イスラエル・ヨルダン旅行記 6月7日 - ヨルダン北部

1.イスラエル・ヨルダン国境
2.ペラ(タバカット・ファハル)
3.ガダラ(ウンム・カイス)
4.ゲラサ(ジェラシュ)
5.ヤボク川
6.アンマン


 今日から10日までヨルダン旅行です。ガリラヤ湖の南にあるベテ・シャン近くの国境を越えて、今日は北部地域を巡ります。そしてヨルダンの首都であるアンマンに下り、明日は中部、そして明後日は南部と、ヨルダン国を南下します。

 聖書の地と言えばイスラエル国をまず考えますが、地図を見れば現代のイスラエル国をはるかに越えた地域に及んでいます。南のシナイ半島はもちろんエジプトにありますが、モーセたちはヨルダン回りで約束の地に入りました。そしてそこにマナセ半部族、ガド族、ルベン族に相続地が割り当てられました。北部は聖書に数多く出てくる「ギルアデ」地方です。さらに親戚のアモン人、モアブ人、エドム人がそこに住んでいました。そして新約時代に世界を覆っていたギリシヤ・ローマ文明は、このヨルダンに色濃く残っています。そして砂漠の商人として名高い文明を築いたナバテア人の遺跡である「ペトラ」がこの国に存在します。ここは聖書的にはボツラであり、再臨の主と世界の軍隊の激戦区になります。

 ですから二度のイスラエルの旅をしていた私は、食指をヨルダンにも動かしたくなっていました。アーノルドの旅はヨルダンがいつも含まれているので、そういった意味でも彼の主催する旅を選んだわけです。

イスラエル・ヨルダン国境

 私たちは5時半に朝食を済ませ、6時にはホテルを出発しました。これまでのワゴン車による移動から解放(?)され、心地よい観光バスでベテ・シャン方面に向かいます。エルサレムからガリラヤ湖方面に移動した時と同じ道、すなわち1号線でユダの荒野を横断し、90号線でヨルダン川沿いを北上しました。

 バスは90号線から右折し、ヨルダン川を越えました。これで何回、ヨルダン川を見、また越えたでしょうか?そして、国境を渡るのに少し複雑な手続きが始まります。まず、イスラエル側で出国手続きをします。そこで私は、安息日にエルサレム旧市街で交換した金額だけでは少し不安だったので、もう少し換えました。ちなみに1JD(Jordan Dinar ヨルダン・ディーナール)は、130円程度です。

 そして次にヨルダン側で入国手続きを済ませます。移民管理局の人の口から出た言葉は、そしてこれからのヨルダン各所で聞いた言葉でもありましたが、"Japan is a good country."でした。日本はヨルダンでも好印象な国です。そして荷物は別々に国境を越えたのですが、自分の荷物を取り上げて、シェキュリティー・チェックを受けました。ヨルダン側で待っていたバスに乗り込みました。

 ヨルダン人の旅行ガイドさんが、私たちが越境したところにいました。どんな人なのか、また英語の発音はきれいなのか気になっていましたが、ものすごく流暢に、というよりものすごく早く話す、すごくラフな格好をしている若い方でした。自己紹介によると、キリスト教徒の家系に生まれたとのこと。本当に信じているクリスチャンではないですが、ムスリムの人ではないので少し安心しました。

 旅行仲間はヨルダンに入ったとたん気づき始めましたが、バスも建物もイスラエルと比べると“ぼろい”です。霊的にもヨルダン川を越えて初めて、「乳と蜜の流れる地」なのですが、それを雰囲気で感じ取ることができます。けれども08年のエジプトからイスラエルに入った時ほどの歴然とした差はなく、イスラエルの二部族半がここに相続地を求めた理由も理解できます。

ヨルダン国について

 右上の写真でも分かるように、現代ヨルダン国は王が議会を治める立憲君主制を取っています。正式名は、「ヨルダン・ハシミテ王国」であり、メッカに血筋を持つハシミテ家が国王となっています。写真の左の人物は現在の国王アブドラ二世ですが、これからヨルダンの至る所で彼の写真や肖像を見ます。日本の天皇とは、その崇敬の度合いが桁外れです。

 国の始まりはイスラエルと同じく、国際連盟が英国が「トランスヨルダン」として委任統治を始めたところからです。その前はオスマン・トルコ領であり、映画「アラビアのロレンス」で有名な、英国と共闘したアラブ反乱によって建国への道を開きます。その時の王はアブドラ一世です。

 彼は、第一次中東戦争(独立戦争)でアラブ連合軍において主導者となります。そして51年にエルサレムのアル・アクサ寺院に訪問中、暗殺されます。その場にいたのが彼の孫で、次の王となるフセインです。彼が実に1999年まで治めていた、今のヨルダンを形造った国王です。彼の治世の間に、六日戦争、そしてPLOが内乱を起こした「黒い九月事件」という危機を乗り越え、現在のヨルダンの地位を確保しました。

