映画「神々と男たち」

今の日本人キリスト者に迫る約20年前の出来事

前記事の続き)

神々と男たち本日はお休みの日にしているということで、フェイスブックで、ある方の紹介で「神々と男たち」という題名の映画を観ました。次のような説明文があったからです。紹介されていた方のフェイスブックの投稿で、次のように説明しておられて、今日はこれを鑑賞しようと思いました。

「タイトルに関連した詩篇82:6,7から始まる、1996年に起こったノンフィクション映画です。最近のISISによる事件ともかぶるので観るのに気が重くもありましたが、永遠の視点について考えさせられる良い作品でした。

アルジェリアで現地のイスラム圏の人々に寄り添いながら神に仕えていたフランス人修道士8人。しかしクリスマスイブにイスラム武装派が修道院に乱入し、このことを機に軍と武装派との争いに巻き込まれることとなります。次の襲撃では殉教すると分かっている修道士たち。フランス政府からも勧告を受け、このままとどまるべきか退去すべきか意見が分かれ、悩み、祈り、もう一度人生を見つめ直します。 続きを読む 映画「神々と男たち」

カルバリーチャペル・グレイス(Calvary Chapel Grace)との交わり

3月25-31日は、カリフォルニアのアナハイムにある、カルバリーチャペル・グレイスの宣教チームと時間を過ごしました。その牧者、スティーブン・オウ(Stephen Oh)とは、18年前からの友人です。私がカルバリーチャペル・コスタメサのスクール・オブ・ミニストリーで、95年、牧者チャック・スミスの講義を聴きにいらっしゃった時に顔を合わせました。彼は既に93年に卒業、私は97年に卒業しました。そして97年に私たちが日本に帰って、年始めに訪米する時にはほぼ毎回、会いに行っていました。

下の写真は2003年7月に、私たちが英会話で子供伝道をしていた時に私たちのところに訪問した時の様子です。

ロゴス英会話教室(2003年7月)

一緒におられるのは、近くの綾瀬東部教会の牧師夫妻で、ご子息が私たちの英会話教室に通っていました。この教会の魯牧師とも私たちは懇意にしていただき、長い交わりを主にあって持たせていただいています。そして今回、宣教チームが宿泊でお世話になりました。

この一週間、主がこれまで保たせてくださったこの愛の交わりを感謝すると同時に、これまで互いに知らなかったことも分かち合うことができ、とても感慨深くなりました。

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東松島復興支援旅行(8月7‐9日)

盆の時期を越えましたが、これからは残暑との戦いですね。みなさん体にお気をつけください。

8月のニュースは、もちろんLCFの礼拝場所が日暮里に移動したことがありますが、二つのイベントがありました。一つは東松島復興支援旅行で、もう一つは昨日帰ってきました、マラナサ・バイブル・フェローシップのファミリー・キャンプです。

東京日暮里国際教会の朴樹民宣教師が、神学校時代に親友となった、今は教会の副牧師をされている方が日本へ短期宣教チームとして来ました。朴宣教師ご自身は去年の12月に既に月浜に行かれていたので、そこに行くことになりました。

私たちは付き添い、というか、韓国語の通訳を初めとする奉仕とその他のお手伝いです。三月以降行っていなかった月浜ですから、とても久しぶりです。

韓国の兄弟姉妹と時間を共に過ごせたのは、とても楽しく、また休息となりました。旅行というと必ず「温泉」に入りたがる人々が多かったですが、例外にもれず、何と行きと帰りの二回入りました!そして韓国チームは、夕食会に出す料理だけでなく、自分たちで食べるものは基本的にすべて持ってきました。(宿泊先となったチャックさんと由美さんの家で、お二人は、朝からキムチの出る、そしてまたたく間に大人数の朝食を作り、また後片付けをする婦人たちの姿を、関心を持って見ていました!)その中で私たちも久しぶりに、韓国文化と生活に触れることができ、そしてその中にイエス様の愛がブレンドされていて、癒される思いでした。

