クリスチャン・シオニズムに対する誤解

三月初めに、以下の会議の内容をオンラインで見ました。

Christ at the Checkpoint Conference 4

パレスチナ自治区における、福音派の聖書学校「ベツレヘム聖書大学」と関連の深い、パレスチナ人クリスチャンの主催の会議です。彼らの立場からのイスラエルとパレスチナの問題、そしてクリスチャンとしてのイニシアチブを提起している会議です。この会議、特に今回のは、クリスチャン・シオニストと呼ばれる人々から多くの批判を受けました。

その中で深い懸念を持っていたユダヤ人信者の神学者、伝道者である、ミカエル・ブラウン氏が、その主催者の一人、ムンター・アイザック氏にラジオ番組にて、率直に意見を交わしています。

Dr. Brown Interacts with a Palestinian Christian and Sets the Record Straight about Saul Becoming Paul

DrMLBrown
ミカエル・ブラウン博士

以下はフェイスブックで書いた投稿です。

ユダヤ人信者が、パレスチナ人の福音派の指導者と、先日行なわれた「検問所におけるキリスト」会議について、率直な意見を交わしています。

私は、このカンファレンスの内容には正直、非常に当惑しました。ミカエル・ブラウン博士は、明確に相手のムンター・アイザック博士に質問をしたことによって、またアイザックさんも冷静に返答していることによって、互いの違いがはっきりしたと思います。意見ははっきり違いながら、キリストにある兄弟であることを確認する、非常に大人の会話でした。

ムンター・アイザック博士
ムンター・アイザック博士

パレスチナ人クリスチャンの提起している、「クリスチャンのシオニズム」すなわち、神のユダヤ人に対する選びが今も有効であるという立場への疑問は、日本の教会の多くも共有しているのではないかと思います。

①ユダヤ人が土地に戻ってくる、国を建てるという預言について、パレスチナ人のクリスチャンは「それでは、ずっとそこに住んでいた私たちはどこに住めばよいのか。出ていけということか。」という問題について。

聖書から、ユダヤ人がカナンの地に住む時に彼らを追放したというのは、その時のカナン人に対する神の裁きがあったことで、その時だけのもの、特殊なものです。ユダヤ人が帰還するということは、先住民をそのまま追放することではありません。アブラハムは合法に土地を購入しました(サラの墓地)。ダビデも神殿の敷地を、エモリ人から購入しました。ダビデの勇士の中には異邦人の忠誠を誓っている者たちが多くいました。ソロモンの統治にも、異邦人は国内にたくさんいました。モアブ人ルツは、ベツレヘムに迎え入れられています。ユダヤ人の国というのは異邦人の追放や抹殺を全く意味していません。今のユダヤ教の中にも異邦人を追放するという考えはないですし、イスラエルの独立宣言にも、先住のアラブ人にも同等の権利を付与し、それを侵すものではないとはっきりと書かれています。

事実、今の二割のイスラエル国籍保持者はアラブ人です。彼らの多くが戦後、イスラエル領内に留まっていたアラブ人の子孫であります。

パレスチナ難民が出てきたという問題は、預言の成就でも、神からの命令だともクリスチャン・シオニストは思っていません。もちろん神の主権の中にあることは確かですが、近代戦争における悲劇から起こったという歴史的観点から見ています。当時、第二次世界大戦の直後には、世界のあらゆる所で民族の移動が起こりましたが、アラブ諸国も同じように新生イスラエル国に一気に攻め入り、それに伴ってそこにいたアラブ人が避難しましたが、アラブ諸国が約束した勝利は来ず、それでそのまま戻って来れなくなったということです。大量のユダヤ人難民も同じように、アラブ諸国で起こりました。イスラエルは、彼らを吸収してそのままイスラエル国籍を与えたので難民の歴史は良い意味で忘れられていますが、ユダヤ人難民も同じように存在していたのです。

②現代のイスラエル国が聖書の成就だというなら、無条件にこの政治体を支持することなのか?

現代のイスラエル国が、聖書預言の成就であると信じていますが、完成だとは全く思っていません。聖書には、メシヤが到来し、ユダヤ人が霊的にも回復し、その中でメシヤを王とする神の国がエルサレムから立てられるとしていると信じています。しかし、その前にユダヤ人は大きな試練を受けます。それは全て、彼らが約束の地に戻っていて、住んでいるからこそあり得るシナリオであり、その「霊的な回復はしていないけれども、そのために、物理的には戻って、国を造っている。」という過渡的な状態であると見ています。エゼキエル37章の、涸れた骨が人の肉を持っているが、霊がまだなかった状態のことです。

したがって、今の民主主義のイスラエル国、そのほとんどがイエス様を信じておらず、ましてや宗教的でもない人々が多くいるイスラエルが最終的な神の意図ではないことは明らかです。ですから、彼らのしていることの全てに支持しているはずはなく、むしろ他の民主主義と同じようにその政権を批判することはしていいし、聖書にある正義に照らしてクリスチャンとして批判すべき時はあります。

