詩篇81−85篇 「救い出された後に」

アウトライン

1A 神の恵みの豊かさ 81
   1B 祭りの喜び 1−3
   2B 神のたしなめ 4−14
      1C あかし 4−7
      2C 不従順 8−14
   3B 満ち足りるイスラエル 15−16
2A 裁判者への裁き 82
   1B 神々 1
   2B 不正 2−8
3A 重い石イスラエル 83
   1B 悪巧み 1−8
      1C 神の民 1−4
      2C 周囲の国々 5−8
   2B 速やかな破壊 9−18
      1C 過去の例 9−12
      2C 風のごとく 13−18
4A 主の大庭 84
   1B 恋い慕い 1−4
   2B シオンへの大路 5−7
   3B 我らの盾 8−12
5A 御国の回復 85
   1B 再生 1−7
      1C 取り戻された繁栄 1−3
      2C 救い 4−7
   2B 平和と義 8−13

本文

 詩篇81篇を開いてください、今日は81篇から85篇までを学びます。今日のメッセージ題は「救い出された後に」です。私たちが前回学んだところでは、アサフはエルサレムが敵に荒らされているのを嘆き、泣き叫んでいる部分を学びました。けれども今日学ぶところには、神の民はイスラエルの地にいます。

1A 神の恵みの豊かさ 81
81 指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。アサフによる

1B 祭りの喜び 1−3
81:1 われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。81:2 声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。81:3 われらの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ。

 この詩篇は、祭りの日における主への喜びの歌です。喜び歌うことへの呼びかけが、躍動的になっているのに気づくでしょうか?「歌え」から「叫べ」へ。そして「叫ぶ」ことから楽器を打ち鳴らせへ。それからタンバリンだけでなく立琴をかき鳴らせ。

 イスラエルに行けば、ユダヤ人たちのお祝いが、本当に勢いがあり驚きます。腕を組んで輪になって踊ったりしますが、何時間も何時間も踊ります。パーティーというと、酒やその他乱れたものが付き物ですが、ユダヤ人の祭りにはそのような要素はありません。でもものすごい勢いです。

2B 神のたしなめ 4−14
1C あかし 4−7
81:4 それは、イスラエルのためのおきて、ヤコブの神の定めである。

 喜ばしい祭りの祝いは、神によって定められたものです。勢いよく喜び、歌うことが神によって命じられています。それは次の出エジプトの出来事があるからです。

81:5 神が、エジプトの地に出て行かれたとき、ヨセフの中に、それをあかしとして授けられた。私は、まだ知らなかったことばを聞いた。81:6 「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。81:7 あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。セラ

 雷の隠れ場から答えるとは、シナイ山にて主が現れた時のことですね。メリバの水はもちろん、モーセが岩を杖で打って、そこから水がほとばしり出たときの出来事です。

 これらのことを通して、主が「わたしは生きているのだよ。わたしはあなたがたのためにいろいろしてあげているのだよ、豊かに施しているのだよ。」と示してくださっているのです。あかししてくださっています。

2C 不従順 8−14
81:8 聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

 これから神のたしなめが始まります。主からの訓戒、戒めが始まります。

81:9 あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

 彼らが陥った過ち、偶像礼拝のことを思い起こさせておられます。その理由は、彼らがまことの神がいるのを忘れ、他のもので自分たちを満たそうとしたからです。だからここで詩篇の著者は、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」という主の言葉を聞いています。

81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。

 主は、イスラエルに、また私たちに、ご自分の意思を強いることはなさいません。自分のやりたいことを選び取るなら、主は私たちをそのままにされます。

81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」

 ここに、主のくやしい御思いがよく表れています。主は、イスラエルをご自分の民として選び、彼らに豊かに施したいと願われています。それなのに、イスラエルが心をかたくなにするので、せっかく用意してくださっている祝福を彼らが十分に味わうことができていないという現状をくやしがっておられるのです。

 私たちもまた、キリストにある神の霊的祝福を十分に享受しているでしょうか?私たちがイスラエルと同じように不従順と罪の道を歩むなら、神がせっかく用意してくださっているすばらしい祝福を十分に味わうことはできないのです。