東松島は大きく変わっていました。復興の早さに驚かされます。月浜には、以前紹介させていただいた海苔の産業復興グループの月光さんが活躍していました。私たちは、たいしたお手伝いはできませんでしたが、海苔の養育に使う綱を整えるお仕事をさせていただきました。この頃は、ボランティアに単純な作業を任せることができている反面、複雑な作業がしわよせになってしまっている、ということでした。

舟巡りもボランティア向けに始めてくださり、私たちも乗りました。私個人は、小学校の時にこの砂浜から舟巡りをしたことがあり、あまりにも美しかったので原体験のような追憶となりましたが、まさか三十数年後にこのような形で乗れるとは思ってもみませんでした。

一日目の晩は、公民館で日本宣教の講義を任されていたので、行ないました。私は、率直に一般に日本宣教で言われている言葉を否定しながら話していきました。例えば、「日本は宣教師の墓場だ」という言葉があるが、それはキリストの愛について何も知らない言葉である、など。一般の短期宣教とは異なる方法を話していきましたが、みなさん心を柔らかにして聞いてくださいました。

二日目の朝のデボーションの時間に、チャックさんが救いの証しと月浜に導かれた話をされました。午前中は、由美さんが毎週持っている「お茶っこかふぇ」で、ご婦人の一人が救いを証しを分かち合ってくださいました。DVDはイエス様の復活の話まで言っているそうです。

そして二日目の晩は、プルゴギ、チャプチェ、チヂミ、キムチを夕食に出し、談話室の外で、チームがテコンドー(韓国式空手)の踊り、日本語の歌を含めた唱歌、それから牧師さんによる証しの時間を持ちました。みなさん最後まで聞いてくださり、「自分が世界で最も悪い罪人」だということを悟れば、それが真の救いになるというしめくくりでした。

そして、もう一つ、会えるかどうか分からなかった牛網の千葉さんに、今回は会うことができたのもとても嬉しかったです。彼の実家の畑は津波の被害を受けたけれども、三日目にそこを立ち寄ったら、見違えるように実りある畑に変わっていました!彼からいろいろな話を聞くことができましたが、避難所の生活よりも今のほうがある意味で辛い、とのこと。仮設住宅という個別の生活、大勢の人が死んだけれども、醜い遺産相続の争いが多発、学校の吸収合併などなど、精神的な負担は今までになく重く圧し掛かっているそうです。けれども、マスコミには目に見えない姿はあまり取り上げられません。私たちのミニストリー(働きかけ)は、まだまだ続けなければいけないと強く思わされた次第です。

チャックさんと由美さんは、根気よく福音の種まきをしておられます。ぜひ芽が出て実が結ばれるまで、神が守り、それを成長させてくださるようにお祈りください!

「喜びの分かち合い」を妨げるもの

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)」

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(1テサロニケ2:19)」

「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ1:18)」

「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(1サムエル30:23-24)」

主の御霊が働かれるところには、喜びがあります。そして、それは主の豊かな恵みによるものであり、関わっている全ての人に分かち合わざるを得ない性質のものです。良い知らせを受けて、それを自分だけに押し込めておくことは罰を受けてしまうだろうという思いが生じて、他の人々に分け与えます。だれも、あふれるばかりの主の恵みを占有することはできないのです。

私たちは海外宣教の経験から、二つの原則を見ます。一つは、「神はご自分の御霊で働かれる時、その妨げとなる既成のものを時に壊される。」ということです。もう一つは、「ぺっちゃんこになったところに、神は灰から花を咲かせるように、復活の命を吹き込まれる。」ということであります。(参照記事:「私たちはよみがえります」)ちょうど、神が、人々が地に広がる、地に満ちるようにするために、人間の力と知恵で築き上げたバベルの塔を、言葉をばらばらにすることによって無理やり散らされたように、私たちの肉の力で築きあげたものをばらばらにされることがあります。

