詩篇6−10篇 「敵からの救い」


アウトライン

1A 懲らしめられた時 6
   1B 衰える魂 1−7
   2B 祈りによる立ち上がり 8−10
2A 中傷された時 7
   1B 立ち上がる裁判官 1−9
   2B 容赦ない執行者 10−17
3A 夜空の栄光 8
   1B 神のご威光 1−2
   2B 人間への想い 3−9
4A 義の審判者 9
   1B 喜びの歓声 1−10
   2B 国々への告知 11−20
5A 虐げられた者の叫び 10
   1B 悪者の高ぶり 1−11
   2B 主の立ち上がり 12−18

本文

 詩篇篇を開いてください、今日は6篇から10篇までを学びたいと思います。今日のメッセージの題は「敵からの救い」です。早速本文を読みましょう。

1A 懲らしめられた時 6
6 指揮者のために。八弦の立琴に合わせて。ダビデの賛歌

 再びダビデの賛歌です。

1B 衰える魂 1−7
6:1 主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。

 私たちは前回の学びで、世界には正しい者と悪者とのどちらかしかいない、という話をしました。神の恵みによって正しいとみなされた人々と、神を認めない人々の二種類しかいません。そして詩篇の著者ダビデは、神を認めず無視する悪者に対して、怠りない裁きが下るようにという祈りをしています。

 では、もし神の所有の民とされている自分自身が罪を犯したらどうなるでしょうか?この詩篇は、このテーマを取り扱っています。すでに主イエス・キリストを信じて、その血によって罪が赦され、清められたのに、罪を犯すとどうなるのかという問題について取り扱っています。

 ダビデは、「責めないでください」「懲らしめないでください」とお願いし、祈っています。私たちが罪を犯したときに、私たちの内に住んでおられる御霊が私たちに罪の自覚を与えてくださいます。神を無視している者、自分だけで生きていると考えている者には感じない、とてつもない恥ずかしく、辛い気持ちになります。

 私たちの天の父は、実際、私たちが罪を犯したからといって暴力を振舞う父親のように怒りに任せて私たちを懲らしめることはありません(ヘブル12:10参照)。しかし、私たちが、自分が犯した罪のゆえ生じる良心の呵責であるとか、苛立ちであるとか、後悔の念であるとか、さまざまな否定的な感情が出てくるのをそのままにされます。それは、ヘブル書12章に書かれていますが、私たちが罪を犯すことが嫌になり、私たちのほうから罪から離れたいと願うようにさせるためです。

 これを聖書では、信者に対する神の懲らしめとして説明されていますが、その時の感情面の状態をダビデは「御怒り」であるとか「激しい憤り」であると表現しています。

6:2 主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。

 罪を犯した時、私たちは感情的に辛い思いをするだけではありません。肉体にも影響を及ぼします。疲れを覚えたりして、体力がどんどん失われていきます。

6:3 私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。

 このように精神的に追い詰められた状態、不安や動揺を抱えた状態はいつまで続くのですか、とダビデは聞いています。

6:4 帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。6:5 死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

 罪を犯すと、感情的、肉体的な影響だけでなく、霊的な影響が出ます。それは「死」です。ダビデは、自分が死んでしまったら主を覚え、賛美することができるような霊的な喜びを持つことはできない、自分が死んで陰府に下ったら、そのようなことはできないと言っています。これは霊的に「地獄」に堕ちたら、主への賛美や礼拝とは裏腹に、後悔と苦しみしか残されていない場所にいなければいけないことを意味しています。

 私たちは、救いは失いえるのか?という疑問があります。さまざまな御言葉から失うことはないと言えますが、しかし罪を犯すことによって救いの確信が揺らぐことはあります。何のために、私たちは救われたのでしょうか?罪からの救いです。罪から救われた者が罪の中にとどまるなら、言葉の定義からして「救われている」と言えません。罪から来る報酬は死です。だから、救いは失うことはないけれども、罪の後に来る死を意識せざるを得ないのです。

6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。6:7 私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。

