詩篇95−100篇 「主に歌え」


アウトライン

1A 造り主 95
   1B 大いなる神 1−3
   2B 牧場の羊 4−7
   3B かたくなな心 8−11
2A 宣教の神 96
   1B 全地の神 1−6
   2B 主へのささげ物 7−9
   3B 天地の喜び 10−13
3A 裁き主 97
   1B 天地の震え 1−7
   2B シオンの喜び 8−9
   3B 聖なる御名 10−12
4A 奇しい方 98
   1B 救い御業 1−3
   2B 全地の喜び 4−9
5A 御座に着かれる方 99
   1B 聖なる御名 1−5
   2B 祈りへの答え 6−9
6A 感謝すべき方 100

本文

 詩篇第95篇を開いてください。今日は95篇から100篇までを学びます。ここでのメッセージ題は、「主に歌え」です。95篇から100篇までは、礼拝とは何であるかをはっきりと教えてくれる箇所です。「礼拝」という言葉は何を意味しているでしょうか?「ひれ伏して、拝む」ですね。人間がひれ伏して拝するのは、すべての権威と権力をもった王に対してです。権力と権威だけでなく、威厳、栄光、名誉、富などを持ち合わせている存在です。

 ここの詩篇では、私たちの主が王であることを前面に出しています。そしてこの方が王であるのだから、私たちはこの方の前に来てひれ伏そうではないか、という呼びかけになっています。
 また詩篇は、ヘブル人が賛歌、賛美する歌として編纂されているものです。ここの詩篇は特に、主を礼拝するとき、歌をもって賛美することを奨励している箇所になっています。

1A 造り主 95
1B 大いなる神 1−3
95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

 私がクリスチャンになったばかりの時、教会でなぜ歌わなければいけないのか、戸惑ったことを覚えています。神とキリストを自分の思いの中で認めていればいいではないか、歌が下手な人はどうすればいいのか?と思ったものです。

 けれども、歌わなければいけない理由があります。それは、聖書自体が神を礼拝するとき、歌をもって賛美しなければいけないことを命令しているからです。「喜び歌おう」「感謝の歌をもって、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう」と言っています。

 そして、もう一つ、歌わなければいけない、いや歌わずにはいられない理由があります。それは、「喜び」と「感謝」です。私たちが喜んでいるとき、感謝しているとき、また称賛したいとき、それをどのように言い表せばいいでしょうか?祈りでもそれを言い表すことができるでしょう、また他の信者、聖徒たちに言い表すこともできるでしょう。けれども、それでもまだ物足りない。メロディーをつけて、歌にすることによって喜びと感謝、賛美を言い表すことができるのです。

95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

 すばらしい告白です。聖書、特に旧約聖書は、このような大胆な告白で満ちています。イスラエルの民は、周囲の異邦の民に囲まれて生きていました。彼らはみな、自分たちの神々を持っていました。もちろんそれらは偶像であり、本物の神ではありません。そして彼らは、イスラエルの神を自分たちの多神教の神の一つであると考えていました。

 その中で、「主は、すべての神々にまさって、大いなる王である。」と告白したのです。私たち日本人は、イスラエルと同じような状況の中にいます。異教の神々に取り囲まれて生きている少数派です。けれども、「キリストは大いなる神であり、神社の神々、お寺の仏さん、先祖の霊、天皇にまさって、大いなる王である。」と告白して、はばからないのです。

2B 牧場の羊 4−7
95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。

 地の深み、山々の頂、つまり、一番低いところから、一番高いところまですべて主の御手の中にある、ということです。

95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。95:7a 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。

 私たちの神さまは、私たちに個人的に、人格的に関わってくださる方です。羊飼いが自分の羊を知っているように、また羊が自分の羊飼いを知っているように、神は私たちを個人的に知っておられます。私たちも、神を個人的に知っています。主イエス・キリストは、「わたしは良い牧者です。(ヨハネ10:11」と言われました。

3B かたくなな心 8−11
95:7bきょう、もし御声を聞くなら、95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

 神が私たちの羊飼いであられ、私たちが神の牧場の羊であるなら、神の御声を私たちが聞くことによって導かれ、守られ、養われるということです。神の御声を聞いて、神に全幅の信頼を置いて付いて行くことは、自分たちの生存に非常に大切な要素となってきます。