東日本大震災において、神の御霊が働かれました。私自身東北出身の人間として話しますが、「みちのく」(道の奥)という言葉があるように、東北の人々は「こもる」傾向があります。内向きであり、外から来るものを受け付けない傾向を持っています。ですから、地元の教会も共に働くという機会は少なかったし、また開拓伝道は実に難しいところです。けれども地震と津波によって、真にキリストにあって助け合う空気が教会間に生まれ、そして地元の方々が新しく来たボランティアに対して暖かく迎える空気が出来上がりました。それは、私たちの経験した海外宣教に、より近づいたものになりました。

形や組織、儀礼というものは取っ払われ、機動性のみが重視されました。ある地元の牧師さんは、「地元の人々は、初めに来てくれた二つのグループの人々を知っています。自衛隊とクリスチャンたちです。」当事者たちが自分たちに何が起こっているかを把握することができないほど、主の働きが先行し、それに追いつくようにして、自然発生的に様々な教会が被災地に突き進んでいったのです。

そして、伝道、弟子訓練、開拓伝道というのはプログラムではありません。生身の体を持つ人間相手の働きです。人と人とのぶつかりあいによって進んでいきます。宣教において必要なのは、主が肉体を取られて人々の間に住まわれたように、その現場の中に一つになることです。そして東北という村社会が色濃いところですから、共同体というものの中にある原則を、ちょうど潜水して息を止めるように、その中でじっくりと観察していかなければいけません。プログラムを押し付けることはできず、中にいて、そこに働いておられる主に自分自身が出会うのです。そこから、外から与えられる福音ではなく、内から湧き上がる福音、キリスト者らを通して広がっていく生きた福音が必要であります。

しかし宣教において必ず起こるのが、人間的な組織化です。例えば、「この伝道対象地域は、だれの管轄か。」という縄張り意識。「この救われた魂は、どこの教会に属するのか。」という、これまた縄張り意識。既存のものがぺっちゃんこにされ、だれがどこの教会に行くのかなど、どうでもよかったものを、いや、誰かがどこかの教会につながれば、皆で一つになり、大声で喜びを分かち合うことができるものを、そのような意識に縛られて、形を壊しながら働かれた神の御霊を結果的に打ち消しています。

アメリカで実際に起こった話です。ある牧師はずっとある国に短期宣教旅行に行っていました。現地の人々とのつながりができ、御言葉を教える多くの機会が与えられていました。ところが、その教会の他の部門を担当している人が、「あなたの通っている宣教地域は、アメリカの●×教会の牧師が管轄になったから、その人に許可を得てから行かなければいけない。」その牧師は唖然としました。それで電話し、聞いてみました。その、宣教地域の管轄を任された牧師とも実は知り合いの仲でしたが、彼はこう答えました。「私に許可なんか取る必要はありませんよ。」

このことを分かち合ってくださった牧師は、「これは残念ながら、有名な宣教団体でも多かれ少なかれ起こっていることです。」と言って、他の例も挙げてくださいました。いずれにしても、私たちが人間である以上、いつでも起こりうることだということです。

そして組織を作ってしまうと、恐いのは、その組織を維持することに多くの気力を使うことが可能になってしまう、ということです。その組織を運営していくことこそが、主に仕えているのだと勘違いしてしまうことです。これはもはや、ミニストリー(=主への奉仕)ではありません。(参照:「ミニストリーの基本」(原稿 ・ 音声))

そして、その宣教の現地の話に戻ると、十年ぐらい経った今、その管轄の牧師が実際には管轄しているのではなく、地元の教会の牧師たちが共に協力し合い、自立して動いていこうという機運が生まれています。そして、そこには豊かな平安と喜びが留まっています。再び御霊は、人が形あるものを作り上げようとしているのを壊し、人々の内側から御霊が働かれ、ご自分のわざを成し遂げようとしておられるのです。