 これまで中東戦争関連の本を読むかぎりは、ヨルダンはエジプトやシリアとは異なり、革命による共和制ではなく王政を保っていること、そして、西側諸国に付きながらアラブ圏内においても地歩を固めてきたこと、そうすることによってヨルダン王国を拡大する野心を持っていることが印象に残っています。イスラエルに対しては、アラブ人の面前では敵対的姿勢を取りますが、戦争勃発の直前でさえも極秘訪問を受け入れたりするなどイスラエルの存在を隠密に認めてきました。イスラムの伝統を誇っていますが、現実的でかつ穏健的と言えばいいでしょう。

 そして現在の人口は約420万人です。約半数の200万人が首都アンマンに住んでいます。北東部に、若干、アモン人とエモリ人の子孫が住んでいると言われています。そして約120万人はパレスチナ人です。48年から67年まで西岸地区をヨルダンが併合したこと、そして他のアラブ諸国と異なり、パレスチナ難民の一部を吸収したことにより、それだけ多くのパレスチナ人がいます。今でもヨルダンは、西岸地区をイスラエルによる占領地と位置づけ、ガイドの人も「イスラエル」とは別にして呼んでいました。

 そして土地は、ヨルダン川沿いの西側の肥沃な地域を除いては乾燥しており、イスラエルよりさらに深刻な水問題を抱えています。現在はイスラエルとの平和条約によって、ヨルダン川からの水の一部を受け取っています。ちなみにヨルダンのレストランでは、飲み水は有料です。

ペラ(タバカット・ファハル)

 以上の内容を含むヨルダン全般の紹介を、バスの中でガイドから受けました。・・・ところで、知識的にはアーノルドが案内をすることは十分にできますが、それをヨルダン政府の公認ガイドが必要なので、彼は日中は随行しているだけです。昨夜の講義の中でも、「私とガイドとを対立させるような質問を私にしないように。」との注意を受けました。ホテルの中で夜の講義の時に彼に対する質問は取っておきなさい、とのことでした。けれども、次の日にはガイドの方からアーノルドに意見を求める場面が出るなど、少し緩やかになっていきました。

 だいたい10分ぐらいでしょうか、最初の目的地であるペラに到着しました。実は「ペラ」はすでに見ています。なぜなら、ベト・シャンのほぼ向かい側にあるからです。今日は言い換えれば、「デカポリスの旅」と言ってよいでしょう。ペラ、ガダラ、ゲラサ、そして首都アンマン(フィラデルフィア)はすべてデカポリスの中に入っているからです。

デカポリス

 デカポリスの町は、私たちは既に「ベテ・シャン(スキュトポリス)」と、ガリラヤ湖東岸にある「ヒッポス」を見ました。左の地図(Wikipediaより)の紫色の文字の町がデカポリスですが、ヨルダン川の西にあるのはベテ・シャンだけで他はすべて東側にあります。

 上の題名のリンク先にある説明をここに引用します。「古代ギリシャには、都市とその周辺地域が独立した政体をなす「都市国家」が存在していました。広域の領域支配を行う単一国家が存在しない地域においては複数の都市国家同士で同盟を組み、政治体を形成していました。

 1世紀頃のヨルダン、シリア、パレスチナ地域一帯にはローマ帝国時代、地中海東側の拠点となる都市がいくつか点在しており、これらの都市が同盟を組んでおり、それを「デカポリス」と呼んでいました。

 「デカポリス」とはギリシャ語で十の都市国家(デカ:十、ポリス:都市国家)という意味です。おそらく当初は十の都市だったのかもしれませんが、最終的には十以上の都市が加盟しています。(以上引用終わり)」その他、デカポリスの町は交易路の要所を占めていたため、経済的に非常に繁栄し、ギリシヤ・ローマ美術や建築も発達しました。

 そしてこちらのサイトによると、ヘレニズム文化とヘブライ文化の衝突と軋轢が生じていた背景を説明しています。ギリシヤ文化は人間の美を追求にするため、セム系の民族が慣例として行なっていた割礼は猥褻であると受け止められ、公衆浴場から割礼者を排除していた。反対に、ギリシヤでは男色が奨励され、年少者の教育制度の中にも組み込まれていたが、ヘブル人の目には非常に異教的であり汚れた行為として見えたことが書かれています。

