「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて

“牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」に行ってきました。こちらに、撮影した映像をほぼ全てアップロードしました。

2019 Pastor’s Familiarization “FAM” Tour of Turkey with Jay McCarl

最後のディナーにて、ジェイさんと奥様といっしょに:

ジェイさん自身が、ご自身の教会で報告をされたようです。

フェイスブックに、以下の投稿を載せました、ご紹介ます。

<ユダヤ的だからといって”聖書的”ではない>
Pastor Jay McCarl’s Lectures on Hellenism vs. Hebraic world of the Bible:

トルコ旅行から無事に、先週金曜日夜に戻ってきました。東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(今のイスタンブール)から、シリアのアンティオキア(現在はトルコにあるアンタキア)へ、そしてバスで、パウロがヨーロッパへ旅立つトロアス近辺まで、東から西へ横断しました。

団長は、カルバリーチャペル・ジョージタウン・デバイドの牧者、ジェイ・マカールさんですが、彼の各所における牧者たち向けのメッセージは、「ヘレニズム化された私たち 対 聖書背景のヘブライ的な素朴な人々」でありました。

私にとっては既知であり、そして驚きでした。西洋人であるジェイさんから、東洋人である私が、去年のトルコ・ギリシアへの旅と今回で、自分たちの持っている非西欧的世界観が、実は聖書に近いことをずっと聞いて来たからです。変な、不思議な気分になりました。彼と交わって、「あなた方のことを例にとっていいですか?」と聞かれて、いいですよ、と答えたので、今回のメッセージの中で何度かJapaneseと言って、ヘレニズムそのものであるアメリカ人の思考と、そうではない者たちの歴史観や思考を対比して説明しています。

ところが、ここに捻りがあります。私がキリスト者であることは、西欧の宣教師からもたらされた教えの影響があり、自分がいかに、ヘレニズム的な信仰を持ちながら、実はそれから離れた聖書に近い習慣や心情を持っているかに気づくからです。

これは、聖地に住むアラブ人キリスト者にも起こっていることだそうです。ジェイさんは、ナザレにあるナザレン派の教会(笑)で、メッセージを語ったそうです。彼らは、無意識のうちに聖書の背景となる習慣でもって動いていることに彼ら自身が気づき、驚いていたそうです。けれども自分たちがキリスト者になっているのは、ヘレニズム化したキリスト教ですから、複雑なのです。そしてこの私も、おそらく多くの日本人キリスト者もこの複雑な信仰や心情を持っているのだと思います。

<多くのメシアニック・ジューはヘレニズム的ユダヤ人>

日本において、「ユダヤ的ルーツ」という言葉がしばしば使われます。私はこの通り、ユダヤ人やイスラエルのことをライフワークにしているぐらい、興味がありますが、それでもこの流行に多少なりとも、違和感を抱いていました。「ユダヤ的」と言いながら、今まで学んできたプロテスタントの神学や聖書理解と骨格は何も変わっていないからです。

実は、メシアニック・ジューの指導者の多くが、信仰を持って聖書を学ぶ時に、プロテスタントの神学校や教会指導者から学んでいます。また今のイスラエルも、欧州の啓蒙思想の影響を受けたユダヤ人によって建国されているので、ヘレニズム化したユダヤ人の考え方になっています。

歴史を辿れば、第二神殿時代に、アレキサンダー大王が世界にヘレニズムを伝播したことによって、またセレウコス朝のアンティオコス・エピファネス王(荒らす忌むべき者、反キリストの型)が、徹底したギリシア化をユダヤ人に強要したため、その時以来、ユダヤ人がヘレニズム化しました。

パウロなど、使徒たちには、ヘレニズムの世界を熟知して、彼らにも分かるように御言葉を語ることができましたが、パウロ自身がヘレニズム化していたわけではなく、ヘレニズムに激しく対抗したパリサイ派出身であったので、自分自身は距離を置くことができていました。そして、ヘレニズムから元々、無縁なのはペテロやヨハネであり、ヨハネの文体はまさに、素朴な、無学の人でもそのまま受け入れることのできる、深読みを必要としない、けれども非常に深淵な言葉を残しています。

ヘレニズムとは、要は神中心ではなく、人中心です。人が神を把握しようとする試みです。しかし聖書は、神が中心、主体で、この方の啓示をそのままひれ伏して、受け入れるのみです。

以下にいうことは矛盾するように聞こえますが、思うに、「ユダヤ的を強調すると、ヘブライ的思考、聖書的世界観から、むしろ離れてしまう」ということです。自分の思考の中に、どうしても体系化、理性的理解をしようとする性向があり、それがユダヤ的に理解しようとする試みの渦中においてさえ、入り込んでしまうからです。

ヘブライ的価値観や世界観の話を聞いていると、本当に日本の中に存在するもの思わされます。例えば、「過去を現在にもあるかのように捉える」ということがありますが、天皇家など、古代のものが現代にもそのままつながっています。

ところが、ジェイさんが警鐘を鳴らしています。「ヘブライ的ルーツ」運動そのものには、彼は警戒しているようです。多くの推奨者は、その根拠をミシュナやタルムードに拠っているのだそうですが、どちらもヘレニズム化したユダヤ人によって編纂されているからです。

神道や天皇家に、何か聖書に近いものを感じたとしても、「ルーツが同じ」ということを言い始めるところに、むしろ異質な、ヘレニズム的な考えが入って来ることを感じます。体系化する必要ないのです。

以前、この話題に付いて、以下のブログ記事を書いていました。

距離を置きたいような神学論議

日本宣教と「ヘブライ的思考」

ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

「「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて」への5件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です