 けれども私たちが、ひなが親鳥の与えるえさを大きな口を開けて待っているように、熱心に神を待つなら、主はそこにますます豊かに恵みを施してくださるのです。なぜなら神は、そうしたいと願われているからです。

3B 満ち足りるイスラエル 15−16
81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」

 主を憎む者どもとイスラエルとの対比です。主を憎む者どもには永遠の刑罰がありますが、イスラエルには最上の小麦が与えられます。キリスト者にも同じ約束があります。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32

2A 裁判者への裁き 82
82 アサフの賛歌

1B 神々 1
82:1 神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真中で、さばきを下す。

 新改訳聖書をお持ちの方は、下の注釈をご覧ください。「神々」は、あるいは「さばく者」と書いてありますね。ヘブル語のエロヒムはもちろん神のことですが、さばく者、裁判官に対して使われている箇所があります。出エジプト記21章を開いてください。6節にこう書いてあります。「その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。」これは、さばく人と訳すことができる箇所です。そして2228節の「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。」も同じ訳ができます。

 なぜ裁判で判決を下す人が神と呼ばれるのか?ですが、創世記9章に大洪水の後、神がノアにお語りになった言葉があります。「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(6節)」神が人に、死刑の判決を下す権威をお与えになりました。本来なら神のみがさばく方なのですが、カインがアベルを殺した事件があったことから、地上に悪をはびこらせるのを抑制する制度を神が設けられたのです。

 人を裁くことは、まさに神が行なわれることであり、それゆえ神々と呼ばれています。

2B 不正 2−8
82:2 いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

 神が裁判官たちを裁かれていますが、悪者どもへ顔を立てる問題がありました。これは裁判における普遍的な問題ですね。もともと裁判制度は、神への恐れがなければ成り立たない制度です。米国の法廷では証人が神によって偽証をしないことを誓いますが、人間が知りうる証拠や判断によって公正な裁きをすることは不可能です。だから神への恐れが必要なのですが、それがなく自分たちで人を裁くのだと考えたらどうなるのでしょうか?

 ここに書かれている「悪者どもの顔を立てる」問題が起こります。私たちの住む日本においても、いつも裁判の判決についての話題が尽きません。免罪の問題もあるし、明らかな加害が無罪になったりします。

82:3 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。82:4 弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。

 神の制度の中では、いつも弱い者や悩む者、乏しい者に対する特別な配慮があります。そのことをしなかったために、主がイスラエルをお咎めになっている所が何箇所もあります。例えばエレミヤ22章3節があります。「主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。

 そしてユダヤ人がエルサレムに帰還した後でも、同じ問題が起こりました。ネヘミヤ記で、ユダヤ人が同胞のユダヤ人を奴隷にしていることが明らかになって、ネヘミヤが非常に良かった記述があります(5章参照)。バビロンに捕え移される原因の一つでもあったこういった不正義が、主の憐みによってエルサレムに帰還した後でも見つかったので、非常に深刻だったわけです。

82:5 彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。地の基は、ことごとく揺らいでいる。

 ここに彼らの問題の進展を見ます。まず彼らは、知りませんでした。これは正確には、知っているけれどもそれを押し殺しているということです。ローマ人への手紙2章にあるように、良心が律法となってその人を責める、と書いてあります。

 そのため、彼らは悟りません。実際に起こっていること、真実が理解できなくなってしまいます。それで彼らは、暗闇の中を歩き回ります。弱い者を窮地に陥れるような事を平気で行います。

 そして最後に、「地の基は、ことごとく揺らいでいる」とあります。コラの反抗のことを思い出してください、コラや彼に組した者たちが生きたまま陰府に落とされましたが、それは地が割れることによってでした。

82:6 わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。82:7 にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」

 神は、ご自分の代理人として裁判官を立てておられます。だから、「おまえたちは神々だ。いと高き方の子らだ。」と言われています。けれども彼らは自分たちの上に裁き主がおられることを知らずに、あたかも自分たちが神々であるかのように、いと高き方の子であるかのように考えています。人の運命や命を自分の手でいかようにでも料理できるとでも思っているのです。ですから神は、「おまえは自分を神のようにふるまっているが、おまえが単なる人の子であることを知らしめるために、死をもたらそう。」と言われているのです。