 このことをわきまえると、聖書の中に出てくる「デカポリス」が大きな意味を持ちます。イエス様のガリラヤにおける宣教活動が周囲に広まり、デカポリスからも人々がやってきてイエス様について来きました(マタイ4:25)。おそらく、ギリシヤ・ローマ文化にある不道徳から離れたいという改宗者あるいは求道者が含まれていたことでしょう。そして、あのレギオンにとりつかれていた男が、デカポリスの地方一帯でイエスのことを言い広めます(マルコ5:20)。そこで豚を飼育していた、というのもデカポリスであったからこそできたことです。また、ユダヤ人に対しては言い広めることを禁じられていたイエス様も、ご自身がまだその地方に行く時ではないから、彼に福音宣教を託されました。そして、宣教後期には異邦人の地域であるツロにまで行かれ、それからデカポリスにも立ち寄られています(マルコ7:31)。二回目の大勢への給食はデカポリスで行なわれています(同8:1‐10)。

 それでは、初めに訪れた町ペラの説明をします。ここはカナン人の時代(紀元前19世紀またそれ以前)の遺跡も確認できる古代の町です。ここはヨルダン川の向こう側にあるイズレエル平原につながるベテ・シャンの町とその峠があり、南北に走る「王の道」と東西につなぐ道沿いにあり、交易が盛んに行なわれていました。「王の道(民数20:17、21:22)」とは「海沿いの道(イザヤ9:1)」と並ぶ、メソポタミアとエジプトをつなぐ国際幹線道路です。

 右の写真が、ペラの遺跡を下にしたヨルダン渓谷です。右側にベテ・シャンがあります。クリックすれば映像が始まります。

 バビロンがここを破壊しましたが、そしてギリシヤがここを支配した時に、町が再興しました。アレキサンダー大王の誕生した町と言われており、それで「ペラ」と名づけられたとか。そしてローマのポンペイウスがここをハスモン朝から奪取してから、ここがデカポリスの一つとして栄えます。

 そしてこの町について必ず知らなければならないことは、ここが在エルサレムのユダヤ人信者たちが避難した町だということです。第一次ユダヤ人反乱が起こって、ローマ軍がエルサレムを包囲しました。その包囲が一時解除された時、66年、彼らはイエス様の次の警告の言葉をそのまま従ったのです。

しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。(ルカ21:20-21)

 このおかげで、ローマが70年にエルサレムを破壊した時に、信者は誰一人死ななかった、と言われています。この出来事によってユダヤ人共同体が、イエスを信じるユダヤ人との間に亀裂が走ります。アーノルドによるとその亀裂が決定的になったのは、第二次ユダヤ人反乱において、信者らが主導者のバル・コクバをメシヤとすることができず、反乱から手を引いたことによった、ということです。("Hebrew Christianity" Chapter3)

 そこで、ここには、右上の写真のようにローマ・ビザンチン時代の教会の遺跡が残っています。またこのサイトに、さらに詳細の写真が掲載されています。そしてベテ・シャンと同じく、紀元前747年に大地震によって町が破壊されます。

 ずっとイスラエル側からヨルダンを見てきたのですが、ここで反対にヨルダンから見たイスラエルはなんとも言えず不思議な気分でした。ここに15分ぐらいいた後、またすぐにバスに乗りました。

ガダラ(ウンム・カイス)

 私たちはペラの町からさらに北上しました(65号線)。すると険しい上り坂になり、20分ぐらいでしょうか経った後に次の目的地である「ガダラ」に到着しました。現代のアラビア語名は「ウンム・カイス」です。

 ガラダの始まりは、アレキサンダー大王死後のプトレマイオス朝です。初めは軍事基地でしたが、ハスモン朝がここを取って、さらにローマのポンペイウス将軍が紀元前64年にここを奪取しました。ローマ皇帝アウグストスがヘロデ大王にここを与えましたが、ヘロデが死んだ後ローマ帝国のシリア属州に編入されました。それからガダラは急速に発展し、独自の貨幣を造るなどデカポリスの指導的役割を果たしました。

 NETから借用したGoogleの地図をご覧ください。私たちが今、ヨルダン渓谷(Jordan Valley)に近いところにいるだけでなく、ガリラヤ湖の南端に近づいていることがお分かりでしょうか。この地図は北が左になっているので、ガダラ(Gadara)はガリラヤ湖の南東にある町であり、ヤムルク(Yarmuk)川を挟んで北にゴラン高原(Golan Heights)があります。ヤムルク川がヨルダンとイスラエルの国境になっているので、二つの国に分かれていますが、かつてはデカポリス地方としてガリラヤ湖の東岸一帯の一部でした。

 そして同じく、NETにある、もっと縮尺度の小さい衛星写真をご覧ください。ペラ(Pella)の町と同じく、海沿いの道と王の道(King's Highway)をつなぐ東西の道が走っていた要所にあり、交易の中継点として非常に発達しました。

