エジプト・イスラエル旅行記 − 8月20日その1

 今日が、ついにガリラヤ地域の最後の日です。旅程は次の通りです。

1.ナザレ
2.カルメル山
3.メギド
4.ヨルダン川バプテスマ場

 まずこの地図を開いてください。以前にも見た下ガリラヤとイズレエル平原の地図です。私たちはまず、ティベリヤから西南西に進み、ナザレ(Nazareth)の町を一望します。それからさらに西に進みカルメル(Carmel)山へ上り、それから下がって南東に向かいメギド(Megiddo)へ、それからガリラヤ湖の南端のヨルダン川に戻ります。


1.ナザレ

二つのカナ

 17日の旅行記を思い出していただきたいのですが、イズレエル平原が東西に広がっている北側一体が、一段と高地になっており、山々がつながっています。それが下ガリラヤであり、交通の分岐点の町アフラからナザレの町を眺めることができました。ここを「ナザレの丘陵」と言って、ナザレが山の頂上に、お盆のようにへこんだ所にあるのが分かります。

 そこに向かう途中で、私たちはカナの町を通りました。実はもう一つのカナを既に見ています。ツィポリから北のほうに見える丘です。そちらは誰も住んでいない所ですが、Biblewalks.comのサイトにきれいな写真が掲載されています。どちらの町が本当のカナなのか意見が分かれているそうですが、ナザレの西北西にあるこの町は古くから言い伝えられているところで、カナの婚礼の奇蹟を記念するカトリックの教会があります。また遺跡で、ユダヤ教の浸礼槽も発掘されているようです。

旧ナザレと新ナザレ

 そのまま西に進むとナザレがありますが、そこは主にユダヤ人が住んでいる新ナザレ(ナザレ・イリット)です。近年のロシア系の帰還民がここに住むことができるように、家をほとんどただで提供したりしているそうです。ロシア系ユダヤ人はインテリの人が多いそうで、ハイテクなどの分野で活躍するそうです。なので、街中にはヘブル語、アラブ語の他に、ロシア語もたくさんありました。

 そしてこの町に隣接しているのが本元のナザレで、現在はイスラエル国籍のアラブ人が最も多く住む大きな町です。人口もキリスト教徒が30パーセント以上いて受胎告知教会を始め、様々な教会が林立しています。

 ここの町の驚くべきことは、本当に、考古学的に意義のある遺跡が出てこないことです。これまでいろいろな所に行きましたが、必ず何かしらの痕跡がありましたよね?ここは本当になく、ヨセフスもガリラヤの町々の中にナザレを入れていません。そんな町があったことさえ疑う聖書批評家がいるほどです。
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)
 何も良いものがなく、変哲のない町で、メシヤはお育ちになりました。

 そしてナザレのヘブル語ネツェルは「新芽」や「若枝」の意味です。イザヤ書11章のメシヤ預言を思い出します。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(1節)」この新芽、若枝は堅い土地で生えました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。(イザヤ53:2)」次から読む箇所は、ナザレの町がいかに福音に対して堅い、砂漠のようであったかを表す出来事です。

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。

イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。(ルカ4:16-30)

 新ナザレから旧ナザレの町を眺めながら、私たちはデービッドのメッセージを、上の聖書箇所から聞きました。(音声はこちら

イエス様が朗読された箇所はイザヤ61章です。聖書を学んでいる人にとって興味深いのは、3節の途中で主が読むのを止められたことです。「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」とあるのに、後半部分を読まれなかったのです。理由は、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」ということです。主がその日、シナゴーグにおられたことによって実現しました。けれども後半部分はハルマゲドンについてのことであり、それはこれから私たちが行くメギドのことです。

ここまでは良かったのです。でもイエス様がこの真理を実際にナザレの町に適用させた時に問題が生じました。レバノンにいる不信心な異邦人が、あなたがたよりも応答したのです。思い出してください、主は成長されていた時ずっとナザレのシナゴーグに出席されていたのです。「いつものとおり」と書いてありますから。だから、彼らの怒りは相当なものでした、「このガキが何を言っているんだ!」と。

彼らはいとも簡単に、御言葉に喜んでいながら、すぐにこの方を崖から突き落とそうとしたのです。群集というのは、いかに移り変わりやすいかを思わされます。「ホサナ!主の御名によって来られる方に。」と日曜日に叫んだ同じ群衆が、宗教指導者らの煽りによって「十字架につけろ。」と叫びました。

