詩篇101−104篇 「主の良き物」

アウトライン

1A 聖潔への想い 101
   1B 私生活において 1−4
   2B 公生活において 5−8
2A 気落ちした心 102
   1B 心の中の注ぎ出し 1−11
      1C 内の苦しみ 1−7
      2C 敵の嘲り 8−11
   2B シオンの回復 12−22
      1C 主の愛慕 12−17
      2C 新しく造られる民 18−22
   3B とこしえの命 23−28
3A 恵みと憐れみの冠 103
   1B 主の良くしてくださった事 1−5
   2B 怒るに遅い方 6−14
   3B とこしえの統治 15−22
      1C 主を畏れる者 15−19
      2C 天の軍勢 20−22
4A 創造物のすばらしさ 104
   1B 天の幕 1−4
   2B 地の基 5−9
   3B 山々の泉 10−18
   4B 太陽のしるし 19−23
   5B 海の生き物 24−30
   6B 山の噴火 31−35

本文

 詩篇第101篇を開いてください、今日は101篇から104篇までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「主の良き物」です。

1A 聖潔への想い 101
101 ダビデの賛歌

 ダビデが書いた詩です。

1B 私生活において 1−4
101:1 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。101:2 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

 ダビデはこの詩篇で、全き道、正しい心について、自分の強い願いを書き表しています。言い換えれば、聖め、聖潔への道を求めています。自分の家においても、また自分の国においても、主にあって完全な者でありたいと強く願っていました。

 ダビデはもちろん、そのような道を歩みませんでした。彼は自分の家で失敗しました。バテシェバとの姦淫の罪と、彼女の夫ウリヤを殺した罪を犯した後、彼の家から剣が離れることがありませんでした。サムエル記第二、また列王記第一の最初の部分を注意して読んでいきますと、彼が息子たちに対して躾を怠っていたことに気づきます。そのため息子たちは父に反抗し、ダビデは息子のために自分の王位まで危うくなりました。

 ですからダビデは、自分の現状のことを思って、「正しい心で、自分の家の中を歩みます。」と言っているのではありません。彼が願っていること、理想として強く思っていることを書いているのです。

 私たちにも同じ想いがあります。主は弟子たちに、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8」と言いました。きよい者、完全な者でありたいと願います。現状はそれとは程遠いのですが、自分の足りなさを気づかされる度に主の前に出て、憐れみを請います。

101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。101:4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。

 自分の目につまずきとなるような者を前に置くことはしない、という決意です。とても大切ですね。イエス様は、「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。(ルカ17:1」と言われました。仕事のために外に出たら、自分の目に見えてくるもので、つまずくようなものはたくさんあります。けれども、自分でつまずきをもたらすようなことを避けなければいけません。

 自分がクリスチャンとして安心できる場を持っているでしょうか?教会はその一つですね。教会にいるとき、私たちが互いにつまずきを置かないように注意している中で、教会にいればクリスチャンとしての良心をきよく保っていることができます。でも自分の家ではどうでしょうか?外につまずくものがいっぱいで大変なのに、家に帰ったらテレビからインターネットから、つまずくものを招き入れてしまったら、どこに安息の場を探せばいいでしょうか?自分の前の前に卑しいこと、悪いものを置きません。

2B 公生活において 5−8
 そしてダビデは、王としての生活の中での聖さを求めます。

101:5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。101:6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。

 ダビデは、隣人へのそしり、つまり非難、誹謗を非常に嫌がりました。それが人にとっていかに有害であるか知っていました。コリント人への第一の手紙に、そしりが偶像崇拝や不品行などと並んで、神の国に入れなくする不義の行ないとして数えられています。(1コリント6:9-10参照)

 そしてそしりが、高ぶりと誇りに関係あることを話しています。牧者テモテに対してパウロは、高ぶっている者がことばの争いをすると言っています。「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。(1テモテ6:3-4

 ですから、隣人をそしる者を滅ぼす、とダビデは言っています。そして、自分の国には真実な人たちに目を留める、と言っています。これも大事ですね、ピリピ書にて「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8」とあります。