 そしてここは、ヘレニズム・ローマ文化が非常に発達した町になりました。ギリシヤ人の哲学者、詩人、劇作者、諷刺家、雄弁家がいました。メレアグロスメニッポス、ピロデモス(Philodemus)、アスピネス(Aspines)、テオドロス(Theodorus)等がいます。二世紀に最盛期を迎えました。

 そして、ペラ、またスキュポリス(ベテ・シャン)と同じく、キリスト教が入ってきた町です。三世紀にザカリアス(Zacharias)とアルフェイオス(Alpheios)が、皇帝ディオクレティアヌスの手によって殉教しました。四世紀から七世紀に、ビザンチン朝の監督の座がある場所としてキリスト教が栄えました。

 そして他のデカポリスの町と同じように、七・八世紀の大地震によって町が破壊され、それから再建されることはありませんでした。

ガダラの豚

 そしてこの「ガダラ」は聖書に出てくる町ですが、難しいのはそれが、レギオンが豚に入り、湖になだれ込む奇蹟が起こった場所として書かれていることです。

それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。(マタイ9:28)
こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。(マルコ5:1)
こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。(ルカ8:26)」新改訳には引照の部分に「ゲルゲサ」という別名も出ています。

 したがって、「ガダラ」と「ゲラサ」と「ゲルゲサ」という三つの名称が出てきていますが、ガダラもゲラサも湖から遠く離れています。ガダラの町は、確かに「ハオン(Haon)」という港をガリラヤ湖に持っていましたが、そうであっても、レギオンが憑いた豚の群れがヤムルク川を越えて(?)ガリラヤ湖になだれ込まなければならず、地理的に考えられません。そしてゲラサはさらに考えられません。ゲラサは次に見る「ジェラシュ」であり、ガリラヤ湖から南東に50キロ以上も離れているからです!

 ガリラヤ湖に急斜面になっているところは「ゲルゲサ」であり、今の「クルシ」の町です。ガダラは町の名前だけでなく、その地域の名称でもあり、ガダラ地方の中にあった一つの町でした。これが解決法の一つです。そしてゲラサはデカポリスの中で最大級の大都市だったので、そう名づけたのかもしれません。ちょうど、成田空港が「東京」から遠く離れていても「東京国際空港」と言うように、使ったものと考えられます。

遺跡群


(「地球の歩き方」 ヨルダン・シリア・レバノン編2009‐10年より)

 エントランス(入口)から入ると、黒い玄武岩と白い石灰岩が混じった建物が見えてきます。これは、オスマン・トルコ時代に人々が、遺跡の中の石を使って建てたものだそうです。さらに北に進むと右手に西劇場がありますが、これは後で見学します。そしてさらに北には商店街とその上に教会の後のあるバシリカ・テラスがあります。そして、この町の東西を走る「ローマン・ロード」が出てきました。右手には「ニンファエウム」が見えます。これは「ニンフを祭った社」という意味でニンフはギリシヤ・ローマ神話に出てくる妖精です。そして反対側、つまり西側を見ると、はるか遠くまでローマン・ロードが走っているのを見ることができます。この道が、スキュポリスにつながり、そして地中海沿いのカイザリヤにまでつながります。

 私たちは、この道路を横切って北西の方角に歩きました。そこから見えるのは、北西にガリラヤ湖の南端、北にゴラン高原、そしてふもとにヤムルク川の谷が見える景色です。(下の写真をクリックしてください。高画質の写真が出てきます。またここをクリックすれば、映像が始まります。)

 私たちが、昨日の朝までいたマアガン・ホテルもここから見えたので、驚きでした。そして下には、ヤムルク渓谷が見えます。ここに川が流れていて、そしてヨルダン・イスラエルの国境もあります。

 ここに、なんと100キロ近くに及ぶ、石灰岩で作られたローマ時代の地下水道が走っているそうです。ガイドの方も、小さい頃、冒険心からこの中を通って数キロ先まで歩いたそうです。

 そして私たちは、バシリカ・テラスに戻りました。左のリンク先の写真より、もっと近くで見ると下のようになります。手前が、石灰岩の柱廊で囲まれたアトリウム(ローマ古代建築の一つ。多数の居間に囲まれ床は石で舗装された広間。)があり、向こう側の玄武岩の柱廊は、ビザンチン時代の八角形の聖堂がありました。こちらの写真には、反対側から撮った写真があります。


 そして私たちは西劇場に向かいました。

 これまで見た白色の石灰石と異なり、この地方に取れる火山による玄武岩が使われていますね。西劇場と呼ばれているように、観客は西方を向いており、ヨルダン渓谷を眺め、またそこから吹いてくる爽やかな風に当たる事ができたでしょう。この真ん中にローマ神テュケーが座っているそうです。

