「私は、旧約聖書があるからキリスト者なのです。」

ジョン・マッカーサー牧師が保守論客ベン・シャピロ氏の番組で福音を語る(47:22から)

ベン・シャピロという、アメリカでは政治保守派の若手の論客としてよく知られた人がいます。彼は、The Daily Wireの編集長をしています。彼のもう一つの側面は、ユダヤ教正統派ということです。保守論客でユダヤ教徒で有名なのは、Prager Universityデニス・プレーガー氏です(ある動画を日本語で紹紹介)。お二人にとても好感を持てるのは、米国が確かにユダヤ・キリスト教の伝統と価値観に基づいている国であるとして受け入れており、福音派教会に対して、一定の尊敬を持っていることです。

 しばしば、ユダヤ人たちの間に、過去のキリスト教の反ユダヤ主義の歴史があり、今も悲しいことに厳然として存在していますから、「イエス」や「キリスト教」の話をすれば、「あなたはそれを信じる自由があるが、ユダヤ人には関係がない」として抵抗します。しかし福音派の人たちは、「イエスを信じなくとも、あなたは神のかたちに造られた尊い、愛された存在ですよ」という深い確信を持っています。お二人はどちらもそのことを知っています。信じなかったら、あなたには価値がないかのように決してみなさないことを、お二人はご存知です。(関連ブログ記事

 しかしこの番組の一部を取って、ベン・シャピロ氏やユダヤ教を見下すようなコメントをするキリスト教関係者の動画もありますが、そういったことこそが、福音宣教に汚点を与えているということを知らないな、と思います。イエス様を伝えるのは、相手が通って来た人生も、神がそのように導いておられるということを知って、最大限に尊重して、そこに神がおられるのだよと伝えるのであって、尊重のない伝道は、はっきりいうと伝道になっていません。特にユダヤ人は、神に選ばれた民という霊的な側面が強いので、なおのこと、尊重、尊敬の態度があってこそ、初めてイエス様を伝えられます。

 そういった意味で、牧者ジョン・マッカーサー氏は、すぐれた福音宣教者であり、神のご計画の中にあるユダヤ教を熟知しています。そして何よりも、ユダヤ人やイスラエルに対する愛が溢れています。キリスト教会は、パリサイ派を悪者、イエスを水戸黄門のように対立関係の中でみなしている傾向がありますが、福音書の背景を何も分かっていません。おそらく、最も信じ方や実践が近かったからこその論争なのです。ジョンさんは、ユダヤ教をキリスト教の対立とみなさず、相互補完するものとみなしています。

 この対話の内容自体が、キリスト教神学の深い部分に触れています。ジョンさんは、置換神学(教会がイスラエルに取って替わった)は反ユダヤ主義であり、今の流行りの教えに言及して、旧約聖書の語られた文脈、明らかな意味を無視するほどに「新約聖書から読み込む」ことを拒んでいます。

参照記事:「聖書、預言、イスラエル、そしてカルバリーチャペル

 もちろん、旧約にある啓示を新約の光で読むことは聖書釈義の基本であり、私も絶えず行っていますが、そういった意味ではなく、「旧約の時代に、主のことばを聞いていたイスラエルの民が、語られたことをどう捉えていたか?」ということを差し置いて、あるいは無視して、あたかも「意味の隠された暗喩に満ちた本」であるかのように解釈することが、流行しています。こういった読み方が、今の日本でも、福音派神学校やキリスト教のマスコミでも、かなり流布されていますね。

参照ブログ:
旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(前編)
旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)

 それでもって、ジョンさんは、旧約なくして、どうやって私がキリスト教の信者になれたのか分からない、と言い始めるところから、はっきりとイエスを、まだ知らない人に証言する伝道となっています。また、その伝道自体が、旧約と新約のつながり、福音書にあるイエスのお姿を解き明かす優れた講解になっています。

 次の言葉を思い出しました。「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。(Ⅰペテロ3:15-16)。多くの人は、ここの箇所を使って、キリストを相手に説き伏せようとしますが、後半部分を忘れていて、「柔和で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明する」という姿勢が問われているのです。

 ちなみに、ベンさんも忍耐して、ジョンさんの話を聞いていますね。彼の事も尊敬しています。

「私は、旧約聖書があるからキリスト者なのです。」(ジョン・マッカーサー)”I am a Chritian because of the Old Testament.” John MacArthur

 これは、ユダヤ教徒の人にはちょっと驚く発言ですが、キリスト者にも驚く発言かもしれません。もし驚くなら、実はイエス様が「あらら・・」と思っておられると思います新約聖書、福音書の中に、主ご自身が、旧約の預言をすべて成就するためにご自身が来られて、苦しみに会い、栄光の中に入られたことを説き明かされたからです(ルカ24章参照)。

 私がしばしば、クリスチャンに尋ねる質問があります。

「過越の祭りはいつ頃に守られていますか?」

 ほとんど手が上がりません。次にこう聞きます。

「イースターはいつ頃ですか?」

 習慣、感覚としてすぐに「4月初め」と答えが返ってきます。

 ここで、旧約と新約の分離が、起こってはならないのに起こっているのです。「イエス様が死なれたのは、過越の祭りの最中」であり、甦られたのはその三日目です。しかも、「過越のキリスト」とコリント第一では呼ばれており、過越はキリストの贖いを指し示しているのです。旧約と新約は同じ神であり、同じご計画の中で展開されているものです。

 しばしば、旧約聖書と新約聖書の説明をする時に、前者を「イスラエル民族の歴史」、後者は「イエス・キリストの生涯」としますが、語弊があると思います。このことによって、前者はイスラエルにだけ関わるもののように誤解されてしまうのではないか?と思います。これでは旧約聖書がまるで、霊感を受けた神の言葉ではなく、参考書のようにさえ聞こえてしまいます。私は、日曜学校などで子供たちに、こう教えていましたし、今も伝道などでこう教えます。

「旧約聖書は、『キリストが来るよー!』と教えている書物」
「新約聖書は、『キリストが来たよー!』と教えている書物」

 来ると言われていた方が、来た!というのが新旧合わせた神の救いのメッセージであり、分離できるものではないでしょう。

参照記事:「聖書の学び はじめに

 このような分離が、ユダヤ教にもキリスト教にも悲劇として起こってしまいました。ユダヤ教の人たちにとって、「イエス」は、「神ではない人をたたえて、あがめているので、偶像礼拝だ」と感じ、キリスト教の人にとってユダヤ教は、「イエスを信じない頑なな人たちで、神の計画とは無関係」としています。

推薦図書:「私たちの父アブラハム」(ブログ

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