 けれどもそれをしなかった歴史をイスラエルは持っています。イスラエルがエジプトから出て、荒野の旅をしていた時のことです。彼らの問題は、「心をかたくなにした」ことです。神から声を聞いたとき、それを意図的に拒んで、退けたことです。

95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。95:10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。95:11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。

 この「安息」は、約束の地に入って定住することでした。彼らが神の御声に対して心をかたくなにしつづけたために、彼らは四十年間荒野をさまよいました。そして、その放浪は彼らが安息に入らないようにするための、神の裁きでした。

 同じように四十年という期間によって、神の安息に入れなかった時期があります。主イエスがこの地上に来られた時のことです。主も、「この世代」という言葉をたくさん使われました。そして、主が公生涯を歩まれた約40年後に、紀元70年、ローマ軍がエルサレムを破壊して、ユダヤ人は世界に散る離散の民となったのです。ユダヤ人は主がおられた時、また使徒たちが宣教の働きをしていた時、その福音の言葉を拒み続けました。

 ヘブル人への手紙3章と4章に、この箇所が引用されています。そして注釈が加えられています。ここの詩篇の7節の「きょう、もし御声を聞くなら」という言葉は、当時のイスラエルではなく今の私たちに語られている。そして安息も、約束の地ではなく、私たちが入る天国のことを指していることを意味しています。そこで必要なのは御声を聞くことです。

 ヘブル書4章2節に、非常に大切な言葉があります。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」御言葉が信仰によって結びつけられなかった、ということです。御言葉を学んでも、もしそれが信仰によって、神の御声として聞いていなかったら、私たちも安息の中に入れないという警告なのです。

 多くの人が、「いつか信じればよい。」と考えます。けれども考えてみてください、誰かに「ねえ、こっちに来て。」と呼ばれた時に、「そうだな、一年後に行ってみよう。」としたらどうでしょうか?一年後にそっちに行って、「ほら、君の言うとおりにしたじゃないか。」と言っても、その従順はまったく意味がありません。その時にしなければいけないものだからです。

 これが神の御言葉です。私たちが神の御声を、聖霊によって、聖書の言葉を通して聞きます。それは、その時に神が語りかけておられるものであり、その時機を逸したら、もうそれで終わりなのです。もちろん神は何度も語りかけてくださいます。荒野にいたイスラエルに対するように、また主が地上におられたとき、主と使徒たちがユダヤ人に何度も語りかけたように、です。けれども、その声を拒む度に、私たちの心はかたくなになり、もっと聞き従うことが難しくなります。そしてついに、聞き従うことができなくなるほど固くなる時がやって来るのです。だから、「きょう、御声を聞くならば」なのです。

2A 宣教の神 96
 第96篇は、「宣教の詩篇」と呼んでいいでしょう。神の良い知らせを告げ知らせることを奨励しています。

1B 全地の神 1−6
96:1 新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。96:2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

 新しい歌をうたう領域は、イスラエルだけでありません。「全地」です。日の昇るところから、その沈むところまでです。

96:3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

 詩篇の中にある大宣教命令です。すべての国々の民の中で、主の栄光、その奇しい業を語り継げます。

 日本はしばしば、福音が十分に伝えられていない宣教地であると言われます。確かに、信じている人が1パーセント未満という、まだまだ福音化される必要のある地です。けれども、私たちがいつまでも、「宣教」という言葉を「欧米や韓国から受けるもの」という意識でいるなら、神さまのビジョンとはかけ離れたところにいます。

 私たちの本拠地はアメリカにあるのでしょうか?いいえ。彼らは、自分たちのところから国々へ福音を伝えなければいけないという神からの命令を受けて、世界のあらゆるところに出て行っています。福音を信じた私たちは、私たちのいるところから国々へ福音を伝えなければいけないという神の命令を受けているのです。

 私たちは神をあがめているなら、自ずと世界の国々への宣教の関心が与えられます。なぜなら、私たちの神は、宣教の神だからです。

96:4 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。96:5 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。96:6 尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。

 国々が拝んでいる神々にはるかにまさって、大いなる方です。そして、神々とまことの神、主との違いは、主は天をお造りになられ、その御座に着いておられるということです。

 異教の神々には、「天」という概念がありません。「天」という言葉を使っていたとしても、それは、地上の領域の事柄だけです。「天」とは永遠の領域、この自然界、物質の世界がすべて崩れ、溶けて、なくなっても、なお微動だにしない堅固な空間です。

