「イスラエルへの情熱」−ユダヤ人とイスラエルを愛した福音主義教会の軌跡−

昨日、以下の本を完読しました。

『イスラエルへの情熱』
−ユダヤ人とイスラエルを愛した福音主義教会の軌跡−
原題:Passion for Israel
著者:ダニエル・C・ジャスター Daniel C. Juster
訳者:石井 秀和
出版:ゴスペル・ライト出版
販売価格 1,296円(本体1,200円+税)
http://gospel-light.info/?pid=132451548
https://www.amazon.co.jp/dp/4990516621
https://www.facebook.com/passion.for.israel/

私にとっては、あまりにも衝撃的な本でした。自分の信仰の歩み、聖書への取り組み、そして実際のイスラエルとの出会いから生まれてきた情熱を、プロテスタントの教会史から見事に論じていたからです。本書の推薦の言葉を借りるならば、宗教改革開始以後間もない時から、「四百年以上続く福音主義クリスチャン本流の運動」というものを、鮮やかに描き出しています。

私がイスラエルへ情熱を持ち始めたのは、信仰をもって数年後だったでしょう、日本で出版された本を読んだことがありましたが、1994年に米国東海岸へ短期旅行をして、ワシントンDCにあるホロコースト博物館を訪れたことです。そして1995年に米国に移住、カルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーで学んで、そこで聖書理解が進むと同時に、イスラエルへの情熱が生まれました。牧者チャック・スミスは、聖書信仰から来るイスラエルへの情熱を持っている人でした(参照:チャックの追悼式、1:17:39に飛んでご覧ください、イスラエル領事が追悼の言葉を述べています)。スクール・オブ・ミニストリーの教師の一人デービッド・ホーキングは父親がユダヤ人であり、彼から聖書への愛を教わり、またイスラエルのことについても大きな影響を受けました。また、学生にはユダヤ人の兄弟たちが何人もいて、普通に自然に交わっており「ユダヤ人とギリシア人がキリストにあって一つ」を肌で体験していました。(参考記事:「聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル」)


(聖地イスラエルでは、巡礼者にお気に入りの洗礼場「ヤデルニット」がガリラヤ湖の南にあるヨルダン川のところにあります。この洗礼場を寄贈したのはチャック・スミスです。娘のシェリルさんが、彼が植えた木のところで撮影しています。)

イスラエルへの情熱は、福音主義運動の本流

ところが、日本に戻って福音宣教の働きを始めると、そういった自然に養われたイスラエルへの愛が、両極端に取り扱われていました。一つは、殊更にイスラエルやユダヤを持ちあげ、「イスラエルを祝福することでリバイバルを起こそう」とか、「ヘブル的読み方をしなければ、道を外している」と言わんばかりの動きがあり、もう一方では、そういった動きに対し強く警戒し、極度に批判している声が大きかったことです。また、大半の人々は無関心で、何かイスラエルとパレスチナの間で対立があるとイスラエルが悪いという報道に影響されている程度でしょう。

けれども、米国ではユダヤ人が、離散しているユダヤ人の数として最多を誇っているためか、その存在は当たり前で、持ち上げることもなければ、無視することも決していない、静かで、しかし重厚な、イスラエルとユダヤへの愛が国の文化として横たわっているという感じでした。特殊な動きとはみなされていません。

そんな中で、自爆テロで有名になった第二次インティファーダが起き、反イスラエル・プロパガンダがキリスト者と称する者たちの間にも広がり、私もネット上で袋叩きに遭いました。一度は、こういった関心を敢えて持たないようにしようと努力したことさえあります。けれども、デボーションをしていて、イザヤ書を通読していた時に、そこには「イスラエル」への神の愛が書かれており、「主よ、イスラエルから目を話すことはできません」と祈り、そのまま導かれました。聖地旅行にはかれこれ五回行き、そして数年前から、ユダヤ人に関わっているクリスチャンの団体や教会とも交わりを持ち、今に至っています。