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」

「聖霊によって始められたのですから、聖霊によって続けましょう!(「カルバリーチャペルの特徴」チャック・スミス著 第九章「聖霊によって始まった」65頁)

「当事者」になろう! その2

その1からの続き)

「地を支配せよ」と命じられた神

私たち人間はある意味ですべてが政治家です。神のかたちに造られた人は「地を支配せよ」と命じられました。被造物の事象に積極的に、創造的に関わるのが、神が人に与えられた本来の姿です。したがって、自分が当事者であることを忘れることは、その元来の姿からの堕落を表しています。

「なぜ神はこんなことをするのだ・・・」と、あたかも自分自身が神の世界の外にいるかのように神の言葉や行動に疑問を呈するところから一歩出て、まさに自分の生活と人生の真中に神の御手があることを認めるところから真の信仰は始まります。そこには綺麗事はなく泥臭さがあるのです。自分自身が、あのむごい十字架刑の加担者であることを認めること、しかも実生活、日常生活の中で認めることが、キリスト者になる道です。自分について全責任を取る、つまり、泥だらけになるわけです。

最近、著名なクリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏が来日して、3・11の一年目に合わせて来日しました。彼の講演の中身は、私は心から同意・同感しますが、今、お話していることに関連する言葉は、次のものです。

「祈りというものは、私の意思で何がしたいかということを神様にお願いするというよりも、神様の御心の中に私をどのように置くことができるかということを知ることのために行うものです。『神様、今日あなたは何をなさるのでしょうか?その働きの中に、私を加えて下さい』という祈りをすることが必要です」
http://www.christiantoday.co.jp/article/4282.html

ヤンシー氏は、「痛んだ時に神様はどこにいるのか?」という問いは、「痛んだ時に教会はどこにあるのか?」という問いに置き換えられるとし、「教会の支援活動を通して東北の人々は神を見ていた」と指摘。「宮城県を訪問し、教会が本当に傷んだ人々のため仕えているのを見た。世界中から支援のため訪れたボランティアの姿も見た。教会が与えられた仕事をしている時、周囲の人々は『神様はどこにいるのか?』と尋ねてこない。彼らの姿を通して、神を見ているからです。」
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=356

神の御心の中の当事者になろう

震災後、一週間も経たぬ時に、「なぜ神はこのように人々を多く殺されたのか?」という質問をある人から受け取りました。私は、「神は主権の中でこのことを許されただけでなく、その苦しみの只中にいて共に悲しみ、泣いておられる。」と答えました。すると、「なぜ主権の中でそれを許されたのか?もし許すのでなければ、悲しまないですむではないか?」という質問でした。その次の回答は、上のフィリップ・ヤンシーの講演全体に書かれていると思いますが、私はこう答えました。

「(返答が)手短になってしまい、すみません。なぜかというと、時間がありません。今も、実家が仙台なのでどのように救援物資を運べばよいか悩みつつ、外回りをしていました。仙台に行けるよう、主が戸を開いてくださることを祈りつつ、前に進んでいます。」

疑問を呈することができるのは、言い換えれば、災害を受けていない自分に、時間と余裕があることに他なりません。キリスト者の信仰は、前記事に書かれていた進歩派ジャーナリストのように権力者(ここでは神ご自身)を批判する安全圏にいることはできないのです。むしろ、「この災害において、あなたの御心とお働きの中に私を加えてください。」という祈りになるのです。

そして、「痛んだ時に神はどこにいるのか?」と問うのではなく、「痛んだ時に教会はどこにいるのか?」を問うべきなのです。そして教会がその痛みと共にいるときに、実際に傷んでいる人は「神はどこにいるのか?」と問わないのです。すでに、教会を通して神を見ているからです。

ケネディー大統領の就任演説の有名な文句は次でした。

「私の同胞アメリカの方々、あなたの国があなたに何をしてくれるかを問わないでください、あなたの国のためにあなたに何ができるかを問うてください。世界の市民の方々、アメリカがあなた方のために何をしてくれるのかを問うのでなく、私たちが共に人間の自由のために何ができるかを問うてください。」(And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)

これは政治的なことだけでなく、霊的にも同じことが言えるのではないでしょうか?

