民数記325節 「満足という不満足」

アウトライン

1A 目標を目指す信仰
   1B 最後まで走っての競走
   2B 途中で留まる誘惑
      1C 近づくところにある勝利
      2C 近づくところにある祝福
2A 今の状態への満足
   1B 不完全への満足
   2B 見える物への満足
3A 手前で安息した者の最期
   1B さらなる葛藤
   2B 敵への脆さ
   3B イエス様の排除

本文

 民数記325節を開いてください。午後はついに、民数記のすべてを読み終えます。32章から36章まで読みますが、今朝は325節に注目します。

また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。

 今、イスラエルの民はヨルダン川の東の平野にいます。モーセは主から、自分自身が死ぬ前にしなければいけないことをいろいろ命令されていました。その中で、イスラエルの民にくじによって、相続地を割り当てることを命じられています。その相続地はもちろん、ヨルダン川を渡ったところにあります。神が約束されたのは、西は地中海、そして東はヨルダン川です。

 ところが、ルベン族とガド族がモーセに願います。ヨルダン川のこちら側に所有地を与えてください、という願いです。321節を読みますと、彼らには非常に多くの家畜があり、そしてイスラエルはエモリ人と戦い、その地を征服し、イスラエルが占有しました。そこは草原もあり、家畜を育てるには非常に適しています。それで、こちら側に所有地を与えてくださいとお願いしているのです。後に、同じようにマナセ族の半分がヨルダンの東にある地を欲したので、ルベン、ガド、マナセ半部族はこちら側に割り当て地を得ました。

 前回の私たちの学びでは、女たちが相続地を願ったことを読みました。それは、男が相続するという一般の考えに縛られることなく、主が約束してくださったものを何とかして得たいという、大胆な信仰の一歩でした。今回は、同じ願いであっても正反対です。「現状ではいけない、神の約束がある」というのと正反対に、「現状で良いのだ、今のままでいさせてくれ。」という願いです。

1A 目標を目指す信仰
 私たちが考えなければいけないのは、信仰生活というのは旅のようなものであるということです。あるいは競走と言っても良いでしょう。旧約聖書ではイスラエルの旅そのものが、地上における私たちの信仰の歩みを表していますが、ギリシヤ・ローマ社会の中に生きている新約時代の人々には「競走」や「競技」に例えられています。そうです、オリンピックです。まさにアテネから始まったオリンピックの例えを取り上げて、使徒パウロは何度も信仰生活のことを語っています。

1B 最後まで走っての競走
 コリント人への手紙第一9章です。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。(1コリント9:24-26」競技において、または競走において、当然ながらそれは賞を得るという目標があります。その目標に到達するまでは、走り続けます。ゴール地点に到達することなくして、「十分に走った」として止めてしまうのは「失格」であって、意味がありません。

 そして私たち信仰者の目標は、「主イエス・キリスト」ご自身です。ヘブル1212節です。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」イエス・キリストを見つめて、この方に寄り添い、この方に似たものとされていくことが、私たちの目標です。そして主が再び来られる時には、私たちは事実、キリストが清いように清くされるので、その目標地点にまで到達することができます。

 ですから、私たちは今の自分には満足しません。今、完成された者と見ることはありません。ピリピ31214節を読みます。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14

 したがって、私たちは主イエスが戻ってこられて、私たちが引き上げられて、この方に見え、賞を受ける時まで決して満足しません。ちょうど、走っている自転車だからこそ倒れることがないように、最後の最後まで走ります。血流が留まれば、酸素が行き届かず脳細胞が破壊されていくように、そのようなことがないように心臓は二十四時間、一年365日間、不眠不休で動いています。それと同じように、私たちは主イエス・キリストを見つめて、この方にあって今の自分に飢え渇きを覚えるのです。

2B 途中で留まる誘惑
 けれども、私たちにはいつでも、途中で止まってしまう誘惑があります。完全にされているのではないのに、十分に進歩したからこれでよいだろうと満足してしまうのです。私がアメリカで、スクール・オブ・ミニストリーに通っていた時に、同学年の人で多くの人が止めましたが、何と卒業する最後の学期で止める人が何人かいました。その韓国人の兄弟は約十年後に会った時に、最後の学期を今終了しようとしている、と言っていましたが、当時残された私たち学生は、「ええ、なぜ?」と首を傾げたものです。