 日本の人たちに聞いてみてください、「死んだらどうなるの?」答えは、「そんなもの知らない。今の生活で精一杯だ。」と。だから、今の生活の幸福について約束しているものには飛びつきますが、死んだ後、いや死ぬ前から存在している「天」についての関心が非常に薄いのです。それは、異教の神々を拝んでいる信仰から来ています。しかし主は天をお造りになられ、その尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にあります。

2B 主へのささげ物 7−9
96:7 国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。96:8 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。96:9 聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。

 神の良き知らせを聞いた国々が、今度は自分たちが神を信じて、神に仕え、神にささげ物を持ってくる預言です。世界のあらゆるところで、主の御名があがめられている今の時代に、この預言が成就しています。

3B 天地の喜び 10−13
96:10 国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」

 国々への神の働きかけは、宣教だけにとどまりません。国々に対して、再び戻ってくる、再臨にまで至ります。

96:11 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。96:12 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。

 何か、わくわくしますね。主が戻って来られるとき、自然界がこのように喜び、こおどりし、鳴りとどろきます。これはもちろん、詩的な表現です。C.S.ルイスの「ナルニア物語」には、動物や木々、花までが擬人化され、人間のように動き、言葉を話していますが、もちろん実際にはそのようにはなりません。けれども、そのような躍動的な、わくわくするような喜びが、自然界にみなぎることは確かです。

 ローマ書8章19節以降に、今の自然界の状態が描かれています。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(19-22節)」アダムが罪を犯したために、自然界は虚無に服しました。私たちがみる自然は、その美しさと同時に、恐ろしさを秘めています。天災があります。また動物は弱肉強食の世界に生きています。しかし主が戻ってこられたら、これらすべての災いや厳しさから解放されます。

96:13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。

 パウロは、一日中、議論にふけっているギリシヤのアテネの人々に、このように告げました。「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒17:31」イエス様が死者の中からよみがえりました。これは、我々が拝んでいる神々はむなしいもので、生きた神がおられることを証明するものです。そして復活は、主がこの世界を義によって裁く、力と権能を持っておられることを意味します。

3A 裁き主 97
 そして第97篇は、裁きの詩篇です。主が戻って来られるときに、全地を裁かれることを預言しています。

1B 天地の震え 1−7
97:1 主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。97:2 雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。97:3 火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。97:4 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。97:5 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。97:6 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。

 天が主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る、というのは、イエス・キリストが地上に戻って来られることを指しています。その時に、天地が震えます。雲と暗闇、火、稲妻がその特徴であり、また全地がろうのように溶ける、とあります。シナイ山に主が降りて来られた時、このような自然現象が起こりましたが、終わりの時には世界規模で起こります。

97:7 偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

 生きていないはずの神々に対してまで、ひれ伏すことを求めています。神々は、もともとの意味は、自分を突き動かす主要な情熱です。これなしには生きていけないと思って、頼っているものです。多くの人は「私は神を信じていない。」と言いますが、それは嘘です。何かを神にしています。その神があるから、まことの神であり主であるイエス・キリストを信じないさい、と言ってもかたくなに拒みます。

 けれども、自分が頼っていたものがいかに頼りないか、空しいかが、主が戻って来られる時に明らかにされます。そして、その時には強制的に、イエス・キリストのみが主であることを認めざるを負えなくなります。

2B シオンの喜び 8−9
97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。

 この箇所を読む人は、イスラエルに対して、エルサレムに対して関心を持たざるを得ません。聖書には至るところで、終わりの時はエルサレムが世界の国々によって攻められるが、主が戻ってこられてそれを救われる預言が書かれているからです。

 いや、これは旧約聖書の話だ、新約の時代になってこれは天国のことを現しているのだ、と言う人たちがいます。けれども新約聖書、福音書におけるイエスさまの終わりの時の話にも、物理的なエルサレム、物理的なユダの地方の話が出てきて、物理的なユダヤ人が世界中から戻ってくる話が出てきます。

 私たちの神は、世界に関心を持っておられます。宣教の神です。そしてイスラエルをご自分のひとみのように守っておられます。イスラエルの神です。そして、そのイスラエルへの契約をイエス・キリストを信じる異邦人にまで及ぼしてくださいました。それが教会です。

3B 聖なる御名 10−12
97:10 主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

 聖徒たちへの呼びかけです。「悪を憎め」です。とても大事ですね。私たちが罪を犯しそうになっている時、誘惑を受けている時、心に留めていくべき言葉です。怒り、これを憎んで退けてください。憎悪、これを悪とみなして、憎んで退けてください。不安、これも悪です。憎んで退けてください。