 ヨハネ第一1章9節で、罪の告白にともなう罪の赦しと清めの約束があります。ダビデが罪を犯して、預言者ナタンがそれを指摘したことを思い出してください、ダビデは罪を告白したら、ナタンはすぐに罪の赦しの宣言をしました。罪は告白したらすぐに赦されます。けれども、罪の赦しは、ボタンを押したらすぐに結果が出てくるような機械的なものではありません。自分が押しつぶされてしまいそうな所を通って初めて、罪の赦しの尊さを味わうことができるのです。

 コリントにある教会で、教会の中で近親相姦の罪を行なっている者がいました。そのことを知ったパウロは、「取り除きなさい」と指導しました。彼はキリスト教会の交わりにあずかれなくなってしまいました。このことは第一の手紙に書いてありますが、第二の手紙でパウロはこう言っています。「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(2コリント2:6-7

 だからダビデは祈りました。主が自分を怒りの中ではなく、あわれんでくださると答えてくださるところまで祈りました。そのときに葛藤があります。「お前は罪を犯したのだから、もう立ち直ることはできないさ。神はお前を捨てたよ。」という囁き声が聞こえます。ダビデはその声を敵と呼んでいます。その敵の声のために、彼は弱まってしまいました。

2B 祈りによる立ち上がり 8−10
6:8 不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。6:9 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

 祈りの中で、彼は主から明確に答えをいただきました。罪の赦しと自分の霊の救いの確信です。

6:10 私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。

 救いの確信をはっきり持っているダビデは、自分を悩ます敵にはっきりと退去を命じることができたのです。

 このように私たちが永遠のいのちを持っているという確信を持つことは非常に重要です。このことを学ぶのに、ヨハネの第一の手紙が最適でしょう。ヨハネは、私たちが罪の中にいながら、神によって生まれたということはできない、と言っています。そして、罪の赦しの約束も与えています。主が弁護者となってくださり、私たちのために父なる神の前で弁護してくださいます。このことによって、私たちは救いを確信することができ、喜びを持つことができます。

2A 中傷された時 7
 それでは第七篇に入りますが、今度は自分が罪を犯していないのに、罪を犯していると中傷されていること、自分がしていないことでしていると悪口を言われているときの詩篇です。

7 ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に歌ったシガヨンの歌

 「ベニヤミン人クシュ」は、おそらくはサウル王に対してダビデが害を加えようとしている、と噂した人物であろうと考えられます。サウルはダビデを追跡しました。彼の命を取るために追跡しているときに、ダビデが隠れていた洞穴で彼は寝ました。そこでダビデは彼の衣の一部を剣で切って、サウルが起き上がったときにそれを持ちながら、「そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。(1サムエル24:9」と言いました。ダビデは、中傷の言葉、噂話によって、自分の命が危うくなっていたのです。

1B 立ち上がる裁判官 1−9
7:1 私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。7:2 救い出す者がいない間に彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。

 ダビデは今の自分の心理的状態を、洞窟かどこかに隠れて、助けを呼んでいる人のように表現しています。主に身を避けたけれども、追い迫る者がいる。またライオンのように自分を引き裂いて、さらっていくかもしれない、という恐れです。

 ダビデは「私のたましいを引き裂く」と言っています。私たちが中傷されたときに、このことが起こります。自分の魂、精神が引き裂かれるような思いをします。そしてそのことが起こらないように、何とかしてたれかが自分を弁護してくれるように願います。信仰者であるなら、この不安を主ご自身にぶつければよいのです。

7:3 私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。セラ

 覚えていますか、ヨブ記においてヨブが友人ら言葉に反論したときも、ダビデと同じようなことを言いました。自分が滅んでも構わないとまで言えるのは、逆に自分は何も行なっていないことを訴えているのです。この件の問題に関しては私は無罪であって、非は中傷をしている者にある、ということです。

7:6 主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。7:7 国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。

 主は公平に裁かれる方です。そこでダビデは、国民の集いを伴う法廷を私のために開いてください、とお願いしています。これはもちろん比喩ですが、正しい裁きを行なってくださいとお願いしています。

