2019年トルコ研修旅行記 4月6日 その1
カッパドキア

1.ウチヒサル
2.ギョレメ・パノラマ
3.ギョレメ屋外博物館
4.オズコナック地下都市
5.パシャバー地区


(4.と5.は「その2」へ)


気球がたくさん浮かんでいる早朝

 前日の旅行記で書きましたように、多くの旅行仲間は早朝の気球ツアーに参加しに行きました。残された、4分の1ぐらいの仲間はゆっくりと朝を過ごします。こちらが自分たちの部屋から撮った光景です。


 帰ってきた仲間が、あまりにすばらしくて興奮が隠せないでいましたが、ユーチューブ動画で「カッパドキア 気球」と入れて検索したら、どんどん、すごい景色の動画が見られます。奇岩群もさることながら、気球が至るところに空中に留まっており、とても不思議な光景です。

カッパドキアについて
カッパドキアのトラベルサイトカパドキアの歴史高画質の動画

 カッパドキアは、言わずと知れた、トルコにおける最大の観光地の一つ。ギョレメ国立公園は、世界遺産に指定されています。これは、アナトリア高原の中央部に広がる大奇岩地帯ですが、自然の景観だけがそこを特異にしているのではありません。

①奇岩の不思議な景観
②奇岩の中に残された膨大なキリスト教壁画
③地下何十㍍にも掘り下げられた地下都市

 この三つが主な特徴で、私たちキリスト者にとって歴史的に非常に重要になるのです。キリスト教の壁画は、ローマ公認後のキリスト教で修道院が大きく広まって遺されたものだし、数々の掘られた洞窟や地下都市は、古代ローマによる迫害を逃れたキリスト者たち、また、ビザンチン時代に、イスラム勢力からの迫害を信者たちが逃れるために住み始めたところで、貴重な遺跡です!

 そして元来、カッパドキアは新約聖書の「ガラテヤ地方」の一部であり、聖書の舞台なのです。

 カッパドキアは、火山から噴火した溶岩が大地、川、湖の上に堆積して形成されたものです。火山灰が押し固められてできた凝灰岩が主な岩であり、後に風や水によって浸食を受けます。奇岩は、「妖精の煙突」とも呼ばれるのですが、その凝灰岩が侵食されるも、その上にある、より硬い岩は残されるので、それで帽子のように凝灰岩の上に乗っかったままになっています。その浸食によって、妖精の煙突は、帽子型、円錐型、キノコ型(上の写真)、円柱型、とんがり型などのような形があります。

 そして、この凝灰岩がとても柔らかいので、現地の人たちは、掘っていくことによって家を造ることができる事が分かりました。そして、キリスト者たちは教会や集会所にし、また修道院にしていったということです。今でも、岩を掘ったものを家屋にしているし、洞窟ホテルまでがあります。こういった背景があっての、カッパドキアです。


1.ウチヒサル

ホテルからウチヒサル城(Googleマップ

 ホテルから第一の目的地、ウチヒサル城はグーグル地図で見る通り、一本道でものの5分です。



 ウチサルは、カッパドキアで最も高い地点にあるそうです。そのてっぺんにあるのが、写真にあるウチサル城です。



 ウチヒサルは、この、巨大な岩山をくり抜いた城塞を中心に広がる村で、「尖った砦」という意味がトルコ語であります。ここの始まりは、古代ローマ後期、ギリシア人のキリスト者たちが帝国の迫害から逃れるために隠れ住んだことに始まります。城の中には、浸食が進んでいるも住居の跡がくっきりと残されています。表面には無数の小さい穴がりますが、鳩が暮らすための巣穴であり、「鳩の家」と呼ばれています。それは、鳩の糞を集めて、村の周囲のぶどう畑の肥料として使って、制限のある生活の中での知恵だったそうです。そして、岩を穿って造られた部屋や教会、それらをつなぐトンネルや階段が入りんでいて、迷路のようになっているのです。

 城に上る時間がなかったのと、その時はまさか、ここが私たちの信仰の先輩が迫害から免れて暮らしていたところなど知らなかったので、その景観だけを眺めて終えてしまいました。

