「寛容」という名の「非寛容」

「新しい寛容」

パット・ズケラン(Pat Zukeran)さんという日系のハワイの人で、キリスト教弁証者(apologist)ですが、二年前にカルバリーチャペル府中で講演をし、私たちの教会にもお招きした方です。最近は、キリシタンの迫害史の探索のため、二回、ハワイの日系の人々を招いて巡礼旅行を導きました。彼はラジオ番組を持っていますが、クリスチャンのテレビ番組に登場して、今、世界に蔓延している一つの流れを紹介しています。

それは「寛容」の定義、意味です。従来の「寛容」は、「意見が異なっている貴方を受け入れる」というものでした。同意できないことがあっても、礼節をもって対話することができます。異なる意見の持ち主を受け入れ、愛することができる。自分の信じていることを説得することはあり、相手もその人の信じていることを説得することはあっても、それで迫害をしたり、牢屋に入れるようなことはない、というものです。これが従来の寛容でした。

しかし、最近は「寛容」を新しく定義しました。相対主義に基づいています。「現実、真実というものは知り得ることがなく、絶対真理は存在しない。したがって、すべての価値観、すべての信条、すべての生活スタイルは、どれも同等に正しく、真実である。」というものです。そこで、ある生活のスタイルが間違っている、正しくないということは、「非寛容」になるのです。

ある生活スタイルが罪深いということが、差別主義者であるというレッテルを貼る、その「言う」ことが既に非寛容であるという判断が下されます。そこでキリスト者が偏狭な思想の持主であると言われるのです。そして危険分子にさえみなされます。私たちが福音の真理を伝える時に、それが脅威とみなされます。しかし、それは「光が闇に照らされた」ということであり、神の御言葉が両刃の剣のように入っていることでもある、ということです。

ビデオでは大体こんなことが話されていました。

私がすぐに思い浮かぶ代表的な問題は、同性愛者の権利拡充です。同性愛は神の前で罪である(他の性的罪と同じように)と言うことは、偏狭な思想を持っている危険な持ち主だとみなされます。

同性愛者の同性婚を拒んだ生け花店のクリスチャンを訴訟したことは、中東で改宗を拒む生け花店のクリスチャンを排除するのと同じことをしている、という風刺画
同性愛者の同性婚を拒んだ生け花店のクリスチャンを訴訟したことは、中東で改宗を拒む生け花店のクリスチャンを排除するのと同じことをしている、という風刺画

アメリカにおいては、特に「ゲイ神学」というものが確立されており、聖書全体を同性愛を是認するように体系化した神学が確立しています。それによれば、聖書に基づいて同性愛が罪であると言えば、中世の暗黒時代のキリスト教で、異端者を火あぶりにしたような、そのような非寛容と同じようにみなされます。そこで事実、アメリカでは同性婚のためのケーキを作ることを拒んだ、ベーカリーのクリスチャン夫婦が営業停止、財産没収という措置を受けたり、同性愛が罪であるという信条を持つこと自体で、生活の自由を奪われる事態となっています。

しかし同性愛は典型的なだけで、ごく一例です。この考えは社会のあらゆる分野にしみこんでおり、実にキリスト教会の中にも沁み込んでいる、とても深刻な流れ、底流とまでなっている流れとなっていると感じています。

「寛容」という「非寛容」

他の神学者も同じことを話していて、こんな本を書いています。

「寛容」という「非寛容」(The Intolerance of Tolerance)―D・A・カーソン

この二つの記事は、ぜひじっくり読んでみてください。出てくる用語としては難しいかもしれませんが、決してそんなことはありません。あまりにも身近なものになっていて空気みたいになっていて、それでかえって気づいていないものだからです。

先の投稿、パレスチナ人クリスチャンの指導者と、ユダヤ人信者の指導者の会話は、従来の寛容に基づくものです。ミカエル・ブラウン氏は先日の会議の内容を深刻なものとして受けとめているにも関わらず、その指導者を自分のラジオ番組に招き、かつその人の正直な、率直な意見を言わせています。そして自分自身も決してその意見には同意できないとして、自分の聖書理解も開示しています。こうした礼節をわきまえた会話、対話は従来の寛容です。