1C 近づくところにある勝利
 なぜ、ルベン、ガド、そしてマナセ半部族が、ヨルダン川を渡らずに所有地を欲したのかを考えてみたいと思います。彼らは、荒野の生活からは既に脱却しています。新しい世代であり、荒野から出て、エドムの地を迂回し、そしてモアブの地を通過し、戦いを挑んだエモリ人をことごとく倒し、勝利を得ました。初めは、彼ら自身も古い世代と同じように、水がなければ不平を鳴らし、モーセを非難し、蛇にかまれ倒れました。けれども、そのような教訓から脱して、井戸の水を願ったら主が与えてくださり、それを歌にして感謝し、そしてエモリ人にも打ち勝ったのです。

 主はそのようにして、約束の地における神の勝利を垣間見るようにしてくださいました。約束の地に入ったら、主がことごとくカナン人を打ち滅ぼし、その地を彼らに与えられる前味を知らせてくださいます。その前味によって、これから先にあるものがいかに優れているかを追い求めることができます。主が私たちに良くしてくださることによって、これから来る試練にも主が救いを与えてくださるという確信と確認を与えてくださっているのです。

 ところが主が力を与えてくださると、元気になって、それで主を求めるどころか、かえってその勝利の中で満足するという過ちを犯します。そして、主がさらに大きな勝利を、はるかにすぐれた勝利を与えておられるにも関わらず、今あることに満足してしまうのです。

2C 近づくところにある祝福
 そして主が与えておられる地が近づくにつれて、荒地から緑が現れ始めます。私もエジプトのシナイ半島を横断したことがありますが、イスラエル側に移り、ネゲブ砂漠にアカシヤの潅木が見え始めた時には感激しました。ヨルダンを北上する時も同じで、中部から北部に行くにつれて緑が見えてきます。けれども、主が与えておられるのは「乳と蜜の流れる地」です。ヨルダン川を渡ってから見ることのできる祝福です。けれども、そうした疎らの緑だけで満足してしまうという過ちであります。勝利と同じように祝福も、約束に近づいているから見え隠れしているのです。けれども、「これだけの緑があるから、家畜を飼うのに十分だ。」と思ってしまうのです。

 彼らは、ある意味ですでに約束の地に来たかのように振舞っています。エモリ人に打ち勝った。家畜が非常に多くなっている。家畜の食べる草も豊富にある。広大な地である。見た目は、あたかも相続地にあるかのように見えます。それで実際にこれこそが自分の約束なのだと思っているのです。この願いを聞いてモーセが、「あなたがたはイスラエル人の意気をくじいている。」と言ってなじりましたが、彼らは「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。(民数32:16」と既に決めていました。初めは「ください」と願っていたのに、それは本当の願いではなくて、自分の心に決めていたことなのです。確かに、成年男子は戦のために武装して、共にヨルダン川を渡る、と言っています。けれども、その義務を果たしたら再びこちらヨルダン川の東に戻ってくるのです。

 この姿は、例えば教会に時々しか通わないクリスチャンに似ています。教会というのは、主が命じられたように、御霊によって一つのキリストの体になったものです。各々が体の器官であり、互いに互いを必要とし、頭なるキリストにつながる行為であります。互いに結び合わされて、それでキリストに身丈にまで成長する、信者には欠かすことのできない存在であります。

 救いは極めて個人的なものです。自分が独りで、イエスの御名を信じて神の救いを受け取ります。他の人が取って代わることはできません。教会で証明書を発行しても、その人は救われません。あくまでも本人がイエスの御名を呼び求めなければいけないのです。その神の救いは偉大です。ところが、その救いを手にしたということで、キリストの体という醍醐味を味わうことのしない人たちがいます。自分の気が向いた時には教会に集います。その人は神についての知識は豊富です。とても霊的な人に見えます。実にクリスチャンらしく語ります。世がキリスト教に反対するならば、実にすばらしい弁論を立てることができます。けれども、それはあたかも、ヨルダン川の東にある草原を自分の相続地だと主張しているルベン族とガド族のようであります。