日本にいると、変わり種にさえ見られてしまっているのではないかと思われる、親イスラエルや親ユダヤのクリスチャンの働きは、決して流行でもなく、実は非主流でさえもないのです。世界的、歴史的に見たら、ピューリタン運動、敬虔主義運動の中に既に生まれ出ているものでした。信仰の純化と聖書の精緻な解釈に基づいているのがピューリタン運動で、神との深い交わり、教会の一致、そして世界宣教というのが敬虔主義運動の特徴です。その結果として、ユダヤ人の回復という理解も同時に興されており、これらの特徴に加えてイスラエルへの情熱が与えられていました。ですから、こちらがむしろ本流なのです。

そして歴史の途中で、大英帝国の中で政治的な動きが起こり、例えばバルフォア宣言は、直接、福音主義信仰によってもたらされたと言えます。現代のイスラエル建国において、福音主義信仰の果たした役割は、一般の歴史、ユダヤ人の間の歴史の中でさえも、ほとんど埋もれていると言ってよいでしょう。

そして、しばしば百数十年前から始まったディスペンセーション主義の神学が、クリスチャンのシオニズムを始めたのだというのが、親イスラエルではない人々の意見の根拠となっているのですが、私はずっとこのことにも疑問に思っていました。私自身、この神学について体系的に教わったことはなかったからです。そして実際に、この神学を明言し、信奉している人たちが必ずしも、イスラエルに対する情熱を持っているかというと、そうではないからです。上で説明した、すでにキリスト教の文化として根付いているものを、一定の神学が普及し、流行させたというようなもので説明できるような表面的なものでは全くありません。

本書では、確かにディスペンセーション神学が出てきたことも言及されていますが、その動きを正しい位置に置いていることが画期的なことです。その神学は、長い教会史の中で一面の働きは果たしているでしょうが、流れとしては潮流であったとしても底流では全くありません。

1969年ビリー・グラハム氏が聖地を訪問。アメリカのユダヤ人団体と対話を開始。

こうしたことを、本書の多くで説明しており、下のフェイスブックのページの記事で、概略が説明されています。(それぞれ、クリックすれば拡大されて読むことができます。)

ユダヤ人共同体が「伝道」を「改宗」と誤解するわけ

本書はもう一つの、重要な課題を取り上げています。この同じ福音主義の運動は、「すべての人の救い」に深く献身している聖書信仰を持っている者たちでもあるということです。「人はすべて罪を犯し、それゆえ神はキリストを遣わされた。この方が身代わりに死なれて罪を赦し、そしてその確証として三日目に甦られた。イエスこそが、天下の中で救われるべき名として与えられている方はおらず、それはユダヤ人でも、ギリシア人でも差別はない。」とする立場です。これはキリスト教、殊に福音主義の信者には強固に保持されている信仰です。

さらに、「ユダヤ人がキリストをもたらしてくださっただから、霊的な恩返しをユダヤ人にしたい。」ということで、異邦人のキリスト者もユダヤ人にイエス様を紹介するという動きを強調している人々もいます。また、キリスト教の歴史の中でイエスを信じることが、ユダヤ人を捨てるように強制改宗された歴史を持っているため、イエスを信じるユダヤ人たちが、クリスチャンという言葉を敢えて避けて「メシアニック・ジュー」と自らを名乗り始めて、ユダヤ人の文化や習慣を捨てることなく、イエスを礼拝するという運動が米国から始まり、イスラエルにも数多く集会(教会)が建て上げられています。

<ジーザス・ムーブメントとユダヤ人の回心>

ちなみに、私の周りにユダヤ人兄弟が多かったのは、また別の流れにあると思います。第一に、カルバリーチャペルの群れが人種を超えた教会を強く信じているからでしょう、アラブ人の兄弟もいましたし、アジア系もとても多かったです。第二に、ヒッピー文化が米国で広がっていた時に起こった霊的覚醒、つまり「ジーザス・ムーブメント(イエス革命)」の中に、ユダヤ人が数多くいたということが、もしかしたらルーツになっているかもしれません。一般でも知られているのは、ボブ・ディランがユダヤ人であったけれども福音的信仰を持って、歌の内容まで変えたことがあります。今のメシアニック運動でアメリカの著名な指導者には、この時期に救われたと言っている人が多く、福音的信仰を持っているユダヤ人たちの源流とも言えます。