 ここの箇所は、イエス様が引用されているところです。ヨハネによる福音書10章にて、ユダヤ人たちがイエス様を石打ちにしようとしました。主が「良いわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」と言われたら、ユダヤ人は、「いいえ、あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」と言いました。そしてイエス様は、こう言われました。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。(34-36節)

 この箇所からあらゆる空想話を作っているのが、モルモン教です。彼らは私たちはみな神であると言います。神の姿に進化していくような考えを持っています。けれども主が言われていたのは、そういうことではありません。「裁判官でさえ神々と言われていて、そして彼らはそのようにふるまってあらゆる不正を働いていながら冒涜罪だなんて問わなかったのに、なぜわたしに対しては問うのですか。」ということです。

82:8 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。

 アサフは最後に、全世界における同様の問題、不正な裁判の問題に対して、主の公正な裁きを願い求めています。

3A 重い石イスラエル 83
83 歌。アサフの賛歌

 82篇は本当に身近で、ニュースでよく見る問題でしたが、83篇もニュースでよく見る話です。

1B 悪巧み 1−8
1C 神の民 1−4
83:1 神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。83:2 今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。83:3 彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。83:4 彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」

 そして次に、このような悪巧みを考えている国々が具体的に列挙されています。これらはみな、イスラエルを取り巻く、周辺の国々や諸民族です。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」という言葉は、まさに現代のPLO、ハマス、シリア、イラン、そしてその他周辺諸国のイスラム教のモスクから聞こえてくる言葉です。PLOの憲章には、イスラエルとの「二国分割」「二国共存」などという考えはいっさいありません。「パレスチナの解放」であり、そのパレスチナとはイスラエル全土を指しています。

 彼らはユダヤ人を抹殺することを考えているでしょう。そして世界も、そういったイスラエルとイスラムとの戦いは、あくまでもイスラエルに対するものだと思っているでしょう。けれども、2節には「あなたの敵ども」「あなたを憎む者ども」と書いてあります。彼らは、イスラエルに敵対しイスラエルを憎むことによって、神ご自身に敵対し神を憎んでいるのです。

 それは神が、イスラエルと一体化されているからです。他の箇所で、イスラエルのことをご自分の瞳であると言われています。例えばゼカリヤ書2章8節。「主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。』」同じように、イエス様はご自分の弟子に対してもこう言われました。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。(ヨハネ15:18

2C 周囲の国々 5−8
83:5 彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。

 共通の敵によって心を一つにすることは、聖書のほかの箇所でも出てきます。ヨシュア記にて、エモリ人の五人の王が相集まってイスラエルを攻めることが書かれているし(10章)、そして詩篇でも、第二篇で、相集まって、神とメシヤとに逆らうことが書かれています。主を十字架につけたときも同じです。いつもは敵であったヘロデとピラトがその時は仲良くなりました。

83:6 それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、83:7 ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。83:8 アッシリヤもまた、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。セラ

 地理的にエドムと、ロトの子ら、つまりモアブとアモンはヨルダンで、ツロは今のレバノン、アッシリヤはシリヤとイラク北部です。ペリシテ人の拠点は、今のガザ地区であり、今はハマスの拠点です。

2B 速やかな破壊 9−18
1C 過去の例 9−12
83:9 どうか彼らを、ミデヤンや、キション川でのシセラとヤビンのようにしてください。83:10 彼らは、エン・ドルで滅ぼされ、土地の肥やしとなりました。

 士師記における英雄たちの話を思い出してください。ミデヤン人と戦ったのは、ギデオンです。そしてシセラとヤビンと戦ったのは、デボラとバラクです。

83:11 彼らの貴族らを、オレブとゼエブのように、彼らの君主らをみな、ゼバフとツァルムナのようにしてください。

 ギデオンが倒した王たちです。

83:12 彼らは言っています。「神の牧場をわれわれのものとしよう。」

 アサフが詩篇の中で好んで使っている言葉です。イスラエルの民が、神の牧場というものです。

2C 風のごとく 13−18
83:13 わが神よ。彼らを吹きころがされる枯れあざみのように、風の前の、わらのようにしてください。83:14 林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように、83:15 そのように、あなたのはやてで、彼らを追い、あなたのあらしで彼らを恐れおののかせてください。

