エジプト・イスラエル旅行記 − 8月21日その1

 今日が実質的な最後の旅になります。最初にお話したように、私たちはエジプトからイスラエルに入ったので、大韓航空の復便に乗るために再びカイロに戻らなければいけません。他のHope For Todayのツアーメンバーは、エイラットで二夜を過ごし、それから北上してベングリオン空港に行きます。私たちは一晩だけ過ごし、次の日22日の昼にエイラットを出ます。

 旅程は次の通りです。

1.ベテ・シェアン
2.西岸へ
3.死海で昼休み
4.牧場キブツでアイスクリーム
5.ティムナ国定公園
6.エイラット

 見ての通り、ガリラヤからイスラエルの南端エイラットまで、ひたすら南下していきます。

 バスはティベリヤを出て、ガリラヤ湖の南に回り、ヨルダン川を左手に見ながら南に下ります。もう一度、地図を開くとよいでしょう、バスは90番線を下っています。ここはヨルダン渓谷と呼ばれているところです。向こう側はヨルダンで、聖書時代には「ギルアデ(Gilead)」と呼ばれたところで、今、「Jばいぶる」で調べただけでも131回登場します。

 今度イスラエル旅行に来る時は、ぜひヨルダンも立ち寄りたいという食指がもう既に動いています。


1.ベテ・シェアン

 そして再び平地が現れます。私たちは今、イズレエル平野の一番東の部分に来たからです。こちらは、「ベテ・シェアン平原」とか「ハロデ平原」とも言われます。昨日お話した、ギデオンの泉「エイン・ハロデ」がある70番線を東に来るとそのままベテ・シェアン(Beit She'an)です。

 ここの町の特徴は、上の題名のリンク先にある上空からの写真を見れば分かるとおり、テル(丘状遺跡)とローマ時代の遺跡が残っていることです。テルは主にカナン人の町が埋まっており、そのふもとに華やかなローマの町が広がっています。その通りを歩いていると、自分がその時代の中にタイムスリップした錯覚に囚われます。東京の六本木のようなおしゃれな繁華街は、もしかしてローマ文化の影響があるのではないかと感じてしまう程です。

 ここはメギドと同様、非常に戦略的な場所です。メギドは地中海沿いのヴィア・マリスの分岐点でしたが、こちらはヨルダンに南北に走っている「王の道(民数20:17)」とつながっている町だからです。それにハロデの川がすぐそばを流れており、土地がとてつもなく豊かだそうです。あるユダヤ人に、「エデンの園がイスラエルにあったのなら、その入口はベテ・シェアンだっただろう。」と言わしめたほどです。

 ここも、聖書と深く結びついている町です。今、話したように、カナン人がここに町を造っていました。
またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。(ヨシュア17:11)
 けれども、昨日訪れたメギドの町と同じように、彼らはこの町を占領することはありませんでした。この間、メギドでもそうであったように、トトモス三世の遠征から始まるエジプトの支配の跡を見ることができます。そしてエジプトが弱くなり、海洋民族であるペリシテ人がイスラエルの各地域を攻めてくるようになり、士師記のサムソン、サムエル記のサウルやダビデの戦いの中にペリシテ人がたくさん出てくるわけです。ここで非常に重要な、サウルの死体がさらされた出来事が起こりましたが、これは後でデービッドが聖書箇所からメッセージします。

 そして再びメギドと同じく、ソロモン王国がこの町に守護を置きます。「タナク、メギド、それに、イズレエルの下ツァレタンのそばのベテ・シェアンの全土、ベテ・シェアンからアベル・メホラ、ヨクモアムの向こうまでの地には、アヒルデの子バアナ。(1列王4:12)」その後は、もちろんアッシリヤの支配下に置かれます。

 そしてギリシヤ時代に飛びます。この時に「スキソポリス(Schythopolis)」と呼ばれます。「スキタイ人のポリス」という意味です。ツィポリのモザイクに出てきた、ギリシヤ神話の神ディオニューソスが建てたということになっています。そしてこのギリシヤ人の町が、新約聖書時代には「デカポリス」の一つだったのです。