 教会では人と人のつながりがあります。それを煩わしいと思います。自分が主キリストにつながっているのだから、それで十分だと思っています。自分独りが礼拝すれば、自分がすなわち教会だと思っています。けれども、キリストをそこまでしか知らないのです。主は、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34」と言われました。目で見える、キリストにある自分の兄弟を具体的に、目で見える形で愛することによって、目に見えないキリストがどのように人を愛しておられるかを知ることができるのです。その煩わしさこそが、まさにキリストを知っていく過程なのです。

2A 今の状態への満足
1B 不完全への満足
 私たちは、満足のある生活をしなければいけませんね。パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を得る道です。(1テモテ6:6」と言いました。けれども矛盾するようですが、良くない満足があります。悪い満足があります。それは主との関係において、これだけで良いという満足です。キリストにある完成を目指して今の自分に飢え渇くことなく、もう到達したかのように満足している状態です。

2B 見える物への満足
 けれどもその人は、身の回りにある目に見えることには飽くなき追及をします。ロトのことを思い出してください。彼は、叔父のアブラハムと間に確執がありました。自分の所有する家畜があり、叔父の家畜と同じところで飼うには、土地があまりにも狭くなっていました。アブラハムは、「あなたがどこに行くかを決めなさい。」と譲りました。彼は家族で対立することで、周りの人々に神の証しが立っていないことを懼れていたのです。けれどもロトは、ヨルダンの低地にある緑を見ました。ソドムとゴモラという罪の町に近いところに天幕を張りました。そこが当時、エデンの園のように、エジプトのように緑が多かったからです。

 これまでのことをまとめてみたいと思います。霊的な人も、肉的な人も、一つの事柄に不満足であり、もう一つの事柄には満足しています。霊的な人の場合について話します。その人が満足しているのは、衣食住です。今、自分が持っている物についてはこれで十分であるという心の豊かさがあります。「衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:8」「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:12-13」けれども御霊の人は、キリストにある霊的祝福をもっともっと欲しいと飢えています。神が下さっているものを仰ぎ見て、それを大きな口を開けるようにして受け取ることを待っています。目で見えるもの、物質的なものには満足していますが、御霊に関する事柄、キリストにある神との関係においては、もっと欲しいと願っているのです。

 けれども肉の人はその反対です。その人は、キリストにある神との関係においては満足しています。けれども物質的な持ち物については不満足なのです。霊的には一見、落ち着いています。自分はこれだけで十分、キリスト者を行っていると思っています。ですから御霊に属する事柄については満足しているのです。けれども、目に見える事柄については飢え渇きを持っています。今、自分に与えられている持ち物だけでは駄目なのです。その同じ情熱をもってキリストの飽くなき追及をすればよいのですが、それがないのです。

3A 手前で安息した者の最期
 ヘブル人への手紙の著者は、「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル4:11」と言いました。その安息とは、旧約時代であれば約束の地であり、ヨルダン川の向こう側であります。そして私たちについて言えば、天に入った後の安息であります。けれども、これらルベン族、ガド族、マナセ半部族はその手前で安息してしまいました。彼らはそのまま安息を保つことができたのでしょうか?

1B さらなる葛藤
 いいえ彼らはまず、妻子を置いて自分たちだけが約束の地に入り、戦わなければいけませんでした。約束の地に入り、戦って、それで所有地を得るという喜びを味わうのではなく、それが義務となっていました。教会から自分を切り離してキリスト者の生活を考えている人も、祝福であるはずの教会生活が義務のようになってしまうのです。そして、「教会のここが悪い。そこが足りない。」という不満ばかりが生じて、安息を保つことができません。心に葛藤が生じるのです。