 ユーチューブ動画には、中身をよく見せているものがいくつか上がっています。→ 動画1動画2
 また、全景を見るためのドローン撮影の動画もありました。→ 動画

古代ローマ後期のキリスト教迫害

 313年の、コンスタンティヌスによるミラノ勅令によってキリスト教が公認されて、迫害がとまったことを、イスタンブールに訪問した時の旅行記で詳しく書きましたが、それまでは、ローマでのキリスト者に対する迫害は断続的に起こりました。四世紀に入ると最も激しい迫害となったそうです。「最後の大迫害」と呼ばれる、時のディオクレティアヌ帝による迫害を分かりやすく、短く説明している記事を見つけましたので、ぜひ読んでみてください。

5分でわかる「ディオクレティアヌス」
不安定な軍人皇帝時代を終結させた皇帝を歴史オタクがわかりやすく解説

(もっと詳しく知りたい方は → 「ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰 前篇」「後篇
                → 「ローマ帝国における大迫害について」)

 ローマは、使徒の働きに見られるように、ユダヤ教にも、またイエスを信じる者たちにも、意図的な、組織的な迫害は加えていませんでした。迫害される時は、主にユダヤ教側からのものであり、また、ユダヤ人と一緒くたにされた時です。しかし皇帝ネロの時からキリスト者に対する組織的な迫害が始まり、その時にパウロやペテロが殉教します。黙示録の七つの教会に対する迫害の背景となっているのは、ドミティアヌス帝であり、皇帝を「主」と呼ばないといけない慣習をその時に作りました。

 そして、最後の大迫害を起こしたディオクレティアヌス帝は、自分自身をローマの主神ユピテルの化身として神として崇める皇帝礼拝をローマ人に強要しました。キリスト者はそれを拒んだので、カタコンベ(地下墓所)などに隠れて、自分たちの信仰を守ろうとしました。これが、ウチヒサルや地下都市など、隠れて生きていく生活の始まりです。


2.ギョレメ・パノラマ
 (ギョレメの解説付き動画

ウチヒサル城からギョレメ・パノラマへ(グーグル地図

 ウチヒサルから北東に、隣町ギョレメに移動します。とても近い距離で、車で10分もかからない距離です。ここで、ギョレメ国立公園の谷にある、白いなだらかな岩肌の波が一面に広がっている姿を見ることができ、絶景でした。



 動画で撮影しましたが、これもまたその壮観を移し出せていないようです。(注:「ウチヒサル」だと私が解説していますが、間違いです。)



 次の、高画質のドローン撮影、日没時のギョレメの谷の撮影がとてもきれいです。→ 動画

 ここは、やはりハイキングだいいだろうな、と思いましたら、やはり、ハイキング・ルートがしっかり確立しているようですね。

 ここで初めて、日本からの旅行団体のバスを見ました。日本語の表示があったので、ジェイさんが、日本語の仕組みを教えてくれと言うので、「同じ文字を、三つの文字、ひらがな、カタカナ、漢字で書くことができ、用途によって使い分ける。」と言ったら、本当に、信じられない、複雑だという反応をしていました。私たちにとって当たり前ですが、そういえば、世界のほとんどの言語が、文字は一種類しかないですね。


3.ギョレメ屋外博物館

ギョレメ・パノラマから屋外(野外)博物館へ(グーグル地図

 パノラマを観た後、このギョレメの不思議な岩窟群の只中に、キリスト教史の千年以上前の姿がそのまま遺っている、「ギョレメ屋外博物館」に行きます。向かう途中で、ディレクさんが概要を紹介していきます。



 「カッパドキア」という名は、「麗しい馬」という意味です。ヒッタイト人はこの地域にも住んでいましたが、彼らは馬の売買人でもありました。彼らは、戦力として非常に効果的な戦車を発明しました。なので、カッパドキアでは馬乗りもアトラクションの一つです。そして、屋外博物館の手前に、トカリ教会という、保存されているうち最も大きな教会があり、屋外博物館への入場券で入れるのでなくさないように、との説明を受けています。フレスコ画ですぐれているので、団体の入場やガイドの説明を禁じているのですが、人間の息で損傷させてしまうからとのこと。