7:8 主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は、心と思いを調べられます。

 私たちは中傷されるとき、主に弁護していただくことを求めるべきです。これがなかなかできません。心の内で苦悶です。そして思いっきり言い返したくなります。けれども、ダビデのようにある意味、攻撃的に主が裁いてくださることを願うべきです。

2B 容赦ない執行者 10−17
7:10 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。7:12 悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 主は必ずきちんと裁いてくださいます。剣をとき、弓を張って、狙いを定める精鋭部隊のように、神は正確に、完璧に射止めてくださるとダビデは言っています。だから私たちは、自分で弁護しようとするのではなく、主に弁護していただくべきなのです。

7:14 見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

 中傷者の姿を、妊婦が出産することに例えています。悪意という種を胎に宿します。それが胎内で成長して、害毒になります。そして出てくるときは偽りとなります。単なる嘘ではなく、悪意、害毒を内包しているがゆえに、中傷は人の魂を引きちぎります。

7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。

 罠に引っかかるように自分が掘った穴に自分が落ちてしまう、これが神の裁きの方法の一つです。この後の詩篇、またその次の箴言にも出てきます。

7:16 その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。

 害毒は自分の内から出てきますが、返ってくるときは自分の頭上、脳天に来ます。だれにでも分かる形で、また自分に徹底的なダメージを与えるような形でやって来ます。エステル記のハマンのことを思い出しませますか?彼はモルデカイを殺そうと思って作った柱に、王の命令によって自分自身が付けられてしまいました。

7:17 その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。

 勝利ですね。中傷されても、今ダビデが祈ったような祈りをささげれば、主を賛美できるところまで引き上げられます。

3A 夜空の栄光 8
8 指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌

 ギデトはおそらくは楽器の一種だと思われます。仮庵の祭りのときに使われました。

1B 神のご威光 1−2
8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。

 ダビデは今、夜空を見上げています。そして、その夜空にある神の創造の業を見て、驚き、主をほめたたえています。

8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 幼子と乳飲み子の口が、敵をしずめることができるという力とは何でしょうか?星空を見て、それが神の手によるものではないと言い張る無神論者に対する力です。幼子が神の御手によるものだとすぐに理解できます。幼子さえ悟ることができるほど明快なので、いわゆる高尚な知識人の口をふさぐことができる、というものです。ローマ人への手紙の1章に、被造物に神の永遠の力と神性が現われているのに、神を神としてあがめず、思いを暗くさせている人間の姿が描かれています。

 また、知識を振りかざしていたコリントの教会に対して、パウロは、神は賢者をあえて愚かにするために、十字架のことばによる救いを選ばれたことを話しています(1コリント1章参照)。世界は、高い知性を持った学者や優秀な政治家などによって動いているように見えますが、実はとても平凡なクリスチャンたちが福音を一人ひとりに伝えている結果、国々はどんどん変わっていきました。幼子のような信仰に大きな力があるのです。

 ところで主イエス様が、ここの箇所を引用されたことがあります。エルサレムに入城される時、群衆が「ホサナ」と叫んでイエス様をお迎えしました。明らかにイエス様をメシヤだとして喝采の声を挙げました。子供たちまでが「ダビデの子にホサナ」と叫びました。それに律法学者や祭司長が怒りました。主は、「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」(マタイ21:16」と言われました。

2B 人間への想い 3−9
8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 あの膨大な宇宙を見せられて、人間がいかにちっぽけな存在であるかを思わない人はいないでしょう。私もクリスチャンになるとき、このことが不思議で信じられませんでした。宇宙をも造られた方が自分のようなちっぽけな存在を省みられるのか、と思いました。

 けれども省みておられます。安く売られている雀でさえ、父のお許しなしに地に落ちることはないのだから、あなたがたはどれだけ神の心に留められているか、髪の毛さえもみな数えられている、と主は言われました。そして詩篇139篇を読んでみてください。自分が生まれてから思ったこと、行なったことすべて主はご存知で、私たちに対する思いは海の砂よりも多いと書いてあります。

8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 ここの「神」は「御使い」と訳されている翻訳のほうが多いです。天で主に仕えている御使いにやや劣る形で人間を造られた、とあります。栄光と誉れの冠をかぶらせた、とありますが、このことは動物と人間を比べたら一目瞭然でしょう。確かに人間がいることによって、いろいろな害がもたらされています。そのために、逆に環境保護主義者などは人間の営みそのものを悪とみなす嫌いがあります。