従来の寛容は、聖書に書かれている重要なキリスト者の素質、品性だと私は信じています。それは、相手の「存在と人格」を受け入れます。けれども新しい寛容は、その人の「意見や信条」までを受け入れないといけません。このような「寛容」によれば、すべての真理の探究は押しつぶされ、真理にある自由は排除される、恐ろしく窮屈なものとなります。そして、この哲学が教会に入り込むと、キリスト教会が本来は自由で喜びに溢れている、力あり、生きているものであるはずなのに、「生きていても死んでいる」、形だけで実を否定するようになっていくからです。

イエス様は、姦淫の現場で捕まえられた女についてパリサイ人らに、「石を投げなさい」と言われました。姦淫は確かに石打ちの刑です。しかし、女に対して「わたしも罪に定めない。行きなさい、もう罪を犯してはならない。」と言われました。石を投げなければいけないような罪なのです、事実。しかし、その罪人が罪から離れることができるように、その人間、存在をイエス様は受け入れられました。

もちろん、それは将来の裁きがないとことを意味しません。世界は火で焼かれます。そして最後の審判で人々は甦り、自分の行ないによって各々が裁かれ、火と硫黄の池に投げ込まれます。しかしそれは終末においてであり、イエス様は初めに来られた時に、天から火を降らせましょうかと言ったヨハネに対して、強く戒め、「人の子が来たのは、裁くためではなく、救うためなのだ。」と言われました。

そして限定的な裁きは、今は一時的に、世の権威に神は任せておられる点も大事です。主は、(身代わりの死でありましたが)ピラトの下す十字架刑の判決は神から来たものであると言われました。例えば、家庭内暴力をしている男がいるとしましょう。その人を赦さなければいけないとして、クリスチャンが何もしなかったら、それは神の御心を損ないます。その暴力について、「警察」に通報しないといけないのです。これが、上の記事で話している「カエサル」のことです。

こちらの関連記事も、分かり易くて参考になるでしょう。→「「あなたは律法主義的です!」―21世紀の万能殺虫スプレー 」

鬱積する「怒り」

このような、新しい寛容が蔓延している世界において、神学的に、社会的に保守的な人々の反動も見受けられると私は感じています。真理を探究することが、あまりにもなおがしろにされていく中で、その濁流があまりにも大きいので、その反発から異なる意見の持ち主を、その意見のみならず人格までを否定していくような、排除する傾向があります。アメリカの福音派の教会にはそれが顕著です。SNSが普及してあらゆる情報を発信でき、意見も書きこむことができる中で、その言説には、同じ意見を持っていながらも辟易することが実に多いです。

例えばオバマ大統領に対する言葉です。確かに日本人である私が見ても、彼は従来の良きアメリカの価値観の根底を崩すようなことを行なってきたと感じています。ゆえに、彼らの怒りや葛藤は同感します。しかし第一に、彼を大統領に選んだのは、アメリカ国民自身です。敬わないといけません。第二に、どんなに彼の思想や信条、その政策におかしいところがあっても、国の代表者としてしなければいけないことをしているのであれば、それは評価すべきです。従来の保守的な福音派は、例えばクリントン大統領のことを嘆いていても、ここまで酷いことは言わなかっただろうというような言葉を、平気で”クリスチャン”が発しているのでびっくりします。これでは、ブッシュ大統領に対してリベラルのマスコミや言論人が行なっていた、こてんぱんに叩いていたのと全く変わりないのです。

「坊主が憎けりゃ、袈裟まで憎い」という現象が起こっています。相手に対する「怒り」の感情が先行して、正しいことをしていてもそれを認識・評価をせず、何もかも否定、批判するのです。公平さ、冷静さ、礼節が奪われています。個人的には、その感情的な排他性が、共和党の候補トランプ氏の中に現れており、彼の問題というよりも、従来の保守派にあった問題を浮き彫りにしているのではないかと思っています。その結果、彼の暴言によって共和党内での分裂が起こっています。アメリカは「合衆国(United States、結ばれた国家)」のはずなのに、分断されているのはとても悲しいことです。非寛容は人々を分裂させます。