 そして5:05辺りから、入口での説明です。「僧と尼僧の修道院」があります。目の前にある岩窟がコンクリートで補強されていますが、侵食の問題があります。カッパドキアはここの周囲の100㌔に渡って広がっていますが、ここはその一つで、「コラマ修道院」と言います(「コラマ(Korama)」はギョレメの旧名)。

 ここは、四世紀の始まりから活発であった修道院です。つまり、ローマがキリスト教を公認する前後から活発であったところです。エジプトにも修道院がありましたが、ここは、聖バジル(カイサリアのバシレイオス)の管轄にありました。初代教会の最も重要な教会指導者の一人です。カッパドキアのカイサリア出身です。(カイサリアといっても、イスラエルのそれではなく、カッパドキアの西にあるカイセリという町です。今は、空港があって、そこから観光客はカッパドキアに行きます。) 

 聖バジルは、カッパドキアの裕福なキリスト教徒の家庭に生まれました。コンスタンティノープルとアテナイで学び、故郷に戻って来て、それまで個々人が世間から退いて隠者生活をしていたのですが、それはよくないとしました。互助生活をし、孤児を助けないといけない。隠者であれば他者の寄贈に依存しなければいけないが、それはいけないことだ。共同生活をすれば、自活でき、分かち合うこともできる。そこで、今、周囲にある岩窟の部屋は共同体生活をした跡になります。(参考記事

 ここはガラテヤ地方ですが、ここで修道生活が形成されました。聖バジルは富や地位を捨てて、このローマの片田舎に修道院を始めたのです。パウロがここガラテヤに来た時、ここは田舎でした、貿易するところではありません。貧素な農耕社会でした。ビザンチン時代に入り、私たちがカーリエ教会で見たように優雅なフレスコ画がありますが、その時にもここは辺境の地でした。ここのフレスコ画は朴訥です。現在も、トルコではここは田舎です。

 ただ、入口の手前にあったトカリ教会(ディレクさんは「大聖堂」教会と言っています)は、すぐれたフレスコ画がありますが、これは都会から来た芸術家が描いたに違いありません。裕福な人がここに、都市にいる芸術家を招いたのでしょう。そこにある聖母マリアとキリストのフレスコ画にディレクさんは気に入っているそうです。

 そしてさらに奥に入っていきましたが(12:50)、その途中でディレクさんに、キリスト教公認前に修道生活があったのか?と尋ねました。「(逃げてきた人々)が、生活の手段として岩窟に住んでいたが、それは同時に隠者のような修道だった。公認されてから、組織化がされていった。聖バジルがその大きな役割を果たした。」との回答でした。公認前から修道生活の動きがあったというのが、私にとって新たな情報でした。

修道院の生活参考記事

 ところで、私はプロテスタントの教会の信者なので、修道院というものをほとんど知らずに教会生活を送っていましたが、ギョレメに来て、その発祥を知ることとなりました。ウィキペディアの説明にも、「古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒が居た。」とあり、ディレクさんの説明どおりです。そして古代ローマ末期に、集団で修道生活を共にするという動きについても言及しています。「末期」とは、つまりローマがキリスト教を公認する313年の直前の時期です。

 そして、「キリスト教の"はじまり"」によると、その公認と国教化によって、霊的権威が政治権威になっていき、教会の世俗化が起こってきました。そこで純粋に霊的権威を求める動きが起こって、修道制が起こって行ったそうです。エジプトのアレキサンドリアのアタナシオスが有名です。そうした流れの中では、指導にあたった修道士や修道女、また迫害を潜り抜けた人々が霊的権威を帯びるようになり、霊的により豊かな賜物を受けた人々が、権威ある者とされ、それが聖人崇敬にもつながっていくそうです。教会の権威が複雑化していった、と著者は述べています。(参考記事

 そして、カッパドキアで買ったガイドブックによると、既に二世紀末にいくつかの重要なキリスト教社会が存在していて、二つの司教区があり、一つはカイセリ(カイサリア)、もう一つがマラティアだったそうです。そして三世紀には、信仰と思想の繁栄する文化的に豊かな所へと発展させていて、ローマによる迫害が起こる時は、地下都市などの隠れ場に一時避難したようです。(参考資料)そして四世紀に聖バジルが出てきます。