こういった福音主義の流れを典型的に表わす写真が、こちらです。

今や、日本語に翻訳するのに献身しておられる方々のおかげで、日本の人々にも知られるようになったアミールさんとJDファラグさんですが、私にとっては前から知っていた方々で、共通の友人や知人を持っている近い存在です。上の投稿に詳しく書かせていただきましたが、自分がカルバリーチャペル・コスタメサに通っていた時代を髣髴とさせる雰囲気です。異邦人、アラブ人、イスラエル人がそれぞれ、イエス様の福音を伝道されることによって知り、御霊によって新しく生まれ、キリストにあって愛で結ばれている共同体を体験しました。

<ユダヤ人共同体と福音主義教会の間にある、深淵な誤解>

話しを戻しますと、このような教会の福音宣教において、ユダヤ人にも救われて欲しいと思う熱心さから、従来のユダヤ人共同体から、強い反発を受けています。そして、イスラエルはユダヤ教を基調にしている国ですから、政治の中にも影響を強く持っており、そのような動きを監視している反宣教団体も存在します。

これは、教会が「改宗」という名によってユダヤ人迫害を続けていた長い歴史があるためです。キリスト教が公認されてから反ユダヤ的な傾向が始まり、中世では強制改宗が行なわれ、宗教改革でユダヤ人伝道にルターは目覚めるも、ユダヤ人が受け入れないために晩年は反ユダヤ主義に陥り、その思想の影響がホロコーストの張本人ヒトラーにもあった、と言われているからです。その歴史的経緯から、ユダヤ人がイエスを信じるということは、ユダヤ人を捨てることを意味するまでになりました。それゆえ、福音派の教会のユダヤ人伝道の熱意や働きが、そうした強制改宗を髣髴とさせるものであり、「霊的ホロコースト」とまで呼んで反発するという現実があります。

以前、南部バプテスト連盟の代表と、「イエスのためのユダヤ人たち(Jews for Jesus)」の代表が、アメリカのユダヤ教ラビ二名とのディベートを行っています。以前、ブログ記事「ユダヤ人は救われるのか? - カトリックの立場」のコメント欄で取り上げた動画で何度も聞き返した討論です。驚いたことに、本書でもこのディベートが大きく取り上げられています。ここのラビたちと福音的信仰の指導者の間に、深刻で深淵な誤解(意思伝達の齟齬)が起こっているのに気づきます。

福音派の親ユダヤ団体では、こうしたユダヤ人共同体に対する配慮を最大限に行って、「行い」によってキリストを示すことに徹しています。また、ユダヤ人たちからキリスト者の信仰を学ぶ姿勢も強く示し、ユダヤ人とキリスト者の和解に献身しているところが数多くあります。

しかし、本書が偉大なのは、真っ直ぐに、これまで見逃されていた盲点を、福音派キリスト者だけでなく、ユダヤ人共同体に対しても論述していることです。つまり、「中世のころの強制改宗と、福音主義的敬虔主義による福音宣教は、教理においても実践においても、まるで本質が異なるもの」であり、「事実、400年以上続いている親ユダヤの働きかけで、福音を受け入れないユダヤ人に対して、反ユダヤ的行動に移ったことは、ほぼ皆無である」ということを論証をしているのです。

保守派のユダヤ人論者で、デニス・プレガー(本人は正統派ユダヤ教徒)など、そのことに気づいている人々がおり、「たとえ自分がイエスを受け入れなくても、自分の信仰を尊重し受け入れてくれるのは、まさしくこの福音派の諸教会だ」という認識を持っています(参照記事:A Jew defends Evangelical Christians)。おそらく、政治家のネタニヤフ首相もそのことを本能的に知っており、それで福音派キリスト教との協力関係を強力に推進しているものと思われます。彼は、先に話したイスラエル建国に福音的キリスト者がどれだけ貢献したか、その歴史を熟知しています。(彼が福音派信者の前でのリラックスした姿は深い信頼を置いていることの表れです。)

<一割を越えた在米ユダヤ人信者>

そして、一部のユダヤ人が福音派信仰を認めているだけでなく、数多くの在米ユダヤ人がイエスを信じて行っているという統計もあります。

Ground-breaking study reveals 871,000 Jewish believers in Jesus in the U.S.