 そして後に彼らは、ヨルダン川のすぐそばに大きな祭壇を築きました。それで、残りの九部族と半部族はものすごい剣幕で、彼らに迫りました。主なる神への礼拝ではなく、公然と異なる神を拝んでいるのではないか、と思ったからです。けれどもルベン族、ガド族、マナセ半部族は、「これらは、後の世代があなたがたから切り離されることないように、私たちもイスラエルの一員なのだということを証しするために築いたのです。ここでいけにえを捧げるのではありません。」と弁明しました。(ヨシュア記22章参照)

 このように不必要な亀裂と誤解が生じます。普通に考えてもそうですね、川というのは物理的に私たちを分けるだけでなく、心理的にも切り分けます。興味深いことに、足立区は昔、人々から東京の一部だとみなされていなかったと、ある人が教えてくれました。なぜなら荒川があるからです。荒川を越えるとそこは東京ではない、という気持ちになっていたそうです。霊的にも同じことが言えます。確かに同じ神の民なのです。けれども、自分が神の民として行っていると思っていることや、行なっていることが、事実、神の民として一つの所で共同体の生活をしている人々とずれが生じるのです。そこに不要な軋轢が生じ、教会全体に不和をもたらす危険があります。

2B 敵への脆さ
 そして、二部族と半部族は、最も先に敵に散らされた者たちとなりました。ダビデとソロモンの統一イスラエル王国は、北イスラエルと南ユダに分裂しました。そして北イスラエルが、紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされ、紀元前568年にバビロンによって南ユダが滅ぼされました。けれども、北イスラエルが滅ぼされる時に、すでにその地は削り取られていました。紀元前800年頃には、シリヤのハザエルがイスラエルに攻めてきた時に、この二部族と半部族から打ち破っているのです。「そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。(2列王記10:32-33

 そしてアッシリヤが捕囚の民を連れて行くときにも、初めに捕え移されたのは彼らなのです。「そこで、イスラエルの神は、アッシリヤの王プルの霊と、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルの霊を奮い立たせられた。それで、彼はルベン人とガド人、およびマナセの半部族を捕え移し、彼らをハラフと、ハボルとハラとゴザンの川に連れて行った。今日もそのままである。(1歴代誌5:2」ヨルダン川が自然の要塞となってイスラエルの人々を守っていましたが、東にいた彼らは無防備であったのです。

 同じように、主にある約束を全て求めていない人は敵の攻撃に脆くなっています。教会に根ざしていると、自分でも知らず知らずのうちに神が守りの囲いを置いておられるので、敵から守られています。ヨブについてサタンが神に告発して、垣を巡らしていると言ったとおりです(1:10)。けれども、必要な時だけ教会に助けを求める人は、絶えず世において敵の攻撃を受けます。

3B イエス様の排除
 そして約束のものを手にしていないのに満足する人は、最後はイエス様ご自身を排除するようになります。この地域は後に、新約時代にデカポリスという異邦人の影響の強い地域となっていました。ユダヤ人はそこには普通近寄りませんでした。けれども、そこで人々が豚を飼っていました。豚はレビ記の規定に従えば不浄の動物です。牛や羊ではなく、豚を飼っていたのです。そしてレギオンという悪霊の一群に取り付かれていた男が、イエス様によってその悪霊を追い出してもらいました。イエス様は豚に乗り移るように命じられ、その豚はガリラヤ湖に入っていき、溺死にました。そしてそこの人々は、恐ろしくなりイエス様に出て行って欲しいと要求しました。悪霊から解放された男がそこにいるのに、その良き知らせをかえって疎んだのです。そしてイエス様を追い出したのです。

 不完全なのに満足した対価がこれでした。自分はイエス様をあがめているつもりが、最後はこの方を否定するようになるのです。

 私たちは、ヨルダン川を渡る必要があります。そこには自分の死というものがあります。主イエス・キリストを仰ぎ見、今の自分のままではいけないのだという飢え渇きが必要です。そして、御霊に導かれてさらにキリストの世界の中に自分を突入させていく必要があります。これまで、何となく自分のクリスチャン生活に満足していて、その生活を送りさえすれば良いのだと思っていたのであれば、ぜひ満足しないでください。川を渡ってください。

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