日本人の考える「平和」

ガザ戦争について興味深い会話をフェイスブックで見ることができました。ベツレヘムに、唯一の福音派の神学校があります。そこが出したガザ戦争における声明を、ある日本人が訳し投稿しておられます。それに対してアメリカ人でユダヤ系のクリスチャンが、日本にも宣教の働きで関わっておられるであろう方が、進言しておられる会話です。

ベツレヘムバイブルカレッジによる、ガザにおける現在の危機に関する声明
(2014年7月25日)

ベツレヘム・バイブルカレッジの方々の声明は、双方(ハマスとイスラエル軍)に暴力の行使を停止すべきであるという声を上げています。それに対して、その兄弟が次のようなことを書いておられます。

「残念ながら、神から離れて平和はありません。この地域に平和が来ることはありません、なぜならイスラエルの敵はこの小国を残滅させたいと願っているからです。第二次世界大戦にナチスが行ったあの憎しみを、彼らも抱いています。イスラエルの敵は周囲の国々も含めたくさんいます。私の曾祖父はロシア系ユダヤ人でした。ユダヤ人は何千年も、どこに住んでいても迫害されました。これは聖書が預言している通りです。

テロリストがあなたの国にロケットを打ちこんだら、同じように反応しますか?放っておいて、いなくなることを願うだけですか?話すのは簡単にできます。この戦争において助言したい人は、責任を持っていないし、犠牲もないし、結果に関与することもありません。話しているだけの人々が、ロケットが打ちこまれてくるイスラエルに住んでいるなら、あるいは自国に砲弾が撃ち込まれてくるなら、話の内容は変わってくるでしょう。」

そして日本人の方はこう言われています。「事実、神から離れての平和はありません。だからこそ祈るのです。イエスは、平和を造る者になりなさいと言われました。私たちは考えられないことを敢えて行いなさいと呼ばれています。例えば、敵を愛しなさい、悪に悪をもって返してはいけない等です。私はイエスが教えられたことを忘れないでいたいだけです。」

そこでユダヤ系アメリカ人の方がこう言われます。「あなたの投稿に同意します。けれども、戦争状態の時でさえ私たちは敵を愛することができるのです。私は個人的にこのことを体験しましたし、第二次世界大戦後のヨーロッパでも、日本でも目撃しました。戦地で地獄を味わった若いアメリカ人たちが、ドイツと日本に愛の手を差し伸べたのを見ました。彼らは、戦争中でさえ、事欠いている一般市民に出くわしたらできるだけの助けを差し伸べました。アメリカは、日本とドイツの再建に何億ドルも注ぎ込みましたし、自発的に援助した人々もいます。これが犠牲の愛であり、愛を示すことであり、愛を語ることだけでない、ということです。

愛は抱きしめたり、キスをしたりすることではありません。愛はしっかりと考えるものであり(ローマ5:8)、心地よい気持ちではなく、従順へと向かう成熟であります(ヨハネ14:21)。これには訓練が伴い(ヘブル12:11,12:6)、正義も伴います(同12:11)。(一部省略)

互いに関する限り、平和で生きることができればそうしなければいけませんが(ローマ12:18)、これこそが私たちの願いと祈りですが、いつも戦争は起こります(マルコ13:8-7)。そしてキリストから外れては、神と戦争していることを知っています(ローマ5:1.10、コロサイ1:21、ヤコブ4:4)。ですから、こうした戦いは、主が到来されるまでは起こるものであると知っているのです。」

私は、平和の考え方について、このユダヤ系アメリカ人のクリスチャンの言われていることがしっくりきます。最も心に響いたのは、「戦争中でも、愛することはできる」ということです。戦争というものを、表面的に見てはいけないと思います。聖書は、あらゆる戦争を悪だと言っていません。むしろ時には、力の行使によって平和を保たなければいけないことも教えています。悪を取り除く時がそうです。

