箴言15−16章 「自分の思いと主の計画」

アウトライン

1A 正しい者の心 15
   1B 穏やかな舌 1−7
   2B 悪者の行ない 8−12
   3B 心の健康 13−15
   4B わずかな物 16−19
   5B 熟考 20−28
   6B 叱責 29−33
2A 主がもたらす結果 16
   1B 心の計画 1−9
   2B 王の裁き 10−15
   3B 高ぶり 16−20
   4B 親切な言葉 21−26
   5B ねじれた言葉 27−30
   6B 光栄の冠 31−33

本文

 それでは箴言15章を開いてください。今日は15章と16章を学びます。ここでのテーマは、「自分の思いと主のご計画」です。

1A 正しい者の心 15
 初めは、人々に意見に対してどのように応答すればよいかについての知恵が書かれています。

1B 穏やかな舌 1−7
15:1 柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。

 意見の対立で緊張した状態にいる時に、私たちはどうしても激しい言葉を使いがちです。けれども柔和な心でいることに知恵があります。柔らかに答えれば、相手が怒っていてもそれを静めることができます。逆に激しい言葉を使えば、相手が怒っていなくても怒りを引き起こします。

15:2 知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。

 私たちが正しい事が何かを知っていても、それだけでは十分ではありません。いつ、どのようにその知識を使うかが大切になります。知識は、知恵によって管理されなければいけません。

15:3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。

 現代社会では、プライバシーの権利が謳われています。けれでも、本当の意味ではプライバシーというのはありません。主が見ておられます。それは、人に隠れてこっそり行なっている悪事についても言えますが、誰も知られないところで行なっている良いことについても言えます。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:3-4

15:4 穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。

 1節と同じ、柔らかい舌、穏やかな舌です。私たちが、人々を建て上げるような言葉を使っているか、それとも引き下げるような言葉を使っているか吟味する必要があるでしょう。

15:5 愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。

 今日、流行っている教えの中で、子供が自主的に物事の判断をさせなければいけない、というものがあります。親が子供と同じ立場になって、友達にようになって、それで子供が自分で何が良いか悪いかを判断します。

 しかしこれは、真っ向から聖書に反する考えです。十戒に、「あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:12」とあります。神と人との戒めの後にこの戒めがありますが、親は子にとって神の代理人なのです。子たちが善悪の判断をするときに、親が神の役を演じることによって判断することが聖書の教えです。

 そして成長するにしたがって子どもが自分で判断できるようにしていく、これが教育です。

15:6 正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。

 ここの「多くの富」は、物質的な富ではありません。精神的、霊的な富を含めた全体的な富です。同じ富でも、悪者の収穫は煩いをもたらします。財産によってかえってその家に不幸をもたらす、ということは多いんじゃないでしょうか。

15:7 知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。

 多くの人々が参考にするのは、知恵のある人がいった言葉です。知識が広がっていきます。

2B 悪者の行ない 8−12
 次から、悪者の行ないについての箴言です。

15:8 悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。

 私たちが罪を犯すと、その罪悪感から自分の捧げ物によって償おうと駆り立てられることがあります。日本にある韓国の教会で、多くの献金をするのが夜の仕事をしている女性たちということを聞いたことがあります。なぜか?自分たちがしていることが悪いのを知っているからです。だから、それが多くの献金や祈りに変えられます。

 けれども聖書では、「その行いを改めることが、わたしへのいけにえだ。」ということが書いてあります。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙・・それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日・・会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。(イザヤ書1:13-17

15:9 主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。

 ここでは「行ない」を忌み嫌うとありますが、後で「計画」つまり「思い」を嫌うことが書かれています。クリスチャンの間で二つの極端があります。一つは、パリサイ派も犯した形式主義です。行ないが良ければすべて好しとし、心の動機をないがしろにします。

 けれどももう一つは、心がよければ行ないはどうでもよい、という極端な考えです。これは初代教会の異端、グノーシス主義が持っていたものですが、例えば愛し合えば不倫してもよいでしょうか?私たちは自分自身をも欺くことができます。神社や仏式の行事など異教との関わりにおいて、「心が良ければ」ということで、その偶像礼拝の行為を許す人々がいますが、それは霊的に「愛し合えば不倫しても良い」という考えであります。主は、その行為をも忌み嫌われます。