 デカポリス(「十の町」の意味)を覚えていますでしょうか、ガリラヤ湖東で悪霊から解放された男がイエス様に命じられて、デカポリスの町に福音を宣べ伝えました。十のうち一番栄えていたところで、ヨルダン川の西にある唯一の町(地図)でした。

 そしてローマが安定した二世紀から、この町の建築プロジェクトが本格化しました。今私たちが見ることのできる遺跡の外観は、この時代のものです。そして町は、紀元後749年、大地震によって破壊されました。今でも円柱が同じ方向に倒れていますが、これが地震によるものであることを物語っています。(ガイド、ドランの説明はこちら

 私たちは遺跡を見学する前にデービッドのメッセージを聞きました。第一サムエル記の最後の章と、第二サムエル記の最初の章です。前者はサウルとヨナタンが死ぬ場面で、後者はその知らせを聞いたダビデが哀歌を歌うところです。朗読しながら少し注釈を入れ、そしてまとめの話をしました。なので、これからその注釈を(私の説明も少し加えて)取り上げますが、ぜひ1サムエル31章と2サムエル1章をまずお読みください。(音声はこちら

 31章1節「ギルボア山」は、この遺跡のちょうど後ろにあります。10節に、ペリシテ人がサウルの武具を「アシュタロテ」の宮に奉納するとありますが、カルメル山での対決の時に説明したように、性と豊穣の神です。そして10節、サウルの死体を「ベテ・シャン」の城壁にさらしたとありますが、まさに此処のことです。

 11節には、「ヤベシュ・ギルアデ(Jabesh Gilead)」の住民とあります。ヨルダン川の向こう側にある、もう一つのデカポリスです。ベテ・シェアンからヨルダンを撮った写真で確認してください。またデカポリスの一つ、ゲラサには素晴らしい遺跡が残っていて、大地震の後にもなお100本の柱が立っています。そして最後13節に、「ヤベシュにある柳の木の下に葬り」とありますが、イスラエルの最初の王がヨルダンに葬られたわけです。

 サムエル第二1章7節には、「『はい。』と答えると。」とあります。嘘をついていますね。8節、「私はアマレク人です」と答えています。ダビデはちょうどアマレク人を虐殺したばかりです。ここに生き残りがいました。そしてダビデが14節で、「主に油そそがれた方に、手を下して」と言っていますが、エン・ゲディでのことを覚えていますね。

 そしてダビデが哀歌を歌ってこう言いました。「ギルボアの山々よ。おまえたちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。(21節)」バスに乗った後に、ギルボア山を見ます。山々に木があります。はげ山になっています。そこに植林しようとしましたが、育ちませんでした。ダビデの呪いが今日に至るまで残っているのです。全能の神の御力と御言葉の証しです。

五つのことを教えます。第一に、サウロと息子三人はペリシテ人から恥辱を受けました。イスラエルの敵の邪悪さがここに現れています。イスラエルは指導者に対してこのようなことはしません。でもイスラエルの敵はします。第二に、ヨルダンのヤベシュ・ギルアデの人々の反応には、人の体に尊厳を認めています。イスラエルがレバノンの千人もの捕虜と引き換えに、二人の兵士の二体を取り戻したのが理解できるでしょう。

第三に、アマレク人がダビデに報告したことについてですが、主に油注がれた者、指導者には尊敬を払わなければいけないことを表しています。私たちの指導者は、必ずしも尊敬に値するものではありません。けれども聖書には、「敬わなければならない人を敬いなさい。(ローマ13:7)」とあります。また上の権威のために祈るべきであるとも言っています(1テモテ2:1)。また、「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。(使徒23:6)」とあります。オバマはまだ政権についていませんから、まだ・・・冗談です。

そして第四に、ここの話で麗しいのが、サウルとヨナタンの死に対するダビデの反応です。敬虔な人の知恵が表れています。主は、サウルに代わってダビデを立てることを仰られたのに、彼は手を下しませんでした。唯一、サウルの衣の端を切ってしまい、ダビデの心は痛んだのです。ここに、敬虔な人が何をしなければならないかが証しされています。

第五に、ダビデが下した最後の判決です。アマレク人を殺しました。私たちが今サムエル第一31章を読んだように、彼は嘘を付いていました。彼はダビデから褒美を期待していました。けれどもダビデが行なった裁きは、神の働きを表しています。