 このカッパドキアの、このギョレメを含む岩窟教会の多くは10世紀のものらしいです。8世紀頃のビザンチン時代、、迫害者は、ローマではなくイスラム教のトルコ人であり、彼らの聖像破壊を逃れて、地下都市や岩窟の中で隠れ住むなどして、この一帯にキリスト教徒が急増したらしいです。(参考記事

バシレイオスの貢献

 そして、聖バジル、すなわちカイサリアのバシレイオスについても初めて知りました。上の本によると、彼は「四世紀における最も重要な神学者、「カッパドキアの三教父」の一人に数えられる」とのこと。使徒たちがいなくなり、その教えを語り継ぐなかで、聖書と伝承の問題が出て来ました。伝承は信仰の基準として重要な役割を果たしていった一方、本当に使徒たちにさかのぼることができるのか?と疑われる怪しいものもあったそうです。そこで、バシレイオスは、「聖書の証言、聖書の意図に沿うものでなければならない。」としたそうです。その他、三位一体論を擁護し、異端への論駁、また、正教会の奉神礼文の整備などを行ったとのこと。


岩窟教会の訪問 (参考記事1参考記事2



 ディレクさんが、岩窟教会群が円のように周りを囲んでいるその真ん中に立って、これから訪問する順番を紹介しました。動画を見ていただくと分かりますが、ほとんど中身を撮影していません。フレスコ画のある教会内部は撮影禁止となっていたからです。撮影できるのは、フレスコ画のないところで、後半部分に出てきます。仲間で一つの部屋に入って、一緒に賛美したのが思い出となりました。

 そこで、ネットで探した地図と動画、また写真の記事へのリンクで説明していきたいと思います。


 数年前までは内部を撮影できたのでしょう、ユーチューブ動画や記事は内部もうつっています。



 (最近のもので、高画質で撮影されたものがありました。歩いた準備がよく分かります。→ 動画1動画2
  ドローン撮影で、全体がよくわかります。→ 動画

 上の地図に従いますと、1と2は入口付近にあるもので、3から9のほとんどを見ました。私たちも反時計回りで、高低の低いところから順序にしたがって見て行ったと思います。

3.エルマル(りんご)教会 (グーグル写真

 1050年辺りに建てられた、内部が十字になっている正方形の教会です。写真を見ていただくと分かるように、屋外博物館の中でも芸術的に優れているものですが、聖書の話、その神学がとても優れているものだということ。

・ 新約聖書の話の下に、それを解釈する旧約聖書の話を並置しているそうです。ラザロのよみがえりの下に、ダニエルの三人の友人が、燃える火の炉から救われる話が描かれています。
・ バプテスマと高い山での変貌が並んで描かれていますが、イエスの神性を強調しています。
・ イエスの降誕(受肉)と死(贖罪)が並んで描かれていますが、これが神の救いの土台をなすものです。
・ 中心のアーチの下に八人の旧約の預言者がいて、それぞれに神学的意味があります。
・ その他、エルサレム入城、最後の晩餐、十字架、埋葬などが描かれています。

4.聖バルバラ(バーバラ)教会 (グーグル写真

 エルマル教会の裏にあります。エルマルに比べると、聖バルバラのは、ずいぶんと素朴な描写ですね。これは、漆喰を使っているかそうでないかの違いだそうです。ビザンチン時代の初期のスタイルのようで、岩に直接、植物の根から出した染料によって描いていったということ。聖バルバラ教会は、赤い塗料で描いています。

 聖バルバラ、彼女は正教会やカトリックでは、迫害を受け、殉教した女性として崇敬されているようです。まだ禁教であったローマ時代、キリスト者ではない父によって、過保護のゆえ隔離されました。その時に信仰に目覚めるも、そのことが父に知られ、拷問を受け、死に至ったとのこと。

 描かれているのは幾何学的模様と、動物が多いです。けれども、どうも何の動物なのかが分からない、不思議な姿をしています。十字架もありますが、何とも抽象的。人物としては、イエスの肖像の他、聖バルバラがおり、馬上で竜と戦う聖ゲオルギオスと聖テオドロがいます。

5.ユランル(聖オノフェリウス)教会(別名:蛇の教会)