15:10 正しい道を捨てる者にはきびしい懲らしめがあり、叱責を憎む者は死に至る。

 罪を犯した者に対する懲らしめは、聖書によると、罪から離れさせるためであると書かれてあります。懲らしめは主からの憐れみです。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32

 けれども、その懲らしめ、叱責をも憎むなら、残りは死しかありません。

15:11 よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。

 興味深いですね、地獄にも主がおられることの証拠となる御言葉です。あのラザロの話において、金持ちとアブラハムのふところとの間には淵があって、互いに行き来できないことをアブラハムは話していましたが、けれども金持ちとアブラハムは会話ができるほど近くにいました。

 アブラハムがそれだけ近くにいられるのですから、主はなおさらのこと地獄に近くにおられます。黙示録に、「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。(14:10」とあります。聖なる御使いと子羊イエス・キリストがいつも、怒りの顔を持って、火を硫黄で苦しめられている人々の前にいるのです。

 そしてここの格言は、地獄にもいるぐらいなら、人の心のところにいるのはなおさらである、と言っています。主は、私たちの心の近くにおられ、それによって私たちの永遠の運命を決めておられます。

 ローマ10章に、私たちが救われるために天に上ったり、陰府に下る必要はないことが書かれています。心の中で思うこと、口で言うことによって主が救ってくださいます。「しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。(6-8節)

 教会また伝道集会で、人々に信仰告白をさせて、みなで喜んでいる姿は不信者が見たら、非常に変な光景でしょう。けれども、主がその人の心を見て、それでその人を永遠の命に定めておられることを知っているからこそ、大喜びしているのです。

15:12 あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。

 こんな話を聞いたことがあります。牧師に、今付き合っている人と結婚すべきかどうか相談しに来た女性がいました。牧師は、率直なところを語ったそうです。それからというもの、その女性は一切教会に来なくなった、ということです。

 助言を求めに来たのではなく、自分に同意する人をその女性は捜し求めていたのでしょう。そのような人は、いつも自分を正す人から遠ざかります。

3B 心の健康 13−15
 次は心の健康についての箴言です。

15:13 心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。

 心の状態が顔に出てきますね。時々、人から「今日は疲れていますね」と言われることがあります。その時よくあるのは、コンピューターの調子が良くなくてむしゃくしゃしていたり、せっかく長時間かけてダウンロードしたファイルがなくなったりした直後だったりします。人を騙すことはできません。

15:14 悟りのある者の心は知識を求めるが、愚かな者の口は愚かさを食いあさる。

 知識と愚かさの対比ですが、知識の場合は「求める」のですが、愚かさの場合は「食いあさり」ます。私たちは愚かなことをするとき、努力は要りません。ただ食い漁ればいいのです。けれども知識には勤勉さ、訓練が伴います。ペテロがこう言いました。「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペテロ1:5-7

15:15 悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。

 私たちの心の状態によって、日々見るものも変わってきます。一つのもの、一つの出来事を見るにも、それを悪く捉えるか、良く捉えるかは心の状態によって決まります。

4B わずかな物 16−19
15:16 わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。15:17 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

 ソロモンは富んでいる人でした。けれども彼は真の富が何であるかをよく知っている人でした。主を恐れること、そして愛し合うことのほうが、私たちに真の豊かさを与えることを知っていたのです。

 結婚生活において二人が共働きしていたときは、本当に大変でした。二人ともストレスがたまっています。でも今はかなり質素な生活をしています。どちらが幸せか?もちろん今です。

15:18 激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。

 1節と同じ、穏やかさ、柔和さについての教えです。自分の怒りの感情をよく制することが出来る人は、平和を造り出すことができます。

15:19 なまけ者の道はいばらの生け垣のよう。実直な者の小道は平らな大路。

 茨の生け垣のそばを歩くのはかなり大変ですが、平らな大路は何の問題もなく気楽に歩けます。

5B 熟考 20−28
 次によく考えること、熟考することについての格言です。

15:20 知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな者はその母をさげすむ。

 以前も話しましたが、知恵のある子を喜ぶのは父です。もちろん母も喜びますが、母は普通、影で自分の息子、娘を支えます。

 そして愚かな者は母をさげすむ、とありますが、母はいつもそばにいる人です。父をごまかすことはできたとしても、母はいつもいっしょにいるので自分の本当の姿が現れます。父の言いつけを守っているのかそうでないかは、母との接触で明らかにされます。