関連した話で、ヨシュアが約束の地に入った時、アカンが罪を犯した時のことがあります。エリコの町の聖絶のものを取りました。くじを引いたら、彼に当たりました。そしてイスラエル人は彼を殺しました。これも多くの人は疑問を抱くでしょう。現代の文化にいると、神の聖さをきちんと見ないことがあります。けれども彼らの行為は神は尊ばれたのです。

神の聖さについて言うならば、正しいことをするために悪を働くことは決して正当化されないということです。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)」とあります。ですからヨシュアの場合でもダビデの場合でも、神の正義に身をゆだねた敬虔さを表しているのです。

 私たちはまず皆で野外劇場に行きました。ステージの真中に、アコーデオンを奏でるバス運転手アヴィさんとドランが立ちました。デービッドがドランに歌え、と言ったのですが、ドランは恥ずかしがって最後まで歌えませんでした。その後、エリザベツさんが歌いましたが、その舞台の真中に立つと観客席全体に声が広がるのです。それをデービッドは確かめたかったようですね。

 そしてその後、自由行動になりました。本当は、99年の時と同じようにテルの上まであがれば、ギルボア山、モレの丘などイズレエル平原一帯を眺めることができ、かつ、ローマの町の遺跡の全景も眺めることができます。けれどもそこまでの時間は与えられていませんでした。ウィキペディアにあるこの写真をご覧になると良いでしょう。とてもきれいです。その後で、NETにあるこの写真を見れば、どこに何があるかお分かりになると思います。

 野外劇場のすぐ横にある、柱が立ち並んでいる通りがこの町の中心で「パラディウス(Palladius)通り」と言います。そしてこの写真が、当時のこの通りを想像して描いたものです。テルの上には、ゼウスの神殿が建っていたそうです。

 そしてこの通りの横には、モザイクの道があります。私たちも、こんな遺跡の上を歩いていいのか気兼ねしましたが、他のツアーのメンバーも同じことを言っていました。でも、何の敷居もありません。こんなモザイクも、市場のほうにあるようです。ツィポリから感じていましたが、当時のモザイクは本当に今のアニメにも出てきそうな可愛い顔をしています。

 そしてこの通りの向こう端、テルのふもとの部分に、ディオニューソスの宮があります。柱が同じ方向に倒れているのが分かりますね。これが大地震を物語っています。パラディウス通の柱も倒れていたそうですが、復元したそうです。その他、ローマ風呂が二つ、トイレもあります。

 そしてこの敷地から少し離れたところに野外劇場もあります。ライオンなど、動物が血を流すのを喜んで観衆が観ていたとのこと。そして売春もその後行なわれたのこと。退廃ぶりをうかがわせます。おそらく初代クリスチャンは、ローマのコロシウムと同じく、ここで観衆が観ている中で獣に食い殺されていったのだろうとのことです。けれども今でも彼らの血は、多くのキリスト者の存在によって生きています。その反面、この町は滅んでいます。なんという対比でしょうか!次の、バビロンに対する神の裁きを思い起こします。
大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。 ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。 また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。(黙示録18:21-24)
 どんなに華やかに見える町よりも、神の目には、一人ひとりの小さな者のほうが高価で尊いのですね。

 ところで今私たちが見ているのは、当時の町のごく一部とのこと。まだまだ発掘されていないそうです。ちなみに、この遺跡のすぐそばに現代のベテ・シェアン市があり、この肥沃な場所は今でも人を集めています。


ギルボア山

 そして私たちはバスに乗り、今度は先ほどデービッドが言及したギルボア山を見ました。

 いかがですか?はげています。上のWikipediaのリンクでは植林がかなりされている写真がありますが、でもこの写真のようにやはり育たないのです!これだけ見ても、神の霊感によって預言したダビデの言葉が今も生きていることを確認することができます。