 すみやかな裁きを願っています。

83:16 彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。83:17 彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。彼らがはずかしめを受け、滅びますように。83:18 こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。

 イスラエルがエジプトを出た時もそうでしたが、イスラエルを襲う敵が倒れることによって、主がまことの神であることを世に知らしめる働きを、主は持っておられます。同じようにイスラエルを攻める預言が、エゼキエル書3839章にあります。ロシア、イラン、スーダン、リビア、トルコなどの国々が現れますが、彼らが地に倒れる働きを主が行われることによって、3823節「わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」とあります。

 そしてもちろん、最後のハルマゲドンの戦いでは、イスラエルに攻めてきた全世界の軍隊が、主のご来臨を見て、嘆き悲しむことが預言されています(マタイ24:30)。

4A 主の大庭 84
84 指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。コラの子たちの賛歌

 アサフに変わって、ここから「コラの子たちの賛歌」になっています。コラは、先に触れた、アロンとモーセにたて突いたレビ人です。レビ人の中でも契約の箱などの祭具を運ぶケハテ族のものです。彼がアロンに与えられた地位に嫉妬して、民をアロンに逆らうように煽りました。その結果、彼と彼に組した者たちは地の底に投げ込まれましたが、コラの息子たちはそこには居合わせていなかったようです。

 コラの子らは、ダビデの時代、またその後のユダの時代にも大いに活躍しました。ダビデがサウルの手から逃れている時、彼のところにやって来た勇士たちにコラの子らがいました(1歴代12:6)。そして彼らは、神殿において門衛をつかさどるよう任じられました(1歴代26:1)。

 そして彼らは賛美の歌の奉仕もしていたようです。南ユダにてヨシャパテが王のとき、モアブ人やアモン人、また連合したその他の国々がユダに攻めてきたことがあります。(ちょうど83篇で学んだように、周辺の諸国がイスラエルを攻めてきたのです。)その時、ヨシャパテは賛美をもってその軍隊に勝利しました。最前線に誰を配置したか覚えていますか?賛美を導く人たちです。こう書いてあります。「ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。(2歴代20:19」ですから彼らは門衛の人たちであり、また賛美を導く人々でした。

 そしてここ84篇では、おそらく彼らやその他のレビ人が、北イスラエルからエルサレムに移ってきた時に書かれた詩篇ではないかと言われています。ヤロブアムは政治的に手腕家でした。でも霊的には非常に乏しい人でした。イスラエル人が礼拝をささげる場所はエルサレムにあります。そこはユダの領地です。だから、イスラエル人の心がユダに動いてしまうだろうということで、彼は金の子牛を造り、それを北イスラエルの南端ベテルと北端ダンに設けました。祭司も交代させました。レビ人ではないほかの奉仕者を立てたのです。

 レビ人には、割り当て地がなかったことを思い出してください。彼らはイスラエル全土の各地に、レビ人の町として割り当てられた町に住んでいました。そこで北イスラエルにある町に住んでいたレビ人は、ヤロブアムが王となったことでユダとエルサレムにやってきたのです。その他、主を尋ね求める全部族もエルサレムに出てきました。(以上2歴代11:13以降参照)

 そこでここの詩篇は、彼らがエルサレムに移った時に書かれたものではないかと言われています。主の家とその庭を恋い慕う、熱い想いが表れています。

1B 恋い慕い 1−4
84:1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。84:2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ

 彼らの熱い、主への、そして主に対する想いが伝わってきますね。そしてこれが代々、迫害されても礼拝を守ってきたクリスチャンたちの想いでもあるでしょう。礼拝をささげること自体が禁じられました。いや、今も禁じられている国々がたくさんあります。そのような圧迫を受けているとき、私たちの魂は礼拝に飢え乾きます。コラの子らも、北イスラエルで新興宗教が始まったとき、同じ思いを持ったに違いありません。

2B シオンへの大路 5−7
84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

 主の家への恋い慕いだけでなく、シオンへの大路が心にあります。北イスラエルにいて主を慕い求めていた人々は、いつもシオンすなわちエルサレムへの道を心に抱いていました。この思いが彼らを支える力となっていました。