15:21 思慮に欠けている者は愚かさを喜び、英知のある者はまっすぐに歩む。15:22 密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。

 私たちが何か大きなプロジェクトに取り組むとき、密議が大事です。たとえその計画が良い目的のためであっても、その過程を煮詰めなければ計画は実現しません。同じことを見るにしても、違う見方をする人がいて、初めて実行できる骨組みができるのです。

15:23 良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。

 これがとても難しいですね。何か正しいことを言うにしても、タイミング、時宜が狂えばまったく意味がありません。この時宜にかなった言葉を話すのは、ご聖霊が与えてくださるものです。私たちは何を言うべきか、いろいろ準備し、考えるのですが、最終的にどんな言葉を使えばよいかは、聖霊がしてくださいます。

15:24 悟りのある者はいのちの道を上って行く。これは下にあるよみを離れるためだ。

 命の道は上っていく道であり、陰府の道は下にあります。コロサイ書に、「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。(3:1」とあります。そして黙示録には、「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。(21:8」とあります。

15:25 主は高ぶる者の家を打ちこわし、やもめの地境を決められる。

 山上の垂訓の八福、八つの幸いにも、この約束がありますね。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5」教会においても社会においても、自分たちの王国を作っていくのではありません。そうではなく仕えていくのです。柔和な者、やもめの状態でいるのです。地境を決めてくださるのは、主ご自身です。

15:26 悪人の計画は主に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。

 先ほど話しましたように、悪人は行いだけでなく、計画の段階、心に思っていることをも、主によって忌み嫌われています。

 そして親切なことばはきよい、とありますが、それはよく練られた言葉だからです。聞く人にとって、何が益になるのかをよく考えているからこそ、発せられる言葉です。

15:27 利得をむさぼる者は自分の家族を煩わし、まいないを憎む者は生きながらえる。

 家族は分かち合っていく場です。自分の利益ばかりを追うと、他の家族のメンバーにとって悩ましい存在になってきます。

15:28 正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。

 熟慮してから言葉を話します。いつも立て続けに、早く話す人が愚かということではありませんが、知恵のある人は考えながら話すのでゆっくりと話します。時には十数秒も何も話さないので、眠ってしまったのかと思われることさえあります。

6B 叱責 29−33
15:29 主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。

 祈りを主が聞いてくださる、という約束は偉大です。私たちはこれをよく忘れているので、祈ることも忘れます。どんなことでも、主に聞いていただくことが必要ですね。心の中で、また口に出して祈ります。

15:30 目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。

 目の光については、主が山上の垂訓でこう語られました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。(マタイ6:22」目で見ているものが、私たちの生活全体に影響を及ぼします。そして目だけでなく、耳で聞くものによっても影響を受けます。良い知らせであれば、それは私たちの肉体の健康にも良い影響を与えます。

15:31 いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。15:32 訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。

 叱責を聞くことについての知恵です。そして叱責を聞くことに必要なものが次に書かれています。

15:33 主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。

 謙遜です。謙遜にならなければ、叱責や訓戒を聞くことはできません。本当の謙遜は、神の前での謙遜です。日本の社会では人の前での謙遜については多くを教えられますが、自分の姿をすべて神にさらして、それで神に自分のすべてを探っていただくという謙遜については、頑なに拒みます。自分を隠そうとしてしまうのです。

 しかし、神が自分を愛してくださっていることを知り、神が自分のすべてを受け入れてくださっていることを知り、それで神が自分を叱ってくださるのだということを知れば、むしろ訓戒と叱責を自ら願うようになるのです。

2A 主がもたらす結果 16
 このように15章は、正しい心を持つことについての格言が多く出てきました。そして16章は、さらに興味深い格言が出てきます。私たちが心の中できちんと整理して考えたとしても、結果をもたらすのは主であって私たちではない、という内容です。結果は完全に主の御手の中にあり、私たちが支配するものではない、ということです。

1B 心の計画 1−9
16:1 人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。

 先ほど、「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。」とありました。では、私たちが最終的に口に出す言葉は私たちが完全にコントロールできるか、制御できるかというとそうではありません。「主がその舌に答えを下さる」つまり、ご聖霊が私たちに語るべき言葉を与えてくださるのです。

 私たちは、結果をもたらそうと思い用意周到の準備をします。そして良い結果がもたらされなければ、「自分の用意が足りなかった。ここが原因であった。」と反省します。そして、なかなか良い結果をもたらせないため、それを自分の責任だと思いストレスを溜める人が多いのです。

