書評「キリスト教の“はじまり” 古代教会史入門」

 2018年にクリスチャン新聞で、吉田隆氏による「古代教会に学ぶ 異教社会のキリスト教」という連載記事があった時に、私は食い入るように読み始めました。

新連載「 古代教会に学ぶ 異教社会のキリスト教」第1回 “これからの日本の教会”のために

 本書は、その内容をまとめただけでなく、詳細に注釈や図解、写真、参照文献を加えて、本題の通り、「古代教会史入門」の体裁となっています。

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書評「信仰告白の重要性を現代に問う書

トルコ訪問は「ローマ」を辿ること

 ここに書かれている内容は、私がトルコ旅行に去年と今年に行き、強く感じたことでした。トルコにある遺跡を訪問するということは、実は、「ローマを訪ねる」ことです。

 私たちがローマというと、イタリアを思い出すでしょうが、そこは西ローマであり、330年に遷都し、1453年まで続いていた東ローマはトルコなのです。さらに、新約聖書の教会の誕生から間もなくして、使徒の働き13章以後の宣教の旅、使徒たちの手紙の宛先の多くもローマのアジア属州にあった町々であります。パウロ、ペテロ、そしてヨハネが活動をしていたところであり、その後の初代教父もこの地域の出身であり、云わば「教会を知ることができる」ということです。

 本書にも、数多くの写真が掲載されていますが、その遺跡の多くが、トルコで撮影されたものであることに気づきました。やはりトルコは、「古代教会の中心地」なのです。

「異教社会の少数派」古代教会と日本の教会

 しかも、ローマ社会の古代教会は、日本という、異教で、かつ都市化された社会に生きるキリスト者に、数多くの模範や教え、指針を与えます。彼らは、私たちと同じように、いや、それ以上に、忍耐と信仰をもって、社会の少数派として生きていました。日本の兄弟姉妹に、強い励ましになると強く感じています。

 次の記事に、ジェイ・マカール牧師が、いかに東洋人である私たちのほうが、聖書の世界観を西欧人よりも理解しやすいかを話してくれました。同時に、信仰を持ち、教育を受けたのはアメリカ人の宣教師やアメリカの牧会学校においてなので、ユダヤ人がギリシア化していた人たちがいたように、私など、多くの日本人キリスト者が、聖書や信仰の理解が西欧化してしまっているのかに気づきました。しかし、実は身近の文化、自分たちの文化や世界観に聖書理解の鍵があることを知ったのです。

「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて

 西欧のキリスト教は公認以後に発達したキリスト教であり、その文化の中で世界宣教に人々が遣わされ、その恩恵を私たちは受けたのですが、異教社会に生きる私たちは、むしろ公認以前の古代教会に、信仰生活を生き抜き、教会形成をする模範や手本を見つけることができるのではないか?ということです。

 来年3月にトルコも含めた聖地旅行を企画しています、ぜひ参加をご検討、お祈りください。

トルコ・イスラエル旅行(2020年3月)

本書の構成

 「第一部 古代教会の進展」には、私が以前、当ブログでもご紹介した「キリスト教とローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由」に基づいての議論をまとめています。その要因を見れば見るほど、教会というのは、一途に、信仰の純粋さと愛の実践を保っていくことによってのみ証しの力になっているのだと分かります。

 「第二部 古代教会の成立」では、第一章が「教会の礼拝」の発展を説明していますが、やはり初めはユダヤ教のそれと連続していたことがよく分かります。メシアニック・ジューの礼拝形式を批判する人たちがいますが、胎動期を見れば、まさに彼らのしていることが礼拝の姿でした。そしてそこから独自性を持っていく姿も描いています。

 第二章は「信仰告白の形成」とのことで、信仰告白がいかに「私たちが誰を礼拝しているのか」を明確にすると言う意味で教会にとって大事なものとなっているのかを教えてくれています。第三章は「霊性」が取り扱われていて、初代教父と呼ばれる教会の指導者の紹介が、とても平易に書かれています。第四章は、「教会制度」についてです。とかく複雑になりがちな制度ですが、何が正しいのか?ということではなく、何が目的で、どんな経緯でそのようになっていったのか?を知ることが大事という点がうなずけました。

 そして第五章は「新約聖書正典の成立」です。旧約聖書はすでにユダヤ教の中で定まっていましたが、新約聖書がいかに聖書としてまとまっていったのか、非常に興味深いことを平易にまとめてくださっています。

わが故郷、天にあり

 最後は、「天のキリストを見つめて」とあります。古代教会の信者たちの姿が、いかに故郷が異郷であったのか、真っ直ぐに天におられるキリストを見つめていた彼らの姿でしめくくっています。「わが故郷、天にあらず」という本を、しきりに勧めている人の文章を読んで、心がどっと重くなり、暗くなりました。しかし、この終章を読んで、深く慰められました。

 私は、本書を日本のキリスト者に大きな慰めを受け、指針を与えてくれる貴重な本の一つになると思います。「あなたがたは、少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」として、そのわずかな力を、見つめて、こよなく愛しておられる神の視線を、村八分にされたフィラデルフィアのキリスト者たちに向けてくださいましたが、私たちは、その愛の視線をもっと感じ、慰められ、安心してよいと思います。

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