「ヒトラー安倍」「保育園落ちた、日本死ね」

同じことが日本の教会でも起こっています。以下は私が書いたフェイスブックの投稿です。

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今、テモテ第一5章を今晩の学びのために準備しています。キーワードは「敬い」です。年上の人に対しても、年下の人に対しても、敬いが必要です。手紙には、2章で上に立っている人への敬いと執り成しが書かれています。

反対の意見を持っている、何かを批判するという時に、それが人格のある相手であろうと、また国であろうと、敬いが欠け、やみくもに否定して、引き落とし、こき下し、悪の権化であるかのように話す空気が、今、世界全体の社会の中に蔓延しています。アメリカでは、トランプ氏の発言が問題視されているにも関わらずトランプ氏を支持するキリスト者たちがいますが、日本だって、「ヒトラー安倍」などという暴言をそのままにしている、いや一緒になってデモ活動などをしているキリスト教関係者の行動を見るにつけ、同じことをしているではないかと感じています。

今のイスラム国の悪魔的行為は、ある意味、そうした相手の人格を踏みにじる世界の風潮を拡大鏡のように見せているのではないかと感じています。忘れないでいただきたいのは、終わりの日には、権威というものを冒涜する偽教師の存在、また反キリストの存在がいるということです(2ペテロ2:10‐11、黙示13:6)。

下の文章は、シェア元にある記事からの抜粋で、イスラエル発の記者の一言です。

「最近日本では、「保育所落ちた。日本死ね。」というネットへの書き込みが反響をよんだという。この記事を読んで背中がぞーっとする思いがした。私自身は子供を持っていないので、この叫びをアップした人の苦しみはおそらくわからないことは認める。しかし、「日本死ね」などとは口が裂けても言うべきでない。国があって当たり前なのは日本人ぐらいである。国が死んでしまったシリアの人々の苦しみを知らないのか。その悲惨は、保育所おちたどころの話ではない。

世界は、今とんでもない方向に向っている。まだその入り口なので、日本では実感がないかもしれない。保育所が不足しているということは確かに深刻なことだが、国が死んだらもっと深刻だということもまた知っていただきたいと思う。」

多くの日本人は、「日本死ね」という言葉を比喩的にしか受けとめていないでしょう。しかし、事実、自国を失って生き地獄の中にいる人々を想像だにしていない、冷酷で無慈悲、愛の欠らもない無責任発言であることに気づいている人は少ないでしょう。怒りや鬱積した思い、葛藤は同感できます。しかし、言ってよいことと悪いことがあるという境界線が、今日、無くなってしまったような気がします。
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その他、教会にある問題を追及するあまり、バランスを崩して、何でもかんでも「背教した」と言ってしまう傾向も、キリスト教世界にはあります。キリストの愛ではなく、怒りがいつの間にか自分の心を支配していないかどうか、確かめる必要があります。

従来の意味での「非寛容」

そこで、じわじわと従来の意味での「非寛容」が宗教にも社会にも起こっているのも不気味です。極端な民族主義はそれです。日本にも在日韓国人や朝鮮人に対する激しい憎悪に満ちた言説があります。そしてとんでもない議論が、ごくごく少数ですがキリスト教会にもあります。

No, Theodore Shoebat, Jesus Would Not Have Killed Gays
(セオドア・ショバット、違うよ、イエス様は同性愛者を殺さない。)