 しかし、それは間違っています。人間は神のかたちに造られたのであり、神の栄光と誉れが反映されています。環境汚染はあるでしょうが、では音楽は動物が奏でるでしょうか?絵画はどうでしょうか?人間にしかできないことがあります。そしてそれは神がご自分のかたちに似せて人間をお造りになったからです。

8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 神が初めに人を造られたとき、地にある生き物を支配せよ、と神は人間に命じられました。これは人間が自分の欲望のままに好きなように動物・生物を殺しても構わないということではなく、管理せよ、という命令です。

 アダムの罪が世界に入ったことによって、この理想の状態を私たちは今、見ませんが、主が再臨されるときこのことは実現されます。ローマ8章にこう書いてあります。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(19-21節)

8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

 主のすばらしい創造の姿を見て、そして人間がこの神と共同管理を任されているのを知り、ダビデは再び主をほめたたえています。

 ところでこの詩篇の箇所を、ヘブル人への手紙の著者はメシヤの預言として紹介しています。私たち人間についての詩篇なのですが、神の身分であられるのに人の姿を取ってくださったイエス様の働きを紹介しています。ヘブル書2章9節から読んでみましょう。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。(ヘブル2:6-10」栄光と誉れの冠はまだ人間に与えられていませんが、人となられた主は十字架の死を通られて後、復活されて、昇天されて栄光と誉れの冠を受けられました。

4A 義の審判者 9
 それでは第九篇に入ります。第九篇と第十篇は主題が似ています。虐げられている者、貧しい者たちに対して、主が正しいさばきをしてくださるという内容です。そのため、旧約聖書のギリシヤ語訳である七十人訳では、九篇と十篇を一つにまとめています。

9 指揮者のために。「ムテ・ラベン」の調べに合わせて。ダビデの賛歌

 ムテ・ラベンとは、「息子の死」という意味です。そこから、この賛歌はダビデがペリシテ人ゴリヤテを倒したとき、ゴリヤテの母の立場から彼の死を「ムテ・ラベン」と言ったのではないかとも言われています。

1B 喜びの歓声 1−10
9:1a私は心を尽くして主に感謝します。

 主への感謝、あるいは賛美から始まっています。「心を尽くして」とありますが、私たちの感謝が心を尽くしたものではない、中途半端なことが多いです。けれども、ダビデはここで本当に、心から精一杯、主をほめたたえています。

9:1aあなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。

 感謝、賛美を自分のうちに溜めていることはできず、どんどん他の人に語り告げています。自分の内に秘めるのは難しいですね、サマリヤの女を思い出してください。彼女はイエス様がメシヤであると分かると、サマリヤの町に出て行って言いふらしました。

9:2 私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。

 喜びと誇り、あるいは楽しみが合わさって、賛美しています。そして次に、ダビデがこのように喜んで賛美している理由が書いてあります。

9:3 私の敵は退くとき、つまずき、あなたの前で、ついえ去ります。9:4 あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。

 自分の敵が、神の正しい審判によって、潰え去ったからです。

9:5 あなたは国々をお叱りになり、悪者を滅ぼし、彼らの名を、とこしえに、消し去られました。9:6 敵は、絶え果てて永遠の廃墟。あなたが根こぎにされた町々、その記憶さえ、消えうせました。

 自分の個人的な敵だけでなく、国レベルでも神に反抗する国々を神は滅ぼされました。

 今、ダビデは終わりの時のことを話しています。黙示録にて、主が再臨されるときに天で大歓声が上がることを預言しています。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。(19:1-2」神に反抗して、神の聖徒をなぶった敵、国々は終わりの時に主の手によって滅ぼされますが、そのことに対して聖徒たちが大声で歓声を上げて、主をほめたたえるのです。