 私たちも同じ道を持っています。天にあるシオン、天のエルサレムへの道です。私たちはまだそこに言っていません。今私たちは、御霊によって神の宮となっている私たち自身、つまり教会を慕い求めるだけでなく、天の望み、永遠のいのちの希望があります。その望みによって私たちは今の生活が支えられています。

84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

 シオンに向かう時には、涙の谷を過ぎなければいけないことがあるでしょう。けれどもその道中でも、彼らの心からは泉が湧いてきます。私たちも同じです。天への望みを持っている者は、内に住まわれる聖霊によって、いのちの水が湧き出ます。天の望みを持たずして、どうして御霊のいのちを楽しむことができるでしょうか?天と聖霊の働きは直結しているのです。

84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。

 シオンについたら、神にまみえます。私たちも天において、神の御座の前に出ます。

3B 我らの盾 8−12
84:8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

84:9
神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。

 これはメシヤ預言です。あなたに油注がれた者、つまりキリストのことです。キリストが自分たちの盾であられて、そしてキリストの顔に神が目を注いでくださるよう願い求めています。

 私たちが神にまみえる時、キリストが私たちの盾となっておられます。この方の義によって私たちは覆われています。自分では決して神に近づくことはできませんが、キリストにあって神に大胆に近づくことができます。

84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

 すばらしい告白です。コラの子らは先ほど説明しましたように門衛ですから、神殿の中にまで入って奉仕しているわけではありません。けれども彼らは、その奉仕の一日は神殿の外での千日にまさると告白してはばからないのです。

 悪の天幕、世が提供する最善のものは、神が提供する最小のものよりも、はるかにまさっている、という告白です。キリストなしで億万長者になることよりも、教会で週報を来る人々に手渡す奉仕のほうがはるかにすぐれている、という告白です。私たちの心はどうでしょうか?

84:11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

 天のエルサレムにおいて、その都を照らす太陽がないと黙示録に書かれています。なぜなら神と小羊の栄光によって明るくなっているから、ということです。神なる主が太陽であり、盾です。

84:12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。

5A 御国の回復 85
 次の詩篇もコラの子らによるものです。

85 指揮者のために。コラの子たちの賛歌

1B 再生 1−7
1C 取り戻された繁栄 1−3
85:1 主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人を、お返しになりました。85:2 あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ85:3 あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。

 ここの詩篇は、ユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに帰還したときに書かれたものではないかと言われています。バビロンに捕え移されたのは、イスラエルの咎のためでした。ですから、エルサレムに帰還するということはイコール、咎が赦され罪が覆われたことを表わしていました。

2C 救い 4−7
85:4 われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。85:5 あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。85:6 あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。85:7 主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。

 1節から3節までに、御怒りが押しとどめられたと書かれているのに、今よんだ箇所は御怒りをやめてください、という祈りになっています。これは一体どういうことでしょうか?

 エルサレムに帰還する歴史を思い出してください。エズラ記とネヘミヤ記に書かれています。ペルシヤの王クロスが、エルサレム帰還と神殿再建を布告した時に実際に戻った人は、4万数千人です。非常に少ない人数です。そして戻ったらそこは廃墟で、周りはユダヤ人に敵対的な住民ばかりです。神殿の土台が出来ましたが、若者は喜びましたが、ソロモンの神殿を覚えている老人は、あまりにもちんけなので泣き叫びました。

 そしてエズラがエルサレムに行くと、そこで異邦人を自分の妻にしている者たちがいたことを知って、エズラは気が狂うほど激しく嘆きました。だからネヘミヤがペルシヤ王に仕えているとき、エルサレムから来た人々は、エルサレムの様子を彼にこう伝えました。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。(ネヘミヤ1:3

 つまり物理的には戻ったけれども、霊的にはまだ回復していないということです。コラの子らは「あなたは、私たちを再び生かされないのですか。」と言っています。

 同じような歴史を、私たちは今現在見ています。エゼキエル書36章と37章には、それぞれイスラエルの土地の回復と、イスラエルの国の回復が書かれています。国の回復とは、あの骨の幻のことです。御霊によって、干からびた骨が組み合わされて人になりました。そして肉を持ちました。そして最後に息が吹きつけられました。そして生きた人間の集団になったのです。今のイスラエルはまだ息が吹きつけられていない肉体です。物理的にはイスラエルにユダヤ人が帰還しているのですが、イエスをメシヤと認める人は少なく新たに生まれていません。まだまだ多くの課題があります。