「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!

震災一年 険しい復興への道のり

この前の日曜日(3月11日)は、午後礼拝の時に震災追悼祈祷を捧げました。カルバリーチャペル西東京が提案した、キリスト者が捧げる祈りの三つの要点①慰め、②救い、③復興に焦点を当てて祈りました。

そして明石夫婦は次の日、再び東松島に行ってきました。ロブさん宅で被災地の方々をお招きしてのお茶会です。そして昨日帰ってきました。

当地で月浜の月光プロジェクトの方々ともお会いしました。何かお手伝いできることはないか相談を持ちかけながらの話でした。先のブログ記事でも書かせていただきましたが、私個人は上の祈祷課題の「③復興」について、痛切に感じていることがあります。それは直、被災地以外に住んでいる私たち自身に関わることです。

一言でいえば「忘却」との戦いです。

首都圏の人々を含める震災後の日本人の動きについて、世界から称賛の声があがりました。なぜこうも秩序正しく災害に対応できているのか、そして瓦礫の山がなぜこんなに早く片付けられているのかなど、海外では信じられないことばかりです。けれども、当地の方々や我々日本人には「やらなければいけないことをやっただけ」という気持ちが強いでしょう。

けれども、私個人は「これから、とてつもなく恐ろしい危機が訪れる」と感じています。被災地に行けば一見平穏に見えますが、次のNHKのニュース記事をお読みください。

震災一年 被災地600人の声

なんと仮設住宅から外出する頻度が、週に一回程度またそれ以下が「四人に一人」になっているのです。閉じこもりがちになっているその現状があります。ニューヨークタイムズ誌によれば、地震の被災の場合は一年後に自殺率が最高値になり、洪水の場合は四年後に増えるという研究結果があるそうです。今回の震災は地震と津波、また福島の方は原発事故という混合被災ですから、さらに自殺率は増幅する懼れがあります。

自殺の原因としては、もちろん失った家族や大切にしていた物の喪失感はありますが、何よりも失業などにより、これからどうやって生活を再建すればよいか全く目途が立たないという不安感です。

少し「自分が被災者だったら」と想像する時間を、数分でも持ってみたらよいでしょう。誰もこの地震と津波を予想できていないのですから、再建のための貯えはないわけです。けれども、仮設住宅は基本的に二年という期限(もちろん、現実には多くの場合延長される可能性が大です)があり、それで自分自身で住まいを見つけなければいけないのですが、家を建てるための政府からの補助金はたったの2百万円です。そして、何よりも仕事がありません。津波の被害を受けた人々は沿岸部でその多くが漁業関係者ですが、建築業の雇用や短期就労機会は増えたものの、漁業の雇用機会はほとんど増えていません。会社を再建するための基盤が失われているからです。(参照記事:「漁業のまち 復興をはばむものは」)私たちが奉仕をさせていただいている月浜地区の場合は、例えば海苔生産のための機材がみな津波で流されており、実質的な生産ができていないのが現状です。

少し「自分がそうだったら」と想像するだけで、私だったら「閉じこもったり、お酒に頼ってしまったり、自殺願望が出てくるのも当たり前だ」という気持ちになりました。

その「震災失業」の苦しみをNHKスペシャルがかつて報道したことがあります。
東日本大震災「“震災失業”12万人」(動画)

このように全く先が見えない・・・というのが被災地の声であり、その「閉じこもってしまっている声」を聞くのは、私たちのほうからその中に入っていって寄り添って聞きに行く、という努力が必要なのです。もしその愛と忍耐の努力を意識的にしなければ、彼らのうめきと苦しみは私たちの「忘却」という中で埋もれていってしまうでしょう。