9:7 しかし、主はとこしえに御座に着き、さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。

 
永遠の廃墟となり、記憶からもなくなってしまう国々の王座とは対照的に、主がお建てになる神の国は堅く、揺らぐことはありません。

9:8 主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。

 国々には不義と公正がはびこっていますが、神の国では主が義と公正をもってさばいてくださいます。

9:9 主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。9:10 御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

 ここの「虐げられた者」と「苦しみ」とは、国の中で弱い立場にいる人々全般を指しているかもしれませんが、次の10節を読むと、主の契約の民、主の名を呼び求める者のことを指しているかもしれません。黙示録でも、バビロンのゆえに迫害に遭い、血を流して死ぬ聖徒たちがたくさんいますが、彼らのことを指しているかもしれません。

 キリスト者が虐げにあうとき、苦しむとき、私たちは、主の御名という砦があります。頼るところがあります。そして主が、「捜しなさい、そうすれば見つけます。」と約束されたように、私たちは求めなければいけません。求めるにはへりくだりが必要です。王である主の御前にしつこく出て行って、嘆願しなければいけません。神はその過程を通して、私たちの心をご自分の意思に合わせてゆき、私たちも神の御業を見ることができるようにしてくださいます。

2B 国々への告知 11−20
9:11 主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。

 再び、ほめ歌を歌っています。そして再び、主をほめたたえていながら、国々にみわざを告げ知らせます。「賛美」、そして「宣教」です。この二つを通して、終わりの時だけでなく、霊的な御国が世界に広がっていきます。

9:12 血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。

 再び、貧しい者の叫びにダビデは言及しています。

9:13 主よ。私をあわれんでください。私を憎む者から来る私の悩みを見てください。主は死の門から私を引き上げてくださる。

 ダビデは敵によって自分が死の門のところまで来てしまったことを告白しています。しかし、その憎む者から彼を主は救い出されます。私たちにも死の門があります。私たちが誘惑に合い、罪を犯し、神からはなれ、自分の道を進むなら死の門に行きますが、主を呼び求めるなら救い出してくださいます。

9:14 私は、あなたのすべての誉れを語り告げるために、シオンの娘の門で、あなたの救いに歓声をあげましょう。

 シオンの娘の門とは、エルサレムの町にある門のことです。そこはいろいろな人が行き交う、開かれた広場で、そこで声を挙げたらだれもが振りむき、聞くことでしょう。そのようなところで、あなたのすべての誉れを語りたい、と言っています。

9:15 国々はおのれの作った穴に陥り、おのれの隠した網に、わが足をとられる。9:16 主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。悪者はおのれの手で作ったわなにかかった。ヒガヨン  セラ

 前に出てきたように、主は、悪者が自分で仕掛けた罠に自分自身が引っかかる形で裁きを行なわれます。

 そして「ヒガヨン」というのは、ちょっと考えてみなさい、という意味です。悪者がどのように滅びるかをちょっと考えてみるとよいと思います。

9:17 悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。9:18 貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。

 悪者どもは地獄に行きます。神を認めない国々も地獄に行きます。マタイ25章に国々を山羊と羊に選り分けるところが出てきますね。そこに、貧しい兄弟たちに施しをした国々は右に、そうしなかった者たちは左に分けられます。

9:19 主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。国々が御前で、さばかれるために。9:20 主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。セラ

 ダビデの情熱的な、神の支配を願う思いが伝わってきます。私たちは、まだ主を知らない人々に囲まれています。自分たちが神によって支配されており、この方に服従しなければいけないことを知っている人は知りません。そして神について無知であるばかりでなく、高ぶって神のようにふるまうことができるとまで考えます。だから人間に過ぎないことを知らせるために、恐れを起こさせてください、とダビデは祈っています。

5A 虐げられた者の叫び 10
 そして十篇に入ります。第九篇は、主がさばいてくださったことを喜び、賛美する詩でしたがここは、現在進行形で苦しんでいる人たちの悩みが書かれています。

1B 悪者の高ぶり 1−11
10:1 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。

 苦しみのとき、私たちも同じように感じます。どうしてあなたは遠くにおられるのですか、身を隠されるのですか、と。

10:2 悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。彼らが、おのれの設けたたくらみにみずから捕えられますように。