日本人の「平和」=「無関与」

日本社会で驚くのは、人々が虐げられている人に助けの手を差し伸べないことです。ある時、若い女の子が彼氏であろう人に叩かれているのを目撃しました。私はその男の子に、「だめだろう!」と注意して、近づきました。幸い、後ろには二人のおじさんもいて加勢してくれました。けれども、普通は日本の人はしないようです。また、小さな子をお母さんがぶっている時、誰も助けない映像を見て、私は愕然としました。何もしないのは、犯罪に近いのではないか?と思いました。(後で知りましたが、やはり法律で警察などへの通報が義務付けられているそうです。)

つまり、「面倒くさいこと関わりたくない」と思っているのでしょう、また自分が危害が加えられるのは嫌だということもあるでしょう、悪に対して力をもって対処すること、対決することを極力避けるのが、この社会です。

もう一件、駅のプラットフォームで高校生ぐらいの男の子たちが悪ふざけをしていました。物を線路に落としてしまいました。その時、降りていって拾おうとしているのです!私は、少し離れたところで見ていましたが大声で、「絶対に、降りたらダメ!」と注意しました。そして少年たちは、「ごめんなさい」と素直に謝っていました。私が驚いたのは他の人々が、何ら関与しなかったことです。自分たちも、線路に降りられたら電車が止まって大迷惑するのに、そしてその少年たちがひかれて、死んでしまったらどうするのか?と思いました。

今は、集団自衛権について議論が盛んです。ある中国の子が、専門学校の日本人の先生がこう言うのを聞いて、びっくりしたそうです。「日本に他国が攻めてきたら、私は国外に逃げます。」彼女はこうお願しました。「先生逃げないでください。国を守ってください。」これが、日本人の「平和」についての本音ではないでしょうか?要は自己中心なのです。大津波、そして原発事故の時に、関東地方にいた大勢の人たちが逃げましたが、それと同じです。

日本人の平和の考え方に、根本的な間違い、非聖書的なものがあります。

それは、「無関心と無関与」であります。面倒くさいこと、いざこざが起こっていること、そうしたものから逃げる。自分とは異質なもの、関わりのなさそうなものには手を付けないほうがよい、というものです。それで、表面上は確執も対立も起こらず、平穏が保たれているでしょう。

しかし、それは愛と裏腹の行為です。周りの雰囲気を乱しても、しなければいけないことをするのが愛ではないでしょうか?

もし、日本人の考える平和が平和であるとしたら、イエス様こそが平和を打ち壊す張本人でした。イエス様は日本人の平和の考え方からすると、”お節介”です!「神は実にその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。平穏を保っている世に入り込んで、騒動を起こしたのですから。こうも言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはいけません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)」

イエス様が日本的な体裁、平和を持っておられたら、こんな私は決してクリスチャンになることはありませんでした!イエス様は相当のお節介です。ご自分の命を捨てるまで関与してくださいました。ここに愛があるのです。

日本人の平和 = 「中庸」

そして、日本人は「どちら側」にも付かない、という中庸が平和だと思っています。ある日本人牧師が、かつて日本の知識人は米ソの冷戦において、中庸であることが美徳とされていたということを話したら、アメリカ人宣教師が「悪に対して、中庸にはなれないでしょう。」と言いました。全くその通りです。もちろん本質的でないところで私たちは極端にならず、バランスを保つことは重要です。けれども、本質的なこと、「罪」や「悪」に対しては中庸にはなり得ません。悪に対してはそれ相当の処罰が必要であります。

平和とは正義の行使も含まれます。罪があるために神から離れている。その罪を取り除くという神の義があります。ですから十字架というまさに「暴力手段」によって、神は私たちと平和を結ぶことを決められたのです。愛の中に、こうした暴力が含まれるのです。それは罪に対する神の刑罰、力の現われなのです。

平和には、悪を憎むことも含みます。「主を恐れることは悪を憎むことである。(箴言8:13)」悪への憎しみが、今、少なくなっているこの世です。いろいろなことを相対化しようとします。しかし愛と、悪への憎しみは共存するのです。罪の中にいる人について、その罪を憎しむことなくして愛していることにはありません。

私の家に強盗が来て、妻を凌辱しようとしたら、私は何とかして、台所で包丁を取ってくるか、何か武器になるものを掴んで、相手を打つかもしれません。ここで、「暴力は罪だ」という議論をされたら、私は「どっかに行って、邪魔だから」と嫌悪感をもって答えるでしょう。私にとって何もしないことこそ悪であり、神に対する罪だと思います。そして、その男は自分のしたことに対する対価を支払ったであり、私は加害者になることはありません。