 壁画で描かれている教会です。聖オノフェリウスが描かれているのでそう呼ばれています。オノフェリウス(Onuphrius)は、4-5世紀に生きていたエジプトの隠者だそうです。砂漠の洞窟で独りで生活し、灼熱の中でも耐え忍び、御使いが奇跡的にパンを与え、神に全き心でより頼んだという話です。彼の着ているものは、草や葉のみであったということで半裸の姿で描かれています。

 別名「蛇の教会」と呼ばれますが、聖バルバラ教会と同じく、竜と戦う聖ゲオリギオスと聖テオドロが描かれているからです。(写真)興味深いことに、彼らの左にいる青年のように見える人はオネシモです。そう、ピレモンへの手紙で、主人ピレモンから逃げた奴隷で、パウロのところにいる時に信仰を持ったので、パウロがその損害をピレモンに支払ったという背景ですね。彼が白い十字架を持っていますが、殉教したことを意味しているそうです。

 その他、コンスタンティヌスと母のヘレン、金銭的支援をする人が隣にいるイエス、イエスの弟子の一人トマス、そして、このギョレメの修道院を導いた聖バジルなどが描かれています。

6.貯蔵庫・台所・食堂 (参考記事

 ここは、フレスコ画や壁画がないので、撮影できました。聖バジルの始めた修道院にとって、共同生活こそが中心的存在です。食糧の貯蔵庫があり、今も周辺の村で使われている「タンドュル」と呼ばれる釜戸竈もあります。そして、共に食事にあずかる愛餐は極めて重要でした。イエス様が弟子たちと共に食事にあずかったのに、倣っていました。写真は、その食卓の跡です。

 そして、そのいくつかの部屋に入った一つで、旅行仲間が何人か集まっていたので、動画の最後に移っていたように、いっしょにそこで賛美しました。私たちも信仰の仲間、共同で賛美して、修道院の人々とちょっと同じことをしたんですね!

 ここら辺で、階段を上がって岩窟をいくつか見ましたが(写真)、そこから見えるギョレメ屋外博物館の風景もきれい。



7.カランルク教会(暗闇教会) (動画グーグル写真

 この教会は、見ませんでした。中に入るには余計にさらに支払わないといけないからで、ディレクさんは、「トカリ教会できれいなフレスコ画を見られるので、わざわざ支払う必要はないと思う。」と前もって言っていました。なので、見ていないけれども、ネットや書籍の情報だけで説明をしていきます。

 暗闇教会は、この修道院の中で主要な教会の一つだったそうです。入口のファサード(建物正面部)もこんな感じで残っています。礼拝堂の手前にあるナルテックスには、キリストの昇天が描かれています。アブラハムとサラが三人の御使いをもてなしている絵もあるとか。さらに、寄贈者の絵も描かれていますが、イエス様の御足にひれ伏しているそうです。

 ナルテックスの向かいには墓室があるそうですが、そう、岩窟教会の多くには墓室がありますね。(写真)元々、ローマ時代にはギョレメはネクロポリス(巨大な墓地)であったし、ヨルダン旅行でペトラを訪問した時、ペトラも墓地の集合体のような都市なのですが、ガイドさんから、「今も家族の墓が自分の家の中にあったりする」という説明を受けていました。いつまでも一緒にいたいから、という説明でした。日本では家の中に仏壇があり、キリスト者としてはそれにお祈りやお供え物をしたら偶像礼拝になるので避けますが、死んだ人であっても家族としていっしょにいたいという思いは、昔も今も同じなんだなと思います。

 そして礼拝堂の作りは、ハギア・ソフィアで見たような小宇宙になっているそうです。内部が十字になっている正方形になっていて、十字架の肢は交差型アーチの天井、四本の円柱、三つのアプスがあります。天上に全能者ハリストス(キリスト)がドームに描かれ、その横のドームに御使いがいます。壁の上部にはイエスの生涯が、下部には旧約時代の預言者が描かれています。巻物が開かれていて、メシアが、ろばに乗って来られるゼカリヤの預言が、イエス様のエルサレム入城のほうを向いているなど工夫がこらされています。当時の信者たちが、キリストの至上性、そして旧約預言とのつながりをとても意識していたことが分かります。
 