 下が舞台の写真ですがここで再び、ブルックさんが歌を披露してくれました。写真をクリックしてください。

 そして私たちは、東門から出たと思います。目の前には、現在のウンム・カイスの町が出てきました。

 最後に、この遺跡についてネットで調べていた時に、日本の大学が主催している発掘隊のサイトを見つけました。こちらのブログこちらのプレゼンです。

ゲラサ(ジェラシュ)
 私たちはウンム・カイスから10号線に乗り、東に進み、途中、ヨルダン第三の町であるイルビッドを通り、35号線に乗りました。ここから南下です。そしてウンム・カイスを出てから1時間は経ったことでしょう、山々の間を通って盆地の中に見えてきたのが、大きなジェラシュ遺跡群でした。これまでイスラエル側のベテ・シャンを見て驚いていた私は、五・六倍はあるのではないかと思われるこのローマの町に圧倒されました。(右の地図は「地球の歩き方」 ヨルダン・シリア・レバノン編2009‐10年より)

 南端にある入口を迎えてくれたのは、「ハドリアヌスの凱旋門」でした。ここに、第二次ユダヤ反乱を鎮圧し、イスラエルに「パレスチナ」という名称を付けたローマ皇帝ハドリアヌスが、この町を訪れた時を記念した門です。(彼は人生のほとんどを旅をしてすごしたそうで「飛ぶ皇帝」と呼ばれていたそうです。)そして私たちは競馬・戦車競技場を左目に見ながら(後で見学します)、遺跡入口である「南門」の手前にあるレストランに入りました。ヨルダンでの初めてのの食事です。

 食べ物は、基本的にイスラエル料理とあまり変わりませんでした。ちょっとピントがずれましたが、こんな感じです。違いと言えば、少し油系のものが多いこと、野菜系が若干すくないことでしょうか。そしてどのレストランでも、カレー系のピラフの上に焼いた鶏肉がのっかっているメニューがあったことでした。私は妻の影響を受けているせいか、もっと健康的そうなイスラエル料理の方が好きですが、ルームメイトの男たち二人は濃い味になっているヨルダン料理のほうを気に入ったようです。

 ご飯を食べた後、南門まで行ってガイドさんから説明を受けましたが、まずジェラシュ(ゲラサ)の全般的な説明から始めましょう。

 ジェラシュの歴史はギリシヤ時代から始まります。基本的にウンム・カイスと同じ道を辿っています。セレウコス朝の衰退によって、ハスモン朝がここを取り、それからローマのポンペイウスが紀元前63年にこの町を奪取します。そして、デカポリスの町「ゲラサ」になりました。

 ここは「王の道」沿いにあり、かつペラの町と結ぶ道もつながっていました。この地図を開いてください、まさに交易の分岐点です。

 そして一・二世紀のローマの繁栄に伴い、ゲラサは交易が盛んになり、劇場や神殿が建てられるようになります。皇帝トラヤヌスが106年にヨルダン南部を征服し、ナバテア人の貿易中継都市ペトラを併合してからは、アカバ、ペトラ、東方の都市とも交易路がつながって、著しく栄えるようになりました。ここの建物の多くは、裕福な住民の寄付によるものです。

 一時期衰退しますが、キリスト教が国教化されたビザンチン時代に、ここに数多くの教会が建てられました。(説明している本などには合計15の教会の跡があると書いてありますが、ガイドは16あると言っていました。新しいのがさらに見つかったのでしょう。)いくつかの建物が教会に転用されました。そして、ペルシヤの侵略があり、イスラムが支配し、町は一気に衰退しますが、747年に大地震が起こって町はこれでほぼ壊滅します。ドイツ人の旅行者が1808年にこの町を再発見するまで、この町は忘れ去られていました。

 聖書との関係では、先ほどお話したように「ゲラサ人」という名前が出てくるだけですが、50キロぐらい離れている、ガリラヤ湖東岸のゲルゲサの町にいる人々を、この大きな町にちなんでそう呼んでいた可能性があります。

遺跡群


 これは南門です。これは、ハドリアヌスの凱旋門の前はここが入口だったところです。ガイドによると、当時の隊商は、900-1200頭のらくだを有していたとのこと。町の中にらくだを連れて行くことは当然できず、けれども大量のえさと自分たちのための食糧が必要なので、門の手前の広場は市場であったとのことです。ちょうどエルサレムのダマスカス門のような感じですね。

 そして中に入ると、楕円形の広場フォルム、ローマ古代都市の中心的フォーラム)があります。写真の真ん中で歩いている人が私たちのガイドさんです。下の写真をクリックすれば、映像が始まります。


 そして下の写真は、フォルムから出ている列柱通りです。北北東の方向に走っています。ガイドによると1000本の柱が立っているそうです!


