神学を神学できる人(ディスペンセーション主義の例から)

これまで、本ブログではこの神学について二つの記事を書きました。

ディスペンセーション主義について

ディスペンセーション主義の落とし穴

けれども、次にお勧めする、精度の高いブログがあります。(一番下の記事から上に順番に読まれるとよいでしょう。)

「balienのブログ」(ディスペンセーション主義のカテゴリー)

この記事を書いた兄弟と一度だけお会いしたことがありますが、神学者でもなければ、牧師でもありません。しかし、彼には賜物があります。いや、牧師や神学者でさえ見失っている大切なものを彼は持っています。それは何かといいますと、「神学を学ぶ態度と姿勢が正しい」ということです。他の記事に書かれてあることをご紹介します。

会場の雰囲気──学ぶ側の姿勢

ぜひ、この部分をディスペンセーション主義を信奉している人も、反対している人も読んでほしいと思います。神学を神学としてしっかりとらえている人を、私はあまり見たことがありません。これまでは、自己主張の盾になり果てる姿を見てきました。(例えば、ディスペンセーション主義については、その批判が批判になっておらず、とてもヒステリックなものが多いです。)また、神学をしすぎて、聖書への信仰が揺らいで、その基本を見失う人があまりにも多い。そして、「この神学こそが聖書の教えなのだ」として神学を聖書と同列において、まさにガラテヤ書の警告する「聖書+α」という異端性を持つ場合さえある。神学は飽くまでも聖書そのものという最高権威の下位にあるし、相対的なものであるし、変化するものなのです。

こういったことをわきまえていれば、一見、正反対に見える神学体系からも学ぶことができ、むしろ自分の信じている聖書解釈法や神学に深みをもたらします。そして何よりも、別の神学体系を信じている人であっても、同じキリストにある兄弟であり、無碍なことはいえないはずなのです。

そして、一般の牧師や伝道師、また信徒、いや神学教授でさえ、神学用語を多用している姿を見る時に、東北弁で「いずく」なるときがあります。(グーグルで、「いずい」と検索!)だいたい、使用法が間違っています。日常会話の言葉ではなく専門用語なので、その違いに気づかずに、全く誤解して使っている場合が多いです。なので、balienさんの記事を読みこなせない人は、まず、聖書の言葉、信仰の言葉を使って、神学用語を使うのはやめたほうがよいと思います。

追記として、ブログのカテゴリーに、「イスラエル論」「解釈学」「終末論」「新約聖書における旧約聖書の使用法」などもあり、とても興味深いです。

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