・福音的信仰を持つ米国人の86㌫は、ユダヤ人に福音を伝えることは重要だと思っている。
・871000人の福音的信仰を持つ米国人は、(過去の推定より三倍になっている。)片親あるいは祖父母のどちらかにユダヤ人がいる。

大体600万人が全米でユダヤ系だと思われますが、その内の10㌫以上が福音的信仰を持っていると言っているのです!にわか信じがたい人数ですが、しかし神が前例のないことを行われると言ってよいでしょう。

<理解されていない福音主義神学>

今頃になって、福音主義神学が、リベラル陣営で槍玉に挙げられることが多いのですが、そもそも何百年もそのように信じて来て、中世の教会のように反ユダヤ行動に出ていないどころか、聖書信仰に目覚めたピューリタンが、ユダヤ人の市民権と信教の自由を英国に、そしてニューイングランド(米国)に推し進めたところから始まり、惜しみなく援助や救援を差し伸べてきたのですから、まるで矛盾した行動を良い意味で取っているわけです。こういった「実」から、本当は判断してほしいのですが、本書でも、福音主義神学が一見矛盾しているように見える教理を同時に信じていることを、上手に説明しています。(本書124頁から第五章の「逆説」)

ところで、親イスラエル運動を個人的にSNSで展開しているキリスト者が(福音派の人ではありません)、日本のホーリネス運動の創始者である中田重治氏を反ユダヤ主義と決めつけた投稿を見た時は、驚きました。「中田は、ユダヤ人をクリスチャンにしようと企てた」という言葉は中傷であります。それは中田師が、終わりの日にユダヤ人がイエスを信じて、霊的にも回復するという聖書理解を持っていたからでありましょうが、彼の指導するホーリネスの群れの人たちが、杉原千畝氏の発行した通過ビザによって日本の入国した時に、ユダヤ難民を組織的に助けたという事実をどう見ているのでしょうか?これが典型的な、「伝道を改宗と同一視」することによって、とんだ誤解をしている例です。

参考記事:「命つないだ神戸のリンゴ ユダヤ難民4600人支える

ちなみに、本書の最後に訳者のあとがきがありますが、そこにホーリネス運動の記録を記しています。そうです、中田重治氏こそ米国の福音主義的敬虔主義の流れにいた人で、彼が携えてきた聖霊による情熱が日本にも伝播し、イスラエル建国の前からイスラエルのために祈ってきた運動が日本の中に起こったのです。しかも、それが現代に至るまで、超教派的に祈りの輪が日本の諸教会に広がっているのですから、これは凄いことなのです。私たち日本人も、直接、このピューリタンと敬虔主義発の、福音主義運動の系譜の中にいるのです!

伝道は、「押す」だけでなく「引く」ときも

しかしながら、「伝道」という言葉は、我々、福音的信仰のキリスト者は、いろいろな段階があることを知らないといけないと思います。

私たちが伝道について勉強する時、「四つの法則」に代表されるような、「論じる」ことによって信仰へと導くことも、神は御心に持っておられます。それはユダヤ人に対しても同じで、パウロやアポロは、ユダヤ人たちと激しく論じ、イエスがメシアであることを承服させるところまで持って行きました。先に言及したJews for JesusChosen People Ministriesような団体は、直接伝道にとても熱心な団体であると言えます。また、ONE FOR ISRAELという団体は、SNSを駆使してイエス様への信仰を直接的に勧める伝道を行っています。

しかし、そのパウロ自身が、コリントにいる信者に対して、自分の弁によって福音を伝えず、御霊と力によって、十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えたと言っているとおり、「聖霊」によらなければ決して人は信仰を持つことはできません。ですから、「改宗」という言葉の響きに含まれるような、人為的な操作は一切できないし、またやってもいけません。聖霊に拠り頼む宣教が絶対に必要であり、説得によって信仰を持ってくれるということでは決してないのです。