101:7 欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。

 そしることの他に、欺き、偽りもダビデには耐えることができませんでした。

101:8 朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。それは主の都から、不法を行なう者をことごとく断ち切るためです。

 もしダビデがこのように自分の王制を成り立たせていたなら、さぞかしその国は平和に満ちることでしょう。朝ごとに悪者がことごとく滅ぼされるなら、一般の人々は悪によって怯えることはありません。

 ダビデは自分の聖め、王の職務としての聖めを求めながら、実は預言をしています。ダビデの世継ぎの子、メシヤが来られるなら、これらの聖別は完全に行なわれます。主が再びこの地上に戻って、ご自分が王となって世界を治められるとき、朝ごとに悪者をことごとく滅ぼす平和な国を建てられます。

2A 気落ちした心 102
102 悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの

 気落ちした時の詩篇です。書いた人はダビデだと言う人もいれば、バビロン捕囚の後期にバビロンの地にて、その苦しみの心を主に注ぎ出したものではないか、とも言われています。

1B 心の中の注ぎ出し 1−11
1C 内の苦しみ 1−7
102:1 主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。102:2 私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。

 この詩篇の著者がダビデにしろ、他の人にしろ、嘆いている時の感情を言葉にしてここまで上手に言い表すことができるのはすごいと思います。

 自分の嘆き、心の痛みを言い表すのは、難しいことです。普通は言葉にならない類のものだからです。もし言葉で言い表すなら、それは自分をさらにvulnerable(無防備にする、傷つきやすい、非難を受けやすい)にしてします。それを避けたいから、普通自分の心の内に留めます。

 けれども主の前には、私たちは無防備になってよいのです。そこまで自分を弱くしても良いのです。主の前で泣いても、主はそれをすべて受け入れることがおできになります。

 そこで著者は勇気を出して言い表しています。「私の叫びが、あなたに届きますように」「御顔を隠さないでください」「耳を傾けてください」「呼ぶときに答えてください」と。

102:3 私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。102:4 私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。102:5 私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。

 嘆いている時の心身の状態です。嘆きは精神面だけで終わるものではありません。感情の深い部分で、そして肉体さえもがその力が注ぎ出されてしまうような体験です。

102:6 私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。102:7 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。

 荒涼とした中で、たった独りになっている気持ちを言い表しています。気落ちした時、私たちはとてつもない孤独感を味わいます。自分が心を通わせていた親しい友人からも切り離されるような、疎外感を味わいます。

2C 敵の嘲り 8−11
102:8 私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者は私を名ざして毒づきます。102:9 これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。102:10 それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。

 気落ちした時、私たちに語りかけるのは敵です。あらゆるそしり、あざけりの言葉をかけます。私たちの感情をサタンが利用して、霊的にも揺さぶりをかけてきます。

 その時に、サタンは神についての嘘を垂れ流します。神は自分に対して怒っておられ、見捨てられたのだ、という偽情報です。

102:11 私の日は、伸びていく夕影のようです。私は、青菜のようにしおれています。

2B シオンの回復 12−22
 このように打たれ、萎れている詩篇の著者ですが、祈りには、私たちが自分から目を離し、主に目を向ける分岐点がやって来ます。自分のことについて心を注ぎ出すのですが、祈りの中で、主がどのような方で、何をなされているかについての目が開けるようになります。

1C 主の愛慕 12−17
102:12 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

 惨めな自分の姿から、一挙に、とこしえに御座に着かれている主の姿を見ています。とこしえの御座、そして代々に及ぶ御名です。

 詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあります。永遠の神に目を留めるとき、遥か先に来る希望の約束も自分の目の前に実現している幻を見ることができます。たとえそれが数年後、数十年後、いや自分が生きているうちに来ないものであっても、今、その約束があるという深い確信を得ることができます。そのことによって、自分だけでは決して耐えることのできない一日を耐えることができるようになります。その幻によって、一日一日過ごす自分が支えられます。

