ディスペンセーション主義について

「ディスペンセーション主義とは何か?」という質問を、これまでしばしば受けてきました。それは、ハーベストタイムの中川健一さんがお招きされているアーノルド・フルクテンバウム博士の講演の中で多く出てきているからだと思います。実際は、比較的長い歴史をもった神学体系であり、ブレザレン系の人々、また独立系のバプテスト教会の人々が受け入れている教えです。後でも書きますが、私は中川健一さんによる、フルクテンバウム博士をお招きして、日本人信者に聖書研究による霊的復興を願い求めるそのお働きに、心からの敬意を持っております。

このことを前提に、今、広がっているディスペンセーション主義の啓蒙に対する、ロゴス・ミニストリーの考え、またカルバリーチャペルの立場として私が理解していることをお書きしたいと思います。

ディスペンセーション主義の定義

まずは、ディスペンセーション主義とは何か?そのことを知らないといけません。これは、いろいろなサイトが紹介をしています。

デイスペンセーション主義とは何ですか?それは聖書的ですか?
(got Questions?)

神様のディスペンセーション
(「心に響く聖書のことば」)

ディスペンセーション主義
(ウィキペディア)

神の人類救済プログラム
-ディスペンセーショナリズムの立場から学ぶ-

(2008年アーノルド・フルクテンバウム博士セミナー)

神学用語の乱用

私は、拙書「聖書預言の旅」のあとがきでこう書いています。「残念なことに、日本で終末論を語れば、神学用語の応酬が横行し、実質がおざなりにされる傾向があります。・・・この日本の土壌において、神学的立場にかかわらず、キリストの再臨の希望を、個人的な生活のレベルで実感できることが急務です。このため本書では、あえて神学議論を避けました。(282頁)」この思いは今でも変わっていません。

具体的に問題を取り上げたいと思います。一つは「レッテル貼り」です。私は、聖書通読の学びをずっとしてきました。もちろん、カルバリーチャペル、そして牧者チャック・スミスの聖書講解を中心にして、ずっと学んできました。そして私の立場は固まってきました。

それは、第一に、「聖書はそのまま、単純に読んでいくこと」です。小中学生が国語の時間に勉強した日本語力をもって、この聖書を読んでいくときにどのような解釈をするかどうか?であります。日曜学校で彼らが聖書の話しを聞いている時に、どのように聖書を解釈するか?それは、明らかに示されたものをそのまま受け入れていきます。

ある聖書教師はこれを、”God means what He says.  He says what He means.”と言います。朝、教会の人にGood morningを挨拶した時に、相当疑い深い人でなければ、「”Good”, “Morning”って、何を意味しているの?」と深読みすることはありません。聖書は、この地上に生きている人間に伝達するための神の言葉なのですから、自然に、普通に読んでいけばよい、という考えです。

第二に、「聖書全体にある神のご計画」として、「イスラエル」は「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」そしてその土地と国を指し、「教会」は、御霊のバプテスマにより、ユダヤ人と異邦人の信者が一つとなったキリストの体であるということ。これが分かれば、どのように神がご自分の計画を収束させ、完成させるか、創世記から黙示録までの神の知恵と思慮深さの深さが、オーケストラの交響曲のように、まとまって見えてくるということです。

第三に、「神の恵みを知る」ことがあります。教会時代に生きているのは、全時代における神のご計画の中で、究極の神の恵みが表れていることを知ります。カナン人の女が、「小犬でも、パンくずをいただきます」と言った、そのパンくずが、無尽蔵の恵みとして信仰者に与えられている、とてつもない時代だと見ています。

この三つは、確かにディスペンセーション神学に見いだされるものです。けれども、大事なのは「ディスペンセーション神学」を学んだから、至った結論や立場ではありません。したがって、私には自分がディスペンセーション主義者という意識が、ほとんどないのです。

事実、先に挙げたディスペンセーション神学の紹介サイトを読んでも、私は正直、少しながら抵抗感がありました。これは、聖書通読の学びをかなり徹底的に行なった後に、「結構、役立つ聖書理解の骨格だ」と納得できるものであり、「聖書通読の帰納的結論かもしれないけれども、初めから学ぶものではないのでは?」というのが、私個人の反応だからです。

私に対して、これまで、何人かの人がディスペンセーション主義者として揶揄し、批判しました。ある人は、「ハイパー・ディスペンセーション」と呼びました。私はその意味が分からず一生懸命調べて、「これは、水のバプテスマは教会では行なわないという、過激な人たちではないか!」と憤慨したのです。この神学に詳しい兄弟が、「たぶん、ごりごりのディスペーション主義者という意味で使ったのですよ。」と説明してくださいました。なるほど、使っている本人たちが、ディスペーセーション主義とは何ぞや?についてその定義さえ知らないで用語を連発しているのです。これは、理解されないまま、乱用されている神学用語の一つです。

もう一つは「混乱」です。ディスペンセーション主義を信奉している人々は、しばしば「聖書を正しく学ぶために」という標語でこの学びを薦めます。そこで、聖書の学びをするのに慣れている福音的なクリスチャンは、とまどうのです。これまで、イエス・キリストの福音と、聖書が神の言葉であるという純粋な信仰で生きてきた人に、掴みどころのない体系を学ばされているという気持ちになります。

