米国の銃規制と自民党の改憲草案 その2

その1からの続き)

アメリカの銃社会を指差す前に

そして次の記事をお読みください。

国際平和装置としての暴力

銃という暴力の手段を国家間のレベルで見ると、「核兵器」が平等化の機能を果たしているという見方です。私もこれに同意です。在日米軍完全撤退、自衛隊完全解消という選択を取らない限り、日本は、銃社会と同じ構造で平和を享受しています。

私の戦争についての考えは、以下の記事に残しました。

改めて「戦争」を考える

焦点は「イエス様」

私にとっての全ては、「力の行使について、では、イエス様はどうだったのか?」という問いになります。上の記事に書きましたが、戦争またその他の力の行使について、こう考えています。「「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としてはみなしておられるが、それを起こしてはならないという「べき」論としては語っておられない。

イエス様は、反戦運動はしませんでした。むしろ福音書また使徒行伝では、ローマの百人隊長の信仰を良い視点でご覧になっています。彼らが信仰を持った後に、武力の行使をしてはならぬと言って兵役を辞めたのでしょうか?いいえ、そのような記述はありません。唯一、民を虐げる手段としてはならないという戒めを、バプテスマのヨハネがしているのみです。使徒パウロも、皇帝の親衛隊が信仰を持ったことを伝えていますが、彼らが兵士であることを咎めたことはありません。

死刑制度に反対し、それを一つの暴力とみなすキリスト者も日本では多いですが、イエス様はそれに反対されたでしょうか?いいえ、姦淫の現場で捕えられた女について、パリサイ派らに対して、「罪のない者が、初めに石を投げなさい。」と言われました。イエス様は彼らの偽善には反対しましたが、石投げという死刑の手段には反対しませんでした。主は死刑制度について、モーセの律法を踏襲しておられました。

殺人を始めとする流血には、死をもって対価とするという掟は、暴力の行使ではなく、むしろ暴力に対する刑罰でありました。そしてイエス様ご自身は、人を殺す権利を持っておられました。けれどもその力を行使されませんでした。この主権者なる方が、あえて罪人を憐れんだというところに福音があるのであり、死の刑罰を伴う制度自体を悪にするのであれば、贖罪制度そのものが崩壊します。ゆえに「殺してはならない」という十戒を使っての死刑制度反対は本末転倒の解釈であり、またあまりにも安易ではないかと思うのです。

そしてイエス様は力を行使されませんでしたが、力を行使する人に平等に接しました。だから私も、例えば自衛隊の人が教会に集ったとしても、決して疎外感を抱かせるようなことをしてはならないと思います。

同じように原発事故も、ある意味で生活をことごとく奪い取った暴力ともいえます。日本の教会全体が反原発になっていて、反原発でなければクリスチャンではないという勢いですが、東電に勤めている方々へ届いていくというのはなされているのでしょうか?かなりの痛みを持っていると想像するのですが。東電に勤めている方でも安心して教会に通うことのできる環境が必要です。

イエス様の語られている「平和」とは、こういうことなのではないかと思うのです。

先の国際平和装置としての暴力の記事には、「一旦、核という強大な暴力によって、平和を構築した国際社会が、暴力以外の方法によって、平和をつくることは不可能に近いように思えてしまいます。」とありました。私もそう思います。

ところで、私個人は保守的な考えを持っていると思います。それは、「人は原罪を持っていて、事あらば、支配、拡大するぞ。」という欲望があり、また国が持っている、という考えです。だから、現日本国憲法の前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というのはあり得ないと考えています。信頼するのはあくまでも全能者なる神のみであり、公正も信義も人に本質的にない、と考えています。もちろんそれは自国にも当てはまるのであり、「公の秩序」を振りかざして、国家権力の拡大が見え隠れする自民党改憲草案にも反対しているのです。

ということで、「暴力による平和」というのは悲しい皮肉ですが、人に罪があるかぎり、また主が再臨されない限りいつまでも続くでしょう。けれども慰めは、やはりイエス・キリストご自身なのです。人として来られたキリストが、今のアメリカや日本よりも、はるかに極端な暴力によって保たれていた、パックス・ロマーナとも呼ばれた平和と秩序の只中に生きておられた、という事実があるのです!そしてイエス様はその秩序の中にいることに葛藤を抱かれているようではありませんでした。むしろ、その秩序に生きている人々と同じ位置に立ち、メシヤとしての使命を全うされました。

この世の凶悪、また分裂を見て、とても心痛く、がっかりしてしまいますが、けれどもイエス様がそうした暗き世にあって光となられたのですから、クリスチャンにも光となる力が上から与えられるのだ、ということを信じたいと思います。福音にこそ、力ありきです!

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