 このナザレの町の2キロ離れた所に、イエス様を突き落とそうとした丘の崖と言い伝えられている所があります。「断崖の山」と呼ばれているそうです。そこには行きませんでしたが、ここからイズレエル平原一帯を一望できるようで、とてもきれいです。Biblewalks.comのサイトで楽しんでください。左、つまり東にタボル山、そして私たちがいたアフラの町が正面に見えます。


2.カルメル山

 地図を見れば分かりますが、カルメル山は地中海の海岸から南東に向かって走っている山脈です。その北にはアコの平野があり、もう少し北に行けばそのままレバノンになります。聖書の時代はツロやシドンの町があったところです。そして南は、私たちが通ってきたシャロン平原です。

 ですからここはイスラエルと、ツロやシドンを分けるところでした。ツロとシドンは海洋都市でした。ちょうど神戸のように、平地がほとんどなくすぐに山地が、レバノンの場合は南北に連なっているため、海のほうに都市を発達させていったのです。それでイザヤやエゼキエルの預言のなかで、海によって富を得ているツロの話が出てきます。

 イスラエルは、シリヤ、アモン、モアブ、エドム、ペリシテなど、周辺の国々と戦わなければいけないことが沢山ありましたが、ツロやシドンとは戦っていません。ダビデとソロモンの時代から経済的な協定を結んでいました。神殿や宮殿の杉を海を介してヨッパで降ろし、エルサレムまで持って行ったのです。

 このように経済的な互恵関係があり平和がありましたが、これがかえって大きな霊的確執をもたらしました。北イスラエルのアハブ王が、シドンの王の娘イゼベルと結婚したのです。古代カナン人であるフェニキア人が持っている偶像で主神は農耕の神バアルを、イゼベルは熱心に信奉していました。

 これまでは沿岸の平原を遮るカルメル山のおかげでシドンが拝んでいるバアルは入ってきませんでしたが、アハブのせいで北イスラエル全体に広がったのです。

 アハブは経済的な理由から、南ユダと仲良くするのも画策と考えて後に連合を結びましたが、主は、その経済的な豊かさに対して飢饉という形で裁きを与えられます。「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。(申命11:16-17)

 エリヤがアハブに対して、三年半の間、雨が降らないという神の御言葉を伝えたのです。

 そして決着をつけるべく、バアル信仰とヤハウェ信仰の分け目になっていたカルメル山にて、エリヤはアハブを呼び、バアルの預言者450人、そしてイスラエルの民を呼びました。
「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(1列王18:21)
 カルメル山はこの他に、その緑の美しさで有名です(イザヤ35:2,雅歌7:5)。今でもきれいな所です。バスで上がっていったら、普通の樹木から急にオリーブの木に変わる部分がありました。オリーブの木に変わるときは、そこにアラブ人が住んでいることがわかるとガイドは言っていました。前日お話しましたドルーズ教の人たちです。

 そしてその山の頂上に、エリヤとバアル預言者との対決を記念するカトリック系の修道院があります。この人たちは「カルメル人(Carmelite)」と呼ばれている人々で、マリヤの顕現と崇拝で有名みたいです。99年には、デービッドが、エリヤが対決したバアル信仰を継承している人がなんとここを管理しているとは何たる皮肉であろうか、というメッセージをしました。今回は、もっと未信者に対するチャレンジとしてのメッセージを行ないました。聖書箇所は、第一列王記18章からです。(こちらに音声)

再び戻ってくる預言者について話します(マラキ4:5)。もう既に、数回戻ってきているでしょう。マタイ17章にて、イエス様の姿が変貌した山のところに現れました。モーセもいました。この二人が、主が復活された墓のところにいた二人であるかもしれません(ルカ24:4)。主が昇天される時にいた二人でもあるかもしれません(使徒1:10)。多くの人は天使として描きますが、白い衣を着た人としか描かれていません。

そして、エリヤとモーセが、あの黙示録11章のふたりの証人であるかもしれません。大患難の始めに福音を、ユダヤ人の残りの民に伝えます。その中に14万4千人の神の印を押されたイスラエル人がいて、全世界の福音を伝えます。まだ聖書翻訳がされていない言語が5000以上ありますが、一瞬にして解決されます。なぜなら、五旬節に主が御霊をユダヤ人に注がれたように、彼らに御霊を注がれるからです(エゼキエル36:26?)。

