人はなぜ苦しむの?

 皆さんの中には、多かれ少なかれ、次のような疑問を抱いた方がおられるかと思います。

この世には不条理なことがたくさん起こる。難病や事故・事件、戦争、犯罪、疫病、貧困、天災、不正など、数多くの悪がはびこっている。それにも関わらず、キリスト教では神は正しく、愛であると説いている。愛の神がなぜ、このような悪が起こるのを許すのか?

 正しい人がその義によって報われ、災いが降りかからず、悪人にのみ降りかかるという世界に私たちが生きていればそのような疑問は起こりませんが、世の中は不条理であり、正しいと思われる人々にも同じように災いが降りかかり、そして悪人だと思われる人々がかえって栄えているという現実も見ます。

 なぜ、聖書の教える全知全能の神が、悪が存在するのを許されるのか?という疑問に対しては、この世界の始まりを知る必要があります。

 神は、これらの悪が存在することを望んでおられるのでは決してありません。創世記1章には、神が天地を創造したことが書かれていますが、それを造られる毎に「みよ、それは良かった。」と記されています。初めは、今見るような世界ではなかったのです。

 そして、神は創造物の最後に人間を造られました。それは、「ご自分のかたちに似せて」造られた、とあり、他の動物とは異なり、単に本能で生きるのではなく、計画を立て、言語を使い、また愛を持ち合わせた存在として造られました。

 その特徴の大きなものの一つが「自由意志」です。ご自分が自分で選択できる能力を持っているのと同じように、人間に対しても自分で選び取ることのできる自由を与えられました。

 仮にこの自由がないことを考えてください。この世から悪をなくそうとして、すべての行動に強制力を働かせたら、そこには自由がなくなります。イスラム教の国においては姦淫をしたら死刑あるいは極刑に処せられますが、そのために姦淫をする人の数が非常に少ないです。けれども、それは自分の配偶者を愛しているから、ではなくて、死ぬのが恐いからという恐怖があるからです。けれども、不倫をしても罪に問われることもなく、また現代の風潮では寛容になっている中で、それでも私は自分の妻あるいは夫を裏切ることをしない、という選択を行うことによって、初めてその愛の真価が試されます。つまり自由には、「悪を行なうことのできる可能性」を常に置いておかなければいけないのです。

 神は、人を強制的な関係ではなく、愛の関係によって結びつきたいと願われます。

 神は、そのためにエデンの園の中央に、善悪の知識の木という木を置かれて、「園の他の木から実を好きなように取って食べなさい。けれども、この木の実を取って食べれば、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。しかしアダムはこれを取って食べました。そのことによって罪がこの世界に入ってきてしまい、死も入ってきてしまい、この時から悪を世界の中で見るようになったのです。

 神は、この世界を完全に滅ぼすこともできます。けれども、それをあえて行いません。なぜか?自分で造った大切な人間という創造物を愛しているからです。ゆえに、私たちをこのようにして生存させていてくださっています。そして、人間を自由意志のある存在として作った以上、神はそれを侵害してまで人の営みに介入することはできないのです。

 「神には何でもできるはずではなかったのですか?」と訊くかもしれません。けれども、できないことはたくさんあるのです。例えば、神には嘘をつくことはできません。神には、その他の悪を行なうことができません。つまり、ご自分の性質やご自分で造られた秩序に反して事を行なうことはできないのです。

 しかし、神は生じてしまった悪に対して、無力な方では決してありません。必ず悪を罰する時を定めていますが、けれども、悪人が悔い改めて生きることを願っておれます。ゆえに悪が世界にはびこっているのですが、それでもその悪に対して何ら対策を講じていないのではないのです。むしろ、すべての事象をしっかりと掌握しておられます。 

それは悪を善に変えるということです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益(善)としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28

 悪が善だと言っているのではありません。悪は悪であり、何一つ喜ぶべきものを持っていません。けれどもその悪を積極的に用いられて善に変える計画を、ご自分に心を広げた、神を愛する者のためには用意してくださっているのです。

 神は永遠に生きている方なので、その愛も永遠です。私たちにとって最終的に益となることを行なってくださいます。けれども人間は眼前にあることしか分かりません。したがって、神が永遠のご計画にしたがって行っている事が、私たちの目にはとてつもなく不条理に見えてしまうことがあるのです。