 そして、フォルムの左横に「ゼウス神殿」があります。ヘレニズム時代に作られた元の神殿の跡は手前にありますが、下の写真は166年に建てられたものです。


 さらにその隣に「南劇場」があります。キリスト者を迫害した専制君主のドミティアヌス帝の治世時(81‐96年)に建てられたもので、3000人が収容できます。ここは、夏に有名なアラブ人歌手が来てフェスティバルが行なわれるそうです。そして舞台の前には、小さな楽隊が演奏をしていました。ここでもブルックさんが歌を披露してくれました、下の写真をクリックしてください。

 ところで、この写真の観客席の一番下の部分にと均等に丸い穴が空いていますね。これは音響設備だったそうです。

 上の案内地図を見ると分かりますが、南劇場はちょうど北を向いています。その北の向こうにはアルテミス神殿があり、かつてのヘレニズム時代のゼウス神殿もその方角を向いていたそうです。先の南門もアルテミス神殿を見ることができ、ギリシヤ・ローマ時代の偶像性をよく表しています。そして普通、ローマの町はエルサレムを含むこれまで見てきた町にあったように、東西と南北に走っている中心街が特徴ですが、先ほどの南北の列柱通りは北北東に走っています。NETのサイトによると、川の流れとすでに存在していた居住区に沿って作ったからだそうです。

 この南劇場から見る180度パノラマを含めたパノラマ写真集のサイトを見つけました。非常によく撮れている日本語のサイトです。

 そして南劇場からは、自由行動になりました。ガイドさんは三つのコースを勧めましたが、一番長いのは、ここから北に進み、左手に教会の跡を見ながら、アルテミス神殿のほうに回り、そして列柱通りを歩いて戻って来るというコースです。(下写真。中央からやや左上に見える建物がアルテミス神殿です。)ここまで来て、どうしてこのコースを選ばない訳には行きません!いつもの通り、ルームメイトのライアンと歩き始めました。途中で、オーストラリア人のロバートさんと、イスラエルの宣教師さんと会いましたが、結局このコースを選んだのはこの四人だけでした。写真をクリックすれば、映像が始まります。


 左手にビザンチン時代の教会の跡が出てきました。きれいなモザイクがあるそうです。南から順に聖ゲオルギウス教会、洗礼者ヨハネ教会聖コスマス・ダミアヌス教会があるそうです。途中でまだ発掘作業をしている人々の姿がありました。まだまだ眠っている遺跡がごろごろあるそうです。

 そして「アルテミス神殿」が出てきました。下の写真は裏から撮ったものです。


 そして下の写真が斜め正面から撮ったものです(正面から撮った写真はこちら)。このコリント式柱廊は12メートルあり、それぞれが20-40トンあるそうです。下の支えの部分が恒常的にゆっくり動いているそうで、耐震設計がなされているそうです。

 アルテミス神殿と言えば、使徒の働きにおけるエペソでの暴動を思い出します。NETにあるこちらの写真をご覧ください。エペソの神殿のアルテミスだそうです。まさにカナン人のアシュタロテのギリシヤ版であり、乳房がたくさん付いているグロテスクなものです。このために、銀細工人たちが叫びだしました。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ!(使徒19:28)

 そしてこの反対、東にはアルテミス宮殿への入口がありました。この門から反対にこちらを撮っている写真がこちらにあります。


 これの復元写真が案内図にありました。列柱通りが真ん中に見えますね。そして奥にアルテミス神殿のセラ(神体安置所)があります。


 そして少し南に行くと右側(西側)に「聖テオドルス教会」の跡があります。

 ここには源泉があるそうで、そこから来ているであろう水道の跡がありました。テオドシウス皇帝が紀元386年にこれら異教の建造物を解体して、教会やその他の用途に使うことを許したそうで、手前(南側)にその跡を見ることができます。

 そして下の写真は、南方向を撮ったものです。遠くに南劇場とゼウス神殿が見えます。


 そして私たちは東に向かって、列柱通りに行きました。下の写真は北方向を撮ったものです。「北の四面門」が遠くに見えます。柱が左側にしかありませんが、これは右側は倒れてしまったからです。周りに、倒れたまま残っている遺跡がごろごろ転がっていました。写真をクリックすれば映像が始まります。


 もう時間がないので、これ以上北には行けませんでした。地図によると西浴場や北劇場もあるようです。南を歩くと、しばらくして右手に「ニンファエウム」があります(下写真)。


 そしてこのニンファエムの飾りでしょうか、近くに崩落しています。


 その隣には「大聖堂」の門があります。

 さらに南に行くと、東西のカルドと交差する四面門がありました。太い、背の低い支柱が四つあります。この下の写真は南を向いています。ちなみに東のがこれで、北西の角のがこれです。(遠くから見たい方は、こちらのNETの写真をどうぞ)