初動段階では、その緊急性から救援物資の調達に必死になって動いていたわけですが、今も、形が違いこそすれ、同じ情熱をもって主にあってその方々に近づいていく必要があると私は感じています。

クリスチャンの中には、こういう疑問を投げかけてくる人もいるかもしれません。「生活の再建にまで関わっていくのは、クリスチャンの働きとは関係ないのではないか。」本当にそうなのでしょうか?それでは、これまで配ってきた救援物資はその目的と異なっていたのでしょうか?泥出しは?半壊の家の改修工事は?炊き出しは?それらはもちろん、私たちが確かに生きた福音の言葉を持っていることの、行動を通しての証言であったはずです。そして今必要なのは、生活の再建そのものであり、その領域に関心を示すことは、まさにキリスト者の使命であると私は感じています。

信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(ヤコブ2:17)」
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:17-18)」

そして、もちろん福音を語る働きが私たちの中心使命です。しかし、そのことにおいても私たちが忘れてはいけないのは、「愛と忍耐による福音伝道」であります。私たちは福音伝道の“プログラム”をこなしていくのではありません。福音伝道の組織に忠実になるのでもありません。「イエス・キリスト」という人格ある方を、私たちを通して伝えていくのです。

しっかりとした土台はイエス・キリストしかいない──そのことを私は伝えたいと思います。
私たち人間は、いろいろな組織、団体を作り、いつの間にかそれを神のように信頼する性向があります。しかし、それらはあくまで人間が作ったものです。本当に信頼できるものではありません。自分が本当に信頼できる存在を発見しなければなりません。この発見には時間がかかり、忍耐が要り、愛が必要です。
フィリップ・ヤンシー 「春の息吹 日本の国へ」

今は祈りをもって、忍耐と希望の神の前に出て、憐れみを請う時であります。クリスチャンの方はどうかお祈りください、被災者の方々の生活再建のために。現地入りしているクリスチャン奉仕者のために。そして全国のクリスチャン、全世界のクリスチャンが、東北地方に対する神の愛を知って、自分もその中に関わることができるように。

私たちの周囲に関して言えば、東松島に移り住んだチャック&由美・ロブさん宣教師夫婦のためにお祈りください。そして東松島の月浜地区と牛網地区、またその周囲の方々のために、お祈りいただければとても嬉しいです。

(追記:ブログ記事の題名は、「NHK Web震災特集」の上部にあるフレーズから借用したものです。)

Reflection of one year since the Earthquake and Tsunami

As I reflect on the past one year after the earthquake and tsunami (March11 2011), I am just grateful that the Lord showed His grace upon all of us – Japanese people as a whole and tsunami victims in particular.

The year has been tremendous Christian witness in the region. The locals are very aware how Christians are so giving with unconditional love. I have heard from them that the first two groups who came after the tsunami were Japan Self Defense Force and Christians, and one year after Christians are still in the field.

So many of you have prayed for us and given us financial support as well. The Lord is so good. I didn’t feel we were doing the works alone; but we are simply part of the big team of God. Your prayer to God and the love of Christ in you are powerful spiritual weapons we carry and use.

In all appreciation of what you did, please look at the below article and video;

See how Japan has rebuilt in the 11 months since the earthquake and tsunami

Arigato from Japan Earthquake Victims

Just one year ago, I wrote the below article for English speakers and people outside of Japan;

For people who want to pray and support for Japan

The things I wrote came true. We just had Tohoku Festival of Hope with Franklin Graham on March 2-4, and they say over 400 people came forward to receive Christ, but in reality it is still a far way to go until you can see “revival” or “great awakening”.

We need patient evangelism in order to lead them to Christ. People in Tohoku are very religious and traditional. Many of them have strong Buddhist and Shinto backgrounds. They are polytheists. A tsunami victim came forward on one of the three nights and she told my wife that she misunderstood the message. She thought she could be forgiven of her sins in her interpersonal relationship, but she was not ready to accept Jesus because she can’t believe in a person who died 2000 years ago. Like her, concept of the Creator and plan of salvation through Christ are still foreign to the people.