そして男が病院に運ばれて、治療を受けて、命に別状がないぐらいになるとします。私はその男を赦さないといけません。もちろん刑務所に行ってもらいます。けれども、例えば男に面会に行くであるとかして、赦したい思いを伝えるでしょう。そして男が改心しているのであれば、妻に対しても赦していこうと勧め、祈ることでしょう。

悪には力をもって対処するのです。しかし、それは一つの家庭の平和を守るためであり、その力の行使は、相手を憎むことにはならないのです。

パレスチナ人クリスチャンたちが、両者の暴力停止を唱えるのは、彼らの置かれている環境を考えるなら理解できます。そして政治家が仲介のためにそうした話をするのもあり得ます。しかし、私はこれを、普段関わりのないクリスチャンがいう言葉ではないと思います。なんら証しになっていません。イスラエル人は言い返してくるでしょう、「そうか、あなたたちは私たちに死ね、と言っているんですね。」ユダヤ人である兄弟が物申したくなった気持ちも分かります。

ですから「戦争はいけない」と語ることが、キリスト者の平和造りになるのではない、ということです。平和を造るとは、もっと創造的な営みであると私は思います。

日本人の平和 = 「分離」

私が聖書を教えている時に、「平和」の意味について話します。一つは、和解のいけにえといういけにえです。レビ記に紹介されているものですが、それは肉の一部を神に捧げ、残りを捧げている者が食べます。それによって同じ肉を食べることにより、神と一つになる、交わっていることを表していると話します。そして、エペソ4章にて、キリストが私たちの平和であり、二つのものが一つになるという福音を語ります。ユダヤ人と異邦人の間に壁がありましたが、それを崩して、共に食事ができるような交わりが回復された、ということです。

ユダヤ人と異邦人は、当時、喧嘩をしていたのではありません。「分離」をしていたのです。ユダヤ人は絶対に異邦人と食事をしませんでした。同じところに住んでいながら、社会は別々になっていました。

もし、日本人が平和を考えるなら、これはまさに「目に見えない分離壁がたくさんある社会」と言えないでしょうか?人との対立を避けるために距離を置きます。そして、自分に興味のあるもの、気の知れた人だけ付き合い、その世界は矮小化していきます。日本社会の典型は、まったく静かな、スマホの画面に向き合っている電車の中の光景です。他の人に迷惑をかけないように音を出さないのですが、いっさい関わらない、という分離状態です。これは平和ではないのです。

平和はむしろ、べっとりとくっついたものです。結びついたものです。話し合って、時間を過ごして、互いに責任ある関係を持って、信頼関係を築いて心を開いていこと。これが聖書のいう平和であります。「平和のきずな」という言葉もエペソ書4章に出てきます。平和とは、絆なのです。ちょうど、外国の人々が被災地にいって、助けを差し伸べたような、愛の手の差し伸ばしであり、結びつきです。

日本人の平和 = 「恨み

私は、日本人の唱える平和について、最も深刻に考えているのはここの部分です。正義の行使、あるいは力の行使と平和は、本来矛盾するものではありません。しかし、なぜそこまで強く反応するのか?私は「平和」という言葉の中に、もしかしたら正反対の「復讐」があるのではないか、と思うようになりました。

平和の論議が表面的に終わってしまう理由として、平和が「心」の問題から発していることを見据えていない、つまり平和を連呼しながら、心は怒りや復讐に汚されているのではないかと感じる時があります。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。(ヤコブ4:1)」

キリスト者が最も気にしなければいけないのは、心に潜む戦いの心であり、実際の戦争ではないはずです。戦争は起こるものであると、その現実を、私たちの主イエス様が言われた通りです。共産党や社民党のような、思想面で戦争反対をしているのであれば分かるのですが、日本人にはそれより根深い何かがあるような気がしてならないのです。