2.西岸(ウェスト・バンク)へ

 バスはさらに南下し、道路はパレスチナ自治区になっている西岸に入りました。私たちは西岸に入るのは、これで三回目です。一回目はベツレヘム、二回目は、ダビデとゴリヤテが戦ったエラの谷に行く途中でした。二回目の時に説明しましたが、自治区とイスラエル領の境は「グリーン・ライン」と呼ばれています。再びその違いに驚きました。検問所に入る前、道路の左右に濃い赤色の土による農地が広がっていました。検問所を通り過ぎたとたん、農地の土が人目で痩せていると分かる色に変わりました。しかも、ごみだらけです。

 西岸の中にもユダヤ人の居留地が出てきます。しばしば、これがニュースで話題となり非難の的となっているものです。地図でも確認してみましょう、紫色の部分が居留地です。けれどもそこの多くはキブツであり、そこの部分だけはごみもなく、土は肥え、緑もいっぱいなのです。が、いったん過ぎると再び荒地になります。

 そして居留地のユダヤ人は近くに住むパレスチナ人も労働力として雇っています。特に2000年に始まったインティファーダの前、イスラエルが分離政策を始める前は、パレスチナの経済はイスラエルへの出稼ぎで保っていたといっても過言ではありませんでした。次のイザヤの預言を思い出します。
まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。 国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。 (イザヤ14:1-2)
 これは千年王国における預言です。「奴隷」とありますが、私たちが考えるようなそれではなく、生産力が非常に豊かになっているユダヤ人のところで異邦人が雇われ、その恩恵を受けている姿です。むろん、今のユダヤ人は霊的に贖われていないし、土地の生産力も神の国のようには豊かではないから、労働者への待遇が悪くなることもあるでしょう。けれども、人間の考える「パレスチナの人権、主権、平等」よりも、神の与えられる秩序のほうが、彼らをかえって豊かにすることを証明しています。


数多くの聖書的名所

 しばらく走っていて、ヨルダン川の向こうに「ヤボクの渡し(創世記32:22)」があるとの説明を受けました。ヤコブがエサウに会う前に、主の使い格闘したところです。写真も撮ったのですが、実際には全然見えませんでした。

 そして今度は右側、つまり東の内地のほうに、主が誘惑を受けられたとされる荒野の山が見えてきました。

 そして反対側のヨルダン川には、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けたとされた場所もあるそうです。ヨハネ1章28節には、「ヨルダンの向こう岸のベタニヤ」とありますから、昨日行ったヤーデニッドよりも、こちらのほうが位置的には近いはずです。

 この時、西岸の中にあるエリコの町が右側に見えてきました。ここは皆さんもよくご存知でしょう、ヨシュアがヨルダン川を渡って初めに攻略した町ですね。ヨルダン川が堰き止められて、そこをイスラエルが渡り、そして七日に七回、七日目には七度、城壁を回って倒したところです。これまでも、私たちはカナン人の町の遺跡を見てきましたが(ダンの町ライシュ、ハツォル、メギド、ベト・シェアン等)、その中でもエリコが最も発掘されています。紀元前7000年ぐらい先まで分かっているとのこと。また、ヨシュア占領時に崩壊した壁も見つかっています。

 そしてエリコはもちろん、新約時代に、ガリラヤとエルサレムを行き来する道にありましたから、イエス様がよく訪れた所でした。盲人を癒されたり、取税人ザアカイに救いをもたらしたり、いろいろなことを行なわれましたね。ちなみに、旧約時代のエリコと新約のエリコは隣接していますが違う町です。なので、次のような矛盾した記述もすぐに解決できるわけです。
イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。(マルコ10:46
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。(ルカ18:35)
 つまり主が新エリコから旧エリコに行かれる途中で、この盲人にお会いになったのです。


デービッドから課せられた宿題

 エリコを過ぎるとすぐ死海です。その直前で休憩所で少し休憩しました。私たちはデービッドに再度、エイラットで明日お別れする旨を伝えました。そしてもう一つ、必ず聞きたいことがありました。それは今回の旅行の前から、「いつか日本人の人を連れて、イスラエル旅行に行きたい。」と思っていたことを話したのです。「旅行を引導するために、何を準備していく必要がありますか。」と聞きました。これまで40回以上ここに人々を連れてきたことのあるベテランから出てきた言葉は、「ヘブル語を勉強しなさい。」でした。そして、Quick Verse社が出しているHebrew Tutorは独学できるようになっているからこれで勉強するといい、とのことでした。

