪深さ、そしてこの世の罪深さをさらに知っていくようになりました。人がどこまで堕落しているのか、神の御言葉を通して、また御霊による示しを受けて知るようになっていきました。正しい者は、だれもいません。

7:3 彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人は物を求め、さばきつかさは報酬に応じてさばき、有力者は自分の欲するままを語り、こうして事を曲げている。7:4 彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。

 「善人」「正しい者」と呼ばれている者でさえ、実はいばらの生け垣のようなのです。残りの民が「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6」とある通りです。

7:5 友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。7:6 息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。

 私たちが神からの恵みで、信者にも不信者にも与えられている「人と人のつながりの情」がなくなっているという預言です。自然に与えられている友人への愛、家族への愛が冷えてしまいます。

 そしてこれが、世の終わりの兆候として主が弟子たちに話されたことです。「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。(マルコ13:12」そしてその理由は、「自分を愛しているからだ」と使徒パウロは言っています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、・・・(2テモテ3:1-2」今、親に叱られたからと言って、自宅を放火する子が出てきたり、反対にいつも泣いてばかりいる子を虐待し、あるいは育児放棄して死なせる親もいます。これらはみな、「自分を愛する」ところから来ているのです。

7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

 ここからミカの悔い改めが始まります。そして福音が始まります。このような末世にあって、それでも私たちは真の意味で生きることができます。ここの一言、「しかし、私は主を仰ぎ見る」ということによって、生きることができます。

 詩篇37篇に、「悪を行なう者たちに対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。(1節)」とあります。また、「腹を立てるな。それはただ悪への道だ。(同8節)」とあります。私たちは世の暗闇を見て、それに腹を立て、怒っても、そこから何か力が出てくるわけではありません。出てくると言えば、憎しみだけです。そして自分自身がその悪に手を染めるだけです。悪に対しては悪ではなく、善によって打ち勝ちます。

 それは、問題から目を離して、主ご自身を見つけ、見上げることです。主を待ち望むことです。主にあって喜ぶことです。良いものを見つめることです。その希望にあって生きるなら私たちは、どんなに世が暗くなろうとも、光の子供として生きることができます。

2B 罪からの立ち上がり 8−13
7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。7:10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

 罪から立ち上がる過程を、実によく表した祈りの言葉です。私たちが罪を犯したら、それを喜ぶ「敵」がいます。「神の民であるのに、こんなことを行なった。」と嘲ります。悪魔は、つまずいた私たちに対して、「お前はとんでもない罪を犯した。だから、キリストから引き離されている。お前がキリストに従うと言ったら、キリストの名が傷つく。立ち直ろうとするな。」と言ってくるのです。

 確かに主はこのような攻撃を、一時的に許されます。パウロが、教会で近親相姦の罪を犯している男について、「このような者をサタンに引き渡したのです。(1コリント5:5」と言いました。それは、自分が行ったことがいかにひどいことなのかを知るためには、一時的に神の守りを解除しなければならないからです。

 けれども、いつまでもその状態にいては決していけません。サタンの囁きに聞き入ってはいけません。むしろ、自分がこのような恐ろしい罪人であり、その罪人があの十字架の周りにうようよ集まっており、「十字架につけろ」とののしっている群衆の一人が実は俺だったのだ、と悟る必要があるのです。この恐ろしい反逆の罪を、「彼らは何をしているのか分からないのです、彼らの罪をお赦しください。」と祈られたイエス様の愛を知るべきなのです。

 神は、恵みの神です。回復の神です。したがって、あなたが罪を犯しても、そこから立ち上がることによってご自分の栄光を現す方です。あなたが立ち上がることによって、神が共におられることが証しされるのです。

7:11 あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。7:12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。

 この「石垣」はイスラエルの家の石垣です。イスラエルが回復するときに国境も広げられます。具体的には、まず、「アッシリヤからエジプトまで」とあります。これはイザヤ1923節から25節にもある預言です。北の大国の代表格と、南の大国の代表格が主の御前にひれ伏すことによって、イスラエルが真ん中で祝福を受けると預言されています。そしてもう一つは、「エジプトから大川まで」とあります。これはアブラハムに神が与えられた約束です。「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。・・』(創世15:18