それは、どうしても悪に対して「赦す」ということができていない、恨みの文化ではないかと考えます。

日本が本質的に去勢状態にされたのは、あの原爆です。これほどの暴力装置はありませんでした。そして平和教育ということで、空襲や原爆投下の歴史を私たちは小さな頃から学びます。私は覚えていますが、その時に抱いたのは「アメリカへの憎しみ」でした。潜在的に憎しみが生まれました。

このことについて、クリスチャンになるまで何ら解決法が与えられませんでした。しかし、信仰をもってしばらくしてから、すでにカトリックの長崎の被爆者の間では「徹底的に赦せ」という信仰、そして「これは神の摂理によるものだ」という、悪をさえ神が主権を持っておられるという信仰に支えられ、そこには赦しと信仰による平和の空気を感じる取ることができました。しかし、それは日本の主流にはなっていません。

このことを、アラブ社会の西洋社会に対する復讐心と兼ね合わせて論じている人がいます。過去の記事「非寛容・圧力・暴力」から引用します。

「アラブ世界では日本のことはほとんど報道されない。日本にはあまり関心がないのである。しかし、広島と長崎への原爆投下には関心が高い。「ヒロシマを世界へ」ということばは、戦後の平和運動の主要スローガンである。これにより「ヒロシマ」ということばはアラブへ広がった。日本人はヒロシマを通じて平和主義を訴えている。しかし、アラブ世界では違う意味で捉えられている。アメリカの残虐性の証明として、アメリカへの復讐の正当性を証するものとして、理解されている。

・・この理解は、従来の日本の平和主義・反核反戦運動の立場からは「誤解」と言い切ってしまってよいはずである。しかし九・十一事件後に日本の知識人の間で公然化した「テロはやられたほうが悪い」とでも言いたげな議論を見ていると、アラブ世界の「ヒロシマ」受容はあながち誤解でもないのかと思う。

考えてみれば、日本の反核運動は核兵器廃絶の要求を「アメリカ」あるいは「西側」にもっぱら突きつけ、ロシアや中国の核については追及の矛先が鈍ったり、場合によっては弁護さえしかねなかった。アメリカにのみ非難と攻撃の矛先を向けるというのは、純粋に核兵器の廃絶を求める運動と考えるならば論理的・倫理的一貫性に欠け、理解が困難であるし説得力もないだろう。

しかし、敗戦国による「復讐」を目的とする運動として理解すれば、一転、非常に納得がいく。アラブ世界では非西洋諸国の反西洋・反米的な民族主義運動の一環として、「ヒロシマ」は理解されてきた。今後の日本の思想・政治的状況の展開によっては、その理解は結果的にまったく正しかったことになるのかもしれない。」

あるアメリカ人宣教師は、過剰な「被害者意識」だと言いました(本人は日系人で祖父が被曝しているので、当事者意識をもって話しています)。その通りだと思います、被害者意識は加害者にすぐになります。平和という言葉でもって、まだ赦していない心、復讐の心を吐露しているのではないか、と心配してしまいます。

こうして、日本人の考える平和を聖書からの批判的考察をしてみました。次に、では何をもって平和なのか?これを考えてみたいと思います。

「平和」 = 「痛みを知る」

再びベツレヘムバイブルカレッジによる、ガザにおける現在の危機に関する声明(2014年7月25日)を題材にしてお話しします。パレスチナ人クリスチャンの聖書学校が出した声明は、そのまま読めば違和感があります。けれども、ユダヤ人で福音派クリスチャンのジョエル・ローゼンバーグは、数多くのアラブ人クリスチャンの友人がいて、多くのアラブ人クリスチャンの指導者との交わりの中で、彼らの意味していることを説明してくれていて、私は納得しています。つまり、

- 政治的意見を言う人もいるが、大部分は気にしていない。イエス・キリストにある永遠の命の希望にほとんどの関心が寄せられている。
- ハマスのような戦争を望んでいないし、支持していない。けれども、安心して、着実な福音宣教活動をする、弟子作りをしていくのに、平和で安定した環境がどうしても必要だ、だから戦争は終結してほしい。