 ギョギョッ!彼は知識の言葉でも、聖霊の賜物として与えられているのでしょうか、私がアメリカで勉強していたとき苦手としていた科目です。私が勉強していたときは、彼はもう学校で教えていなかったから知らないはずなのですが・・・。でも、いつか、いつかじっくり習ってみたいと思っていましたから、これを良い機会にぜひ勉強し始めるぞ!と決意しました。この旅行記を書き終えてから開始したいと思います。

 ところで聖書の世界は本当に広いです。ヘブル語だけでなく、いずれギリシヤ語も復習しなおす必要があるでしょう。そして聖書の背景となる古典(ヨセフスの「ユダヤ戦記」など)も読んでみたいし・・・。現代イスラエルの成り立ちを描く有名な本も入手したいです。・・・・御言葉への貪りが、今回の旅行でよみがえってきました。


3.死海で昼休み

 死海沿いの道を再び通ります。右は黄褐色の山々、左はコバルトブルーやエメラルドブルーに輝く海です。クムランの洞窟、エン・ゲディの緑の木々、そしてマサダを右手に見ながら南下しました。マサダより南には行っていなかったので、ここからは新しい景色です。

 まずこの地図を開いてください。ユダヤの荒野とネゲブ砂漠の北の部分です。死海がマサダ(Masada)の辺りで途切れているが分かるでしょうか。これを衛星写真で見ると、もっとよく分かります。夏なので水位が下がっているのですが、年々全体的にも水位が下がっています。これはこの前話したように、イスラエルまたヨルダンが、生活用水や農業用水としてガリラヤ湖やヨルダン川から水をくみ上げているためです。ヨルダン川が非常に細い、小川みたいになってしまっているのはそのためです。死海が英国委任統治時代の水位が記されている標識がありましたが、私たちが走っているバスよりも高い位置にありました。

 数年前からこの問題を解決すべく、イスラエルとヨルダンの間で紅海から死海に水を引く計画が立てられています。死海は海面下にありますから紅海から水を引くことは比較的容易です。けれども費用が5億ドルかかるとのことで、頓挫しているらしいです。

 私たちは、この陸続きになっている部分の横を走りました。横に細長い運河が見えます。エメラルドグリーンに輝く水です。これは北側の死海の部分の水を、南側の死海の部分に流し入れるためです。これを行なわないと南側の部分が干上がってしまいます。

 そして私たちは死海の南側にある、リゾート地の到着しました。ここで1時間ぐらいの昼食休憩です。99年の時に泊まったハイヤットは、たぶんここにあるのではないかと思います。なぜなら、数日前入った死海の水が濁っていて、99年の時はこんなんじゃなかったと思っていたからです。こちらは、とてもきれいです。妻がここの死海の水を小さな瓶に入れて持って帰りました。面白いのは、気温が下がったためでしょう、底に少し塩が溜まっています。

 そしてここで最後の買い物をしました。ここではAHAVAの専門店は閉じており、Sea of SPAというブランドの専門店がありました。他のお店でも売られていた製品す。ハンドクリーム、フットクリームなど4本で25ドルだったので、とても安いと思い購入しました。現在使っていますが、アハバより少し劣りますがまずまずです。

 そしてバスに乗り、さらに南下すると死海はきれいというよりも、真っ白になってきます。リゾート地ではなくここはミネラル精製工場の精田になっているからです。写真に、海の中に直線に走っている薄茶色の部分がありますね。これは人工的にそうしているのであり、水を区画化して鉱物を取り出すため準備しているのです。イスラエルの経済にとって、このミネラルが国家財産になっており、年間数十億ドル単位の収入になっているそうです。

 そして道路の右側の岩の色が、黄褐色からほとんど白色に変わりました。なぜなら岩塩だからです。私たちは今、もとソドムの町があったところにいるのです。
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(創世13:10)

そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。(創世19:24-28)
 水で潤っていた緑地に火と硫黄が降り、その水が一気に干上がって鉱物だけが残った状態になってしまいました。そしてここに、いくつかロトの妻の柱があります。どれも本物であるかはかなり怪しいそうですが、妻がバスから降りて写真を撮りました