距離を置きたいような神学論議

私は、これまで、警戒しているというか、適当に距離を置いて見ている神学議論があります。その一例が、こちらの神学者のブログ記事です。こんな文言があります。「オープン神論では、全能の神は世界に対するご自分の支配を自発的に制限し、被造物が自由意志をもって自分の行動を選択できるようにされたと考えます。」(引用元)つまり、「神は支配者」という真理に制限をかけているのです。私は正直、このような発言に怒りさえ抱くことがあります。聖書が明言している真理について、人間の論理や感情でそれをばっさりと否定していくように見える文言が多いからです。

しかし、先日、ある牧師さんとよい交わりができました。結局、私たち日本人キリスト者(特に牧師のような教職者)は、「欧米の神学、欧米のキリスト教ばかりに目を向けている」というもっと前提になっている問題があるとのご指摘。プロテスタントの宗教改革以降存在している落とし穴があります。例えば、この記事において、

1.神は全能である。
2.神は善である。
3.世界には悪が存在する。

ということについて、問いかけをしています。しかし、その大前提に「一貫した合理性、前提から結論までつなげる論理をほしがっている」飢え渇きがあるのです。それで、従来の、全ての事象に対して神を第一原因に結びつけていくカルビン的な世界観なのか、それともそれをオープンにするべきかという二者択一の議論をしているのです。

まずもって、いいます。「なんで、そんな議論しているの??」上の三つのことは、”全て“真理なのです。それをそのまま受け入れればよいのです。そして「神が支配している」という真理を、運命や宿命のような世界観の中で話していることが間違っているのであって、「私たちの知らないところで主がすべてを支配し、主権を持っておられる」という真理をただ、受け入れればよいのです。

「静的」ではなく「動的で躍動的」な言葉

エルサレムの嘆きの壁を見れば分かりますが、ユダヤ教徒は神の律法を、食べるようにして、体内に入れるようにして、体を揺さぶりながら、音読していきます。静的な、とまっているような頭の思索の中で構築されるものではなく、人が動いていく中で、活動し、生きている中で生かされている神の真理なのです。難しいことはありません、日曜学校の子どもたちがどのように、聖書の物語を聞いていっているかで自ずと分かります。そのまま、体得するように聞きます。頭はその後で働かせます。

私は、アメリカの学校で聖書・神学教育を受けました。その時にびっくりしたのは、学生たちが口角の泡を溜めながら、予定論の是非について議論していくことでした。「難解な聖書箇所」という授業がありまして、そこで神の主権と人間の選択に関わる聖書箇所ばかりが、取り上げられました。最後に先生が、「あなたはどちら寄りですか?」と尋ねた時、ある学生は「アルミニアン寄りです」、またある学生は「カルビンです」とか言っていましたが、私は言いました。「神の主権を語っている箇所を語る時はカルビン主義者になり、人間の責任を語っている所ではアルミニアンになります。」何の反応もありませんでした、首をかしげていたのでしょう。私は本気でした。むしろ、「なぜ、どちらかを決めなければいけないのか?」という疑問がかえってありました。(関連記事

「小羊」を受け入れるために「白い馬」を否定する聖書解釈

そして先の神学者は、黙示録を議論するにあたって火による裁きは、小羊なるキリストの姿を相容れない、したがって前者は象徴的表現であるとか言っています。「黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾するばかりでなく、黙示録の中心的ビジョンである4-5章における神とキリストの描写とも矛盾します。」(引用元

私は、ソドムとゴモラの裁き、モーセの時に起こった火の裁き、エリヤによる火の裁きが文字通り、歴史的事実として起こっていたのに、一貫性がないと思いました。そして何よりも、たった今、火の降る中で、手足がもげ、重度の火傷で苦しみ悶えるシリア人、また近現代戦の火力による戦禍で文字通りの「火」によって苦しみ悶え続けてきた人々。そして、初代キリスト者、また現代の中東やイスラム教国のキリスト者が、生きたまま火あぶりにされるという現実があり、その衝撃的現実に対して、「神に復讐を任せる」キリスト者の希望を、根こそぎにする、由々しき発言であると強い憤りを抱きました。