102:13 あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。

 ここの箇所から、この詩篇の著者がバビロンに捕え移されたユダヤ人であるという見方があります。ダニエルがそのような人でした。彼がエレミヤの預言を読んでいるとき、捕囚の期間が七十年であることを知って、彼は主の前に自分の心を注ぎ出し、エルサレムをあわれんでくださるようにお願いしました。

102:14 まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。

 神がこのように、エルサレムを愛し、慕っておられます。ゼカリヤ書8章には「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。』(2節)」と書いてあります。

102:15 こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

 千年王国時代です。主が地上に戻ってこられ、世界の国々がエルサレムにおられる主イエス・キリストをあがめる時が来ます。

102:16 なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、102:17 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。

 詩篇の著者は、自分の祈りのことを「窮した者」の祈りと言っています。自分が嘆き、気落ちしているのは、主の約束を思い、主のあわれみを求めているがゆえに、その理想と現実との狭間で苦しんでいるからです。

 もし今、私たちが、主にあって抱いている理想と、そうなっていない現実の中で苦しんでいるなら、その苦しみの祈りは必ず聞かれることを知ってください!「悲しむ者は幸いです。その人は必ず慰められるからです。」「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:4,6

2C 新しく造られる民 18−22
102:18 次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。102:19 主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。102:20 捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。102:21 人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。102:22 また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。

 今、詩篇の著者は、バビロン捕囚後の神の幻を見ています。「新しく造られる民」のことです。主が天から、上から地に目を注がれて、捕らわれ人、死に定められた人を解き放たれます。主は、この預言に基づいて、悪霊につかれた人から悪霊を追い出し、病人を直され、御国の福音を宣べ伝えられました。そして使徒の時代、イスラエルだけでなく異邦人にもこの約束が及ぶことが明らかにされました。今、世界中で、罪に捕らわれた人、死に定められた人々が解き放たれています。

 そして、著者は教会時代を越えて、王国時代でのエルサレムにおける礼拝、世界中の国々の民が主に仕える時代を見ています。

3B とこしえの命 23−28
102:23 主は私の力を道の途中で弱くされ、私の日数を短くされました。102:24 私は申しました。「わが神よ。私の日の半ばに私を取り去らないでください。あなたの年は代々に至ります。

 著者は、エルサレム帰還までの時まで自分が生きられるかどうか気になっています。エルサレム帰還の約束が実現する前に自分の寿命が来てしまうのではないかと懸念しています。

 そして、自分の短い命と、神のとこしえの年を比べています。主が永遠に生きておられるなら、なぜ自分の命がこんなに短く取り去られるのか、という疑問を抱いています。

 彼のこの疑問は、そのまま復活の希望につながるものです。私たちが、永遠の神を信じているなら、私たちも永遠の命を得ることがその願いになるはずです。旧約の時代には、復活の希望がはっきりと啓示されていませんでしたが、主がよみがえられ、聖霊が与えられた後に、はっきりと永遠の命について、復活の希望について明らかにされました。

102:25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。102:26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。102:27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

 天地は過ぎ去っても、わたしのことばは決して過ぎ去らないと主は言われました(マタイ24:34参照)が、主ご自身も永遠に生きておられる方です。ヘブル人への手紙1章で、この箇所が引用されています。御子がこの「あなた」であり、イエス・キリストが永遠の神であり創造主であることを論証しています。

102:28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

 永遠の御国において、新しい民が集っている幻です。当時のユダヤ人たちは、自分の肉体の子孫が神の約束にあずかる希望を抱いていたと思いますが、私たちは、上からの誕生、霊的に生まれた人々が後世にも現われるを願っています。これからも、まだ救われていない人々が救われ、その人たちが他の人々に福音を伝えることによって、霊的な子孫が繁栄することを願っています。