これは、私が中国と韓国の兄弟姉妹と交わっている時も同じであります。時事問題や政治的な話題は、ほぼゼロです。イエス様の話、福音宣教の話が90%以上です。けれども、もし日本、韓国、中国がそれぞれの国の関係が悪化して、渡航さえも制限がかけられるような状況になったら、やめてほしいという声を挙げることでしょう。そういった意味での、「イスラエル軍の暴力停止」であれば理解できます。

さらに、その声明には、Christ at the Checkpoint(検問所におけるキリスト)という会議が言及されています。その会議は、イスラエルに親愛の情を持っている福音派クリスチャンが大多数の中で、神がパレスチナ人も愛しておられるのだということを強調している会議であります。

しかし、同時にパレスチナ人たちもユダヤ人の苦しみを知る機会でもあります。例えば、これまでパレスチナの受けている苦しみに焦点を当てていた人が、「意見は変わらなくても、イスラエルのヤド・バシェム(ホロコースト記念館)を訪れ、そこでユダヤ人の痛みを知った。その後の講演では、それまで自分の話すことに反対していたメシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)のラビが喜んで聞いてくれていた。」という話をしていました。反対に、メシアニック・ジューでシオニズムを強く信じている人が、分離壁で囲まれているパレスチナ自治区の生活を少し体験して、それで彼らへの同情が生まれた、というのです。

実際に体験し、当事者が通っているところを想像し、共感する。その状況把握こそが、平和の鍵です。それぞれの神学や意見を変えなくてもいいのです。しかし痛みを知るところに、立場や意見を全く変えなくても、平和の心が伝わるのです。ここに和解の鍵があり、単に両者の暴力をやめてくれと声明に出すことではないのです。

ですから、日本人のクリスチャンが、そうした文脈を持たず字義的にこの声明を読んでしまうなら、日本の主要紙も犯している、次の間違いを犯すのではないでしょうか?

「2つの異なる「ガザ」を混同している日本の主要紙社説」

最後の文だけ引用します。「もちろん、イスラエルだけが正しいというつもりは毛頭ない。だが、バランスを欠いた論調は結果的に日本国民の中東理解を曇らせるだけだろう。ある社説は「今は双方が武器を置いて頭を冷やすときだ」と説いたが、双方の行動は冷徹な計算に基づいている。こんなけんか両成敗論で事態は解決しないのだ。」

喧嘩両成敗・・先に話した、対立や対決そのものを平和を乱すと考える時の対処法であります。

そうではなく、痛みを知っていく、想像する、共感する、そして執り成しに導かれるということが、平和への道なのではないか?と私は思うのです。

ガザ戦争について、次の投稿を私はFBでしました。「私たちキリスト者にとって「正義」とは何か、ということを真剣に考えさせる、神からの教材だと思います。どちら側にも真実があり、それを表面的に照らし合わせると正反対のことを言っています。しかし生活の現実、私たちが生きているというのは、相反することが同時に共存しているものばかりです。

だから大切なのは、どちらが正しいのか?という判断を下すのではないこと。むしろ、そういう表面的な正義論から離れ、その状況を理解することに務め、そして執り成しの祈りに導かれることだと思います。

イスラエルに対する偏向報道はあり余るものがあります。しかし、イスラエル擁護に熱心になるばかり、反対にパレスチナ人の苦しみを忘れてしまわないように自戒しています。全ての人に対して平和を求める、そして、ハマスに対してもキリストの福音による救いを願い、祈るぐらいの気迫が私にあるか?と思わされます。

ヨブ記の聖書講解を教会で行っていたので、人間的な正義の論議が、いかに真実や現実から私たちを引き離してしまうか、理解できなくとも神の主権とご計画に服する必要などを、非常に教えられました。」