そして混乱について具体的なものとしては、終末論と救済論の混同です。つまり、この神学が福音であると考えると葛藤が生じます。イスラエルに対して特別な神のご計画があることを話すと、「では、イスラエル人は無条件で全て救われるのか。」という疑問を数多くの人から受けました。イスラエル人も救われる道は全く同じで、イエス・キリストの流された血による贖罪、そして復活を信じなければ神の国に入ることはできません。

「掴みどころのない学び」という印象は、どの神学体系を学ぶ時にも抱きます。ディスペンセーション神学の前に実は「契約神学」という体系がありまして、その対極をなしています。契約神学にしても、やはり「神学の学びのために、聖書を紐解くのか?」という強い抵抗を私は感じました。同じように、「○×博士の著書の読書会」というのも私は、「えっ??」と思います。その神学や教えを知って、聖書をもっと分かる手助けになるのなら分かるのですが、その神学や教えを知るために聖書を調べるのは、全くもって本末転倒です。

さらに、「キリスト以上に神学体系を引き上げる」結果に陥ります。「聖書がこう言っている」という、聖書そのものを調べる態度から、その神学体系がいかに聖書に整合しているかを証明しようとしてしまいます。けれども、これもディスペンセーション神学に限らず、どの神学体系でも同じです。その神学体系が本当に聖書的ならば、殊更にその神学を強調しなくても良いのです。もしそうなっていたら、聖書を恣意的にその神学に合わせようとしていることになります。

教会の分裂

そして、私はこの用語をなるべく避けているもう一つの理由があります。神学体系によってキリスト者は一致しているのではなく、あくまでも「イエス・キリスト」によって一致しています。けれども、日本でも外国でも、この神学を学んでいる人が、既存の教会に対する批判をしていくという事例を見てきました。

もし、聞いている人が福音的信仰を持っていて、聖書を神の言葉だと信じているのであれば、私は契約神学(多くが無千年王国説の人たち)の人たちと十分に交われます。相手も「キリスト」を中心にしていれば、神学体系の差異による摩擦は起こりません。

例えば、前の投稿に掲載した「キリストの平和」(イザヤ2章1‐5節)の説教ですが、聞いていた人は必ずしも、私と同じような終末論を持っている人たちではなかったと思います。けれども福音的信仰を持っている方々です。私は聖書の言葉の神からのものとして権威をもって語りました。再臨について力説し、神の国におけるキリストの至上性、御言葉の最終権威を語り、そしてユダの国内における諸問題を今日の国々に適用させました。多くの方が「恵まれた」と仰っていました。

終末論の一致よりも、もっと大切なことはキリスト者の霊的一致であり、相手を自分自身のように尊ぶことであるとか、愛と忍耐であるとか、もっと、もっと大切なことがあります。キリスト者としての基本を神学の学びの中で忘れたら、キリストの思いから遠く離れてしまっている、ということになります。

カルバリーチャペルの立場

チャック・スミス牧師からは、「ディスペンセーション」という言葉はその説教においてほとんど出てきません。出てくる時は否定的なニュアンスで使うことさえあります。旧約聖書のイスラエルに対する約束を、自分の信仰の糧として喜んで受け入れているのに、「これは、イスラエルに対する約束だから関係ない」とするディスペンセーション主義者の言い分を嫌がります。また、聖霊の働きは使徒時代をもって終わったとする立場も、一部のディスペンセーション主義者たちから出てきたものなので、それも嫌がります。

けれども、少し大事なポイントとして出てくることがありました。けれども、ローマ11章の最後に、「異邦人の救いの完成」の後に「イスラエルが全て救われる」という説明で、こうした、神の働きかけの変更を知るのは大切だとして、ちょっとしたコメントとしてこの言葉を使ったのを覚えています。けれども、確かアウグスチヌスが使った言葉の引用でした(たぶん、”Distinguish the dispensations, and all is easy.”時代区分をしなさい、そうすればみな簡単になります)。

カルバリーチャペルは、聖書に書かれているように、キリストの地上再臨を強く信じています。それは、千年王国の前に起こり、そして教会の携挙は患難時代の前に起こると信じています。また、イスラエル国の聖書的位置も認めており、聖書預言から中東の出来事を注視してもいます。したがって、ディスペンセーション主義者の聖書の読み方の影響を強く受けていると言えるでしょう。

しかし、あくまでも「聖書は神の御言葉」「神のご計画の全体を見る」そして「聖書預言の地位を神ご自身が高く見ておられる」という立場から、それを行っています。その神学にしたがって解き明かしているのではありません。(参考記事:「聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル」)聖書を教えている時、厳密にはこの神学での説明と異なることも数多くあります。

カルバリー・チャペルは、神学のバランスを強調します。「神の恵み深さ」や「聖霊の力」等も、重要な要素です。反面、一つの神学体系に固執すると、企画化された教会生活、規格外の考えの排除など、教会に御霊の命が流れなくなり、硬直化する懼れもあります。