 そして、道路の表面に注目してください、少しくぼんでいますね、これは馬車の通過した轍(わだち)です。

 そしてフォルムに戻ってきました。下の写真はフォルムから撮った、ゼウス神殿と右隣の南劇場です。


 そして私たちは、南門をくぐりました。そして右側には、「競馬/戦車競技場」があります。130年に建てられ、1万5千人の観客席があったそうです。今でもヨルダン軍による競技の演技があるそうです。


 いかがでしたでしょうか?イタリア以外では、ここが最大級の古代ローマ都市遺跡らしいです。

ヤボク川
 そして私たちは35号線をさらに南下して、アンマンに向かいます。途中で、ヤボク川を通りました。見ての通りバスの中から撮ったので、写りはよくありません。題名のリンク先Bibleplaces.comを見れば、ヤコブの旅に合わせた写真集を見ることができます。

しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。・・・ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。(創世32:22,24)

 この地域は非常に山々の勾配が険しいので(創世記31:21参照。「山地」となっている。)、ヤコブだけでなくアブラハムも、ヨルダン川を渡ってシェケムに行った時に、ヤボク川の谷を渡って下っていったと考えられます。

 このヤコブと神の使いの格闘の出来事の他には、ヤボク川は、モーセ率いるイスラエルがエモリ人の王シオンを倒し、モアブ人との国境であるアルノン川(明日訪れます)からこのヤボク川まで支配していた所を占領しました。その際、ヤボク川はアモン人との国境にもなりました(民数21:24)。実際、ヤボク川の上流は、アモン人の首都であるラバテ・アモン(あるいは「ラバ」、現代のヨルダンの首都アンマン)にまでつながっています。

ギルアデの聖書的地位

 デカポリスの旅もすばらしいですが、ギルアデの地そのものをもっと楽しめればなあ、という気持ちがありました。すでに6月1日のヨルダン渓谷の旅で、イスラエル側からこの地域を遠目に眺めていました。そして今日は、実際にギルアデの地を走ってきたのです。

 Bibleplaces.comには、「下ギルアデ」と「上ギルアデ」の二つのページがあります。そして、アーノルドの"A Study Guide to Israel: Historical and Geographical"には、聖書的出来事の項目がなんと36個もあります。せっかくなので列挙してみます。

1) 名前は「凸凹した地」から来ている。
2) 北はヤムルク川から南はヤボク川まで
3) ラバンからヤコブが逃れた地域(創世31:21,23,25)
4) ヨセフを買った商人はここから来ている(創世37:25)
5) ヨルダン川の東に定着した部族の地域(民数32:10-42,申命2:36,3:10,15-16,4:43,ヨシュア12:1-6,13:11,22:9,13,15,32)
6) マナセ族に与えられた地の一部(民数32:39-40,ヨシュア13:31,17:1-6,1歴代27:21,詩篇60:7,108:8)
7) ガド族も一部が与えられた(民数32:33-36,ヨシュア13:24-28,1歴代5:14-16,6:80)
8) 逃れの町、ラモテの地域(ヨシュア20:8,21:38)
9) ルベン族もここに定着(1歴代5:1-10)
10) ヤイルの家族が定着(1歴代2:21-23)
11) モーセが見た地域の一部(申命34:1)
12) バラクのカナン人に対する反乱に参加せず(士師5:17)
13) 恐れた者がギデオンから離れて行った所(士師7:3)
14) 士師ヤイルの出身地(士師10:3‐5)
15) 士師エフタの出身地(士師11:1,12:7)
16) エフライムがエフタによって打ち負かされた所(士師12:4‐7)
17) ベニヤミン族に対する戦争に参加(士師20:1)
18) 対ペリシテ戦における、サウルとヨナタンの行程の一部(1サムエル13:7)
19) サウルの死体、ここに持ってこられて火葬、また埋葬(1サムエル31:11‐13)
20) イシュ・ボシェテが北イスラエルをここから支配(2サムエル2:8‐10)
21) ダビデとアブシャロムの戦場(2サムエル17:24‐19:10)
22) バルジライの出身地(2サムエル17:27,19:31,1列王2:7,エズラ2:61,ネヘミヤ7:63)
23) ダビデによる人口調査に含まれる(2サムエル24:6)
24) ダビデの勇士らの出身地(1歴代26:31)
25) 北の部分は、ソロモンが守護を置いた第六管轄地(1列王4:13)
26) 南の部分は、第十二管轄地(1列王4:19)
27) 預言者エリヤの故郷(1列王17:1)
28) アハブが、ラモテ・ギルアデで殺される(1列王22:1‐36)
29) エフーがイスラエル王の油注ぎを受ける(2列王9:1‐15)
30) シリヤの王ハザエルが得ふーからこの地域を削り取る(2列王10:32‐33)
31) ペカが王ペカフヤに対して起こした謀反に参加(2列王15:25)
32) ティグラテ・ピレセル三世が占領(2列王15:29)
33) バルム剤で有名(エレミヤ8:22,46:11)
34) ギルアデの山羊(雅歌4:1,6:5)
35) 預言書:エレミヤ22:6,55:19、エゼキエル47:18、ホセア6:8,12:11、アモス1:3,13、オバデヤ19、ミカ7:14、ゼカリヤ10:10
36) 新約時代は「ペレヤ」の地域