 しかしここには、「物事はすべて人間の行為の結果である」という誤った考えがあります。そうではありません。もちろん、私たちはよく考える責任があります。15章の多くの箇所で見てきたとおりです。愚か者のように、愚かさを吐き出してはいけません。けれども、主が御自分のみこころのままに、人を用い、人の言葉を与え、主が結果をもたらしてくださるのです。

 ここでは語るべき言葉についてですが、終わりの時について主が弟子たちにお語りになったときに、彼らが迫害を受けることを預言されました。そしてこう言われました。「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。(マルコ13:11」聖霊が、語るべき言葉を与えてくださるのです。

 私たちが伝道をするとき、何が大切でしょうか?語るべきことを用意することは非常に大切です。けれどもそれ以上に、主が語るべき言葉を与えてくださるように祈ることです。自分が語った後で、自分でも思いもしなかった非常に適切な言葉を語ったことに気づくことでしょう。それは、自分では決して用意できない御霊がみこころのままに与えてくださる、知恵の言葉であり、知識の言葉なのです。

16:2 人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。

 私たちが自分たちの計画だけに頼ることができないもう一つの大きな理由は、私たちの心また行ないが純粋ではない、ということがあります。「自分たちが考え、自分たちで行なっていく」という考えの背景には、人間の考えや行動は正しいという前提があります。ここに書かれているように、「自分の行ないがことごとく純粋だと思う」のです。

 けれども聖書ではどう書いてありますか?「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9」私たちの心は、根本的に陰険であり、邪悪であり、その深さを自分自身も知りえない、と言うのです。だから、私たちがたとえ熟慮の上考えたことでも、そこには罪の性質が入り込むのです。間違えた方法へ進むのです。

 主は人のたましいの値うちをはかられる」とあります。私たちは、いつも自分自身を吟味しなければいけません。いや、それ以上に、自分自身さえ知ることができていない自分の魂の値打ちを、主に明らかにしていただくよう祈らなければいけません。ダビデがこう祈りました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24

16:3 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

 これが、私たちの求めるべき姿です。私たちは考えます。密議をこらします。けれども、どんなに自分たちが考えても物事はすべて主の御手の中にあることを認めます。そして密議をこらした自分たちでさえ、過ちを犯しているかもしれないという可能性を知ります。そうすれば私たちは、祈りから始まり、祈りつつ考え、そして祈りで終わる話し合いになるはずです。

 自分ですべてをやろうとするその手をはずします。ちょうどヤコブが、すべて自分の手でやろうとするその意思を、御使いとの格闘によって折られたように、です。そうすれば、神のご計画があなたを通して、御霊のご自由な働きによって達成されるのです。

16:4 主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。

 結果を主にゆだねることは、神の主権を認めることです。そしてこの節には、神の主権の究極の姿が描かれています。神に反抗している悪者でさえも、御自分の目的のために神は用いられているのです。

 災いの日のために造られた人物として、聖書では、例えばエジプトのパロがいます。主がパロの心をかたくなにされて、そしてイスラエルがエジプトから出て、エジプト軍が紅海の中に沈むようにされました。またイスカリオテのユダがいます。彼は主を裏切るという悪を行ないましたが、この行為によって主は、全人類の罪の赦しをもたらす十字架刑に処せられました。

 しかし、彼らが機械的にそのような悪を行なうように神に定められたのではありません。パロにも、イスカリオテのユダにも、最後の最後まで悔い改めを主は与えようとされていました。彼らには自由意志はあったのです。しかしあらかじめすべてのことを知っておられる神は、彼らを怒りの器として用いられたのです。

 このような、絶妙で、かつ測り知れない知恵を神は持っておられます。私たちはこの神に、すべての結果をゆだねるのです。

16:5 主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。

 主が忌み嫌われるものはいくつかありますが、以前も見たのは高慢でした。そしてここには、「心おごる者」と書いてあります。高ぶりと驕りは似ていますが、驕りには、自分の地位や富に安住している側面があります。ラオデキヤにある教会に対して主が、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示3:17」と言われましたが、この態度が驕りです。

 主の預言の中で、モアブがそのような驕りを持っていて裁かれる箇所があります。「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。(エレミヤ48:11-12」自分には何の問題もない。特に大きな変化もなく、安定している・・・こう思っている人は、後に主によってその器から別の器へあけられます。