 そうしたら、主が私たちの命を守ってくださいます。悪者どもの手から救い出してくださいます。

97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。97:12 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 光は、聖さと関わりがあります。主がこの世を裁かれることを思いながら、私たちがいつも聖さの中にとどまっている必要があります。主を畏れかしこみながら生活します。

4A 奇しい方 98
 そして次の詩篇は、主が地上に戻ってこられた直後のこと、その勝利を歌っています。

98 賛歌

1B 救い御業 1−3
98:1 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。98:2 主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。98:3 主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。

 「奇しいわざをなさった」「勝利をもたらしたのだ」「義を現わされた」、みな完了形です。主がイスラエルの救いのために戻ってこられて、世界の王となられている中で、そのすばらしい業を褒め称えている預言です。

2B 全地の喜び 4−9
98:4 全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。98:5 立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。98:6 ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。98:7 海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。98:8 もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。

 すごいですね、喜び踊っていますね。やはり、熱狂的に歌っているクリスチャンが何かおかしいかのごとく見る見方は、おかしいですね。私自身は、踊ったり、歩き回って歌ったりする方ではないですが、心の中では踊って騒いでいます。

 元祖のユダヤ人たちを見たら、やはり彼らは踊るのが好きです。ユダヤ教徒たちは、例年の祭りの度に、腕を組んで、輪になって、何時間も歌って踊ります。「マイム・マイム」の歌を知っていますね。あれはヘブル語「水」という意味で、荒野から水が湧き出るイザヤの預言を歌っている、イスラエルの歌です。あのような類の歌を、歌い続けます。

98:9 確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。

 ここは完了形ではなく、将来の希望の言葉になっています。「さばくために来られる。」です。このように、将来のことを完了したもののようにして歌っています。しかしこれが、私たち永遠の神を信じている者の賛美です。将来のことであっても、それは主にあってすでに成し遂げられたことであって、私たちもその確信に基づいて、喜び賛美するのです。

5A 御座に着かれる方 99
 このように、主は王として戻ってこられました。そして次の99篇は、その後の神の国についての預言が書かれています。主が御座に着かれる預言です。

1B 聖なる御名 1−5
99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。

 ケルビムは、聖書の最初のところから登場する御使いです。エデンの園において、アダムとエバがそこを出なければならないとき、いのちの木の前で炎の剣を持ってそれを守りました。

 そして、出エジプト記には、幕屋の至聖所にある贖いの蓋に登場します。至聖所を入ると、そこに契約の箱があります。その上に贖いの蓋が置いてあります。贖いの蓋はすべて金で出来ており、その蓋の一部として二人のケルビムがいます。二人が向かい合って、翼を広げて贖いの蓋を覆っています。そして彼らの顔も下を向いて贖いの蓋を見ており、ちょうどひれ伏している姿勢です。

 そして、そのケルビムの間からわたしはイスラエルに掟を与えると主は言われました。つまり、そこに主ご自身がおられるということです。

 幕屋は天の模型であり、実際の聖所は天にあることがヘブル書で説明されています。黙示録4章を見ますと、そこに神の御座がありすぐ回りに、四人の生き物がいます。その描写は、エゼキエル書1章に出てくるケルビムの姿と同じです。ケルビムはこのように、主が着座されているすぐそばにいて、主に仕えている天使です。

99:2 主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。99:3 国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。

 シオンは、エルサレムにある山ですね。そこに主は神殿を造られます。そしてその座に着かれて、全世界の国民の礼拝をお受けになります。

 その名は「」です。何の欠陥もなく、他のあらゆるものから別たれた状態が聖です。覚えていますか、主が聖なる方としてシナイ山に現われた時、そのふもとには杭が打たれました。なぜなら、人間でも動物でも、それより近くシナイ山に近づいたら、たちまち死ななければならないからです。それだけ神は聖い方であり、私たちはそのままの姿で近づくことはできない存在です。

 主が聖なる方であり、着座されている御座があることを知ることはとても大切です。イスラエルの民は、高き所に祭壇を作って主をあがめていたことが記録されています。そこで偶像ではなくてまことの神、ヤハウェを礼拝していたとしても、主が命令されたとおりに礼拝しなかったことで落ち度があります。