Youte動画

このTheodore Shoebatという人は、パレスチナ人テロリストでキリストへの信仰を持ったWalid Shoebatの息子です。Rescue Christianという団体を持ち、中東やアフリカ、アジアで迫害を受けている兄弟姉妹を救出するという貴重な働きをしていますが、福音的な信仰から次第に離れ、(おそらく元々そうだったのかもしれないですが)ほぼカトリック信仰に戻っています。しかし、彼はゲイのパレードなど、もしアメリカでも法的に許されるなら、クリスチャンは殺していくべきだと言っています。イエス様もそうしただろうと、言っているのです。彼は、ロシアなどで起こっている、同性愛者の政治活動の取り締まりを挙げており、キリスト者もそこに関わっているのだと言っています。そして、教会史の中でおける、十字軍や、異端者への暴力や排除を全肯定しています。トンデモの範疇に入る人ですが、彼の言っているように事実、教会史で長いこと実践されていた「聖戦主義」の考えを踏襲しています。

そしてもう一つはお馴染みの「イスラム主義」です。イスラム教では、ムスリムになるということはアッラーからの意志によるものであり、ムスリムになればその人はそうでなくなることはない、という宿命的な考えがあります。したがって改宗することは「ありえない」のであり、ゆえにイスラムを捨てたり、クリスチャンになったりすると処罰する、死刑にするという国々があるのです。穏健なイスラム教の国でも、クリスチャンはクリスチャンとして生きていてよいが、ムスリムに福音を伝える宣教活動は強い監視を受けています。(しかし、同時にムスリムの人たちは、世俗主義や相対主義と最もかけ離れたところにいる人々なので、クリスチャンの信じる真理とその探求においては、一般の人々より強い興味を示します。求道者の予備軍のような印象を私は抱いています。)

こんな感じです。私は以下の二つの態度を、しっかり明確にしていないと感じています。

①従来の非寛容に対して、激しく反対する
②「新しい寛容」に決して屈しない

①を追及すると「妥協している」酷ければ「背教だ」と言われかねない空気が、キリスト教の中に存在しています。しかし、言うべきことは言っていきます。そして②を保持しないと、自らの福音信仰が崩れていくし、教会が教会でなくなっていきます。これは恐ろしいことです。どんなに排他的、偏狭など呼ばれても、しっかりと真理を保持します。難しい時代になりましたが、パウロがテモテ第二で「終わりの日は、困難な時代」だと言っているので、その通りなのでしょう。信仰の戦いを戦いなさいと、彼はテモテに勧めました。

「「寛容」という名の「非寛容」」への12件のフィードバック

  1. 寛容 非寛容 の考えかたについて 数日前から深く考えるように なったばかりです。その意味で このブログには おどろきました。
    読み終えて 考え方の方向性のひとつが 示されましたことに 感謝いたします。

    寛容とは 非寛容をも 受け入れることか。
    非寛容とは 寛容をも 否むことか。

    …前者は 神のわざ 後者は 人の為すところ なのか。

  2. 私も、同性愛者の神学には非常に驚いているところです。エチオピアの宦官がゲイであり、百人隊長もゲイだったという主張には、驚愕してしまいました。
    しかし、それ以上に、ファンダメンタルな信仰を排他的で異常だと言わんばかりに、福音派の信仰者を裁き、非道だとなじるの姿に、どちらが差別主義者かと思わされてしまいました。
    実際、リベラルなクリスチャンの方から、先生の記事をシェアしたことでなじられ、FBの友だちからもはずされてしまいましたし、非常に複雑な思いです。

  3. 感情の絶対化

     この頃感じることで「人々が自分の感情を絶対正しいとしてしまっている。」ということです。次の記事に、このような文章がありました。

    感情に支配された「絶対正しい」という考え
    「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。

    自分の感情が絶対に正しいとする基準はどこにも存在しない。他人も自らの感情に基づいて、自分が絶対に正しいと考えている。人間が絶対に正しいと考えることは確実に存在する。ただし、それは複数存在するのだ。自分の感情に固執して周囲から孤立しないようにするためには、近現代人にとって感情が神の位置を占めていることをよく認識しておく必要がある。」

     感情的に傷が付いても、キリスト者であれば、神の真理に基づいて動けるはずです。それは「神」ではないことを知っています。だから感情がいかに信号を送っても、それが真実とは限らないことを知っています。絶対は、聖書の言葉に啓示されている神ご自身ですから、その感情を相対化することができ、神に従うことができます。