 これが、悪者がすることです。高慢になり、そして追い迫る、あるいは迫害します。次から悪者の姿をダビデは詳細に表現していきます。

10:3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。

 主の民は主の名を誇りますが、対象的に悪者は心の欲望を誇ります。金を誇ったり、権力を誇ったり、知識を誇ったりします。

 そして悪者の特徴は、主をのろうこと、侮ることです。イエス様のことを人に伝えたら、多くの人が「もうそんなことは話すな!」という反応をするでしょう。心の中で主を締め出しているからです。

10:4 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。

 これが聖書の定義による高慢です。「神はいない」という考え、また神を尋ね求めようとしない心です。ある人が、日本人は高慢な民族だと言いました。ここで使われている意味で言ったのだと思います。一見、まじめで人によくする人でも、神のことを求め、考えることについては意に介さないことが多いです。

10:5 彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、はいらない。敵という敵を、彼は吹き飛ばす。

 回りのことしか見ていない、自分がこれからどうなっていくのか、どうして生まれたのか、という人間の根本についての問いかけをしたこともない。とにかく世の中を渡り歩くことで精一杯だ、という状態です。近視眼になっているため、神のさばきが見えなくなっています。

10:6 彼は心の中で言う。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」

 ああ、このような考えは、特にバブルが崩壊する前には充満していました。日本の繁栄はずっと続くという思い上がりの雰囲気がたくさんありました。私はそのころ大学生でしたが、サークルの先輩が私の前で、苦味をともなった声で神のことをのろったのを聞きました。「神を信じるなんて、本当にひどいことだ。」というような内容のことを言ったかと思います。それで、数年後にバブル崩壊です。

10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。10:8 彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。彼の目は不幸な人をねらっている。10:9 彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。

 口や言葉によって人々を貶めていく姿ですね。

10:10 不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。10:11 彼は心の中で言う。「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」

 先ほどから悪者の心の中の言葉を読んでいますが、「神はいない」「私は揺るがない」そしてここでは「神は見ていない」です。何か悪いことをしても、神が見ているという意識がないのです。人が見ていなければ何をしてもよい、という思いがあるから、世の中でいろいろな不祥事が起きています。現実の社会の中で働いている人なら、マスコミで取り上げられるものは氷山の一角にしか過ぎないことを身に沁みて感じていることでしょう。

 このような環境の中で、誠実に主を仰ぎ見ながら歩む人は、苦しむことでしょう。10節にあるように、砕かれうずくまることもあるでしょう。そこでダビデは、主が立ち上がってくださることを願っています。

2B 主の立ち上がり 12−18
10:12 主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。10:13 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたは追い求めないと言っています。

 今度は、「神を追い求めない」と心の中で言っています。しばしば、「私は神のことが分からない。」「聖書のここが分からない、理解できない。」という言葉を聞きますが、その中で誠実な疑問もあるのですが、ただ信じたくないから信じないことが多いです。追い求めることなくして、どうして理解できるのでしょうか?求めない心は聖書では悪者の範疇に入れられています。

10:14 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。

 神には知らされていないのではなく、神はすべてをご存知なのです。そして神は必ず悪者に対するさばきを行なわれます。

10:15 悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。

 前回の学びで、「敵の頬を打ち、歯を打ち砕いてくださいます」という言葉がありましたが、ここでもすごい描写になっていますね。よこしまな者の腕を折ります。

10:16 主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。10:17 主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、10:18 みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。

 神の国が建てられたら、人が人を虐げることは一切になくなります。御国を思いながら今を生きていくことが、信者に求められています。

 物理的にも、苦しみの中にいる人、貧しい人の中に、主をまっすぐ信じている人たちが多いです。物質的な豊かさが、私たちの国にどれだけ霊的に貢献したのでしょうか?戦後六十年間の平和が、私たちにどれだけ霊的に貢献したのでしょうか?日本人は本当の意味で、へりくだったでしょうか?

 私たちは祈ります。主の怒りが地上に下る前に、自らへりくだって、心砕かれて主の前に来る人が一人でも多く現われることを。恵みの御霊が一人ひとりに触れられて、神の救いが必要であることを知るようにお祈りします。


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