 アプスの一つにデイシスがありますが、カッパドキアの教会で最も多く描かれているものらしいです。キリストのかたわらにマリアがいて、もう一方にはバプテスマのヨハネがいるものです。他のアプスにはアブラハムもいて、世界の諸国を祝福する姿があります。

 そして、キリストの生涯は詳しく描かれています。降誕、ベツレヘムへの旅、バプテスマ、高い山での変貌、ラザロのよみがえりが背後の壁にあり、他の壁には空の墓、十字架、復活が描かれているとのこと。最後の晩餐もありますが、ダビンチの西洋化されたのと違って、きちんと低いテーブルのところで横たわっていますね。半円筒天井には、東方博士たち、エルサレム入城、ユダの裏切りもあるそうです。りんご教会と同じように、降誕と十字架が相対して描かれていて、神の救いを表す大事な聖像となっています。また、ラザロのよみがえりと空の墓も最も近く得画れていて、死者の復活の希望も強調されていること。

 私にとって新鮮なのは、正教会ではキリストの地獄降りはとても強調されていること(右写真)。カーリエ教会にあった「復活」は、最も有名なものらしいです。これは、ペテロ第一4章6節にある、主が陰府に下られたところから来ていて、キリストが捕らわれている者たちを解放し、そして復活されたことを強調しています。

 四福音書の著者たちも描かれているそうです。彼らが写本をしている姿が描かれていて、カッパドキアで聖書の写本をいかに再び写本していったのかもうかがい知ることができるとのこと。ともかくも、当時の信仰者たちは、今の私たちのように聖書を書籍として手にしているわけではなく、一部の人々のみが写本をにしていて、ゆえに、こうやってまるで視聴覚室のようにして聖画で聖書の世界を描いていたんだろうなと想像できます。

 最後に「暗闇教会」と呼ばれている理由は、暗いからなのだそうです。暗かったので、フレスコ画がよく保存されているという効果があったそうです。

8.聖カタリナ教会 (グーグル写真
 
 暗闇教会からサンダル教会に行く途中にあるのですが、見逃されがちな岩窟教会だとのこと。それもそのはず、こちらの写真にあるファサードを見るように、かなり水の浸食があり、損傷が激しいのだとこと。内部の写真を見ても、よく分かります。

 壁画は少なく、赤い染料で直接、岩に描くタイプです。左写真は身廊にあるものですが、右下にある損壊してしまった絵が、「聖カタリナ」のものだそうです。エジプトのアレクサンドリアの知事の娘で、殉教したということで、カトリックでも正教会でも聖人となっているようです。聖カタリナと言えば有名なのは、シナイ山にある「聖カタリナ修道院」ですね。

 その他、ここでは聖書の人物よりも、聖人とされている人々が数多く描かれている感じです。

9.チャンクル(サンダル)教会 (グーグル写真

 ここの教会もちゃんと行きました(証拠として残している写真)。暗闇教会やりんご教会と同じように、精巧なフレスコ画のある教会です。サンダルという名は、イエス様の昇天を描いた画の下に、足跡を付けているからということ。ここにも、しっかりと保存された食卓があります。

 そして二階に教会堂がありますが、フレスコ画は精巧ですが、構造自体はかなり素人が作ったであろうとのこと。キリストの生涯が12場面、出てきます。降誕と東方博士、変貌、十字架、ユダの裏切り、エルサレム入城、それから復活と昇天です。それから、バプテスマ、アブラハムのもてなし、ラザロのよみがえり、空の墓の女たちです。それから、イエス様が御座におられる姿で、黙示録5章の、巻物を手にしておられる姿もあります。

 そしてカッパドキアの教会で珍しいのは、イエス様の十字架を背負ったクレネ人シモンがここでは描かれていることです。


トルコ・コーヒーで一服:砂糖の「普通」は「オルタ」で!