「日本人の考える「平和」」への6件のフィードバック

  1. 下の記事を読みました。

    ****
    虚偽(きょぎ)

    「イスラエル軍は1日、イスラム組織ハマスが一時停戦中にイスラエル兵1人を拉致した疑いがあるとして攻撃を再開した。しかし、同軍は3日、この兵士について『当初(1日)の戦闘で死亡していた』と発表。ガザで200人近い死者を出した1日以降の作戦の前提が崩れたことになる。」(注1)アメリカは、化学兵器がある、と言う証拠のねつ造でイラク戦争を始めた。これに対して、日本は積極的に支援した。戦争に正義はない。むき出しの欲望を、カモフラージュする偽りの正義が強調されるだけだ。このような事実が明るみになった今、キリスト教界の新イスラエルの人々は、イスラエル軍の虚偽をどのように受け止めるのだろうか。

    http://maranatha.exblog.jp/22260508/
    ****

    まさに、私がこれまで書いてことを証明するような文章です。

    「イスラム組織ハマスが一時停戦中にイスラエル兵1人を拉致した疑いがあるとして攻撃を再開した。」と記事は書いていますが、停戦中に拉致があったから攻撃を開始したのではなく、他に既に二人の兵士が既に停戦中に殺害されていました。元々、イスラエル軍の目的はトンネルの破壊であり、それを行っている部隊がこのように殺害されたのです。

    イスラエル軍は、殺害された二人の兵士の遺体はすぐに見つけることができましたが、一人が見つからなかったのです。それで、戦闘員がやって来たであろうトンネルに入り猛烈に探索を続けました。しかし、戦闘員による自爆テロですから、本人の体も散り散りになっていたのでしょう、おそらくご遺族のことを配慮してイスラエルのマスコミは、詳しいことは報道していません。体のCentral Part(中心部分)とだけ記しています。いずれにしても、DNAによる検証をしなければ外見では分かりませんでした。それで、二日が経過したのです。

    ハマスの方も、戦闘員が直属ではなく傭兵であったとも言われており、指令系統が崩れている可能性もあります。いずれにしても、これだけの報道は少し調べるだけで出てきます。

    イスラエルが拉致に対してどれだけ神経質になっているかは、ギルアド・シャリート兵士がハマスによって誘拐されて、イスラエル全体が五年半かけて多大の犠牲を払った経緯があるのです。 イスラエルは一人の命のために、千人以上の収監されていたパレスチナ人テロリストと交換引き換えを行ったのです。

    (【後記】アル・ジャジーラは、ハダル・ゴールディン兵士を誘拐したトンネルだとして紹介するニュースを流しました。
    Al Jazeera: “This is the Tunnel Where We Abducted Hadar Goldin in Rafah”
    初めから誘拐ではないと分かっていた、等とよく言えたものです。虚偽は書いた本人のほうですよ。こちらの記事も読んで、ちょっと反省してもらいたいものです。⇒「ウソ」)

    こうした背景を知らずして、なぜかまた、アメリカのイラク戦争の時の話をする。そして戦争はみな、むき出しの欲望を正義の名で隠すとしている。私にはここにどうしても、こうした日本の平和主義に対して、何か不純な動機を疑わざるをえないのです。でも、おそらく本人たちは気づいていないと思います。

    以上を踏まえて、親イスラエルへの疑問を呈する前に、”反イスラエルの偽善“を考察したほうが良いと思います。(英文の分かる方は、イスラエルのアラブ人の牧師の記事を紹介します。An Arab Pastor Speaks Out on Gaza

    一般的な平和論に話を移します。

    私には、韓国人の友人たちがいます。彼らの父の世代が朝鮮戦争で戦わなかったら、今頃、朝鮮半島の南でも北朝鮮のような状況になっていたことでしょう。それでも戦争反対と言うのですか?これは日本にも関わることでありまた、地政学的に彼らがある意味で”盾”となってくれていて、直接、自衛隊が北朝鮮と対峙しなくてもよくなっています。それでも戦争はいけないと、言うのですか?もちろん戦争は醜いです。朝鮮戦争は本当に悲惨でした。しかし、そこに一かけらの正義がないと言ったら、おそらくクリスチャンも含めて、韓国の人々はそれら日本の”平和主義者”に怒り狂うでしょう。

    中国も同じです。彼らも短い期間ですが軍事教練を受けます。人民軍の存在を決して疑いません。韓国も中国も日本の過去の軍国主義は嫌ですが、まさか日本が完全非武装化しなければならない等と思っていません。