     しかし、その絶対の基準を受け入れていない時に、感情を絶対視しています。自分の感じたこと、その感情こそが真実、正しいと思ってしまっています。それゆえ、「これが真実だ」と言われても、自分の感情はそうではないと訴えているので、苦しくなって、付いていけなくなります。その感情が自分を支配してしまって、制御できなくなっています。

     こうやって、「人々の感情を傷つけないようにすることが最も大事」な社会、人々との付き合いへとなっていきます。個々人感じ方が違うのですから、絶対に正しいと思っているものが並列しているのですから、そりゃあ一緒にいることができなくなります。

     こうした個々人が感じたこと、その主観それぞれが真実であり、同等に妥当なのだとする相対主義は、真理に基づいて「これは間違っている」と論じていることもまた、「あなたは相手を裁いている」と言って非難します。”表面的に”言い争っていること自体を悪いことだとしています。

     こうやって、人々は様々な人の感情が錯綜する網目のような空間の中に生きなければいけなくなり、がんじがらめの息つく暇もないような、窮屈で、苦しい社会となっていきます。上の記事の引用にあるように、そこから逃れるためには「孤独」にならないといけないのです。人々から離れ、独り寂しく生きないといけません。電車に乗って半分以上がスマホの画面を眺めているのを見る時、そこに今の社会の典型を私は感じます。

     キリスト教会は、真理の柱、真理の土台である神の家であると書かれています。つまり、神の言葉こそが絶対であり、神が完全であることが示されています。そこにこそ自由があり、私たちは御言葉に服従することによって、思いも、心も、自由に言い表すことが許されます。そして、絶対真理があるので、だれも他の人が何を感じているのかを心配せずに、「ここに互いに一つになれる拠り所がある」と安心することができます。それゆえ、キリスト者は教会として一つになり、愛と平安の中で憩うことができます。

    「完全な神」に「不完全な人」が仕えるには?

     しかし、私たちの信じている神は完全な方です。聖なる神、義なる神です。御言葉が解き明かされるにしたがって、神の完全性、無欠性が現れていきます。それを継続して聞いていくと、自分がいかに不完全で、欠けのあることかを知らされていくことになります。それで、自分はこれではやっていけないと感じます。ついに、締め出されるように神の世界から出ていくことになります。

     金持ちの青年の話がその典型でしょう。イエス様のところに近づいたけれども、「財産を売って、貧しい人たちに施しをしなさい」と命じられて、悲しい顔つきをしてイエス様から離れていきました。

     では、この不可能にも見える、「完全な神」に「不完全な人」が近づいて、この方に仕えることができている人はどういう人々なのでしょうか?どうして、仕えることができているのでしょうか?答えは「恵み」です。完全な神が不完全な人を選ばれ、「わたしは、あなたのものである。」としておられるその恵みがあるからです。そしてその召しに、勇気をもって応えた人々が、神に仕えることができるのでしょう。

     聖書を見れば、完全な神に仕えている者たちは、欠けが多いことに気づきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、そして新約聖書では使徒たち。それぞれの赤裸々な姿が、聖書には描かれています。しかし神は彼らを咎めることなく、むしろ彼らを愛され、用いられ、「神の心にかなった者」とみなしておられます。ここでの問題は、その人物そのものに注目すると、「神は不公平だ」となることです。人間的な常識、人間的な善悪の判断で神に近づけば、必ずつまずきます。そうではなく、そのような者たちに働く「神」に注目すると、どのように神が人々の世界に入り、ご自分の麗しい恵みに満ちた働きを展開させているかを悟ることができるのです。「人」ではなく、その人を通した「神」を見つめれば、自分の心にある、苛立たしさは消え去っていくでしょう。

    いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。(イザヤ57:15)」

     聖なる、いと高き方が住まわれるのは、正しくなった者たちではなく、「心砕かれて、へりくだった者」たちだといいます。それは言い換えれば、「神を絶対とし、自分の感情が何でもないものだ。」と感情を相対化できる人と言ってもよいでしょう。

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