3A 恵みと憐れみの冠 103
103 ダビデによる

 私はこの詩篇を、「恵みとあわれみの冠」と名づけたいと思います。ダビデが、自分の罪を豊かに赦してくださる神のあわれみと恵みを、心の奥底から高らかに歌っています。

1B 主の良くしてくださった事 1−5
103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

 わが魂、だけでは言い足らなかったでしょう、自分の内にある全てのものが、その貴い御名をほめたたえるように自分に言い聞かせています。

103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 私たちは、これを忘れてしまいます。主が良くしてくださったことがこんなにもたくさんあるのに、今ある困難に見えそうなことを見て、忘れてしまいます。あるいは、今の楽しみを見て、その楽しみに引き寄せられてしまいます。けれども、「何一つ」忘れるな、とダビデは言いかけています。

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 良いことの一つ目は、「すべての咎を赦し」です。ああ、なんと幸いなことでしょうか!ダビデはこうも言いました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32:1-2

 そして良いことの二つ目は、「あなたのすべての病をいやし」です。これは肉体の意味もあるし、また霊的な意味もあります。主がご自分の身に傷を受けられたので、私たちは癒されたという預言がイザヤ書53章にあります。今、御霊の主権によって、現代の医学でも癒されることのない人が癒されます。けれども、将来、主が戻って来られるとき、すべての信者が新しい体が与えられることによって、完全な癒しが与えられます。

 またこれは、霊的な癒しでもあります。ペテロ第一2章24節に、イザヤ書53章の預言を、罪から離れ、義のために生きるようになることが、癒しであると言っています。

 そして三つ目に「穴から贖い」とあります。ここの穴は「滅び」とも訳すことができます。旧約聖書で「穴」は、しばしば死者が行く陰府と同じように語られます。つまりはっきり言えば、神が私たちを地獄から救い出し、ご自分のものとしてくださった、ということです。

 そして四つ目が、「恵みとあわれみの冠をかぶらせ」です。憐れみは、私たちが受けなければいけない神の裁きを受けなくても良いようにしてくださる意味です。けれども恵みは、私たちが受けるに値しない祝福を受けることができるようにしてくださいました。これが信じることが難しいです。なんでこんな悪い事をした者が、まるで王様のような扱いをキリストにあって受けるのか不思議になります。けれどもこれが恵みなのです。

 「」とありますね。私たちが恵みを受けることによって、エペソ書1章には、神の恵みの栄光がほめたたえられるため、とあります。私たちは、神にとってご自分の恵みの冠なのです。

 五つ目は、「一生を良いもので満たされる」です。私たちは自分の生活に満足しているでしょうか?主は、私たちに満ち足りた心を与えてくださいます。たとえ少なくても、今が一番最高なんだ、という思いを主が与えてくださいます。

 そして最後、「あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」です。イザヤ書にもありますね、主を待ち望む者は新たな力を得、わしのように飛ぶという約束があります。自分が年を取っていって、自分が何で生きているのか分からなくなっている人々があまりにもたくさんいます。一日中テレビを見たりして、ただ時間をつぶしています。漠然と自分の死が近づいているのを知りながら、どんどん内側が衰えていくのです。しかし信じる者には、このような衰えはありません。どんどん新たなにされていきます。

2B 怒るに遅い方 6−14
103:6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。103:7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。

 これは、主がモーセに現わされたご自分の名です(出エジプト34:67参照)。主の名が、このように憐れみ深く、情け深く、怒るに遅く、恵み豊か、というものなのです!名前がそのようであるなら、主から出てくるものがどれだけ憐れみに富んでいるか知れません。

103:9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

 主の豊かな憐れみです。私たちは罪によって懲らしめを受けるかもしれませんが、いつまでもその罪にしたがって扱うことはされません。私たちが悔い改めて、主に罪を告白すれば、主はすぐに赦してくださいます。

103:11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

 今どのように罪を自分から神が引き離してくださるか、縦と横に比喩しています。縦は天と地の距離です。どれだけ高いでしょうか。このような恵みが主を畏れる者に注がれます。そして、横は東と西です。東西は、決してかち合うことはありません。南なら南極という最南端があります。来たなら北極です。けれども東西はいつまで経っても、めぐり合うことはありません。それだけ遠く、私たちの罪は離されます。