しかし、もう一つの聖書の原則があります。ユダヤ人が選びの民であるがゆえに、霊的に悪い勢力からの攻撃を受けてきました。それは彼らの民族の誕生の時から、パロによる乳児虐殺から始まりました。このように、ユダヤ人やイスラエルをことさらに悪人に祭り上げるその傾向を、「イスラエル批判」という名の下に行われている。その論法がかつてのヨーロッパでホロコーストを生みだした反ユダヤ主義のそれと変わりないものが、今でも蔓延しているがゆえに、強く反対していることが多いのです。イスラエルがしていることが正しいということではなく、あまりにも不公平な批判、彼らが受けるべき批判以上の非難や誹りを受けているので、おかしいではないかという擁護をしていることが多いです。

しかし繰り返しますと、彼らが全て正しいことを意味していません。彼らも人間、私たちと同じように限界がありますし、間違いも犯します。しかしこの解決は、彼らがメシヤを受け入れる時まで続くことでしょう。その間に、一人でも多くの人がイェシュアをメシヤとして知ってほしいと願います。

③選びの民というのが、人種差別的ではないのか。

このパレスチナ人クリスチャンの批判が、私は最も問題に感じました。聖書的に、神学的に、神の選びというのは、一貫して存在しているし、まさにイスラエルへの選びによって、パウロは、キリストにある者が神に選ばれているという真理を明らかにしたのであり、もし「選び」を否定するなら、キリストを信じる者への救いの選びも、「一部のものだけを神が救うとは、とんでもないことだ、偏狭な宗教だ。」という誹りも全くその通りになってしまいます。

神の選びというのは、聖書を見れば一方的なものであり、その憐れみに基づくものです。彼らが強いから正しいから選ばれたのではなく、むしろ弱いから、間違ったことをする者たちだからこそ、神が憐れみを示して選ばれました。そして選びというのは、責任が伴います。妻になれば、夫に貞潔を守るのであり、他の女性と全く異なる立場になるのと同じように、イスラエルも罪を犯せば、他の異邦人に対する神の取り扱い以上の、厳しい取り扱いを受けます。

そして神は、まず誰かを選ばれて、その人を通して多くの人に届くという働きをされます。主はモーセを選ばれイスラエルを立てられました。そして私たちの主イエスこそが、神から選ばれた、油注がれた方であり、この方をかしらにして信じる者すべてが祝福を受けます。選びそのものに反対することは、すなわち妬みの表れであり、それは民数記のコラの反乱にその罪がよく表れています。

④ユダヤ人への預言はイエスにあって成就したのではないか。(これを「成就神学(Fulfillment Theology)と言います)

これはブラウン博士が疑問を呈していた通りなのですが、私もそう思います。聖書を読む時に、主が語られたことで文字通り起こったことが、そのままイエス様は将来のユダヤ人についても語っておられ、前者は文字通りの約束を信じていながら、後者を比喩的に解釈すると、釈義上の一貫性がないでしょうということです。

もちろん、イエスにあってイスラエルが成就しました。それは、例えば、メシヤの預言であるイザヤ49章に、「あなたは、イスラエル」と呼んでおられるように、イスラエルの理想としてのメシヤがおられます。しかし、そういった側面を全ての預言に当てはめる所に非常に無理があります。初臨について文字通りに起こったことを認めているのに、再臨について文字通りではないとするところが同意できかねます。極論を言えば、イエス様は心で自分の王として受け入れた時に、霊的に再臨が来たとも言えてしまうのです。事実、日本の戦時中の教会はこの異端の教えを一部受け入れました。

以上四つが、私がベツレヘムで行われた会議で出された話題の中で頭に残っていたことです。一番辛かったのは、シオニズムがイエスの教えと両立しないとか、人種差別であるとか、過激主義の一形態のようにずっと語られていたことです。アイザック博士は、「私たちは一貫してイスラム過激主義を非難しつづけた」と言っていますが、その通りですが今回は今までにまして、シオニズムを問題視し、「キリスト教シオニズム=過激主義の一形態」としていました。

けれども、ブラウン博士と同じように私も、ユダヤ人を愛された神は、パレスチナ人も誰も全て愛しておられるのですから、反パレスチナ感情を持たないし、持ちえないのです。ここの部分が深刻に誤解されていると感じましたが、ゆえに、その会議の主催者がこのように質問と疑問に返答してくれたことは、安心しました。

関連記事:「日本人の考える「平和」」「パレスチナを愛する親イスラエル」「独立宣言から見る「ユダヤ人国家」」「エゼキエルの見た幻(36-39章)

「クリスチャン・シオニズムに対する誤解」への5件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です