    日本は異常です。もちろん日本軍が過去に行ったことから、私たちはたくさんの反省をせねばならず、その悲惨を学び、二度と繰り返してはならない平和主義に立つ必要があるでしょう。それと、軍や戦争のすべてが悪だとする平和主義は別物です。警察が汚職をした、冤罪を生み出したからといって、警察の権力は悪だとするのでしょうか?私はそうしている人々は、むしろ過去の日本の行なったことを真実な意味で反省していない、「戦争に負けたから、平和主義で復讐するのだ!」という歪んだ、鬱積した思いの現われのように見えてならないのです。

    以前、平和論についていくかの記事を残しています。私は、ここで目を留めなければいけないのは、「イエス様はどう見ておられるのか?」であります。それを引用して終わりにします。(こちらの記事からの引用)

    「(イエスは)「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としてはみなしておられるが、それを起こしてはならないという「べき」論としては語っておられない。」

    イエス様は、反戦運動はしませんでした。むしろ福音書また使徒行伝では、ローマの百人隊長の信仰を良い視点でご覧になっています。彼らが信仰を持った後に、武力の行使をしてはならぬと言って兵役を辞めたのでしょうか?いいえ、そのような記述はありません。唯一、民を虐げる手段としてはならないという戒めを、バプテスマのヨハネがしているのみです。使徒パウロも、皇帝の親衛隊が信仰を持ったことを伝えていますが、彼らが兵士であることを咎めたことはありません。

    ・・人として来られたキリストが、今のアメリカや日本よりも、はるかに極端な暴力によって保たれていた、パックス・ロマーナとも呼ばれた平和と秩序の只中に生きておられた、という事実があるのです!そしてイエス様はその秩序の中にいることに葛藤を抱かれているようではありませんでした。むしろ、その秩序に生きている人々と同じ位置に立ち、メシヤとしての使命を全うされました。」

  2. ****
    虚偽(きょぎ)

    「イスラエル軍は1日、イスラム組織ハマスが一時停戦中にイスラエル兵1人を拉致した疑いがあるとして攻撃を再開した。しかし、同軍は3日、この兵士について『当初(1日)の戦闘で死亡していた』と発表。ガザで200人近い死者を出した1日以降の作戦の前提が崩れたことになる。」(注1)アメリカは、化学兵器がある、と言う証拠のねつ造でイラク戦争を始めた。これに対して、日本は積極的に支援した。戦争に正義はない。むき出しの欲望を、カモフラージュする偽りの正義が強調されるだけだ。このような事実が明るみになった今、キリスト教界の新イスラエルの人々は、イスラエル軍の虚偽をどのように受け止めるのだろうか。

    http://maranatha.exblog.jp/22260508/
    ****

    イスラエル軍の虚偽ではなく、反対に、朝日新聞の虚偽、判断を待たずに裁断したこのブログ主の虚偽であります。

    Exclusive: New Details Surface in Hamas Murder of IDF Soldier Hadar Goldin

    イスラエル軍の行動は、それが明らかであっても公にするのは時期を待ったり、確証が与えられるまで待ったり、また安全や配慮のためにずっと隠していたりといろいろあると思いますが、イスラエルが意図的に、怒りに任せてガザの一般市民を攻撃しているのではないことは、数々の証拠から、この件においても推察され得ました。この記事のように詳細を少しずつ明らかにしています。下に記録のため全文を一番したに貼り付け、要約を書きます。

    やはり、自爆テロによってハダル・ゴールディン兵士の体は他の二人の兵士と共にばらばらになっていました。同じトンネルから出てきたテロリストが、彼の体の一部を持ち帰り、そのトンネルはモスクにつながっていました。そして、彼らはUNRWAの救急車に乗り込みました。そして、イスラム大学に隠れているハマス高官に接触します。そして、カイロにいたハマス高官がこの兵士を誘拐したと発表します。その会話をイスラエル軍は傍受しました。それで、誘拐した者たちの場所とイスラム大学を空軍が爆撃しました。