103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

 父が息子、娘が病気などで苦しんでいる姿を見たら、自分自身が苦しくなります。代わってあげることができるなら、代わりたいと願うほどに可愛そうに思います。私たちの天の父も同じです。主を畏れる人々を、自分の息子、娘のように見ておられます。

103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

 非常に大切な言葉ですね。私たちは塵に過ぎません。ノアの時代の洪水のことを思い出してください。主は、地上で生きている者たちがいつも悪いことだけに傾くのを見て、ご自分が人を造ったことを悔やまれました。それで水で彼らを滅ぼされました。

 けれども洪水後、箱舟から出てきたノアが神に全焼のいけにえをささげたとき、そのなだめの香りをかがれた主は、こう言われました。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世8:21」もし人の思い計ることが悪であることが滅ぼす原因であるなら、何度も何度も滅ぼさなければいけないでしょう。けれども、主は人間がそのようなか弱い存在であることを知られて、かえって簡単に滅ぼすことをお止めになられたのです。

 だから人間は塵に過ぎません。塵に過ぎないから、私たちをかえって憐れんでくださいます。

3B とこしえの統治 15−22
1C 主を畏れる者 15−19
103:15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。103:16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。103:17a しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。

 同じような表現が、主のみことばの永遠性を述べるときにも使われていますね。「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。(1ペテロ1:2425」主の御言葉だけでなく、主の恵みもとこしえから、とこしえまであります。

103:17b主の義はその子らの子に及び、103:18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。

 先の詩篇にも出てきたように、信仰によって義と認められる人が、ある人がある人に福音を伝えることによって増えてきます。霊的に信仰が継承されていきます。

103:19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。

 主の恵みによる統治が天から行なわれています。そこで次に天の軍勢に対して、主をほめたたえよという呼びかけをダビデは行ないます。

2C 天の軍勢 20−22
103:20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。103:21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。

 おそらく20節の御使いは、高い階級の天使たちのことでしょう。主からみことばを預かり、みことばを行なう力を与えられている天使たちです。そして21節は、その下で指示に従っている天使たちでしょう。みこころに従い、主に従っています。ヘブル1章14節に、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。

103:22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。

 

 最後は被造物全体に対して賛美の呼びかけを行なっています。そして自分の魂が主をほめたたえるように言い聞かせる、最初の言葉で締めくくっています。

 

4A 創造物のすばらしさ 104
 次の詩篇も、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」という言葉から始まっています。

 ところで、「ほめたたえる」という言葉は英語には二つあります。一つは、プレイズ(praise)です。称賛を与える時に使われる言葉です。もう一つは、blessです。この言葉はしばしば「祝福する」と訳されますが、英訳の聖書では103篇も104篇も、”Bless the LORD”で始まっています。単に称賛を与える以上の強い表現です。主の前にひざまずいて、敬愛する、あこがれの思いを持つことを意味します。

1B 天の幕 1−4
104:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。104:2 あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。104:3 水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。104:4 風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使とされます。

 今、詩篇の著者は、主が造られたすばらしい創造物を見て、主をほめたたえています。これらの被造物がいかに私たちに恩恵を与えているかを思いながら、そのすばらしさを描いています。初めは天にあるものです。光を主が衣のようにまとっておられ、天を幕のように広げておられます。水も雲も風も、すべて主の思われるように存在し、動いています。

 4節の「焼き尽くす火」はおそらく雷のことでしょう。ヘブル人への手紙1章にて、御使い、天使の姿としてここの箇所を引用しています。

2B 地の基 5−9
104:5 また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。104:6 あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。

 創世記の最初の、創造の記述を思い出してください。主が、「光よあれ」と命じられる前は、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(1:2」とあります。地は水の中におおわれていました。

104:7 水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。104:8 山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。104:9 あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。

 いつも変わらない海の境界線を地図に描けるのはすごいことです。江戸時代に伊能忠敬が作成した地図を見れば、日本の海岸線がほとんど変わっていないことに気づきます。これは主が行われていることです。