But it is a very good start. We really need to do follow-ups, but they are not follow-ups after they are saved but follow-ups to lead them to Christ! It does take time, but I am pretty confident in the Lord that they will come to know Him if they commit their time and energy to learning of His word. So, please pray for Christian workers who lead Bible studies in the field. The locals have seen Christian witness through material assistance; but now is the time to really focus on spiritual truth behind the material assistance.

However, we still do need material support. The number of volunteers in the area decreased drastically and many of the restorations and construction works were accomplished, but a real crisis has come to the tsunami survivors. Life in evacuation centers ended last summer; they live in relatively comfortable temporary housings; however they are more depressed and suicidal than ever. They now have time to think about loss in the past and uncertainly in the future. They are suffering from trauma and anxiety. Many of them are unemployed, because the industry (mainly fishing related business) was destroyed by tsunami and the area has not generated job opportunities yet.

Financial assistance from the government is now stopping and they need to leave the temporary housing complex after two years, but they don’t have jobs nor money to rebuild their houses – no hope for the future.

Some locals are making great endeavor to re-create their industry by themselves. In a village we are ministering to, for example, a group of fishermen started a seaweed production project so they can start the business again. All the seaweed factory machines were swept away by tsunami, so they need to buy them but the governmental support is not enough. So, they set up a website so they can get assistance through individuals and corporations. http://gekkoh7.jp/

We hope to show them love of Christ by somehow making ourselves involved in their self-effort.

As the Lord leads, we would like to help the relief work the second year, too. If you would like to receive prayer request letters or give contribution to the people through us, please write us at info@ logos-ministries.org

Thank you and the Lord bless,
Kiyo

「月光プロジェクト」の案内

今回(3月2-4日)の救援旅行で、私個人にとってはものすごく嬉しくて、ちょっと涙ぐんでしまった報告がありました。下の写真をご覧ください。

女性は私の妻ですが、その他のメンバーは「奥松島月浜海苔生産グループ 月光プロジェクト」のメンバーの皆さんです。

かねてから私は、ツイッターやブログで東松島や宮戸島の情報をかき集めていましたが、その中で月光プロジェクトの方々の存在を前から知っていました。月浜に行ってみなさんに会うたびに、私の心にずしりと重石が入るように辛かったのは、「これからの産業」でした。ここは、私にとって思い出の場所でもあります。仙台出身の私は小学生の時に、ここの民宿に泊まり、ボートにのって遊覧を楽しみ、小さな砂浜がまるでプライベートビーチのように数多くある美しい小島が、神秘的な原体験とさえなっていたところでした。大人になってからも、姉と甥を交えて家族でやってきたことがあるし、また妻と私の両親と四人で改めて来ていました。

そして震災です。そして、4月初めに自宅のすぐそばの武道館避難所に、月浜から逃れてきた木村さんと初めて出会ったのです。ですから、この部落で民宿はもとより、民宿業をも支えてきた漁業が復興することを心から願っていました。そして今の被災地の最大の課題は「雇用」です。そして雇用を創出する「産業」の復興です。初動段階では救援物資が必要であったかもしれませんが、そして続けて炊き出しやその他の活動で心に届く励ましは続けていきたいですが、今は産業支援が不可欠です。

ホームページを一覧してください。

再建に必要な資金は膨大な額ですが、けれどもこのプロジェクトは私たちのような個人でも参加できるようなシステムを作っておられます。「一口1万円」になっています。さらに、単に資金供与に甘えるのではなく、海苔を食べていただくことで、支援者を通して月浜の海苔を知らせていくというビジネスの側面もあります。そして、ブログフェイスブックによる細やかな近況報告によって支援者との人的交流ができるようにもしています。

このプロジェクトにぜひ参加してみてください。