差別・不公平と自己責任 2002/03/15

 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。(2テサロニケ3:10)

 先日、掲示板において、ある方と、パレスチナ問題から、世界の貧困の問題、経済的不均衡の問題を議論する機会が与えられました。パレスチナ問題については、「きよきよの部屋」で話している通り、聖書預言の視点から、また霊的視点から見ていかないと解明できない問題でありますが、その方は、今起こっているテロは、貧困が原因であるとの見方を示しておられました。

 けれども、そうした聖書預言の視点を抜きにして、そのイスラエル・パレスチナ問題を眺めたとして、また、そうした経済的要因に焦点を絞ったとしても、やはり、パレスチナ側に多くの問題が存在しています。それは、彼らが主張する、「パレスチナ独立国家」を設立するための、経済的地盤づくりを何らしていない、ということです。日本を含め、国際的な援助を多大に受けているにも関わらず、それが指導層の私腹を満たすだけのものとなっており(PLO幹部は、アメリカに負けず劣らずの大豪邸に住んでいます。)、産業発展をするためのインフラがなく、パレスチナ自治区は、先進国の都市型の町づくりになっており、貧民がたくさんいる中で、なんら現実的な経済政策を取っていません。

 99年のイスラエル旅行における、短期間の滞在だけでも、うすうす気づいておりましたが、ユダヤ人は何もない、荒地や岩がごろごろしたところに、灌漑をして畑地を開墾したり、住宅地を設置したりし、自分たちで何とか生活するための基盤作りに着手するのに対して、パレスチナ・アラブ人たちは、自分たちが得た土地において、そうした創造的活動を行なわないことです。例えば、エルサレム旧市街における、獅子門のあたりに紙くずが散らばっているのですが、それはなんと、その門で靴を屋台で売っている子供や若者の、靴箱に入っている紙が散乱していたものでした。商売のやる気があるのか、と思いました。これは、私が単に、文化を知らないための偏見なのかなあと思ったりもしましたが、先日、ある掲示板にて、パレスチナで現場を見てきた人による意見が投稿されていたもので、興味深い意見がありました。

「私もパレスチナ人の立場が分からないわけではないのです。私はパレスチナ人が経済行為に力を注ぎ、富むことによって政治的発言力を増し、パレスチナ国家独立を果たすしかないと思うのです。断じてテロによっての国家の独立はない。なぜなら、ユダヤ人達は他に行くところがない。イスラエルの他に母国はないのだから。どれだけ血を流しても、そこから離れることはない。抗争は抗争を呼ぶ。だから、お互いに平和裏に経済力をつける。政治力をつけ、そこから次のステップに進むしかないと思う。

 ところが、パレスチナ人は反ユダヤ教育を堂々と行っている。そのような人達とイスラエルは平和な関係を結べるか? また、私は実際に見たが、パレスチナ人大学生の多くはぶらぶらしている。厳しい経済状態の中で、親が大学に行かせてくれる、にもかかわらず、水パイプをくゆらせたり、たわいもないお喋りにうつつを抜かしている。彼等は汗を流すより、自爆テロを選ぶのか・・・

 過激派は一部です。パレスチナ人には、イスラエルと良好な関係を結び、平和に生きたいと願う人も多い。しかし、自爆テロによる経済的、地理的封鎖が彼らの首を絞める。パレスチナ過激派が、イスラエルが何もしなかったら自分たちも攻撃しないと言っているとか?それは違います。彼等はイスラエル国家自体を認めていないし、何とかイスラエルを抹殺しようと攻撃の手を弛めることはないでしょう。実際そういうアジテータを打っています。ここには明らかにサタンの手が働いていると私は感じます。泥沼に陥ってしまっています。イスラエルの、パレスチナの中東の平和を祈ります。主の御手は必ずやサタンに打ち勝たれるでしょう。」
(http://www.icfforum.com/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=5628;id= から引用)

「パレスチナの経済活動が制限されているのは、私も知ってます。貿易もおちおち出来ないほど、厳しいチェックが入ります。チェックを入れなければ、武器がどんどんパレスチナに流れ込むでしょう。先日も、武器の密輸船がだ捕されましたよね。ですから、経済活動ができないようにされている根本原因は、パレスチナ過激派のテロであると申し上げているのです。だから、自爆テロがパレスチナ人自らの首を絞めているのだと私は何度も書いているわけ。これを回復させるには、まずパレスチナがテロを一切やめることです。その上で交渉のテーブルにつく。それが嫌なら、圧倒的な軍事力を誇るイスラエルに屈服させられるでしょう。

 後、パレスチナ人は怠惰な人が多いという意味で、大学生云々を書きました。ユダヤ人が逆の立場に立たされたら、絶対にじっとしてなどいません。何らかの商業活動を始め、じわじわと力を蓄えるでしょう。パレスチナ人が弱者であると貴方は書かれますが、確かに弱者と言えるでしょう。だが、これは多分に彼等の責任でもあります。憎しみだけをつのらせる怠惰な人間は、堕ちるしかありますまい。 これは極論ですが。」
(http://www.icfforum.com/bbs/c-board.cgi?cmd=one;no=5642;id= から引用)

 この意見は、現地のイスラエル人からの報告にも合致するものです。パレスチナとイスラエルが、その相互経済交流によって、ようやく明るいきざしが見えてきたかのようだったのに、インティファーダ(蜂起)と自爆テロによって、台無しになってしまったとの報告があります。(次のサイトを参照。http://www.harvesttime.tv/Israel/Tsunobue/01_12TB2.htm

 したがって、自分たちの手で働くことよりも、自爆テロやユダヤ人への蜂起を選んでいるという問題があるのです。

 テサロニケ人への手紙第二において、パウロは、このような経済的怠惰に陥っている兄弟を、交わりから締め出して、彼を戒めなさいと、主イエス・キリストの御名によって命じています。現代の日本のキリスト教会の風潮では、「差別である」「強者の論理である」「働きたくても働けないのだから」などという批判を受けることになるでしょう。しかし、聖書では、自分で自分を救うという、自助努力を教えています。(もちろん、ここでは霊的救いの話をしているのではなく、経済的自立の話をしています。)

 聖書全体に貫かれている教えは、「神の前に立つ単独者」と「神に対する自己責任」です。自分がどのような境遇に置かれ、その環境の中で、今の自分の状態があるという分析は正しいかもしれませんが、しかし解決の道は、ただ、神に対して責任を果たすことのみなのです。たとえば、同性愛者がその同性愛から克服するには、幼少時に性的虐待を受けたから、このような性向になってしまったのだ、という理由をもってくる限り、決していやされません。そうではなく、自分が神に対して罪を犯していることを認め、悔い改め、神の限りない罪の赦しとあわれみ、恵みを受けることが唯一の道なのです。自分がその神の愛を自分のものとして受け入れることができるのか、という自己責任が問われています。

 経済不均衡に限らず社会問題全般にいえますが、クリスチャンは、世の光、地の塩として、キリストの証人として立っていることのみに責任があります。「天にみこころがなるがごとく、地にもなさせたまえ」とあるように、さまざまな社会問題は、主がこの地上に戻ってこられて、神の国を立てられるときに解決されます。主にあって、自分で立ち、自分で判断し、自分で前進する、自立したクリスチャンでありたいものです。


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