 このように陸が現われるように主がされたのは、山を上げ、谷を沈ませることによってです。もし地球上の山や谷をすべて平らにしたら、約1800メートルぐらいの水深ですべての地が沈むそうです。地がすべてが水におおわれていた記述にぴったり当てはまります。

3B 山々の泉 10−18
104:10 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、104:11 野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。

 山々から流れ出る小川の恩恵です。家畜ではない野生の獣がその恩恵にあずかっています。

104:12 そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。104:13 主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。

 山々の小川は、泉だけでなく、何よりも山に降る雨によってもたらされるものです。

104:14 主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。

 創世記1章には、植物が家畜や人の食料となることを神がお定めになったことが書かれています。

104:15 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。

 食物は単に、物理的に私たちが生き延びるためだけにあるのではありません。私たちを生き生きさせるため、心をも支えるために存在します。インスタント食品では代用できない、精神的な効用もあるのです。

104:16 主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。104:17 そこに、鳥は巣をかけ、こうのとりは、もみの木をその宿としています。

 水分をたくさん含んだ土によって木がみずみずしく育っています。その恩恵に鳥があずかっています。

104:18 高い山は野やぎのため、岩は岩だぬきの隠れ場。

 あらゆる山々の地形が、生物の恩恵となっています。

4B 太陽のしるし 19−23
104:19 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。

 創造の第四日目、神は光る物を造られました。昼をつかさどる太陽と、夜をつかさどる月と星を造られました。そしてそこには、しるしのため、つまり季節や日にちのために役立てとの主の命令があります。昔の多くの国が、太陽暦ではなく太陰暦を使っていましたが、月が暦のために使われていました。

104:20 あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。104:21 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。104:22 日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。104:23 人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。

 日が昇り、日が沈む、という太陽の働きによって、生物が恩恵を受けています。夜行生物もいれば、人間のように昼間に活動する生き物もいます。

5B 海の生き物 24−30
 ここまで神の創造を表現して、詩篇の著者は主をほめたたえずにいられなくなります。

104:24 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

 そして次は、海の生き物について述べます。

104:25 そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。104:26 そこを船が通い、あなたが造られたレビヤタンも、そこで戯れます。

 レビヤタンは、おそらく竜のことです。ヨブ記39章にその姿が詳しく描かれています。神話上の動物とされていますが、聖書にこれだけたくさん出てくるのであれば、私は実際にいたのではないかと考えています。そのレビヤタンが戯れている同じ海で、船が行き来しています。

104:27 彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。あなたが時にしたがって食物をお与えになることを。104:28 あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。104:29 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。

 小魚はプランクトン、大きな魚は小魚を、というふうに、海の生物は自分の食物を食物連鎖に完全に依存しています。

104:30 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。

 人間は神の息がその鼻に吹きかけられたことによって、生きた魂となりましたが、海の生物も同じ御霊によって造られました。

 そして地の面は、春になると新しくされます。一面に花が咲き、風景は全体的に変わります。

6B 山の噴火 31−35
104:31 主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。104:32 主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。

 火山のことですね。

104:33 私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。

 主のすばらしい創造と、その創造物を今も支配しておられることを思うと、いつまでも、生きている限り主をほめたたえます、と言っています。

 そして自分が主を喜ぶことによって、その思いと心がみこころにかなうように、と願っています。被造物がこれだけ主の支配の中ですばらしいのだから、自分の意思も主に服従させることによって、その栄光を反映させることができます。逆に反逆している悪者は、主の栄光を現わすことはできません。だから悪者が地から絶え果てるように、と願っています。

 次回は、主がイスラエルに対して行なってくださっている良いことについての詩篇です。

 ユダの手紙にも、終わりの時に教会に忍び込み、ぶつぶつ言い、不平を鳴らし、大言壮語する者の存在を話していますが、そこで大天使ミカエルの話をしています。彼は悪魔とモーセの遺体について「論じ、言い争った時、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。(9)」大きな権威と力をもったミカエルでさえ、力ある者サタンに対して罵ることをしなかったのです。しかし今の時代は、簡単に人をそしる霊的な空気があります。


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