7:13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行ないの結んだ実である。

 これは今、間もなく起ころうとしている神の裁きです。ミカは将来に与えられる神の輝かしい回復を見ていると同時に、目に前に迫っている神の裁きも見ています。この神の裁きがあるからこそ、後にその懲らしめの後の回復があるのだ、ということを知っています。当時の偽預言者が語っていなかったことはこれなのです。懲らしめなしの祝福です。罪が取り除かれることなしの約束です。

3B 祈りの答え 14−20
7:14 どうか、あなたの杖で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください。彼らは林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます。彼らが昔の日のように、バシャンとギルアデで草をはむようにしてください。

 ミカが神に対して祈っています。ダビデが「主は私の羊飼い(詩篇23:1」と歌った、その神による養いと導きによって、私たちを取り扱ってくださいとお願いしています。

 「林の中、果樹園の中に、ひとり離れて住んでいます」というのは、主が優しく、他国の敵から守っていてくださっている、保護していてくださっている姿です。バアルがイスラエルの宿営を見て、「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。(民数23:9」と言っています。

 そして「バシャンとギルアデ」は、それぞれゴラン高原とその南のヨルダン川の東側の地域ですが、そこでかつてマナセの半部族、またガド族とルベン族が、「ここは放牧に適しているので、私たちに割り当て地をして与えてください。」とモーセに頼んだ地域です。牛や羊が放牧で草を食んでいるように、私たちも安らかに住むことができるようにしてください、とお願いしています。

7:15 「あなたがエジプトの国から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」

 主が優しく答えてくださいました。ミカのへりくだりと悔い改めの祈りに答えてくださいました。エジプトでの奇蹟をもう一度行なう、と約束してくださっています。預言書の多くの箇所で、出エジプトの出来事の再現として、世界離散の民を約束の地に集められることを約束されています。

7:16 異邦の民も見て、自分たちのすべての力を恥じ、手を口に当て、彼らの耳は聞こえなくなりましょう。7:17 彼らは、蛇のように、地をはうもののように、ちりをなめ、震えながら彼らのとりでから、私たちの神、主のみもとに出て来て、わなないて、あなたを恐れましょう。

 主を、神を認めていなかった者たちが、目の前ではっきりと神の顕現を見て恥を見る姿です。かつてパロがモーセに言ったように、「主とはいったい何者か。・・・私は主を知らない。(出エジプト5:2」という態度を持っている人々が、あまりにもたくさんいます。このような人々が味わうのは、ここに書いてある究極の羞恥心です。「ちりをなめ」とありますが、頭を下げるどころではなく、まったく一センチたりとも顔を上げることのできない、完全に従属している姿です(詩篇72:9)。

7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

 ミカが賛美をささげています。興味深いことに、ミカの名前は「ヤハウェのような方は、誰か」という意味ですが、彼が「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。」と驚いています。それは、神の豊かな罪の赦しのゆえです。どうか、ここにある罪の赦しの福音の言葉を、自分の心に焼き付けてください。これが、神がキリストの十字架の上で決着をつけてくださったことです。ご自分の怒りの一切を、ご自分の子の上に置くことによって、ただ私たちがキリストを心に迎えるだけで罪のすべてを赦してくださるのです。 

7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

 最後に、罪を踏みつけてほしいという祈りで終わっています。「海の深み」とありますが、そこには「陰府の入口」があることをヨナ書は教えています。水の深みで溺れ死にそうになっているヨナが、「私は山々の根元までくだり、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。(2:6」と言いました。そして、「あなたは私のいのちを、穴から引き上げてくださいました。」と言いました。海は、地球の有害物質を浄化する働きがあるということを聞いたことがありますが、同じように罪を葬り去る場として主は定めておられます。

 このようにして罪を除き去ってください、という祈りです。詩篇には、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(103:12」と約束されています。私たちが罪の記録を捜そうと思って、神の書棚にあるファイルを逐一調べても、どこにも見つかりません。そういう状態です。これこそ、神の福音です!

7:20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

 ヤコブに約束してくださったこと、アブラハムに約束してくださったこと、それは創世記に書かれてある祝福の約束です。ミカにとっては数百年前に与えられた約束ですが、それでも神は真実な方であることを知っていました。

 神は私たちに対しても真実な方です。御言葉の約束を必ず成し遂げてくださいます。