「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!

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