16:6 恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。

 救われるためには、恵みと信仰だけ必要であり、悔い改めは要求されないと教える人がいます。けれども、福音書、使徒の働きを読んでも、主ご自身、また使徒たちのメッセージには必ず、「悔い改めよ」という呼びかけがありました。

 恵みとまことによって、私たちの罪は赦されます。けれども、私たちは主のものとされるとき悔い改めます。悪を離れます。信仰と悔い改めは同時に行なわれるものです。

16:7 主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。

 興味深いですね、私たちにはいろいろな敵がいます。スポーツをしているなら、その対戦相手がいます。会社で勤めているなら、競合の会社があります。そして兵士であれば、戦場での敵がいます。戦わなければいけない相手が私たちの生活にはありますが、主が私たちの行ないを喜ばれるときに、その敵をも和らがせる雰囲気を作ってくださいます。

16:8 正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。

 何でも出てきましたが、実直さによって得た収益は確実であり、むなしいものによって得たものは災いをもたらし、またすぐなくなってしまいます。

16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

 先ほど出てきた、「よく熟慮するが、結果はすべて主の御手の中にある」という原則を一言で述べたものです。

2B 王の裁き 10−15
 そして次に、王についての裁きが書かれています。ソロモン自身が王でした。そこで王がどのような存在であるかを格言で教えています。今の私たちの生活に当てはめるなら、これは国であり、また社会であります。そこにいる権威者についてどう考えるべきかを学ぶことができます。

16:10 王のくちびるには神の宣告がある。さばくときに、その口に誤りがない。

 ローマ人への手紙13章に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(1節)」とあります。私たちは、裁判所が下す判決や、国の首脳が下す政治判断のすべてが正しいわけではないことを、よく知っています。けれども、先ほど学んだように神の主権があります。神はこれらも用いて、たとえ間違った判断であっても、それも用いて、御自分の目的を果たされます。

 ですから、私たちは権威に従わなければいけないのです。自分たちに、そこから何の良いものがでるのか分からないのですが、従うのです。

16:11 正しいてんびんとはかりとは、主のもの。袋の中の重り石もみな、主が造られたもの。

 社会の中で、商取引があります。また国に対しては税を納めます。金の計算がありますが、主のみこころは公正であることです。

 今、年金問題で騒がれており、支払っている国民は半数を切ったというニュースを最近見ました。けれども私は年金を納めています。そして、政府がきちんと老後に年金を支払うのか分かりません。もしかしたらきちんと払ってくれないことも知りながら、やはり払います。これは主にゆだねる領域だからです。

16:12 悪を行なうことは王たちの忌みきらうこと。王座は義によって堅く立つからだ。16:13 正しいことばは王たちの喜び。まっすぐに語る者は愛される。

 同じくローマ13章に、「しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(4節)」とあります。私たちに与えられている国また政府は、この役を担っている神の僕です。義を行なうように立てられているのです。ですから次に、スピード違反で車を止めている白バイの警官を見たら、神に感謝しなければいけません!

16:14 王の憤りは死の使者である。しかし知恵のある人はそれをなだめる。

 ネブカデネザル王のことを思い出せば、ここの箇所が理解できると思います。ネブカデネザル王が見た夢を知者たちが解き明かすことができず、王は知者たち全員を殺すことを命じました。それを執行するために来た人を、ダニエルは知恵をもって応対して時間の猶予を得ることができました。

16:15 王の顔の光にはいのちがある。彼のいつくしみは後の雨をもたらす雲のようだ。

 王は、不義を行なう者に怒りを示す神のしもべであるだけでなく、神のいつくしみをも示す器としても用いられます。ペルシヤの王のことを考えてください。初代の王クロスが、ユダヤ人がエルサレムに帰還し神殿再建の布告を出しました。また、エステル記に登場するアハシュエロスも、ユダヤ人を救う命令をペルシヤ全土に出しました。

3B 高ぶり 16−20
16:16 知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。

 世界の中で誰が富者であったかといえば、ソロモンを筆頭に挙げることができるでしょう。銀や金を石のように使ったほどの栄華です。その彼が、知恵を得ることのほうが黄金よりもはるかにまさる、と言っています。

16:17 直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。

 神が心を見ておられる、という格言を先に二つ見ましたが、私たちには、「何も、誰も見ていない」という完全なプライバシーは存在しません。この格言では、神ご自身だけでなく、私たち自身が自分の道を監視することが書かれています。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」とコリント第一11章に書かれています。