アンマン(聖書名:「ラモテ・アモン」「ラバ」、デカポリス名「フィラデルフィア」)

 そして私たちは、夕方にアンマンに到着しました。アンマンそのものが、聖書のアモン人の首都ラモテ・アモン(又はラバ)(申命記3:11、2サムエル11:1‐25,12:26‐31)であり、かつギリシヤ・ローマ時代に栄えたデカポリスの町「フィラデルフィア」なので、見所は結構たくさんあります。特に「ジャバル・エル・カラ」という丘からは市内を一望でき、かつそこにアンマン城塞の跡があるそうです。そのローマ都市の跡のところに、ラモテ・アモンの遺跡も眠っているそうです。

 その後の歴史は、他のデカポリスと似ており、ビザンチン時代における教会建設、イスラムの支配、それ以降は廃墟と化し、オスマン・トルコがコーカサス人をこの地域に移住させ、そしてハシメテ朝のアブドラ一世が特に誰も住んでいなかった所に列車を拠点として支配を始めてから、発展が始まったそうです。そしてアンマンの人口は、48年(独立戦争)から67年(六日戦争)までの間の大量のパレスチナ人難民の流入、そして第一次、第二次湾岸戦争によるイラク人難民の流入によって膨大に増えたそうです。西岸のパレスチナ人は元々トランスヨルダンが併合していたので国籍を有しており、そしてイラク人難民の多くは富裕層であるため、これら元難民の活躍が、かえってアンマンの活性化を助けているとの事。アラブ諸国の中でも、治安の良い町だという説明が旅行ガイドの本にありました。

ホテル内で

 けれども私たちは、町に出る気力はもうなくなっており、時間も夕食に迫っていました。ホテルはまずますの質で、ルームメイトにロンさんというおじさんが加わりました。マイケルのルームメイトだったのですが、マイケルはイスラエルだけのオプションを取っていたので既にアメリカに帰国しています。それでヨルダン旅行はライアンと私とロンの三人で多くの時間を過ごしました。

 このおかげでホテルの部屋にまつわる良い思い出ができました。彼らはアメリカ人、私は日本人の「2対1」で、室内の温度の競争で劣勢に立ってしまったことです。私は必死に抵抗しましたが、一晩だけ、ペトラ入口で宿泊したホテルでは送風(?)しか出ず、私が勝ちました!

 そしてヨルダンのホテルでの特徴の一つはトイレにあります。便器が二つあるのです!一つは普通の大小便用ですが、もう一つは用を足した後の「洗浄用」です。紙で拭くという習慣は世界を眺めると、実は意外に少ないんですよね。

 食事は豪華でした。ただ、飲み物が有料なのが玉に傷です。私はこっそり、袋に入れたペットボトルを持っていって、それで喉をいやしました。

講義

 イスラエルと違い、ヨルダンのホテルでは会議用の部屋がありませんでした。この日はロビーで行ないましたが、結婚式の音楽行進が突然来たり、向かいのバーのカウンターの人が大きな音を立てて、グラスを片付けていたり、かなり大変でした。

 そして講義の中では、これまでもそうでしたが、アーノルド自身が書き下ろした地図帳を概観しました。アブラハムの時代以前から、旧約・新約時代を経て、聖書後のイスラエル、近現代のイスラエル、そして終末のイスラエルにまで至る地図とその説明が記されています。非常によくまとめられていて、皆から出版すればよいのにという声が上がっていました。

 この日は列王記の時代でしたがエリヤの行程の説明している時、「一つの皮肉がある」と言って、エリヤがシドンで一人の女をイスラエルのまことの神へ導いたことを話しました。当時、イスラエルは、このシドンから来た女が導入したバアルを拝んでいたのです。イスラエル人がシドンの神を拝み、シドン人がイスラエルの神をあがめたわけです。私はガリラヤで日本のことを話したことを思い出し、「ちょうど、多くのイスラエル人とここにいる日本人みたいですね。」と言いました。あまりにも数多くのイスラエル人の若者が仏教や東洋神秘にあこがれている中で、生まれたときから寺や神社に囲まれて育った日本人が、イスラエルのまことの神に出会っているのですから、皮肉ですね。

 明日は、ヨルダン中部の旅です。初めに、モーセが約束の地を見たネボ山に向かいます!