そしてこの書物は、私たちのような快適な机上で書かれたのではない、煮えたぎる油に入れられて、パトモス島に流刑にされた使徒ヨハネが受けたイエス・キリストの啓示なのです。

ましてや神の愛はお花畑のような「甘い愛」ではなく、ローマによる合法的暴力、残酷の極みである「十字架」によって現わされたのであり、その武力と暴力の”只中に“神はご自身の愛を表したのです。したがって、上の発言はこの根幹的真理さえ否定しかねない、危ない論理だと思っています。「暴力的裁き」の中に「愛の自己犠牲」が同時存在しているのであり、黙示録は文字通り受けとめて全く矛盾しないのです。

「ステップ・ロジック(段階論法)」と「ブロック・ロジック(積み木論法)」

このように、どうしてこうも、神の働きを自分の理解の箱の中に入れようとするのか不思議になります。そのままどちらも、受け入れればよいのです。そしてそのへりくだりと、沈思の中で、神への礼拝、ひれ伏しがあの、最後に灰の中で悔い改めたヨブのように起こるのであって、それを神が望まれているのではないでしょうか?

先に「一貫した合理性、前提から結論までつなげる論理」と言いましたが、これは「ステップ・ロジック」と言います。これをすると一つの観点は見いだせるのですが、「これだけではないでしょう」という不足が、現実を見る時に私たちは直観として抱きます。それに対して、「ブロック・ロジック」というものがあり、これが聖書では多用されている概念です。一つ一つの積み木のように、固まりがつなげられているけれども、そのつなげられた固まりは、矛盾していたり、両極端である場合が多いのです。

「私たちの父アブラハム」(マービン・R・ウィルソン著)
第九章 ヘブライ的思想の輪郭 「ブロック・ロジック」から

OurFatherAbraham「出エジプト記にはパロが心を強情にしたちありますが、神がかたくなにしたともあります(出8・15、7・3)。預言者たちは、神は怒りに満ち、あわれみにも満ちていると教えます(イザ45・7、ハバ3・2)。新約聖書はイエスを「神の小羊」とも、「ユダ族から出た獅子」とも呼び(ヨハ1・29、36、黙5・2)、地獄は「真っ暗なやみ」とも、「火の池」としても描かれます。イエスは「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません(ヨハ6・44)」と語られながらも、「父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところには来ることはできません(ヨハ6・44)」と話されます。いのちを得るにはいのちを失わなければならず(マタイ10・39)、弱い時にこそ強く(Ⅱコリ12・10)、自分を低くする者は高くされます(ルカ14・11)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ(ロマ9・13。マラ1・3)」。ほかにも幾つか上げられるでしょう。

このような「ブロック・ロジック」を見ていくと、神の主権と人間の責任は両立しないと感じるかもしれません。しかし、ヘブル人は神の計画をなしていくにあたって、何一つ自由を疎外されているとは感じません。聖書をより注意深く読んでいくと、聖書は一つの物事を神的な観点(わたしはパロの心をかたくなにする)と、もう一つの人間の観点(パロは強情になった)から、とらえていることが分かります(出4・21、7・3、13、8・15)。」(221-222頁)

「ヘブル人たちは、自分がすべての答えを知らないことを知っていました。人は「日の下(伝8・17)」に置かれていたので、言葉を少なくし(5・2)、神の真実の神秘や、宇宙の謎を無理やり体系化しようとしたり、調和させようとしたりしませんでした。彼らは、神が曲げたものを真っすぐにすることはできないと気付いていました(7・13)。ですから、すべてのことが合理的である必要はなかったのです。ヘブライ的思考は、矛盾を進んで受け入れようとしていましたし、神秘や明らかな矛盾が、しばしば神のしるしであることを知っていました。簡潔に言うと、ヘブル人は完全に理解することのできない場合にも信頼を寄せることを学ぶ、というう知恵を持っていたのです。