そしてイエス様は、使徒1章8節で、聖霊が臨んで力を受けたら、あなたがたはわたしを証言する、と言われないで、「証人となる」と言われました。つまり、言葉による宣教以上に、その存在が証言となっており、「自分の姿からキリストが見える」というところまでをイエス様はお語りになっているのです。事実、福音書のイエス様の働きは、聖霊によって憐れみの行いをされることによって人々が集まり、それで御言葉を聞いて信仰を持っていきました。

そして、福音書を注意深く見ますと、「あなたの信仰が救ったのです」というイエス様の言葉が多く出てきます。それは、すでに相手が信仰を持ちたいという願いを持っていて、イエス様はそれを引き出したにしか過ぎないからです。ですから、その気がない人に説得して信じさせるようなことではなく、その良い行いを見て、自発的にご自身を信じさせるようにされました。「押して駄目なら、引いて見ろ」ではないですが、ただ口で伝えることが伝道ではなく、むしろ相手のほうから「いや、私はイエス様について行きます」というような決意を引き出せるような伝道があるのだということです。

そして何よりも、伝道(イエスの道を伝える)というのは、「自分ではなく、自分に死にキリストが生きる」というところにこそ、神が聖霊によって行ってくださるという大前提を忘れてはいけません。ですから、いわゆる直接的伝道を行わなくても、実はキリストに生きる生き方をしている中で、神がその証しによって人を信仰へと導くこともされるのです。いわゆる「行いによる伝道」です。

しかし、もちろんローマ10章にあるように、「聞かなければ、どうして信じることができましょうか」とあるように、福音の言葉を聞かせる働きがあってこその行いであり、ここに両者のバランスと両者それぞれの役目があります。

そして、神のご計画のどの段階を見るかによって、ユダヤ人への働きかけの強弱が決まります。つまり、パウロが「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」と言ったので、ユダヤ人への直接伝道の必要性がある一方で、ローマ9章にある、神がユダヤ人の心を頑なにされているという主権もあり、11章における「異邦人の完成があって、それでイスラエルがみな救われる」と考える人々も多くいます。ですから、今の時代、ユダヤ人の多くの人が信じるとは思っておらず、それにも拘らずキリストの愛を行いによって示していく働きに献身している人々が、福音派の信者には多いということです。

最後に、パウロが異邦人の信者に対してローマ11章後半で、オリーブの木に接ぎ木されているという比喩を出している点がとても重要です。つまり、「イエスをユダヤ人に教える」前に、「あなたは、ユダヤ人の幹に接がれている枝なんだよ」ということを思い起こさせているのです。つまり、ユダヤ人やユダヤ教に、キリストにあって私たちがつながっているということを、決して忘れてはいけないです。それゆえ、以前ご紹介した「私たちの父アブラハム」(マービン・ウィルソン著)に書かれてあることのような学びが必要です。(関連記事:「距離を置きたいような神学論議」「日本宣教と「ヘブライ的思考」

相互協力と相互理解

実は、本書においても、福音主義にある「伝道」を強調しているのではなく、「相互協力と相互理解」というのが主旨になっています。

ここにおいて筆者は、福音主義敬虔主義の人たちとユダヤ人たちが相互の愛と協力の絆を作ることを提案する。両者が共に働くことができる共通の土台があるのだ。この相互の愛と尊敬においては、双方が、自分に不快な相手の考え方を我慢しなければならない。しかし、相手の考え方 — その劇画ではなく — を正確に理解することが肝要だ。」(125頁)

最後の二文が、本書の大きな貢献の部分であると思われます。ユダヤ人社会だけでなく、非福音派教会や、リベラル、マスコミ、そして専門家にさえ、とかく誤解される福音主義神学とその実践です。本人たちは単純に信じているけれども、外部の人たちが理解するのは難しいと思います。けれども、正確な理解をしていただく試みは、忍耐強くしていかねばならないでしょう。

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