マラキ書には、エリヤが主の来臨の前に来るという約束があります。バプテスマのヨハネについて、主は、彼が宣べているのを認めれば、彼がエリヤなのだと言われました(マタイ17:12)。バプテスマのヨハネはエリヤではないのですが、ユダヤ人はヨハネを拒んだということです。だから、過越の食事では今でも、四回飲む杯の他に「エリヤの杯」というのがあります。エリヤの為の席も用意して、家族の一番小さい子に、戸口にエリヤが来ているかとうか確かめさせます。

カルメルというのは山脈です。今私たちがいるのは、その一番高い頂上です。この建物の頂上に上がれば、平原一帯を見渡すことができます。そして屋上の床に、それぞれの町の方向とここからの距離が書かれています。(ここで、1列王18章17節から終わりまで朗読しました。)

第一に、エリヤは、アハブの罪と偶像礼拝を指摘しました。イゼベルは、バアルの熱心な信奉者でした。バアルは農耕の神、アシュタロテは性の神です。この二つの神々がイスラエルに大きな腐敗をもたらしました。

第二に、エリヤは、イスラエルの民に決断を迫りました。多くの人は聖書について多くを学びますが、決心ができません。けれども主は、絶えず私たちに決断を迫ります。主は、私たちにとって主であるか、あるいはそうでないかの二者択一なのです。心を定めよ、と。

第三に、バアルの預言者は自分たちの神を呼び求めましたが、答えがありませんでした。日の下にあるものに向かって、私たちの多くは呼び求めますが、この世は何も提供できるものがないことを知ります。私たちの主は、罪の赦しと、信じる者に永遠のいのちを与えられます。

第四に、エリヤは主の祭壇を築きました。とても簡単なことですが、アハブとイゼベルが壊していたこの祭壇を誰も築きなおしていませんでした。

第五に、主がいけにえを火をもって受け入れられました。これによって、この方のみが神であることを示されました。だから心を定めるのです。二つの意見の間で迷うのではないのです。

第六に、民は、主のみが神であるとの忠誠を誓いました。

第七に、エリヤは、雨が海からやってくることを自分の僕に伝えました。けれども、七回も行かせたのです。シリヤ人ナアマンも、ヨルダン川で七回も水に浸かりましたね。

だから、主が神であるなら主に仕え、バアルが神であるならバアルに仕えなさい。世はあなたに与えはしないけれども、あなたから奪います。あなたの生活を台無しにします。

ところで、エリヤは、イゼベルが切れた(?)ことを聞きました。カルメル山からエルサレムまでかなり遠いですが、イスラエルの南端のベエル・シェバまで行ったのです。さらに南、ネゲブまで行きました。気分を乱し、がっかりしていました。洞窟を見つけました、暑い砂漠ですから良かったです。「今でこそ、主は私に示してくださるだろう。私こそが、力強い主の預言者であることを。」でも誰も聞いていませんでした。神は地震を与えられましたが、そこに神はおられませんでした。火を送られましたが、そこにもおられませんでした。風の中もおられませんでした。聖書は、「かすかな細い声があった。(19:12)」とあります。

そして、「ここで何をしているのか。」と言われました。神は、私たちが何者だから用いられるのではなく、私たちであるにも関わらず用いられるのです。けれどもエリヤは、カルメル山で「私ひとりが主の預言者として残っている。(18:22)」と言ったことを、この洞穴で繰り返しました。主はけれども、「いや、七千人、バアルに身をかがめなかった者がいる。ここから出て、わたしが命じることを行ないなさい。」主は同じように、大きな出来事を起こす必要はなく、あなたに対してかすかな声で、「あなたはここで何をしているのか。」とお語りになることができるのです。心を定めてください、決断の時です。トマスのように、「私の主、私の神」と告白するのです。

ダビデは、「あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。(詩篇19:13 口語訳)」と祈りました。実際はそうではない何かを勝手に、故意に思っていませんか。そしてあえて、真理を無視していませんか?心を定めてください。

 メッセージが終わってから、修道院の屋上に上がりました。ここから見るイズレエル平原の鳥瞰的景色は本当に素晴らしいです。私も写真と動画を取ったのですが、Biblewalks.comには、もっと大きくきれいに取れている写真動画があります。クリックしてご覧ください。


イスラエルの関が原

 私たちカルメル山を南東の方向で降りると、道路はそのままメギドに行きます。ここで再びイズレエル平原について説明しなければいけません。(ちなみに、新約時代はエスドラエドンの平原と呼ばれます。)