 言い換えれば、自分の方法で神を礼拝することはできない、ということです。神がお定めになったとおりに、また神が命令されているとおりに自分を従わせていなければ、神をあがめているつもりが、自分の願いや欲を満たすところに変わってしまうのです。

 私たちは肉の欲を持っています。罪の性質を持っています。だから、聖さではなく汚れのほうに向かう傾向を持っています。けれども私たちが、主が聖なる方であり、御座に着かれていることを知るとき、自分のすべてをかなぐり捨てて、ただ主のみを礼拝し、主にひれ伏すことができます。

99:4 王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。99:5 われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。

 御座の足台のところにひれ伏します。覚えていますか、イエス様がパリサイ派のシモンの家で食事をされているとき、一人の女が主に近づいて、主の御足のところで涙を流し、その涙が御足に落ちて、彼女は自分の髪でそれを拭いて、また口づけをしました。これは、完全に自分を低くして、相手に敬意を払っている姿です。

2B 祈りへの答え 6−9
99:6 モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

 主は聖なる方として人々に臨まれましたが、それは誰もこの方に近づくことはできないという意味ではありません。モーセはいつもシナイ山に上り、主に会いに行きました。顔と顔を合わせて神と語り合いました。アロンも大祭司として、至聖所に入り、主に会いに行きました。サムエルもそうでした。彼は主の御名を呼び求めて、イスラエルのために執り成しの祈りをささげました。そして主が、イスラエルがペリシテ人に打ち勝つようにしてくださいました。

99:7 主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。

 モーセ、アロン、サムエルは祈っただけでなく、祈ったことによって主に語られたことを守りました。祈ったのに、祈りの答えをもらったのに、その答えに応答しなかったらおかしいですね。だったら、最初から祈らなければいいです。けれども彼らは、主から語られたことに聞き従いました。

99:8 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。

 すばらしいです。主は聖なる方であると同時に、赦しの神です。人が神に近づくことができる方法を与えてくださいました。それはまず信仰です。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6」とあるとおりです。モーセは神を信じて、その言われることを受け入れていたので、神との接触をすることができました。

 また血を流すことによって、神に近づくことができます。血はいのちを表わしています。自分の罪によってもたらされる死を、代わりに血を流す存在がいることによって、神はその罪を赦してくださいます。旧約の時代は動物の血でしたが、神の御子ご自身の血が流されることによって、私たちの罪は完全に取り除かれました。

 けれども罪を赦すからといって、罪を許容しておられるのではありません。「しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。私たちがこの体で行ったことに対しては、報われる方であることを知ることはとても大事です。その真理に基づいて、私たちは神にあわれみを請い、罪を赦していただくのです。

99:9 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。

 エルサレムに来て、主の前でひれ伏すだけでなく、世界の他のところにいてもエルサレムに向かってひれ伏します。

6A 感謝すべき方 100
 そして最後の詩篇です。ここでは、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。

100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。

 喜びながら主に仕えます。私たちが奉仕をするときに忘れてならないのは、喜んで仕えるその心です。もちろん、奉仕には責任があります。しなければいけないものがあります。けれども、もし奉仕が義務的になっていれば、喜んで主に仕えているという意識がなければ、むしろやらないほうがましです。献金など、ささげ物についても同じ事が言えます。神は、喜んで与える者を愛されます。

100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。

 神殿には内庭と外庭があります。その仕切りの壁があります。門があり、そこから中に入ります。入るときは、感謝しながら、賛美しながら入りなさい、と命じられています。

 感謝をすることは本当に大切ですね。アメリカには感謝祭がありますが、それはピューリタンから始まった行事です。アメリカ大陸に入ってきたのはいいですが、その後、多くの困難のゆえに死んだ人も出てきました。彼らはそれらを主にあって耐え忍び、何度も断食と祈りをささげました。そしてまたある日、指導者が祈りと断食をよびかけましたが、ある人がこう言いました。「私たちはこれまで、困難や問題ばかりが気になって、祈りと断食をしてきた。けれども、感謝すべきこともあるではないか。私たちも植民地は強められ、収穫物も多くなり、何よりも私たちは国家の統制から離れて、主を信仰する自由が与えられているではないか。この日を、祈りと断食ではなくて感謝の日にしよう。」と言いました。

 確かに困難は多いです。けれども私たちは、目の前にあるものばかりを見ることなく、もっと感謝するべきことに目を留めて、主にお仕えします。

100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 喜んで、感謝して主に近づけるのは、主がいつくしみと恵みがあるからです。


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