アーノルド・フルクテンバウム博士について

私は、彼のことを1995年、スクール・オブ・ミニストリーで学んでいた時に、神学の終末論の教科書の二冊”Footsteps of the Messiah“”Israelology“で知ることになりました。それ以来、愛用しています。私の聖書研究ソフトには、彼の注解書がたくさん入っています。そしてもちろん、2010年のイスラエル旅行は彼が団長の企画のものでした。

けれども、私は彼の言っている全てに同意しているわけではありません。彼の言っている多くのことが、聖書の学びの準備で助けになっています。その言っていることを咀嚼して、私自身が聖書を教える時には、彼の考えというよりも、私が主から与えられたものを話している、という感じです。ですから、彼自身のことはとても尊敬していますが、彼を信奉しないし、持ち上げることもしません。

彼の神学的背景は、正統派ユダヤ教徒であったことの他に、ダラス神学校という、ディスペンセーション主義で有名な所を卒業しています。プロテスタント神学で言えば、独立系のバプテスト教会に近いでしょう。カルバリーチャペルと似た部分はたくさんあります。けれども、聖霊のバプテスマについて、永遠の救いの保障について、また、教会政治のあたりで違った考えを持っているかもしれません。

実は、私の卒業したスクール・オブ・ミニストリーの校長、カール・ウェスタランドは、ダラス神学校出身です。召天された高木慶太牧師とも同期だったとのこと。けれども、カールはカルバリーチャペルの牧師ですから、ダラスで教わったことをそのまま教えるのではなく、むしろ私たちに考えさせる教材として提供してくれます。あくまでも考える主体は私たち学生であり、ディスペンセーション主義の教えを授業で受けたことがありません。教わっても補足資料という感じでした。けれども、終末論はしっかり勉強しました。各学生が、それぞれの説を取り上げて発表するのです。

以上がロゴス・ミニストリーとして、またおそらくは、カルバリーチャペルのディスペンセーション神学に対する接し方です。信者の方々が、この神学体系を学ぶにあたっての私個人の勧めは、クリスチャンとしての霊的素養を決して忘れないでください、ということです。教会で仕えること、教会の指導者や他の兄弟姉妹を尊ぶこと、祈ること、聖霊に満たされること、福音宣教に励むこと、弱った人を助けることなど、多くのことがクリスチャンにはゆだねられています。

そして教えられたことが、これらの分野に十分に生かされているかどうか、チェックしてください。その咀嚼と適用には、多くの時間が必要でしょう。いや、そこから得たものはライフ・ワーク(生涯の務め)になるに違いありません。牧者チャックが言った言葉を最後に残します。

「新しい教えを受けて大きな悟りを得た時は、それを教示するのではなく、自分の生活で見せてください。その教えがキリストに似た者になるのに、どれだけ貢献してたかを示してください。そうすれば、『なんでそのように変わったのだ。』と相手のほうが聞いてくることでしょう。」

「ディスペンセーション主義について」への8件のフィードバック

  1. これは皮肉ではありません。ディスペンセーションを信頼する私はロゴスミニストリーのメッセージに反発を覚えることは、ほとんどありません。聴いていて、とても心地よいです。

    しかし、世の中のディスペンセーションが誤解されて、伝わっています。何か恐ろしい危険な神学だと。聖書を小説のように読んでいき、神の愛と計画と適用を知る。

    ディスペンセーションを信頼する人の共通点は『適用』だと思います。聖書66巻から生活に御言葉の適用となると私たちの人生は大混乱です。そこでディスペンセーションの神学体系の出番です。ただ、認めなければいけないのは「人」の考えから生まれているものであると言うことです。しかし、それは契約神学も同じ事です。

    『先生は1年に何回ぐらい 全焼のいけにえを捧げてますか?』 契約神学者にこの問いかけを言うと、怒られます。でも、文脈どおり解釈している人やディスペンセーションナリズム者なら、旧約から新約へと歴史が流れている状態を見て、ヘブル7章を引用するでしょう。
    「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません・・・・」

    結局は解釈学という神学でぶつかるのです。悲しい事ですね。

  2. 私も上記のコメント通りに、思ってます。
    こちらのブログも カルバリーチャペルのメッセージも好意を持ってきいてます。

    聖書の学びって、教わるだけでなく、自分でも読んで確かめることが必要です。
    聖書をそのまま 字義通りに読んでます。

  3. ハーベストタイムの中川健一・洋師の聖書メッセージを中心に聖書を学んでおります。
    自由主義神学を推す教会で20年間に受洗しました。その教会の牧師からは「信じたいように信じたらいい。」「ちなみに聖書のどこが神の言葉なの?」「わたしには神がいるのかはわかりません、だって見た事ないんだもん」との事でした。
    ディスペンセーションについて、ブログの記事を学ばせていただきました。
    つまりは「聖書を書かれている通りそのまま読んで信じても良い」という事でしょうか?
    受洗した教会から言われた「信じたいように信じたら良い」との事であれば「聖書を書かれている通り、そのまま読んで信じよう」と思っています。
    ご教授を宜しくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です