    さらにこの記事には、その爆撃の最中、イスラエル軍の第二団が爆弾の探索のためモスクに行っていましたが、そこに女性の自爆テロ犯がいました。彼女が爆弾を発火させれば終わりです。一人の兵士が直感的に、「主なる神はひとりである。」との御言葉を諳んじて、自爆テロ犯は震え、その隙に彼女に襲いかかり、危機一般で自爆を防ぎました。彼女は、対テロ・ユニットに連行され、取り調べを受けました。なんと彼女の母はユダヤ人で、イスラエルにいるパレスチナ人と結婚したとのこと。そして結婚後、ガザに忍び込まされて、卑しめられ、基本的に捕虜状態となりました。この自爆テロも彼女の意思に反することです。そして、彼女が爆破しようとしていたとき、小さな子が二人そこにいたそうです。その子供も助けたとのことです。

    以上が要約ですが、こうした話は一つだけでなく、数多くの兵士たちの口から出てきます。もしこれが偽情報であれば、皆が口を揃えて嘘を付いていることになります。そこまで疑う根拠を私は見つけることができません。そして、イスラエルの空爆に戻りますが、背後には、このような時間の経過があったのです。朝日新聞も、また他の外国特派員も、そして安易に新聞記事を切り出して、イスラエル軍の行動を簡単に非難する態度は、反対に釈明が必要なのではないでしょうか。

    私は、第二次インティファーダの時に、キリスト教関係者から多くの非難また悪口を浴びました。そして、真相は何年も後にハマスの息子のモサブ・ユーセフ氏やアラファトの妻の話から出てきて、それはイスラエル側の説明と同じものでした。私はキリスト者と言えども、イスラエルに関することには悪意と偏見の波に押されていくのを見て、こうやってブログなどで、数々の警鐘を鳴らしているのです。ガザ戦を契機に、一度反省して、聖書に再び取り組んでいただけたらと思います。

    On Friday, August 1st, media reported that Hamas had kidnapped IDF Officer LT Hadar Goldin, 23; the next day, he was announced killed in action by a Hamas suicide bomber who had emerged from a tunnel. Lt. Goldin was an officer in the Givati Brigade, an elite Israeli infantry unit. He had become engaged weeks before going to Gaza.

    Major Benaya Sarel, 26, and 1st Sgt. Liel Gidoni, 20, were also killed in the explosion detonated by a Hamas suicide bomber.

    An unnamed Israeli military source spoke to Breitbart News about the story of how Hamas used an UNRWA ambulance, a mosque, and the Islamic University to carry out the attack that killed the three IDF soldiers.

    The officer explained how, after the suicide bombing that killed Lt. Goldin, a second kidnapping team of Hamas terrorists grabbed parts of his body and ran back into the tunnel from which the terrorists emerged. The tunnel led back into a mosque. From the mosque, they escaped in a clearly marked UNRWA ambulance. The terrorists then made contact with high-ranking Hamas officials hiding in the Islamic University.

    As a result Abu Marzook, a senior member of Hamas, announced in Cairo that Hamas had kidnapped an Israeli soldier. Israeli intelligence intercepted a conversation between the kidnappers and the Hamas officials at the Islamic University and thus got all the particulars regarding the hiding place of the kidnappers. Within minutes, the IAF attacked both the kidnappers’ location and the Islamic University.

    In the midst of this attack, a second force of IDF soldiers–which had gone into a mosque looking for weapons, explosives, and rockets– encountered a female suicide bomber who was about to detonate the belt she wore, which would have resulted in the deaths of the soldiers. One of the soldiers instinctively recited the opening words of the holiest Jewish prayer “Shema Yisrael”. The female suicide bomber hesitated and began trembling, giving the soldiers a chance to grab her and disable the device.

    The soldiers then took her prisoner and turned her over to a counter-intelligence unit. Their investigation uncovered that the female suicide bomber’s mother was a Jew who had married a Palestinian in Israel and, after the wedding, was smuggled against her will into Gaza. There she lived a life filled with abuse and humiliation, and was basically a captive. In addition to the female suicide bomber, there were two smaller children as well. An armored force went in and rescued the two small children.

    Hamas uses places of worship, hospitals, schools and civilian areas to launch attacks against Israel. Before the IDF carries out an attack against Hamas, they drop hundreds of leaflets, warning people to leave the area. They call every resident and send a warning shot before they actually launch the attack on a building. As one former IDF soldier told Breitbart News, “Israel defends their people; these are people that use their people to defend themselves.”

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