 先ほどからの詩篇は、イスラエルという土地にユダヤ人はいるけれども、数多くの課題を持っていることを教える詩篇でした。祭りは盛大に祝うが、心が神を聞くようにはなっていない。貧しい人をかばうような裁判をしていない。そして新しい宗教を作り上げている、という問題です。これらすべてを今のイスラエル国に見ることができます。

 そして私たちキリスト教会にも見ることはできます。物理的には教会堂があり、教団という組織があり、財政的にもきちんとしており、礼拝や伝道活動もあっても、心が神に聞くようになっていない。人を偏り見ている。偏った教えや異端が入り込んでいる、などなど。私たちがイエス・キリストという土台の上に何を建てるかが問われているとパウロが第一コリント3章で言っていますが、救われた後の問題があるのです。

2B 平和と義 8−13
85:8a 私は、主であられる神の仰せを聞きたい。

 「ユダヤ人がせっかくエルサレムに戻ってきたのに、なんでこんなに問題が山積しているのですか?私には分からないから、どうか教えてください。」という神への問いかけです。

 似たようなことをした預言者がいます。ハバククです。ユダが不義に陥っているのにそのままにされるのですかと主に問うと、主は、「バビロンを裁きの器として遣わす。」ということを仰いました。ハバククは、「ちょっと待ってください。ユダは悪いけれども、ユダよりもずっと悪いバビロンを用いて裁かれるのですか。」と言って、訳がわからなくなりました。それで彼は、「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。(ハバクク2:1」と言っています。そして主から答えがありましたが、彼は黙って、主が何を言われるか待っていたのです。

 私たちも祈りの中で「聞く」作業を増やす必要がありますね。祈りは神に語るだけではありません、神から聞く時間も必要です。 そこで次に神からの答えがあります。

85:8b主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

 イスラエルが確かに平和を持ち、彼らが二度と愚かなことをするようなしない、と主は約束してくださっています。完全な回復です。

85:9 まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。

 ローマ10章で、私たちの救いはどれだけ近いかについて述べている箇所があります。天に上ったり、地に下ったりする必要はなく、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。(8節)」という申命記の言葉を引用しています。イエスを主と口で告白し、イエスが死者の中からよみがえられたと信じるなら救われるのです。それだけ神は、私たちに近くいてくださいます。大事なのはただ神を恐れ敬う心です。

85:10 恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。

 物理的には帰還したけれども、その実質がなかったイスラエルですが、ここからその本質が書かれています。そしてこの本質はまさに、イエス・キリストを表わしています。

 一つは「恵み」と「まこと」です。真理に従えば、人は死に、死後に裁きを受けなければいけません。しかし「恵み」は、その死ぬべき人を生かし、神の子どもの特権を与え、御国を受け継がせることです。この二つが両立させるのは何でしょうか?そうです、キリストの十字架と復活です。キリストがご自身を罪の供え物としてささげてくださったことによって、信じる者が義と認められ、信仰による神の祝福を受けます。キリストにあって、神の恵みを受けるのです。

 そして「」と「平和」ですが、罪を犯す者は神に敵対する者です。ですから神からの報復を受けても当たり前の存在です。しかし平和が与えられています。十字架につけられたキリストの上に、神の怒りと敵意を置かれました。だから神が、ご自身のうちで、ご自分の独り子によって、一方的な和解を用意してくださいました。だから神の和解を受け取らなければいけません。

85:11 まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。

 義が天から見下ろしているとは、天は神がおられるところですから義に満ちたところです。けれども「まこと」はどうやって地から生えるのでしょうか?これも、キリストの地上の生涯によってのみです。主が恵みとまことに満ちておられたと、ヨハネ1章に書かれていますが、主が地上に歩まれたことによって、真理が、真実が地から生え出ました。

85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

 イスラエルの地の生産力があがります。イザヤ書の預言など、千年王国の預言にも、生産力が飛躍的に上がることが約束されています。

85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。

 主の周りに義が満ちているということです。主が戻って来られることによって、義と平和が確立されます。


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