 例えば、こういう情景を思い描いてください。罠にかかった熊がいました。それを見た猟師が、熊のことを可哀想に思って、逃してやろうとします。猟師は必死に熊を安心させようとしますが、しょせんこれは無理な相談ですから、麻酔銃の準備をします。一方の熊にしてみれば、人間に攻撃される、人間が自分を殺そうとしているとしか思えません。猟師の行為が善意や慈悲の心から発生している事実は熊にはわからないのです。

 神も、この猟師と同じような行為をすることがあります。そして熊が猟師の真意を理解できないのと同じように、私たち人間にも神の意図が分かりません。これが、「なぜ神はこのような悪を私の生活に許されたのか。」という疑問なのです。

 実に、神はご自分の独り子において、悪が起こるのをお許しになりました。キリストが十字架に付けられたのです。創造主であられる方が、被造物の中で苦しみと痛みと死を経験しました。これは、人殺しどころではなく、実に「神殺し」であり、どんな極刑に処しても足りない罪でしょう。

 けれども、神はこれを最高の善としてくださいました。当時の人間が行った妬みと悪意の試み、そしてその背後で働く悪魔の仕業を神は用いられて、全人類がその罪の赦しを受け、神のおられる天国に行くことができるようにしてくださる道としてくださったのです。人が自分では決して成し遂げることのできない救いを、神がキリストの十字架において代わりに成し遂げてくださいました。これこそ、「悪を善に変える」神のご計画です。

 そして神は、人の苦しみに対してなぜ、そのようなことを経験しなければいけないのかについては、回答を与えられませんが、その苦しみと一体になってくださいます。神は初めから終わりまでを知っているにも関わらず、ご自分が造られたものと一つになってくださいます。したがって、人の感じるすべての痛み、苦しみ、泣き叫びもすべて聞いて、見ておられます。

 わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト記3:7

 神は宇宙をも超越した方であるから、はるか遠いところから、人間の苦しみやその他の弱さに対して距離を取っている、そして無慈悲にその事象を眺めている方では決してないのです。世界全体をご自分の意のままに動かしておられると同時に、その世界の最も小さな事柄にも関わり、一体となってくださるのです。

 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25:35-36,40

 そして先ほどと同じように、キリストの十字架は、「創造主が被造物の苦しみの中で、苦しみを受けた」究極の姿であります。この方は神であられたのに人となられて、そして人として弱さを身にまとい、そして十字架という拷問刑を受けられたのです。神はキリストの十字架にあって、貴方の苦しみと涙を共に経験しておられます!

 そして神は、なぜ悪いことが起こるのか、その理由を語ることはありませんが、苦しみの中にいる人に対してご自身が出会ってくださいます

 イエスは、道すがら生まれつき盲目の人を見ました。弟子たちは、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と尋ねました。私たちに悪いことが起こると、必ず一般の宗教は「このような悪いことがあなたの家系にあるからだ。」などと原因探しをしますね?けれども、イエスはこう答えられています。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためなのです。(ヨハネの福音書9:3

 そしてイエスはこの人の目を直し、そして目が見えるようになった彼に会ってくださいました。「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子(キリスト)を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。(同35-37節)

 イエスは、生まれつき盲目になった理由や原因については教えられませんでした。けれども、盲目になった目的は教えられました。そして、「イエスに出会う」ことを苦しみに対する究極の解答としてくださったのです。

 ですから、苦しみが起こる訳について、「いろいろな言葉の説明」で応じてくださるのではなく、ちょうど親が子に愛を伝えるために言葉の説明ではなく暖かく抱擁するように、私たちに言葉で説明するのではなく、ご自分が現われ、私たちをその愛で包んでくださるのです。

 ゆえに、今の苦々しい思いを甘い慰めへと変えてくださる方が貴方にもおられます。この方、イエス・キリストに自分のすべてを明け渡してみてください。心を開いてみてください。これまで神がいないように生きてきた、その背きの罪を神に言い表して、キリストが自分の罪と苦しみをご自分の身に負ってくださったことを受け入れてみてください。主はすぐそばに立っておられます。あなたの心の中に入ってきてくださいます。

参照:「それでも神は実在するのか?」リー・ストロベル著 いのちのことば社

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