 諸教会跡を一周し、出場してトカリ教会に行きますが、出て行く前にずっと飲みたかった、トルコ・コーヒーをお土産コーナーのところで飲みました。ディレクさんが、トルコ・コーヒーの作り方、また注文の仕方を説明している時に、砂糖の量の調節ができるのですが、普通の量にしてほしいとき、「オルタ」というそうです。私がそのままディレクさんの言ったとおりに発音すると、店員の人はちょっと驚いた表情で、その後すぐに笑顔になり、「はい、わかりました」という感じでコーヒーを作ってくれます。ロクムもついて、おいしいし、ほんとほっとひと息できました。



 ディレクさんによると、私の発音がきれいなんだとか。そのまま真似しているというのがあるのですが、トルコ語は日本語や韓国語と同じ文法なので、日本語話者にとってはとても習いやすい言語だとのこと。


トカリ(留め金)教会 (高画質写真集

 ギョレメにおける最大の教会が、トカリ(「留め金」の意味)教会です。壁画の芸術性もさることながら、神学的にも優れたものであります。留め金教会は、実は四つの教会と一つの隠者の部屋によって成り立っています。古代、最も人気のあった教会の一つでありました。非常に優れた高精度のビデオを見つけましたので、まず、下に貼り付けます。

Cappadocia, Goreme - Buckle Church (Тоkalı Kilise) from Samuel Magal on Vimeo.

 この教会は、800年代に、隠者の修道僧の住居として始まったようです。そこの穴を見学すると倉庫のように見えるのですが、実は住居の跡のようになっていて、そこを中心にして旧教会と新教会が造られています。窓になっている穴があって、旧教会を覗くことができたそうです。もしかしたら、裕福な人が隠者の祈りによる癒やしに感謝して資金を出して作ったのではないか?と思われるそうです。

 そして旧トカリは、915年頃に建てられました。(上のビデオでは06:50辺りから)バレル・ヴォールト (Barrel vault) の作りで、イエスの生涯が順番に描かれています。天井には、右側から、受胎告知、ベツレヘムへの旅、降誕。左側には、東方博士、幼児の殺害、エジプト逃亡など。中間には、右側に、エリサベツを探すマリア、バプテスマのヨハネの召し、ヨハネの説教、ヨハネのイエス洗礼、主の洗礼、カナの婚礼であり、左側にカナの奇跡、使徒の召命、パンの奇跡、盲人の癒し、ラザロのよみがえり。下の部分には、右側にエルサレム入城、最後の晩餐、ユダの裏切り、イエスの審判、左側に十字架をかつぐシモン、十字架、アリマタヤのヨセフ、埋葬、空の墓、そして復活です。この建物の中だけで、見事のキリストの生涯を詳細に描いています!その他、旧約の預言者たちが描かれ、そして聖人たちの姿も描かれています。

 そして低教会があります。(おそらくビデオの06:40辺り)ここは、墓室として使われていました。

 そして新トカリが、960年頃に造られます。初めに、旧トカリのアプスの部分を壊さなければならず、そして教会堂を高価な青の顔料と金を使っており、やはり、壁に神学的に非常に精巧な描写が行われています。コンスタンティノープルから、優秀な技師がこの内装の事業を手かげたのでしょう。なぜ、新しい教会を建てる必要があったのか?旧教会では、人々が多く巡礼し、混雑していたのではないか?ということです。


 他の岩窟教会に比べたら非常に広い空間です。バレル・ヴォールトが高さ8㍍にもおよび、身廊は長さ10㍍、幅5㍍あります。ナルテックスとして、旧トカリを改造しました。今は、この教会に入る時に、旧トカリが入口になっているのは、そのためです。青地の背景に、キリストの生涯が40ものエピソードで描かれています。

 中央のアプスには、イエス様の十字架の様子が詳しく描かれており、イエスが神の子であるという告白を三人の人がしており、また預言者エゼキエルとエレミヤも登場しています。そしてイエスの行われた奇跡が強調されていて、その後でキリストの死と復活があり、中央のアプスに戻ります。そして、次になんと、復活後、イエスが弟子たちに会われる姿、祝福し、昇天されます。

 その次に、五旬節の聖霊降臨に移るのです。(写真)そしてペテロが福音を伝えるよう指導している姿があり、十二弟子たちが地中海周辺に、アナトリアの含めて伝えていく姿が描かれているとのこと。そして、ペテロの指導する壁画の後、初代教会の姿も描かれており、このようにして自分たちが存在することを示してます。預言者ヨエルも描かれており、聖霊降臨の預言を行ったことが書かれています。

 そして、カイサリアのバシレイオスの画も書かれています。

(4.と5.は「その2」へ)