 私たちがカイザリヤからガリラヤに行く時はここは肥沃な農耕地として紹介しましたが、歴史的にはここは典型的な戦場でした。カルメル山でバアルの預言者との戦いを終えたエリヤは、アハブの前を走ってイズレエルの町まで行きました。後に、エリヤの預言を成就すべく、エフーが気が狂ったようにアハブの家の者とくみしていたユダの王を殺しました。そして、イズレエルの宮殿にいた老婆イゼベルは、ここで犬に食われて肥やしのようになりました(2列王9:37)。ナボテのぶどう畑を、彼を殺すことによって手に入れたことに対する罰でした(同26節)。

 ずっと前には、士師の時代において、二つの戦いが繰り広げられています。デボラとバラク率いるイスラエル軍が、イズレエル平原東に位置するタボル山から、カルメル山の北へ流れているキション川にいた、ハツォル出のカナン人の軍を打ち破りました。その後ギデオンが、マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリの軍を率いて、イズレエルの谷に陣を敷くミデヤン人、アマレク人と対峙しました。(結局、ハロテの泉のところで、主によって三百人に人員削減されましたが。)

 またサウルがペリシテ人に敗れて死んだのも、イズレエル平原の東、タボル山の南にあるギルボア山であり、ペリシテ人は、明日訪れるベテ・シェメシュに彼の死体をさらしました(1サムエル31章)。

 イスラエル統一王朝の時、ソロモンは昨日通り過ぎたハツォルの他に、メギドにも要塞の町を置きました。ここが軍事戦略的に大事なところだからです。

 そしてメギドは、南東に伸びているカルメル山脈の先端部分にあり、そこでユダの王ヨシヤが、カルケミシュの戦いのために北上しているエジプトのパロを遮ろうとして戦い、敗れています(2歴代35:20-24)。そしてもちろんこの平原で、東の国々の軍隊が涸れたユーフラテス川を越えて集結する、ハルマゲドンの戦いがあります(黙示16:12‐16)。

 聖書の歴史だけ見ても、ここは多くの戦いが繰り広げられまたこれからも起こりますが、他にも有名な戦いが起こっています。紀元前1478年に、エジプトのパロ、トトメス三世がカナン人の連合軍と戦って、メギドにて打ち破りました(ちなみにこのパロが、イスラエルを追って紅海の中に沈んだ人です)。エジプトのイスラム王朝マムレクは、紀元後1260年に、かつてギデオンが戦ったハロドの泉のところで、中国の元(モンゴル)の侵略を抑えています。1918年、英軍アレンビーがメギドにてオスマントルコ軍を打ち破りました。1948年の独立戦争の時には、メギドの北でイスラエル軍がイラク軍に決定的な打撃を加えています。

 ですから、天下分け目の戦いが関が原なら一度だけですが、イズレエル平原、特にメギドでは何度も何度も、しかも遥かに大きな規模で起こったのです。なぜでしょうか?第一に、もちろん、平地ですから軍隊を結集させるには都合の良いところです。

 けれどもそれ以上に、二つの大きな文明の衝突地点だからです。南のエジプト文明と北のメソポタミア文明です。南から北に行くには、海の道と呼ばれる幹線道路を通るのですが、それは地中海沿いのカイザリヤの上から東へ横切り、それから北に上がります。地形的に他の方法で行くのは難しいです。中東の地図を見ると、エジプトからユーフラテス川領域に行くには、そのまま東に、つまり今のサウジアラビアを通れば良いのですがもちろんそこは600キロある砂漠です。ここを通ることはまずできません(こちらの地図を参照)。だからアブラハムもそうでしたが、バビロンからエジプト方面に行くとき、まずユーフラテス川沿いを北西に上がり、それから一気に南に下ることによって可能です。そして南に下るときに、エジプト側に出るにはどうしてもヨルダン川から地中海のほうに渡る必要があり、その横切る道がイズレエル平原なのです。

 先ほど話した、カナン人とメギドで戦ったトトメス三世は、「メギドを攻略する者は、数千の町を攻略するのと同じである。」と言いました。それだけ軍事戦略的に大事な所なのです。

 説明が書いてあるサイトを見つけました。英語ですが、地図があるので開いてみてください。その他、ヴィア・マリス(海の道)についての説明が、Near East TourismJewish Virtual Libraryにもあります。メギドがこの幹線道路の分岐点になっている様子をはっきり見ることができます。そして、現在でもこのメギドに幹線道路の交差点があり、南はエジプトへ、北はシリア方面につながっています。

 イスラエルはこんな小さな土地だと思っても、「たかがイスラエル、されどイスラエル」なのです。今でも、日本の面積の17分の1しかないイスラエルが、第三次世界大戦がいつ起こってもおかしくない火種となっている中心であることがよく分かるでしょう。