私がアメリカから教わった「自由」 − 2003/07/13

わざわいが来た。わざわが来た。大きな都よ。」(黙示18:10)

 黙示録はとうとう18章まで来た。黙示録を読んでいていつも分からなかったの一つは、なぜ19章のイエス・キリストの再臨の前に、二章もかけて主はヨハネに、バビロンについて書き記すように命じられたか、ということだった。けれども二章を学び終えて、ある程度の解答が出た。

 それは、だれもが口にする二つの悪であった。一つは「宗教」である。バビロンは、イエス・キリストとの個人的関係に代わる偽りの宗教であるが、未信者の人たちが「宗教」という名の下、人間の歴史を通じてさまざまな酷いことが行われたことに拒否反応を示し、またマルクスが「宗教は阿片である」と言ったその根拠となっている。もう一つは「富」だ。いわゆる広告や商業主義のことであり、必要以上のものを買わせる社会の矛盾である。

 そして18章には、実に興味深い記述が出てくる。地上の王たち、商人たち、そして海運業の人たちが、「彼女(大バビロン)の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っている」という言葉がたくさん出てくることだ。彼女は火で焼かれて荒廃すると17章16節に書かれているが、まるで9月11日、米同時多発テロにて倒壊した、ニューヨークの世界貿易センターのようであるからだ。その中で、王たち、商人、海運業の中にいる人々が悲しみ嘆いているが、私も下のはちこさんの、ジョージ・オーティスという人のメールを要約した日記を読んだとき、同じような気持ちにさせられた。

http://nakamurafamily.net/diary/2003/diary_0703.html#04

 あのアメリカがこんなに疲弊しているなんて・・・、というどうしようもなく悲しくなってくる。聖書では必ず起こることとして預言されており、アメリカも例外なくラオデキヤ教会状態になるのはその通りだ。その中を通るその痛みはこれほど辛いものだとは思わなかった。

 私はアメリカのことはあまり分からないが、アメリカ人、いやアメリカ人クリスチャンたちと交わりをし、また教会生活を経験して、今まで知らなかったアメリカ事情の一面を眺めることができた。

 アメリカというと豊かな国として知られる。実際に消費量は日本にも負けてしまうぐらいの多さであるし、訪れた家を見たら、なんでこんなに広い作りになっているのか、またスーパーマーケットに並べてある食品のサイズの大きさをみたら、初めは目が丸くなった。けれども、僕は教会で足軽のように、牧師たちの奉仕のお手伝いをしていた。教会の事務所でも電話番をして、ひっきりなしにかかってくる祈りの要請やカウンセリングを求める声に応えてきた。その祈りや悩みは壮絶なものばかりだった。「突然失業しました。働き口がありません。」「家に泥棒が入り、めちゃくちゃになっています。」「病気ですが、お金がなく適切な治療を受けられません。」そして自殺願望の人の電話もかなりある。スクール・オブ・ミニストリーの先生の一人は、肝臓の病だがHMOというとんでもない健康保険の制度のせいで、三ヶ月に一回という頻度数で開腹手術を受けなければならなかった。

 私たちもひどい目にあった。ロス空港に降り立って、カートにワープロなど電子機器を入れたかばんを置いたまま、(そのカートは握ったままで)隣にいた友人と10分ほど話していた。そうしたら盗まれていた。そしてその友人は車を売っていたので、彼のところで購入したがその自動車保険レディーは、捏造した契約文書を作っていた。郵便ポストの郵便物にも盗みが入った。電話をどこかの会社にかけると、「担当者におつなぎしますから、ちょっと、待っていてくださいである」と言われて、30分間待っても出てこない。

 特にひどいのは医療関係だった。たえこが白菜を切っている間に深く指を切ってしまった。すぐさま病院へ。“緊急”医療室の中に入った。そうしたらなんと、3〜4時間待たされた。私たちだけが文句は言えない、ほかの人たちも苦しみをこらえながら待っているのだ。そして私は虫歯の治療のため王冠を作ってもらったが、途中で二倍も値段をピンはねされそうになった。そしてたえこは、生理の時に大出血して、ついに子宮筋腫の外科手術をしなければならなかったが、HMOの保険会社が許可を出すまで、ただじっと痛みをがまんしなければいけなかった。

 他にもいろいろある。とにかくひどいところだと思ったが、事務所で電話応対をしているうち、他の人たちはもっとひどいところを通っていることがわかり、教会にきている人々の多くが同じような試練を通っていることを気づいた。裕福そうに見えるアメリカ人も、すさまじい荒れた資本主義社会の中で、必死に神を求めて、みことばにすがって生きていることがよくわかった。

 しかし、社会がひどいからこそ、彼らが神のみことばを聞くのは気休めでなく真剣であることも分かってきた。チャック・スミスは世界的にも有名な牧師である。その彼が日本に来たことがある。今思うと、教会の説教壇から語るのと同じように、淡々と日曜学校の子供たちに語るかのように、サムソンの話とヨナの話を話していた(どちらも、神の召しを全うしなかった人の例である)。私は眠くなった。他の人たちも多くが寝ていたことを聞いた。全然、雄弁ではないのだ。語っていることも物珍しいところは何一つない。にも関わらず、毎週、ものすごい人数の人たちがやって来る。チャック・スミスからすばらしい話を聞きたいなら絶対来れないのだが、みことばに対する飢え渇きが非常に大きいから、来ているとしか思えない。礼拝後の会話を立ち聞きすると、主にあって励ます言葉、祈ろうと誘うことば、そして実際に肩を組んで祈っている姿がたくさんある。とにかく、霊的な事柄について必死なのである。

 社会はひどい、と思った。けれども、神を真剣に求めることができる「自由」がある、と思った。みことばの教えが頭の知識ではなく、その人を生かすことばだった。スクール・オブ・ミニストリーの学生の80パーセント以上は、元麻薬常習者だった。ある人はその人生の半分以上を、牢屋の中で暮らした。そんな人たちに囲まれたとき、「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:36)」というイエスさまのことばを実感した。

 社会的には最低の国であっても、「自由」とくに、神への信仰を持つことにおける自由は何にも代えがたいものであることを教えてくれたのは、このアメリカだった。だから、この国が霊的にそこまで疲弊しているという話を聞くと、どうしても認めたくないというか悲しい気持ちになってくる。

 それでもやはり、僕は毎年ミュリエッタで開かれる宣教会議に参加して、宣教地からの神のみわざを聞かせてくれた、あのアメリカ人の兄弟姉妹たちのことを考える。霊に燃やされているクリスチャンたちが、まだいることを思う。主にただシンプルに人たちがまだアメリカにいることを信じたい。もちろん、アメリカだけが特別ではない。でも主が巡り合わせてくださった兄弟たちなのだから、宣教の働きに携わり続けたいと考えている。

(参照エッセイ:「ああ、アメリカよ」)


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