16:18 高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。

 何度も何度も出てきていますね。箴言だけでなく聖書全体に出ています。自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高く引き上げられる、という原則です。これは自然界にある自然の法則のように、霊的法則としてこの地上に存在しています。

16:19 へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。

 私たちは自分を引き上げるために、自分よりも力のある人のところに擦り寄りますが、知恵はその逆です。モーセのことを思い出してください。パロの君子と言われた彼が、奴隷であるイスラエル人たちとともに、荒野の旅を始めました。ヘブル書11章にこう書いてあります。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(24-25節)

16:20 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

 何をもって幸いか?それを問うとき、みことばに心を留めること、主により頼むことがあります。どちらも、子どものように無垢に信じていくことが、そして目に見えないものを信じていくことが要求されます。

4B 親切な言葉 21−26
16:21 心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、その快いことばは理解を増し加える。

 そうですね、人に慰め、励ましを与える言葉は、人々に真の理解を与えます。

16:22 思慮を持つ者にはいのちが泉となり、愚か者には愚かさが懲らしめとなる。

 「愚かさが懲らしめ」というのは、やめたいと思ってもやめられない状態。またやってしまった後の自分の惨めな状態そのものが懲らしめだ、ということです。

16:23 知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。

 15章に出てきた、言うべき言葉をよく考えることについての格言です。

16:24 親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。

 箴言には、この骨を健やかにする、というような肉体への影響を書いている箇所がたくさんあります。ストレスの多い今の社会に求められているメンタル・ヘルスは、親切な言葉によってもたらされます。

16:25 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

 人間がまっすぐだと思っていることが、実はまったく反対である、という厳しい現実があります。人が誠実であれば、その人は天国に行ける、と誰でも思いたいです。けれども、誠実であるがゆえにかえって間違えることが多いのです。

 ある人がこんな例を出しました。アメリカン・フットボールの試合で吹雪があった。それで選手は敵のゴールにボールを持っていってしまった、という話です。その選手は誠実でした。けれども、その誠実さが仇となって、失点してしまったのです。

 ですから自分の判断ではなく、主を恐れること、主に判断を任せることが大事なのです。バラムが、イスラエルを呪うようにというモアブ人の王バラクの要請に、一度目はこう答えています。「『たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです』と。(民数記24:13 新共同訳)」私たちの判断では善いように見えること、悪いように見えることのどちらもありますが、自分は主が告げられることだけを告げる。このような姿勢が必要です。

16:26 働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ。

 なぜ仕事をするのか?この問いに対する単純な答えは、「食うため」です。働かないものは、食べてはいけないという言葉は、聖書の中にもあります(2テサロニケ3:10)。この現実の姿をソロモンは描いています。

5B ねじれた言葉 27−30
16:27 よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。

 ヤコブの手紙に、口は小さい火が大きな森を焼き尽くすような火として形容されています(3:5)。

16:28 ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。

 私たちの信頼を引き裂くのは、きまって陰口です。

16:29 暴虐の者は自分の隣人を惑わし、良くない道へ導く。

 以前、悪者と共に歩むなという箴言がありましたが、ここは悪者の立場から書かれているものです。自分が悪事を行なうだけでなく、隣人を良くない道に導きます。

16:30 目くばせする者はねじれごとをたくらみ、くちびるをすぼめている者は悪を成し遂げた者だ。

 悪いことを行なう人は、きまってこの過程を経ます。企んでいる時は目配せです。そして成し遂げたら、だまりんこです。

6B 光栄の冠 31−33
16:31 しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。

 主にあって年を取ることは、光栄なことです。その人の人生に輝きがあります。

16:32 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

 ここに怒りを抑えることの難しさが描かれています。町を攻め取ることよりも、心を治めることのほうが実は大変なのです。

16:33 くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。

 ここに15章、16章のまとめのような一言があります。過程において私たちは思慮深くなります。慎重になります。使徒の働き1章で、イスカリオテのユダに代わる使徒を選ぶとき、祈ってからくじを投げました。けれども結果は主が与えられます。

 私たちが霊的に勤勉になると同時に、根本的なところで主に委ねて生きていくことが必要です。霊的には能動的でなければいけません。けれども、結果は積極的に主にゆだねていくのです。この二つがあって、物事は前進していきます。


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