もちろん、近代教育には哲学的で構造的な学びも重要な役割を果たしていますが、これまで私たちはヘブライ的思考の性質に対して理解をしますことはほとんどありませんでした。私たちには自然に、合理的で体系的な思想を聖書に当てはめようとする傾向があります。しかし聖書は綿密な思考や、図式化しようとする試みを退けます。神もみことばも、論理的分析や科学的分析の対象として容易には箱に閉じ込めることはできないのです。そこには人間的な合理性や説明を許さない、神の主権による予測不可能なものがあります。」(223頁)

両極端にある欧米思想の隘路

先の、交わった牧師さんは、「ルターがヤコブ書を「藁の書」と言わしめる、欧米神学の弊害がある。信仰というのは、アブラハムやダビデがあれだけ果敢な行動に移せた、生き生きとした神への信頼でしょう。」と言っていました。その通りです。(注:ここではルター批判をしているのではなく、合理性を求めようとして、一見矛盾する真理の一方を排除しようとする傾向を批判している発言です。)

その他の神学議論では、ディスペンセーション主義の一般信者への普及に対抗して(関連記事)、強硬な反ディスペンセーション主義を推進する動きが、福音派神学校で起こっています。そして、少し前は、ペンテコステ・カリスマ運動にある聖霊の働きに対する、強力な反カリスマの終焉説(関連記事)もあります。これらもみな、神の真理を過度に合理化しようとしている試みです。そして今回は、従来の聖書信仰に対して修正を試みるような動き(関連記事1)を紹介しました。このように振り子が右から左に動くような神学の流れがあります。近代主義からポストモダン(近代後)へと時代が移りましたが、それもまた「寛容という非寛容」という哲学を生み出し、非生産的で、ギリシヤ的思考の中に沈着しています。

こうした神学議論に対する私の立場は、「参考にはするが、気をつけて距離を置かないと、まともに取り扱うと危険。」「毎日の現実生活でもがき、一生懸命、主にすがっている兄弟姉妹、一般の信者には見せたくない内容。」というものです。

改めて考えてみましょう。私たちが御言葉に取り組むのは、それが偉大なる神の真理だからです。この方への礼拝へと導かれるのであって、知的に体系化されたものを満足するためのものではありません。神の救いを語りましょう、その話を聞き、信じた者たちによって御霊に動かされた人々の間に、神の国があるのです。

関連記事:「神学バランスとキリスト者の成熟

「距離を置きたいような神学論議」への5件のフィードバック

  1. 例えを紹介します。私は、ロイド・ジョーンズ著の「神はなぜ戦争をお許しになるのか」を教会の人々に紹介した時に、「爆弾発言に聞こえるかもしれないけれども」と断った上で、

    神がイスラム国を引き起こされたのだ。

    と言いました。しかしその後で「イスラム国は確実に悪魔的である。」と言いました。初めの発言は、ある人にとってはあまりにもむごい発言に聞こえるでしょうが、私にとっては、いや聖書によれば正反対で、「イスラム国は神が引き起こした」という真理こそ、信仰をもって祈る時に、とてつもない深い安堵と平安を与えるのです。神は、あのパロのようにイスラム国がどんなに悪魔的なことを行なっていても、それを、ご自分の手中に収めていること。そして、確実にその怒りの器を裁かれること。神は主権者であり、正義の神であり、復讐の神であること。今の世にその復讐を見られないならば、かの世において、同じ苦しみによって苦しみを与える方であること。

    だからこそ、あまりにも残虐で悪魔的なあの仕業でも関わらず、私たちは狂気にならず、正常心が持ています。そして、主から命ぜられたことのみを行う集中力が与えられます。主の命令とは、「敵のために祈り」「赦しと平和」を祈り、善を行なうことです。今の、イラクからのキリスト者の難民の少女が、どれだけか酷い仕打ちを受けているのに、大胆に、「イスラム国の人たちを赦します。彼らが神さまに立ち帰るように祈っています。」と平然と言いのけているのです。(関連記事:「エジプト人キリスト者に広がる愛の御国」)

    そして、神がイスラム国を引き起こしたからこそ、我々がいかに、生ぬるく、物質の安全や平和に頼っているのか、神が私たちの心を揺り動かしておられるのです。ここら辺は、「神はなぜ戦争をお許しになるのか」の著書を読むと、詳しく出ています。

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